Month: February 2019

三河鉄道デ400形電車 – Wikipedia

三河鉄道デ400形電車(みかわてつどうデ400がたでんしゃ)は、後の名鉄三河線・蒲郡線などに相当する路線を敷設・運営した三河鉄道が、1940年(昭和15年)に導入した電車(制御電動車)である。 原形は鉄道省より払い下げを受けた木造車であるが、翌1941年(昭和16年)に半鋼製車体を新製する形で鋼体化改造が施工された。ただし、鋼体化竣功は三河鉄道が名古屋鉄道(名鉄)へ吸収合併された後にずれ込んだことから、鋼体化改造後の竣功届は名鉄によって管轄省庁へ提出されている。 デ400形は名鉄への継承後に形式称号がモ3100形と改められ、さらに後年電装解除により制御車ク2100形(2代)と形式称号を変更し、1973年(昭和48年)まで運用された[1]。 以下、本項では三河デ400形として導入された車両形式を「本形式」と記述する。 導入経緯[編集] 三河鉄道は、輸送力増強を目的として1940年(昭和15年)に鉄道省より郵便・荷物合造車モユニ2形2005の払い下げを受け、デ400形401として導入した[1]。モユニ2005は1914年(大正3年)に鉄道院が京浜線(後の京浜東北線)の電車運転開始に際して導入した鉄道院新橋工場製のデロハ6130形のうち1両(デロハ6135)の後身で[* 1]、古典的なモニター屋根車体を備える木造車であった[8][3]。 三河鉄道への払い下げ後、1941年(昭和16年)5月16日付設計変更認可申請にて[2]、台枠および主要機器を流用して木南車輌製造にて原形とは全く異なる半鋼製車体を新製[3]、同年7月16日付竣功届出にて落成した[2]。 なお、三河鉄道は1941年(昭和16年)6月1日付で名鉄へ吸収合併されたため、鋼体化改造後の竣功届は名鉄によって提出されている[2]。 以下、鋼体化改造後の車体および主要機器について記述する。 車体[編集] 全長16,040 mm・全幅2,700 mmの、構体主要部分を普通鋼製とした半鋼製車体を備える[7]。前述の通り、台枠は種車より流用しているが、車体部分は新規設計によって製造されている。なお、本形式の落成と同時期に南武鉄道が木南車輌製造において新製したモハ500形503・504は、同じく鉄道省払い下げ木造車の台枠を流用して新製された鋼体化車両であり[9]、細部の寸法および仕様の差異を除き両形式はほぼ同一設計の車体を備える[6][9][* 2]。 妻面構造は前後とも貫通扉を持たない非貫通構造とし、前後各妻面に運転台を備える両運転台仕様である[6]。前後各妻面には3枚の前面窓を均等配置し、妻面から側面にかけての窓上下部には補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)を設置する[6]。窓の上下寸法は前面・側面とも865 mmで統一されている[6]。 側面には乗務員扉を持たず、後述する車内乗務員室仕切り壁形状の都合から前後非対称構造を採用する[10][11]。すなわち、車内側から妻面に向かって左側の運転台部分には他の側窓と同形状の開閉窓を設置し、同右側の車掌台部分の側窓は狭幅の開閉窓とされている[10][11][* 3]。その他、側面に片開き構造の客用扉を片側3箇所備え、客用扉間には4枚の側窓を配置し、側面窓配置は1 D

