Month: April 2019

ダボ (ニューサウスウェールズ州) – Wikipedia

ダボ (Dubbo、) は、オーストラリアのニューサウスウェールズ州中央部にある市である。人口は約5万1000人。 州都であるシドニーからは北西303kmの地点にあり(実際の道路では400km)、海抜は約275m。 ミチェル・ハイウェイ(en:Mitchel Highway)、ネウェル・ハイウェイ(en:Newell Highway)、ゴールデン・ハイウェイ(en:Golden Highway)の交差する地域であり、北はブリスベン、南へはメルボルン、東へはシドニーやニューカッスル、西のブロークンヒルとアデレードと一般国道で繋がっており、ニューサウスウェールズ州各地域への貨物輸送の中心となっている。2015年に隣のウェリントンと合併し面積は7536平方キロメートルとなった。 Dubboは、アボリジニの言語の一つであるウィラドゥリ語のThubbo「赤い大地」が起源と考えられており、これはこの地域の景観と合致している。ただし、アボリジニと交流した最初の入植者ロバート・ダランティ(en:Robert Dulhunty)による詳細な記録が欠けており、このようにデータが不十分なウィラジュリ語についてはThubboについて他にも意味が推測され、「被り物」が起源という解釈もされることがあるが、これはダランティの家がアボリジニの人々には帽子をかぶっているように見えたからである。 先史時代[編集] 約4万年前から現在のダボ市のある地域にアボリジニが付近に定住していた形跡がある。 入植者の定住[編集] 1818年ヨーロッパ人で初めて現在のダボについて報告した探検家はJohn Oxleyである。 最初のヨーロッパ人永住者は1832年にこの土地を獲得し「ダボ」と命名したロバート・ダランティで、当時のオーストラリア植民地で最も裕福な者の一人と記録されている。1824年には許可を得た不法占拠者が大規模な羊と家畜小屋をこの地に立ち上げた。ダランティは1828年に創立したDubbo Stationを1930年代前半から占拠の基板としていた。ダランティによる不法占拠は1836年に彼がこの土地の所有許可を取るまで続いた。ダランティはアボリジニと親和的に接し、彼のパーティは40人のアボリジニを含み、Dubboを含めてアボリジニ式の名前を用いることを支持した。ダンダリマルの邸宅は当時から存在する建造物で、John Maughamが1840年に彼の11000ヘクタールの羊牧場に建てた。この建物は現在もニューサウスウェールズ州西部に最も古い建造物の一つとして存在し、一般に対して公開されている。1846年、複数の入植者がこの地域に定住し始め、政府は裁判所や警察署、留置所をダボ地域に設置した。巡査の居住地が1847年に、木板でできた裁判所と留置所が1848に完成したが、当時この居留地に建てられた施設は、その他に店と宿が1軒ずつのみだった。 市制[編集] 現在のダボ市がある地域では、ある程度の人数が入植するまで土地の権限が不正確であったため、1848年に小売商人のJean

