Month: February 2019

グーグーだって猫である – Wikipedia

『グーグーだって猫である』(グーグーだってねこである)は大島弓子の漫画作品、およびそれを原作とした映画作品およびテレビドラマ作品。 タイトル・ロールとなっているアメリカンショートヘアの猫、「グーグー」を始めとする猫たちと作者との生活を綴ったエッセイ漫画。『ヤングロゼ』1996年11月号から1997年8月号まで連載され、その後『本の旅人』に移籍し2011年6月号まで連載された。全6巻。第12回手塚治虫文化賞短編賞受賞。 2008年に映画化、2014年・2016年にテレビドラマ化されている。 2012年から続編『キャットニップ』が雑誌『きらら』で連載されている。 コミックス[編集] 単行本[編集] 角川書店 2000年07月28日刊行、ISBN 4-04-853258-8 2002年12月03日刊行、ISBN 4-04-853535-8 2007年05月25日刊行、ISBN 4-04-854097-1 2008年05月29日刊行、ISBN 4-04-854186-2 2010年02月25日刊行、ISBN 4-04-854473-X 2011年09月22日刊行、ISBN 4-04-874249-3 文庫本[編集] 角川文庫 2008年06月25日刊行、ISBN 978-4-04-434802-1 2008年07月25日刊行、ISBN 978-4-04-434803-8 2010年02月25日刊行、ISBN 978-4-04-434804-5 2011年09月23日刊行、ISBN 978-4-04-434805-2 2013年07月25日刊行、ISBN 978-4-04-100691-7

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富田一白 – Wikipedia

富田 一白(とみた いっぱく / かずのぶ[注釈 4])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊勢安濃津城主。豊臣秀吉の側近で、奉行衆の1人[3]。 諱は複数伝わり、知信[注釈 5](とものぶ)、信広(のぶひろ)、長家(ながいえ)ともいう。通説では一白は号であるが、諱とする説[注釈 4]もあり、隠居後は水西と号した。また官途から富田左近の通称でも知られる。 富田氏は、宇多源氏佐々木氏庶流で、同族の出雲守護京極氏の家臣であった。『寛政重脩諸家譜』では、富田城を築いた富田義泰が家祖で、一白の祖父の重知が尼子経久に富田城を追われて没落し、京極氏同様に別領の近江国に逃れたとされている。 富田一白は近江国で生まれた。本貫地は近江国浅井郡富田荘と伝わる。 若年の頃より織田信長に旗本として仕え、天正元年(1573年)の長島一向一揆での千種合戦で奮戦し、17箇所に傷を負ったということで勇名を表した。 天正10年(1582年)、本能寺の変後は羽柴秀吉に仕えた[注釈 6]。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの際は伊勢神戸城(または木造城)を防衛。蟹江城合戦で敗れて逃げてきた滝川一益を怪しんで入城を拒み、追い返した。戦後は秀吉の外交使節として活躍し、11月、桑名城に派遣され、織田信雄との和議の本使を務めた功績で、名馬星崎を授かった。続いて徳川家への使者ともなり、織田信雄家臣の滝川雄利を連れて浜松城を訪れ、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉養子として連れ帰った。同年、従五位下左近将監に叙任された。 天正14年(1586年)5月、秀吉の妹の朝日姫と徳川家康との縁組が成立すると、浅野長政と共に輿入れに同行して浜松城に赴き、榊原康政と御規式の奉行を務めて、家康より杯を与えられた。帰国後、同じく秀吉より鯖尾の兜・具足一式を褒美として与えられた。天正15年(1587年)、九州戦役に従軍。 天正18年(1590年)、7月に真田氏の領土だった沼田城を小田原北条氏に引き渡す際、津田信勝、榊原康政と共に立ち合いを行った。10月には小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城争奪戦における北条氏政・氏直親子への問責と上洛の催促の使者を津田信勝と共に務め、戦後は取次役となって伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にあたった。戦後の9月7日、上山城を与えられ、近江、美濃国内で1万65石を加増されて、2万155石となった。同年、豊臣姓を下賜された。佐野氏に養子を出すなど、東国方面の担当になっていた。 天正19年(1591年)閏正月16日に美濃国池田郡内で8,010石を加増され、4月26日にも近江国蒲生郡内で9,107石、同国野洲郡三上村で若干を加増された[注釈 7]。 文禄元年(1592年)、朝鮮出兵に従軍し、秀吉本陣の前備衆の筆頭として650名を率いて名護屋城にあった。その後、同役の金森長近・可重と共に、1,300名を率いて渡海。帰朝後、文禄3年(1594年)の伏見城普請を分担[注釈

