Month: February 2019

オリエンタル中村百貨店 – Wikipedia

この項目では、名古屋市に存在した百貨店について説明しています。かつて北海道釧路市に存在したオリエンタルデパートについては「オリエンタルデパート」をご覧ください。 星ヶ丘三越(かつてのオリエンタル中村星ヶ丘店) 名古屋三越栄店 屋上観覧車 オリエンタル中村百貨店(おりえんたるなかむらひゃっかてん)は、1954年から1980年まで存在した愛知県名古屋市中区栄にあった日本の百貨店、およびその運営会社である。運営会社の法人としてのオリエンタル中村百貨店は、社名を名古屋三越百貨店、名古屋三越と変遷して2003年まで存続した。 通称「オリエンタル中村」。広告などで使用されたキャッチフレーズは「天に星 地に花 人に愛」。 前身の中村呉服店が第二次大戦後、本町角にあった旧店舗を東海銀行に売却し、栄交差点に新築されたオリエンタルビルに入居し、1954年(昭和29年)にオリエンタル中村百貨店に改称し、百貨店業態となった。松坂屋、丸栄、名鉄百貨店とともに、名古屋の4大百貨店と並び称されていた。 1969年(昭和44年)に三越と業務提携[3]。1974年(昭和49年)に千種区星が丘元町 に星ヶ丘店[注釈 1]を開店するものの、事業不振から、1977年(昭和52年)5月に[2] 三越が中村呉服店の持ち株を買収して三越傘下に入るが、オーナーの中村家とオリエンタルビルは14%の株式を保持した[4]。1980年(昭和55年)10月に社名を名古屋三越百貨店に変更し、それとともに店名もオリエンタル中村から三越になった[2]。松坂屋、丸栄、名鉄百貨店とともに頭文字がMだったことから、以後は併せて4Mの愛称で親しまれる[5][注釈 2]。 さらに1991年(平成3年)には社名が(初代)名古屋三越と改められる[3][6]。 2003年(平成15年)、株式会社三越に合併され、運営会社の名古屋三越の法人格は消滅。店舗は三越伊勢丹ホールディングス傘下の名古屋三越栄店および星ヶ丘店(星ヶ丘三越)となっている。 なお、2010年(平成22年)4月1日以降、栄店および星ヶ丘店の運営を行っている(2代目)株式会社名古屋三越は、2009年(平成21年)10月1日に三越から新設分割により設立された法人であり、旧法人とはまったく別法人である。 「オリエンタル」の名は入居したビルがオリエンタルビルであったことから名乗っただけで、カレーなどの食品メーカーで同じ地元企業のオリエンタル、およびかつて北海道釧路市に存在したオリエンタルデパートとは関係がない。 1869年(明治2年)- 中村嘉兵衛により、中村呉服店として、広小路本町角(現在の三菱UFJ銀行名古屋ビル所在地)で創業。

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カトレックス – Wikipedia

カトレックス 業種 時計製造メーカー 設立 1858年 (1858) 創業者 コンスタント・カッティン 本社 、 事業地域 Worldwide 製品 懐中時計、腕時計 ウェブサイト www.catorex.jp カトレックス (Catorex) は、1858年にコンスタント・カッティン (Constant Cattin)

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フフホト黒馬足球倶楽部 – Wikipedia

フフホト黒馬足球倶楽部(フフホトこくばそっきゅうクラブ、英語: Hohhot Black Horse、中国語: 呼和浩特黑马足球俱乐部)は、中華人民共和国の東北部、内モンゴル自治区のフフホト市を本拠地としていたサッカークラブである。 2007年まで中国サッカー・甲級リーグ(中国足球甲级联赛、国内リーグ2部に相当)に所属していた。2007年10月23日をもって、チームは解散した。 2002年 大連三徳及び西蔵鷹雪泉創立。どちらも中国サッカー・乙級リーグ所属だった。また大連三徳は、大連実徳が作ったセカンドチームの位置付けだった。 2003年 西蔵鷹雪泉が西蔵恵通陸華に改名。 2004年 大連三徳が大連長波に改名。当時、大連実徳が大連の他に実質四川のスポンサーであったことから、同じ企業グループのクラブが複数あるのは良くないという批判が出て大連長波物流がスポンサーになったため。しかし、実徳との関係は強いままだった。尚、改名に伴い中国サッカー・甲級リーグ所属となった。 2005年 大連長波と西蔵恵通陸華が合併し、山西路虎となった。ホームタウンを山西省太原市に移転。 2006年 フフホト黒馬に改名。ホームタウンを内モンゴル自治区フフホト市に移転。内モンゴル自治区トップのクラブチームとなった。 2007年 8月2日、オーナーの王珀がチームから600万人元の賄賂を受けていた事により、選手及びファンが激怒。延辺長白虎との試合をボイコットし、これを最後に甲級リーグから撤退[1]。事態を重く見た中国サッカー協会は10万元の罰金及び2008年度のリーグ参加資格を禁止した。これを受けて、10月23日チームは解散した。 2009年 11月、前オーナーの王珀及び副オーナーの王鑫が、八百長及び収賄の疑いで中華人民共和国公安部に拘束された[2]。