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竜王戦 – Wikipedia

竜王戦(りゅうおうせん)は、読売新聞社および日本将棋連盟主催[注 1]の将棋の棋戦で、タイトル戦のひとつ。第1期は1987年であるが、前身の十段戦、さらにその前身の九段戦(第1期は1950年)から数えると、タイトル戦の中で名人戦(第1期は1935 – 1937年)に次いで2番目に長い歴史を有している。七番勝負の勝者は竜王のタイトル称号を得る。竜王は名人 (将棋)とともに、別格のタイトルとされている。 沿革[編集] 読売新聞社が主催していた「十段戦」が発展的に解消され、1988年に発足した。 名人戦を超える格を有する棋戦の創設について、歴代名人の了承を取る必要があった。中原誠(当時名人に在位、十六世名人資格保持者)が連盟に一任したのに対して、大山康晴(十五世名人、当時連盟会長)と升田幸三(実力制第四代名人)は反対した。折衝の末、賞金額1位を公表してもよいが(棋戦の序列は上)、タイトルホルダーとしての序列は名人と同格ということで話がまとまった。 棋戦名[編集] 「竜王戦」という棋戦名は、竜は古来中国で皇帝の権威の象徴として神格化されていた最強者のシンボルであること、将棋の駒の「竜王」(「飛車」の成り駒)は将棋で最強の駒であることの2点を理由として命名された。 田丸昇[2]によると、新棋戦名候補として、他に「棋神戦」「最高峰戦」「巨人戦」「巨星戦」「棋宝戦」「達人戦」「将棋所」などがあったという。しかし、「棋神戦」は宗教絡みの問題が心配、「巨人」は同じく読売新聞傘下のプロ野球球団・読売ジャイアンツの通称(同じく「巨人」)と紛らわしいなどそれぞれに問題があった。当時読売新聞社で竜王戦の創設に携わった観戦記者の山田史生[3]によると、「竜王戦」という候補に対しても、読売ジャイアンツのライバルであったプロ野球中日ドラゴンズを連想するからよくないという意見があったという。また、竜王は最も強い駒ではあるが、最も価値の高い駒は取られたら負けとなる王将であるから、王将戦の上に竜王戦を設けるのは「ヘボ将棋 王より飛車を 可愛がり」という著名な格言(川柳)の教えに反するとの指摘もある。最終的には候補を一つずつ消していき、最後まで残った「竜王戦」が棋戦名に決まった。 山田史生によれば、「竜王戦」と「龍王戦」のどちらを正式な棋戦名とするかでも議論となった。一般的な将棋の駒には「龍王」と記されているが、読売新聞社では常用漢字外の「龍」を原則使用しないとしていたためである。元々、竜と龍は異体字であるが、竜は龍の略字であり新字であると同時に古字でもあるという関係にある。そこで、略字扱いされていた竜こそが正統な字であるという根拠によって「竜王戦」を正式な棋戦名とした。これ以降、日本将棋連盟は駒の正式な名前は「竜王」であり、実在の駒に「龍王」と記されているのは書体の都合であるという立場をとっている。 開催方式[編集] 竜王就位式で渡される竜王杯は秩父宮雍仁親王寄贈で、九段戦、十段戦から引き継ぎ使用されている。 竜王戦となってからタイトル戦の中で最も高い賞金を誇るようになり、第30期の優勝賞金は4320万円、準優勝賞金は1620万円であり、挑戦者決定三番勝負の対局料は460万円である[4]。なお、賞金や対局料は何度も変更されている[注 2][5][6]。 第30期(2017年)からは七番勝負第1局に東急グループの協賛がつき[7]、同グループが保有しているセルリアンタワー地下の能楽堂での部分公開対局が行われるようになったほか、就位式の会場提供も行っている。同グループはそのまま第31期(2018年)から竜王戦全体の協賛に加わった。さらに同じ第31期からは野村ホールディングスが特別協賛として加わったほか[8]、明治も「明治ヨーグルトR-1」名義で協賛している[9]。 1組から6組に分かれたトーナメント(竜王ランキング戦[注

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フリーゲンダー・ハンブルガー – Wikipedia

フリーゲンダー・ハンブルガー フリーゲンダー・ハンブルガー (Fliegender Hamburger)は、第二次世界大戦前のドイツの特急列車に使用された流線形気動車(DRG Baureihe SVT877)の愛称である。あるいは、その車両によって運用された、ベルリン – ハンブルク間の列車を意味することもある。 英語圏では “Flying Hamburger“(フライング・ハンバーガー)として呼ばれている。第二次世界大戦前において、営業運転を行った列車としては、駅間平均速度ベースで、世界で最も速い列車として知られた。 この列車の登場以降、ドイツ国内を縦横に結ぶ高速列車網が構築された。本稿では「フリーゲンダー・ハンブルガー」以外にも、そこから派生した、当時のドイツの高速列車とその車両に関しても記述する。 地域毎に運営主体が分かれていたドイツの鉄道は、第一次世界大戦の敗戦後、国家による一元運営となり、1920年に「ドイツ国営鉄道」(DR: Deutsche Reichsbahn、現・ドイツ鉄道)が発足する。ドイツ国鉄発足後は、鉄道技術の高度化を推進するが、スピードアップについても研究開発が進められた。 1930年代に入ると、道路網や空港の整備が急速に進んだ。その結果、自動車や航空機への転移が進み、いわゆる「鉄道離れ」が起こるようになる。ドイツ国鉄では、自動車や航空機への対抗上、国内の大都市間をより高速で結ぶ、新しい列車を走らせる必要に迫られた。そこで、より高速運転が可能な車両の開発や、より高速運転が可能な地上設備への改良を行うことで、大都市間の所要時間を大幅に短縮する計画を立て、実行した。 この列車のために電気式気動車が製造され、首都ベルリンと、ドイツ国内の主要都市を結ぶ列車に順次投入されることになった。まず1932年に最初の車両が製造され、翌1933年5月より第一弾として、ベルリンと第2の都市ハンブルクを結ぶ特急列車として営業運転を開始した。その列車に運用された車両が「フリーゲンダー・ハンブルガー」(空飛ぶハンブルク人)である。 SVT 877[編集] 運転開始に先立ち、1932年に、連接式2両編成の電気式気動車「SVT877」1編成が、ゲルリッツ車両機械製造会社(WUMAG:

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