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藤山種廣 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年10月) 1867年パリ万国博覧会における佐賀藩使節団。後列左が藤山種廣。 藤山 種廣(ふじやま たねひろ、1838年(天保9年) – 1886年(明治19年))は、幕末の佐賀藩士、明治時代のガラス工芸技師。別名は文一。長男の藤山常一は北海カーバイド工場(現在のデンカ)の創立者[1]、次男の田中不二は田中林太郎の娘婿。 幕末[編集] 肥前国神埼郡尾崎村唐香原(現在の佐賀県神埼市)に生まれる。幕末には佐賀藩精錬方として同藩の硝子工場で技術を磨き、1867年(慶応3年)に江戸幕府・佐賀藩・薩摩藩が参加したパリ万国博覧会には、佐賀藩使節団の一員として派遣された。 明治維新後[編集] 1873年(明治6年)、明治新政府(工部省)は富国強兵の政策に則り、全国から17名の技術伝習生を選定してウィーン万国博覧会へ派遣し[2]、藤山もその一人として、ガラス製造・活版印刷・鉛筆製造に関する技術伝習生として、明治新政府の使節団に参加して現地に留学し、翌年帰国した。1874年(明治7年)、井口直樹らとともに国産鉛筆の製造技術を完成させたほか[3]、1877年(明治10年)には工部省品川工作分局(後の品川硝子製造所)で初の日本人技師を務めて洋式ガラスの技術を指導し、近代ガラス工芸の基礎を築いた[4]。晩年は佐賀へ帰郷し、没後は出生地である佐賀県神埼郡内に墓地が建立された[5]。 1838年(天保9年) – 肥前国神埼町唐香原(現在の佐賀県神埼市)に生まれる。 時期不詳 – 佐賀藩精錬方となる。 1867年(慶応3年) – 佐野永壽左衛門(佐野常民)に随行し、パリ万国博覧会とフランス・オランダ・ベルギー・イギリス視察のため渡欧。

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きぃこクッキー – Wikipedia

きぃこクッキーは、日本の女性シンガーソングライター。ピアノを用いた弾き語りスタイルで活動しており、主な活動拠点は群馬県、東京都、神奈川県、埼玉県の関東地方。血液型はB型。本名・年齢非公開。 人物・エピソード[編集] デビュー当時は「きぃこ☆クッキー」という名前で活動していたが、2015年より「きぃこクッキー」に改名した。 愛称は「きぃちゃん」。 群馬県桐生市で活動する、うどんを愛するバンド「ザ・ウドニーズ」[3]のボーカル「うどにゃん」と極めて似た見た目である。 2018年よりキャッチフレーズとして「痩せたい!食べたい!ゴロ寝したい!」を自身のラジオで公開している。 作品(現在、入手可能なもの)[編集] ベストアルバム[編集] Assortment cookie [1st package](2019/2/16発売) Assortment cookie [2nd package](2018/10/20発売) ラジオ[編集] FM桐生「クッキーですよ」(第1、第3、第5水曜日 19:06〜)[4] 出演履歴(抜粋)[編集] ■2008年

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RUKIの法則 – Wikipedia

RUKIの法則(ルキのほうそく)は、インド・ヨーロッパ語族の一部の語派でおきた音変化の名称。*i, *u, *r, *k の後ろにある *s の調音部位が奥寄りになって š([ʃ]) のような音に変化した[1]。「RUKI」とは、この音変化を起こした音を覚えやすく並べたものである。 サテム語に属する複数の語派で同じ変化が起きていることに特徴がある。 インド・アーリア語派ではそり舌音が発生する原因になった。 インド・イラン語派[編集] インド・イラン語派では、*i *ī *u *ū *r *r̥ *k などの後ろにある