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ハラダ – Wikipedia

この項目では、お笑い芸人について説明しています。洋菓子店舗については「ガトーフェスタ・ハラダ」をご覧ください。 ハラダ(1976年11月8日 – )は、吉本興業所属のお笑い芸人。お笑いコンビ「ファミリーレストラン」(旧名・ジャンクション)のボケ担当。本名、原田 良也(はらだ りょうや)。立ち位置は向かって左。相方はしもばやし。大阪NSC18期生。既婚。 京都府京都市太秦生まれ。高校2年まで太秦で育ち、嵐山嵯峨野に引越す。太秦小学校、立命館中学校・高等学校卒業。立命館大学産業社会学部人間文化コース中退。一人っ子のA型。大津市在住。168cm。68kg(2013年6月現在) 天津の向に、「原田さんがbaseで一番オタクの素質がある」と言われてしまう 。 ナイーブな性格である。一人ぼっちでさみしい時は、架空のもう1人の自分をつくり出して会話している。 志村喬によく似ている。 2019年、江州の女性と結婚。 猫とウサギを飼っている。 赤のベンツに乗っていた。 持ちギャグは「いらっしゃっせ~」「なめてる~?」「警察呼びますよ~」「法廷に持ち込みますよ~」「UFO呼びますよ~」「そうきますか~」「この角度で攻めてきますか~」「ぎゃー」など。普通の言葉をただ単に大きい声で言うだけである。 「しゃっせ~」はbase流行ギャグ大賞にも選ばれている。それを下林が悔しがっていた。 くるりのボーカル岸田繁と立命館中学から大学まで同級生だった。ラジオで「ライバルはくるり」と発言もしたことがある。また、相方の下林、くるりのベースギター佐藤征史とも高校から大学まで同級生だった。中学、高校ではスキー部に所属。中学の時に、2ヵ月位バレーボール部に入っていて、サーブでホールディングをとられ、みんな苦笑だった。 親に上品にしろといわれ、小4まで女言葉を使っていた。小1から小4まで母親の友達にピアノを習っていた。 女子とばかり遊んでいたので正しいボールの投げ方が分からず変な投げ方になり、男子に笑われた。 以前ものすごく好きな人が出来て、どうしても付き合いたいあまり5万円もする時計をプレゼントした。しかしいきなりの高価すぎるプレゼントに彼女が引いてしまい、振られた。

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醍醐真司の博覧推理ファイル – Wikipedia

「闇の少年」はこの項目へ転送されています。射口巌の小説「仮面ライダーZO 闇の少年」については「仮面ライダーZO#小説」をご覧ください。 『醍醐真司の博覧推理ファイル』(だいごしんじのはくらんすいりファイル)は、長崎尚志による日本の推理小説のシリーズ。 第1作となる『闇の伴走者』は2012年4月20日に新潮社から、副題『醍醐真司の猟奇事件ファイル』で単行本が出版された。2015年3月1日に新潮文庫版が刊行された際に、副題は『醍醐真司の博覧推理ファイル』と改題された。フリーの漫画編集者である醍醐真司が、漫画や映画、歴史や食べ物など多方面にわたる博覧強記ぶりを発揮し、舞い込んでくる事件を解決していく様を描く。 2015年にWOWOWでテレビドラマ化された[1]。2018年にはシリーズ第3作『編集長の条件―醍醐真司の博覧推理ファイル―』が『闇の伴走者〜編集長の条件』のタイトルでテレビドラマ化された[2][3]。 作品リスト[編集] 闇の伴走者―醍醐真司の猟奇事件ファイル―(2012年4月 新潮社、ISBN 9784103321712) 黄泉眠る森―醍醐真司の博覧推理ファイル―(2015年3月 新潮社、ISBN 9784103321729) 【改題】邪馬台国と黄泉の森―醍醐真司の博覧推理ファイル―(2017年9月 新潮文庫、ISBN 9784101268521)[5] 収録作品:消えたマンガ家 / 邪馬台国の女帝 / 天国か地獄か