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ピラメキーノ – Wikipedia

『ピラメキーノ』(PIRAMEKINO)は、テレビ東京系列で2009年4月6日から2015年9月30日まで放送されていた子供向けバラエティ番組。ハイビジョン制作。アナログ放送では2010年6月25日放送分と7月5日放送分からはレターボックス放送(それまではサイドカット放送)[注 1]。夕方放送時代は字幕放送とデータ放送(2012年3月31日放送分より)を実施していた(字幕放送は特番ではその後も実施)。 吉本総合芸能学院東京校同期のはんにゃとフルーツポンチの2組がメイン司会。前番組枠『スキバラ』に引き続き吉本興業の制作協力枠であった。 放送時間は月曜日から金曜日の6:40 – 6:45までの5分間。本記事では2010年4月16日から2011年3月4日まで毎週金曜日に限り約90分間の拡大放送となった『ピラメキーノG』(ピラメキーノゴールド)についても併せて記述する。 2013年3月29日をもって夕方枠から撤退し、4月1日より朝の5分枠に移動・大幅縮小すると同時に、タイトルも『ピラメキーノ640』(ピラメキーノろくよんまる)と改題された[1][2]。後枠は19時台のバラエティ枠の繰り上げ拡大(月・火・金曜日)またはアニメ枠(水・木曜日)に転換する[3][4][5]。 その後は5分枠で番組が継続していたが、2015年8月31日に2015年秋改編での番組終了が発表され[6]、9月30日で放送を終了、6年半の放送に幕を下ろした。 番組の略称は「ピラメキ」。番組は小学生向けで、子供向け番組の常識を覆す事をモットーに斬新で大胆なコーナーを多数制作している。 「Onaraはずかしくないよ」「なんてフワフワなんだJAPAN」「おちこぼ列車ピラガッタン」などのコミックソングを多数輩出している。 上記のオリジナル曲以外に「アホが見るブタのケツ」(嘉門達夫)「日本印度化計画」(筋肉少女帯)などの懐かしの名曲を取り上げ現代の子供に新たなブームを起こしている。 現代版「ひらけ!ポンキッキ」を目指している。 公式サイトの管理は、番組開始当初はYahoo!きっずが、後にテレビ東京が行っている。Yahoo!きっず内にサイトがあったときは、Yahoo!から「ピラメキ!」を検索すると即、公式サイトにジャンプできた。携帯サイトはテレビ東京が運営している他、吉本興業が着うたなどをテレビ東京とは別に管理し配布している。 変遷[編集] 放送期間 タイトル 放送時間(JST) 月曜 – 木曜

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ロックンロール (秀吉のアルバム) – Wikipedia

『ロックンロール』は、秀吉の3枚目のオリジナルフルアルバム。2016年8月3日にsirosiba record.からリリースされた[1]。 秀吉にとっての3枚目となるオリジナルフルアルバム。会場限定でリリースされた手づくり盤「プリアルバム#1,#2」収録の「ナイフ」「まっくらやみの中で」を含む全10曲。 前作のミニアルバム「アトノオト」リリース後から約1年、フルアルバムとしては1年8ヶ月振りのリリースであり、自身のレーベル『sirosiba record.』からの作品である。 ゲストミュージシャンとして地元・群馬の盟友であるLACCO TOWERの真一ジェットとG-FREAK FACTORYのサポートなどを務める鴨居哲也がキーボードで参加するほか、ゲスの極み乙女。とindigo la Endのサポートメンバーとしても知られるえつこ(katyusha)が全曲のコーラスを担当している。[1] 地元群馬のラジオ局、FMぐんまでは8月3日(水)19:00より秀吉を特集した特別番組をオンエア予定。番組ではメンバーによるアルバム収録曲紹介のほか、松井常松(ex-BOØWY)、清水依与吏(back number)、茂木洋晃(G-FREAK FACTORY)、LACCO TOWER、The Winking Owl、MAKOTO & DAIKI(HER NAME IN

