出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2021年7月) 保科氏(ほしなし)は、信濃国高井郡保科に発祥した土豪で、江戸時代には大名として存続した武家である。星名、穂科、保志奈とも表記された[1]。 保科氏の出自と小領主時代[編集] 清和源氏井上氏の一族と伝えられるが、氏族名の由来ともなった保科の荘は古来からの荘園で、保科氏の祖は長田御厨[2]の庄官を勤めたとされる。このことから古代氏族の他田部氏の系統とする説がある。また「信濃史源考」では他田氏と同祖とされる諏訪氏の庶流としている。若穂保科の広徳寺寺歴では平安時代に川田一帯を支配していた保科氏は一旦絶えて井上氏から分かれた井上忠長が保科氏を再興したとしている。 長元元年(1028年)の平忠常の乱を平定して東国に勢力を扶植した源頼信の二男頼季が信濃国高井郡井上に住し、井上氏が北信濃に勢力を拡大する過程でその家人となって武士団化したと思われる。 治承・寿永の乱では井上氏の総領井上光盛に従い源氏方として活躍、『平家物語』に光盛に率いられた「保科党三百余騎」として登場する(星名党とも記され、初期の横田河原の戦いでは源氏方ではなく城軍の中に星名権八の名がある)。その後、井上光盛が源頼朝に誅殺された際に捕らわれた家人に「保科太郎」がいるが、のちに許されて御家人に取り立てられている。また承久の乱に「保科次郎」父子が出陣したことが知られる。 鎌倉時代から南北朝・室町時代における保科氏の動向は史料が少なく、確かなことは判明しておらず、諏訪大社の祭祀記録である「御符礼之古書」などに保科姓が散見される程度である。しかし建武2年(1335年)には中先代の乱において、北条方残党を擁立する諏訪氏や滋野氏に同調した保科弥三郎が北条氏知行地に属していた四宮左衛門太郎(諏訪氏の庶流と伝えられる)らと共に室町幕府の守護所(千曲市小船山)を襲い、青沼合戦を引き起こして敗走する。そして足利方の守護小笠原貞宗や市河氏らの追撃を受けて、八幡河原、福井河原、四宮河原を転戦した。だが鎌倉において足利方が勢いを盛り返し、保科氏らは清滝城に篭城して抵抗したが攻略された。守護方は反転してこの後牧城へ向けて攻撃を加えている。その後は諏訪氏らとともに南朝勢として活動している。 武田家臣時代から近世大名化[編集] 戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪頼継の家老として「保科弾正」(あるいは筑前守、保科正則)の名が登場する。本来は北信濃の霞台城を本拠とする保科氏が南信濃に移った時期や理由などについては、長享年間に村上顕国との抗争に敗れて高遠に遷移したと見る向きもあるが、今日も真相は不明である。ただし、鎌倉時代以来諏訪神党の一つに数えられたことから、諏訪氏と密接な関係が築かれていたと考えられ、正則の跡を継いだ保科正俊は[3]高遠氏家臣団では筆頭の地位にあったとされる。 天文21年(1552年)に旧主の高遠氏が武田氏の信濃侵攻により滅亡すると、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となる。正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで軍功を挙げ、跡を継いだ嫡男の正直も高遠城将として、武田氏滅亡時の高遠城主仁科盛信と共に奮戦している。 正直は高遠城落城の際に落ち延び、本能寺の変で信濃の織田勢力が瓦解した後、後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還に成功する。そして後北条氏と徳川氏が信濃の旧織田領を巡って対立すると、徳川方に与して高遠城主としての地位を安堵される。 正直の子正光は小牧・長久手の戦い・小田原征伐に出陣、徳川氏の関東入府に際して下総国多胡で1万石を与えられ、大名に列した。関ヶ原の戦いの後には旧領に戻って高遠城主として2万5千石を領した。さらに大坂の陣での戦功により3万石に加増される。 正光の養嗣子として家督を相続した保科正之は、2代将軍徳川秀忠の庶子で、寛永13年(1636年)に出羽山形20万石を与えられ、さらに加増され会津へと移り、幕末まで続くことになる。ただ、保科姓を名乗ったのは正之と2代保科正経までで、その子孫は徳川家御家門として松平姓に改めている(正之本人は勧められても保科姓を守り通したとされる)。3代将軍家光と4代将軍家綱を補佐した正之は、玉川上水を開削して江戸の水不足に取り組み、米の備蓄で天災に備える制度を創設するなど、江戸太平の基礎を築いたとされる。また明暦の大火で焼け落ちた江戸城天守の復旧をせず、民への救済米としたと伝えられる。 飯野藩主家保科氏[編集] 一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、後に幕臣に取り立てられたために別家を興し、上総国飯野藩主家として保科氏の血統を現在まで残している。同家歴代当主は大坂定番を勤めることが多く、保科正益は若年寄まで進んだ。 旗本保科氏[編集] 正貞の外孫で当初正貞の養子となっていた正英も、分家して2500石の旗本となる。同家より山田奉行の保科正純や幕府陸軍歩兵頭並やパリ万国博覧会使節団、大日本帝国陸軍歩兵大佐などを勤めた保科正敬(俊太郎)が出ている。 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。 ^ 日本大百科全書より。
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