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リセッシュ – Wikipedia

リセッシュ ふわふわゆれる しゃぼんの香り リセッシュ (Resesh) は、花王が発売している消臭剤のブランド名である。 2005年に発売。1999年10月から2002年9月まで発売されていた「WiLL クリアミスト」の実質的な後継製品である。競合製品としてはP&Gの「ファブリーズ」などがある。 全製品に緑茶成分が含まれている。短い周期でマイナーチェンジが行われており、発売当初は衣類や布製品に用途が限られていたが、発売から1年程度で霧が当初より細かく改良され空間にも使用できるようになったり、新しく「気分やすらぐ香り」が発売されたりした。 2007年には、繊維の奥に潜んだ臭いの原因菌の除菌効果を追加した「リセッシュ 除菌EX」が発売された。2008年3月には「除菌EX」に「ほのかな緑茶の香り」を追加発売した。2012年5月に消臭力を高めてリニューアルした。 2008年7月に既存の「気分さわやかな香り」と「気分リフレッシュな香り」を処方改良した「気分さわやか森林の香り」と「気分はじけるパッションシトラスの香り」が発売された。この2アイテムは空間にスプレーした時と衣類・布製品にスプレーした時(かけた衣類・布製品に残った香り)で香り方が変わるようになっている。2009年1月には既存の「気分やすらぐ香り」を処方改良した「気分やすらぐフラワーシャワーの香り」を発売した。2010年2月には「気分はじけるパッションシトラスの香り」を処方改良した「気分ハッピーシャインシトラスの香り」を追加。同時に既存の「気分さわやか森林浴の香り」と「気分やすらぐフラワーシャワーの香り」も消臭効果をパワーアップしリニューアルした。2011年9月に香り系のラインナップに天然アロマオイルを配合し、「リセッシュ アロマチャージ」シリーズとして刷新された。 2009年8月には「除菌EX 香り残らない」と「気分さわやか 森林浴の香り」に携帯用がラインナップされた。2012年1月には「リセッシュ アロマチャージ」シリーズのLuxury エッセンシャルローズの香りに携帯用がラインナップされた。 2010年8月に室内用消臭芳香剤「置き型リセッシュ」を追加発売。花王が消臭剤を発売するのはコンセントタイプのトイレ用消臭剤「リフレ」以来となる。なお、香調はスプレータイプの「リセッシュ」と統一されている。2011年7月には「置き型リセッシュ」に「リラクシングソープの香り」が追加され、既存ラインナップのパッケージデザインを変更した。 2012年9月には、「リセッシュ

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トリブラキディウム – Wikipedia

トリブラキディウムの化石 トリブラキディウム (Tribrachidium heraldicum) は、初期エディアカラ動物群の一種。三射状で対称な腕をもった姿で知られる。1959年にマーティン・グレースナーとブライアン・デイリーによって南部オーストラリアで発見され、名づけられた。[1] トリブラキディウムの化石はニューファンドランド島、ノースウエスト準州、ロシアの白海沿岸の崖、エディアカラの丘(オーストラリア)等の場所で見つかる。最初の化石はエディアカラにて発見された。円形の体をしており、その直径は平均5cm程度である。そして3本の曲がった腕のようなものが体の中心から末端にまで及んでおり、この腕はおそらく空洞になっており、ふくらましたり、しぼませたりできたと推測される。このような三重の対称性というのは動物においてほとんど類がない。ほとんどの動物は2重もしくは放射状に対称となっている。また腕の端からは肉質の梁(恐らく柔軟なフィラメント)が延び、体の残りの部分を形成していた。 多くの先カンブリア時代の化石のように、トリブラキディウムと他の動物との関係はほとんどわかっていない。化石の謎の代名詞としてもよく取り上げられ、この時代の独特な生物の例としてしばしば取り上げられ、さまざまに描写されてきている。例としては、海綿動物、刺胞動物、冠輪動物、棘皮動物、脱皮動物、あるいは脊索動物のステムグループに想定されている左右対称動物の変った一種と考えられたことがある。一部の研究者は、一個の個体ではなく、より大きな生物の吸着器官であると推測している。さらに、そもそも動物ではなく、原生動物か現在では絶滅した界に属する多細胞生物の一種であると捉える研究者もいる。 近年、A. Y. Ivantsov と M. A. Fedonkin はT. heraldicum とその類種を刺胞生物であると定義した[2]が、これは先カンブリア時代のコニュラニアの一種 Vendoconularia の発見と研究によるもので、Ivantsov らは