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中江元哉 – Wikipedia

中江 元哉(なかえ もとや、1961年4月24日[1] – )は、日本の財務官僚。大阪府出身[2]。 大阪教育大学附属高校天王寺校舎卒業 東京大学法学部第2類(公法コース)卒業[3] 1984年4月:大蔵省入省。理財局国有財産総括課[3] 1988年:関税局総務課企画係長[4] 1989年7月:弘前税務署長[5] 1990年7月:関税局監視課課長補佐(総括)[6] 1992年6月:ハーバード大学国際問題研究所 1993年7月:大阪国税局総務部総務課長 1994年7月:主税局税制第一課課長補佐(法人税)[6] 1995年6月:主税局総務課課長補佐(総務)[6] 1996年7月:主計局法規課課長補佐(第一)[6] 1997年7月:主計局主計官補佐(文部第一、二係主査) 1999年7月:熊本県企画開発部長 2001年7月:財務省大臣官房信用機構課機構業務室長[7] 2002年7月:金融庁監督局総務課監督企画官[8]

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アルベルト・パシーニ – Wikipedia

アルベルト・パシーニ(Pietro Maria Alberto Pasini、1826年9月3日 – 1899年12月15日)はイタリア生まれの画家、版画家である。中東の風景を描いた。 現在のパルマ県のブッセートの高級役人の息子に生まれた。2歳の時、父親が亡くなり、母親とパルマの叔父の家に移った。叔父のアントニオ・パシーニは画家で、パルマの有名な出版業者、ジャンバッティスタ・ボドニ (Giambattista Bodoni)のために働いていた。17歳でパルマの美術学校に入学し、風景画を学び、美術学校の校長で版画家のパオロ・トスキ(Paolo Toschi: 1788–1854)から版画を学んだ。 1848年に第一次イタリア独立戦争のパルマ従隊(colonna di Modena)に参加し、しばらくトリノに滞在した後、1851年にパリに移り、トスキの指示で、版画家のルイ=ピエール・アンリケル=デュポン(Louis-Pierre Henriquel-Dupont: 1797-1892)の工房に入った。アンリケル=デュポンに、水彩画家で版画家のウジェーヌ・シセリ(Eugène Cicéri: 1813–1890)を紹介された。シセリはバルビゾン派の影響を受けて活動した画家である。1853年にパリのサロンに出展した。1854年にテオドール・シャセリオーの工房に移り、油絵を学び、シャセリオーのオリエンタリズムの絵画に影響を受けた。 1855年にシャセリオーの推薦で、フランスの外交使節団に記録画家として同行することになり、ペルシャ、トルコ、シリア、アラビア、エジプトを旅する機会を得た。この旅で多くの習作やスケッチを描き、後の絵画作品の材料を得た。フランスに戻った後は、カンヌなどでも活動した。その後も何度か中東を旅した。1870年に普仏戦争が始まると、イタリアに戻りトリノのCavorettoに住み、そこで亡くなった。 ナポレオン三世の時代にレジオンドヌール勲章を受勲し、1878年にイタリア政府から聖マウリッツィオ・ラザロ勲章を受勲した。

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伊丹老松酒造 – Wikipedia

この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。出典検索?: “伊丹老松酒造” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) 伊丹老松酒造(いたみおいまつししゅぞう、ITAMI OIMATSU BREWING Co., Ltd)は、兵庫県伊丹市にある酒造メーカー。創業は1688年(元禄元年)、現在の企業の設立は1945年に企業整備令に基づいて企業合同した伊丹三共酒造を1970年に社名変更したもの。 近年は、伊丹産のマイヤーレモンを使用した果実酒やポン酢など、新たな商品開発も行っている。 「老松」という酒銘は、「千載の齢を経ても緑を保つ松の老木」にあやかったといわれる。 元禄10年(1697年)、伊丹にある酒屋の大手24軒に帯刀が許され、江戸幕府の官用酒「御免酒」と称し、格式高い酒として区別される。 老松はその中でも最も格式が高いとされ、『江戸積み銘酒名寄』では東の大関として、『銘酒番付』(伊丹市立博物館蔵)では西の大関など、酒の番付表で高い位置を確保していた。 1688年 –