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リチャード・ベリンガム – Wikipedia

リチャード・ベリンガム(英: Richard Bellingham、1592年頃 – 1672年12月7日)は、イングランドから北アメリカの植民地に渡った判事、弁護士であり、マサチューセッツ湾植民地の総督を前後3回務めた。マサチューセッツ湾植民地のために発行された認可状に署名した者として最後まで生き残った者とされている。1634年に新世界に向かって出発する前はリンカンシャーの裕福な弁護士だった。マサチューセッツでは中道のジョン・ウィンスロップに対して、リベラルな政敵であり、参政権と立法の拡張を論じたが、クエーカー教徒やバプテストが植民地に入ろうとしたときに極めて厳しく反対し、宗教面では幾分保守的な面を示した。「マサチューセッツ自由の主文」を作成した一人であり、この文書はアメリカ権利章典にも見られる多くの意見を具体化したものだった。 ベリンガムは植民地での初期に概して少数派に属したが、通算で10年間を植民地総督として務めており、その大半はイングランド王チャールズ2世が植民地政府の行動についてあれこれ注文をつけた王政復古という難しい時代だった。ベリンガムはイングランドに出頭すべしという国王からの直接命令を拒否しており、これが1684年に植民地認証取り消しに繋がったとされている。 ベリンガムは2度結婚しており、後妻と一人の息子がベリンガムの死後に残った。ベリンガムは1672年に死亡し、現在のマサチューセッツ州チェルシーの資産と、ボストンの大きな家屋を遺した。ベリンガムの遺志に対して息子から異議申し立てがあり、その資産は100年以上も続く法的手続きの対象となった。作家ナサニエル・ホーソーンの小説『緋文字』と、詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの『ニューイングランドの悲劇』にはベリンガムが登場しており、植民地時代の仮想のできごとを扱っている。 初期の経歴[編集] リチャード・ベリンガムは1592年頃にイングランドのリンカンシャーで生まれた。父はウィリアム・ベリンガム、母はフランシーズ・アムコッツだった。一族は繁栄していた。スカンソープに近いブロンビーウッドにある邸宅に住んでいた[1][2]。オックスフォードのブレーズノーズ・カレッジに1609年12月1日に入学して法律を学んだ[3]。1625年、リンカンシャーのボストンで、記録官(町で法律に関する最高位)に選出され、1633年まで務めた。1628年と1629年にはボストンから庶民院議員に選ばれた[4]。ベリンガムはバークシャーのスウォローフィールド出身のエリザベス・バックハウスと結婚し、多くの子供が生まれたが、息子のサミュエルのみが成人した[5]。 1628年、マサチューセッツ湾会社の投資者となり、ニューイングランドのためのプリマス委員会によって発行された土地特許に署名した者達の一人となった。1629年にマサチューセッツ湾植民地のために発行された王室認可状にもその名があった[6]。1633年、ボストンの記録官を辞任し、その資産の処分を始めた。翌年、妻と息子を連れて新世界に旅立った[7]。マサチューセッツのボストンに就いてから間もなく、妻のエリザベスが死亡した[8]。 マサチューセッツ湾植民地[編集] ベリンガムは即座に植民地での著名な役職を務め始め、ボストン市の事情を監督する委員会(市政委員会の前身)の委員を務めた。この役割では、ボストンコモンの設立を初め、地域社会の分割に参加した[9]。ボストンに来てから間もなく、ボストンとウィネシメット(現在のチェルシー)の間の渡し船航路をサミュエル・マーベリックから買収し、合わせてチェルシーの多くに跨る土地も購入した。ボストンにあるその邸宅に加えて、ウィネシメットの船着き場近くに田舎家を建設した[10]。1659年に建てた家屋はチェルシーに今も残っており、ベリンガム・キャリー家屋と呼ばれ、アメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている[11]。 ベリンガムは長年総督の諮問機関である植民地の補佐委員に選ばれ続けた。これは総督の立法事項について助言を行い、司法府として機能するものだった。また植民地財務官としても幾つかの任期を務めた。1635年には植民地の総督補に初めて選ばれた。このときは威信の高いジョン・ウィンスロップが人気を失っていたときだった。さらに1640年にも総督補に選ばれた[12]。1637年、アンティノミアン(無律法主義)論争が起こり、アン・ハッチンソンの裁判ではベリンガムが判事の一人となり、植民地から追放するという判決に賛成票を投じた[13]。歴史家のフランシス・ブレマーに拠れば、ベリンガムは幾分性急で敵対的なところがあり、ウィンスロップと政治的な問題について衝突することが繰り返された[14]。この初期の時代に、ハーバード大学の初代監督委員会に選ばれた[15]。また植民地では最初の法典である「マサチューセッツ自由の主文」策定に貢献した[16]。この文書はウィンスロップから反対され、何度も立ち往生することがあった。ウィンスロップは法律についてコモン・ローを適用することに賛成していた[17]。 1641年、ベリンガムは、ウィンスロップに対抗して出馬した選挙で、初めてマサチューセッツ湾植民地総督に選出された[18]。