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ユーリイ・リヴォーヴィチ – Wikipedia

ユーリイ・リヴォーヴィチЮрій Львовичъ 第5代ハールィチ・ヴォルィーニ大公ルーシの王 在位 1301年 – 1308年 出生 1252/7年 死去 1308年3月18日 配偶者 クセニヤ・ヤロスラヴナ   エウフェミア・クヤヴスカ 子女 ミハイロアンドリーイレーヴドミトロマリア 家名 リューリク家 父親

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ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー – Wikipedia

ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャー(英語:Disney California Adventure、略称:DCA)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州アナハイムにあるウォルト・ディズニー・カンパニー(ディズニー・パークス・エクスペリエンス・プロダクツ)が運営するディズニーパークである。 計画[編集] 新たなディズニーパークをカリフォルニアに作ることはウォルト・ディズニーによって1950年代から計画されていた。しかし長年実現せず、話が動き始めたのはウォルト・ディズニー・ワールドが成功した後である1990年代の事であった。そしてディズニー社は1991年にエプコットのカリフォルニア版である『WestCOT』を当時のディズニーランドの駐車場に建設する予定だったが、1992年のディズニーランド・パリのオープンによりテーマ性がかぶるとして、WestCOT計画は中止された。 そして1995年、当時のディズニー社のCEOであるマイケル・アイズナーらがカリフォルニアの第2パークのテーマについて話し合いを始めた。そして結果としてカリフォルニア州をモデルとし、カリフォルニアのランドマークや自然などを体感できるテーマパークを造ることに決定された。 オープン[編集] 1998年に着工されたディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーは、2001年2月8日に、ディズニーランドの正門前の駐車場スペースにオープンした[1]。なお、同時にショッピングエリアであるダウンタウン・ディズニーや、公式ディズニーホテルであるディズニー・グランド・カリフォルニアン・ホテル&スパ、ディズニー・パラダイス・ピア・ホテルもオープンした。 開園後[編集] 「目玉のアトラクションの少なさ」や「テーマ性の無さ」が指摘され、オープン当初から来園者が伸び悩んでしまった。そのため、新たにディズニー社のCEOとなったボブ・アイガーは、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの大規模改装を計画し、2007年から2012年まで、新エリアの建設やアトラクションのリニューアルなどパーク全体で工事を行って来た。この改装には11億ドルが使われており、当初のパークの建設費が6億ドルだった事を考えると、いかに大規模なものかが分かる[2]。さらに大手広告代理店のTBWACHIATDAY社とともに行った集客キャンペーンを行った結果、集客数が順調に増加し、2014年の来園者数はおよそ870万人になっており、これは世界のテーマパークの中で10番目の多さである。 2012年のカーズランド開業により大規模改装は終了したが、その後も再開発が続けられている。2017年8月のD23 Expoにてピクサー作品をテーマにしたエリアを作ることを発表した。これは2018年にパラダイス・ピアをリテーマリングする形で「ピクサー・ピア」として開業した。さらに同時にマーベル・シネマティック・ユニバースをテーマにしたエリアを作ることも発表された。これによってバグス・ランドはクローズされ、その跡地に建設される形で「アベンジャーズ・キャンパス(Avengers Campus)」が2021年6月4日にオープンした。 ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの施設は、以下の8つのテーマランドで構成されている。 ブエナビスタ・ストリート[編集] ブエナビスタ・ストリートは、1920年代に初めてウォルト・ディズニーがカリフォルニアを訪れた際のロサンゼルスを再現したエリア。赤い路面電車の「レッドカー・トロリー」がエリア内を走っている。2012年までは「サンシャイン・プラザ」という名称だった。 ハリウッド・ランド[編集] ハリウッド・ランドは、1930年代のハリウッドの映画スタジオをテーマにしたエリア。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー – ミッション:ブレイクアウト!」や「モンスターズ・インク

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裴世清 – Wikipedia

裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)は、6世紀後半 – 7世紀前半の中国隋・唐代の官吏。本貫は河東郡聞喜県。隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者として名が知られている。『隋書』では裴清と記されている。 出身・略歴[編集] 唐代に17人の宰相を生んだ河東郡の大姓裴氏の支族の中眷裴氏の出身で、父の名は裴著。子は斉州司馬の裴嘉陵がいる。唐では主客郎中・江州刺史をつとめたことが伝えられている。 『隋書』によれば、俀王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、大業4年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗(唐の第二代皇帝李世民)の諱世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、夷州の地と言われるのは理解出来ないとしている。竹斯国から東はすべて俀であるという。俀王は小徳(冠位十二階の位)阿輩臺が数百人で迎え、10日後に大礼の哥多が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎のことばに皇帝の命を伝えた。その後清は使者とともに帰国した。 明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹嶋南望 羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞 既至彼都 其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國

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