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東京大学ウォリアーズ – Wikipedia

東京大学運動会アメリカンフットボール部(とうきょうだいがくうんどうかいアメリカンフットボールぶ、英語: University of Tokyo American football team)は、東京大学運動会に所属する東京大学のアメリカンフットボールチームである。愛称は、東京大学ウォリアーズ(英語: Tokyo Warriors)。関東学生アメリカンフットボール連盟所属。現在、一部リーグTOP8(上位ブロック)に所属している。チームカラーは水色、黄色。 関東学生アメリカンフットボール連盟のTOP8に所属する唯一の国立大学。チーム内のコミュニケーションにSlackを取り入れるなど、新しい取り組みを導入していることでも知られている[1]。 1957年9月創部[2]。 1958年、日本体育大学とのチーム初戦は0-14で敗れる。 1959年、関東学生アメリカンフットボール連盟に加盟し、関東大学リーグ二部に所属する。 1961年、入替戦で敗れ三部に降格するも、翌1962年にリーグが二部制に改編され、再び二部に所属。 1964年、シーズン全勝で首位になるも、入替戦で敗れ二部残留。 1965年、シーズン全勝で首位になり、入替戦で防衛大学校に勝利し、初の一部昇格。 1969年、入替戦で敗れ二部に降格するも、翌1970年にリーグ改編で「東京六大学リーグ」(1972年から東京七大学リーグ)の所属となる。 1980年、愛称「WARRIORS」制定。 1981年、リーグ改編で三部制となり、二部に所属。入替戦で獨協大学に勝利し、一部昇格。 1982年、リーグ最下位で二部自動降格。

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ザ・フューネラル・アルバム – Wikipedia

『ザ・フューネラル・アルバム』(The Funeral Album)は、フィンランドのヘヴィメタル・バンド、センテンストが2005年に発表した8作目にして最後のスタジオ・アルバム。 バンドは2004年に解散を決意し、2005年2月に公式サイトを通じて解散を発表した[5]。メンバーのサミ・ロパッカは、この声明において「言うなればこれは5人の集団自殺で、ニュー・アルバムは俺達の遺言のようなものさ」「俺の目からすれば、俺達は物別れしたんじゃなくて、ただ共同でのレコーディング・キャリアは終わるんだ。この2つの違いは大きいよ」とコメントしている[5]。 前々作『クリムゾン』(2000年)、前作『ザ・コールド・ホワイト・ライト』(2002年)に引き続き、ヒーリ・ヒーレスマーがプロデューサーに起用された[6]。 反響・評価[編集] 母国フィンランドでは、本作からの先行シングル「エヴァー・フロスト」が2005年第18週のシングル・チャートで初登場1位となり、6週連続でトップ20入りした[7]。そして、本作は2005年第22週のアルバム・チャートで初登場1位となり、『クリムゾン』(2000年)より3作連続で1位獲得を果たした[2]。 ドイツのアルバム・チャートでは49位を記録し、『クリムゾン』から3作連続でトップ50入りを果たした[3]。オーストリアでは2005年6月12日付のアルバム・チャートで59位を記録し、同国において唯一のチャート入りを果たした[4]。 Scott AlisogluはBlabbermouth.netにおいて10点満点中7.5点を付け「私がそうであるように、『クリムゾン』と『ザ・コールド・ホワイト・ライト』のファンなら『ザ・フューネラル・アルバム』も楽しめることだろう。両方のアルバムの持ち味が、このアルバムでも聴ける」と評している[8]。 特記なき楽曲は作詞:サミ・ロパッカ、作曲:ミーカ・テンクラ&センテンスト。 メイ・トゥデイ・ビカム・ザ・デイ – May Today Become the Day – 4:00

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