伊百五十三型潜水艦(いひゃくごじゅうさんがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。海大III型a(かいだいさんがたエー)とも。全部で4隻が建造され、1927年から1928年にかけて竣工した。太平洋戦争の初期に通商破壊を行ったがこの時点で旧型となっていたため、1942年後半までにすべての艦が練習潜水艦となった。全艦戦没せずに終戦を迎えたが、戦後処分された。伊百五十六型潜水艦(海大III型b)は船体形状が若干改められたが兵装や性能は本艦級にほとんど等しい。 1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約の締結により八八艦隊案を白紙に戻した日本海軍は、1923年(大正12年)度の計画で改めて潜水艦を12隻(当初の予定は13隻)建造した。海大3型aはその最初の4隻である。計画番号はS26。 本型は前型の海大2型を改良した量産型である。船体寸法はほぼ同一、主機も同じディーゼル機関を搭載したが、内殻の板厚を増して潜航深度を60mまで増大させた。その他構造上の細かい改正が施されより実用的な艦となった。このため基準排水量で300トン弱増加し速力、航続力はともに若干低下した。外観上の相違は司令塔が内容積増大のため基部が広げられ台形状となり、艦首に防潜網切断器が搭載されたことである。また遭難時の救難のために引き上げ用眼環が初めて装備された。 伊153,154,155は第一八潜水隊を編成しマレー、ジャワ方面へ進出した。伊158も第一九潜水隊に所属しマレー方面に進出、4隻で合計7隻の商船を撃沈している。4隻とも1942年(昭和17年)3月に呉港に帰港。その後は同年6月に伊158がミッドウェー海戦に参加、伊155がアリューシャン作戦でキスカ島への輸送任務に参加しただけで、大戦の大半を練習潜水艦として過ごした。伊153は終戦直前の空襲により中破、それ以外の艦は無傷で終戦を迎えている。 1942年(昭和17年)5月20日に改称、艦番に100を加えた。 1927年(昭和2年)3月30日竣工(呉海軍工廠)。1948年(昭和23年)解体[2]。 1927年(昭和2年)12月15日竣工(佐世保海軍工廠)。1946年(昭和21年)5月伊予灘で海没処分。 1927年(昭和2年)9月5日竣工(呉海軍工廠)。1946年(昭和21年)5月伊予灘で海没処分。 1928年(昭和3年)5月15日竣工(横須賀海軍工廠)。1946年(昭和21年)4月1日五島列島沖で海没処分。 潜水隊の変遷[編集] 伊153型は4隻からなり、3隻からなる潜水隊に2隻足りないので性能がほぼ等しい海大3型bの1番艦伊56、2番艦伊57を加えた6隻で2個潜水隊を編成した。すべて呉鎮守府に配備されたため、呉鎮の固有番号の11~20までの番号の潜水隊である。伊153は当初海大1型、海大2型とともに第17潜水隊を編成していたが、昭和10年11月15日の解隊を機に第18潜水隊に編入された。 第十七潜水隊[編集] 呉鎮守府籍の伊53と、海大1型の伊51、海大2型の伊52の3隻で編成。呉で改修や練習に使用され、昭和10年11月15日に解隊された。 1925年(大正14年)12月1日:伊51、伊52で編成。第二艦隊第2潜水戦隊。 1927年(昭和2年)3月30日:竣工した伊53を編入。編成完結。 1928年(昭和3年)12月10日:呉鎮守府付属。 1935年(昭和10年)11月15日:解隊。伊51、伊52は呉鎮守府付属に、伊53は第18潜水隊にそれぞれ転出。 (1940年(昭和15年)4月1日:伊51除籍。) (1942年(昭和17年)8月10日:伊152除籍。) 第十八潜水隊[編集]
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