リー・フランシス社のラジエターに取り付けられたバッジ。社の略称「LF」と、海馬を組み合わせたものである リー・フランシス (Lea-Francis) は、かつて存在したイギリスの自動車メーカー。 19世紀末に自転車メーカーとして創業、オートバイメーカーを経て、第一次世界大戦後には比較的小規模なアッセンブリー自動車メーカーとなった。1920年代から1930年代にかけては高性能な上級小型車を製作、イギリスのレース界で縦横に活躍した。しかし大手メーカーの攻勢に抗しきれず、第二次世界大戦後の1954年までに一般市販車の製造を終了した。ブランドは紆余曲折を経て2000年代まで使用されている。 リチャード・ヘンリー・リーとグラハム・イングルスビー・フランシスは1895年にコヴェントリーで自転車の製造を始める。1903年には自動車の製造を始め、1911年にはオートバイも手がける。リー・フランシスは当初シンガー社のライセンスを受けて車を生産した。1919年になると彼らはコンポーネントを購入し、自身の車の生産を始めた。 1922年からリー・フランシスはサウスポートのバルカンと提携して製造と販売を行った。バルカンはリー・フランシスに車体を供給し、その見返りにギアボックスとステアリングギアの供給を受けた。バルカン設計(および製造)の2種の6気筒エンジン搭載車はリー・フランシス14/40および16/60として販売され、同様にバルカンブランドでも販売された。この提携は、バルカンが自動車の製造を停止する1928年まで続けられた。 スポーツカーのイメージは1925年頃のハイパーやエース・オブ・スペード(エンジンのカムカバー断面の形状による通称)から登場した。ハイパー(またはSタイプと呼ばれる)はイギリス初のスーパーチャージャー搭載車両で、1.5リッターメドウズエンジンを搭載した。ハイパーは1928年のアルスターTTで優勝した。アルスターTTは北アイルランドの公道コース、アーズ・サーキットで30周(13.5-マイル (21.7 km))の距離で行われ、優勝したのは伝説のドライバーと呼ばれるケイ・ドンであった。レースには25万人の観客が訪れ、リー・フランシスの勝利はしっかりと記録された。 保守的だがバランスの良いシャーシ設計に、強力なエンジンを組み合わせたリー・フランシス車は、レースフィールドで大いに活躍し、タフネスかつスポーティなブランドイメージを確立したものの、肝心の財務状況は良くならなかった。会社は1937年にジョージ・リークおよびR.H.ローズのような元ライレーのメンバーによって改組された。ローズはライレー12/4によく似たツインカムシャフト・OHVレイアウトの新型エンジンをリー・フランシス用に設計した。12HPおよび14HP(実際には12.9HP)エンジンは1937年に導入され、1939年に第二次世界大戦が始まるまで生産された。戦争が始まると同エンジンの生産は停止し、工場は戦争のための生産に注力し始めた。 戦後の自動車生産は1946年、戦前設計車を元に改良した物から始められた。14HPのサルーンおよびスポーツカーは豪華でスポーティーな車であり、人気もありかつ高価であった。 最終的に独立したフロントサスペンションと油圧ブレーキを導入して改良されたシャシーは、1950年には18HPのサルーンおよび2.5リッターのスポーツカーに使用され、どちらもよりパワフルな2.5リッターエンジンが搭載された。だが主力のサルーンは、R.H.ローズがかつてライレーで設計した同級エンジン搭載の量産車ライレー・RMシリーズと真っ向から競合するクラスで、ほぼ同等性能のRMに比べ5割も高価であり、競争力に乏しかった。1952年以来アールズ・コートで行われていた生産は、1954年に再び停止した[1]。 14HPのスポーツシャシーの多くはコンノート・エンジニアリングに売却され、それらはL2およびL3スポーツレーシングカーとなった[2]。コンノートはフォーミュラ2用レーシングエンジンを開発し、リー・フランシスの設計を元にしたシングルシータ-レーシングカーのAタイプに搭載した。 リー・フランシス・リンクス リー・フランシスはいくつかの注目すべきオートバイや車が織りなす歴史を持っていたが、定期的に財政難が訪れた。ヒルフィールズの生産拠点は1937年に放棄され、新たな会社に売却された。会社はコヴェントリーのマッチ・パーク・ストリートに移転し、同所で1962年まで営業を続けたが、最終的に倒産した。 リー・フランシスは操業を停止するまでほぼ10,000台の車を生産した。人々は1960年に生産されたリンクスを誰が購入するかに注目した。リンクスは3台が生産され、全てプロトタイプであった。チューブフレームの2+2ロードスターで、フォード・ゼファー用の2.6リッター直列6気筒エンジンを搭載した。イギリスのモーターショーに展示された車両は、藤色に塗られ、金色のトリムで装飾がなされていた[3]。強力なエンジンと4輪独立懸架の組み合わせは高度だったが、円形のラジエータグリルに代表される奇怪なスタイリングは酷評を受け、リー・フランシスの復活は成らなかった。 同社が所有する車の部品は1962年に債権者に手渡され、リー・フランシスは自動車生産事業から手を引いた。会社の資産は部品メーカーのクイントン・ヘイゼル株式会社が購入し、リー・フランシスのブランド名はバリー・プライス社が購入した[4]。プライス社は現存する車両に対するサービスと部品販売を継続し、リー・フランシスのブランド名で「エース・オブ・スペード」と呼ばれる車を生産している。これはジャガーのエンジンを搭載した2シータークーペである。 リー・フランシス 30/230 プロトタイプ
Continue reading
Recent Comments