その任期中に「自由の主文」が正式に採用された[17]。しかし、総督を務めたのは1年間だけであり、1642年にウィンスロップと交代した[18]。ベリンガムの落選は再婚に伴うスキャンダル絡みの不体裁が災いした可能性があった。ベリンガムの家の客だったある友人が、20代の女性ペネロープ・ペラムと交際していた。ウィンスロップに拠れば、このとき50歳で寡夫だったベリンガムが彼女の心を掴み、正式な婚姻の予告期間を待たずに結婚してしまった。この問題が植民地裁判所に持ち出されたときに、総督で首席判事であるベリンガムがその告発に直面して裁判官席から降りるのを拒否したために、この件は幾らか気まずい結果になった[19]。ベリンガムの総督としての任期は、ウィンスロップによって極めて難しいものと表現されていた。「議会はベリンガムの他の議員に対して友好的ではない態度により、不快な動揺と争いで満ちていた。彼は全ての手続きにおいて他の者に反対の立場を採り、それが仕事を遅らせることになった」としるしていた[20]。 1640年代、補佐委員の権限に関して構造的な問題が起きた。逃亡した豚に関する事件で、補佐委員はある未亡人の誤った動物を捕まえたとされる商人に有利な裁定を下した。その未亡人は一般裁判所に控訴し、有利な判断を貰った。補佐委員は一般裁判所の判断を覆す権利があると主張し、論争に火を点けさせた。ジョン・ウィンスロップはその補佐委員が経験を積んだ判事として、一般裁判所の民主的な制度をチェックできるはずであると主張した。なぜなら、「民主主義はほとんどの文明国で、あらゆる形態の政府の中で最も卑劣で最も悪いものであるからである」としていた[21]。ベリンガムは2人しかいない補佐委員の一人であり(もう一人はリチャード・ソルトンストールだった)、補佐委員の拒否権が有効とする最終判断に反対していた[22]。ベリンガムとソルトンストールはウィンスロップやトマス・ダドリーのより保守的な見解に反対する少数派になることが多かった[23]。1648年、ベリンガムは委員会に出席し、植民地の憲章によって要求されているように、植民地の法体系は「イングランドの法に一致しない」わけではないことを示した[24]。 1650年、ベリンガムが補佐委員であるとき、ウィリアム・ピンチョンの著書『我々の買戻しに関する称賛すべき価格』を禁書とする裁判所判断に同意していた。その書はピューリタンが異端と考える多くの見解を表明していた[25]。1654年、ベリンガムは再度総督に選出され、1665年5月にはジョン・エンデコット総督の死後にも再度選出された[26]。その後は死去した1672年まで毎年再選され続け、都合10年間を総督として、13年間を総督補として務めた[27]。1656年にエンデコットの総督補であるとき、数人のクエーカー教徒を運んできた船がボストンに着いた。エンデコットはこのときセイラムにいたので、ベリンガムが彼らの到着に対する政府としての対応を指揮した。クエーカーはピューリタンにとって異端だったので、クエーカー教徒は船の中に拘束され、その持ち物が捜索され、その信仰を促進するための書籍は破壊された。その捕獲から5週間後、彼らはイングランドに送り返された[28]。エンデコットが総督である間に、植民地からの追放を拒否するクエーカー教徒に対する罰則は次第に厳しいものになり、違反を繰り返す者には死刑を科すこともあるようになった。この法の下で、追放後も植民地に戻ってきた廉で、4人のクエーカー教徒を死刑に処した[29]。クエーカーの歴史家達はベリンガムの評価でも厳しいものがあった[30]。マサチューセッツの権威筋が、死刑を行わないことに合意した後(長期間に否定的な結果となり、マサチューセッツの妥協しない概念を得ていた)、法は烙印やむち打ちに減じるよう修正された[31][32]。 イギリスの王政復古[編集] 1640年代と1650年代のイングランドは大きな混乱の時代だった。イングランド内戦によりイングランド共和国が設立され、オリバー・クロムウェルの護国卿制となった[33]。この時代にマサチューセッツは概してクロムウェルや議会派に同調的だった[34]。1660年にチャールズ2世が王位に復して王政復古となると、すべての植民地、特にマサチューセッツはその監視下に置かれることになった。1661年、チャールズ2世はその後にクエーカー教徒の処刑を禁じる「職務執行令状」を発行した[35]。さらにマサチューセッツに、参政権を拡大し、プロテスタントの他の会派に対して寛容であることとする法の具体的な改正を要求した。これはエンデコット総督の間に抵抗されるかあるいは無視された[36]。チャールズ2世は1664年にニューイングランドに役人を派遣し、その要求を強制させたが、ニューイングランドの植民地の中でもマサチューセッツが最も反抗的であり、実質的な要求の全てを拒否し、あるいは問題に表面的に対処するだけの修正を法制化するだけだった[37]。 この肖像画はベリンガムのものとされたことがあった。モデルも画家も不明のままである[38] これに対するチャールズ2世の反応は、当時総督だったベリンガムと議会議長だったウィリアム・ホーソーンに、イングランドに来て植民地の動きを説明するよう命令を発することだった[39]。この要求にどう応えるかについて、植民地の意見が分かれ、国王の要求に議会が従うことを求める植民地大衆の内部から請願の声が挙がった[40]。これに関する議論によって補佐委員会の中に長く続く亀裂を生じた。いかなる代償を払っても国王の要求に抵抗することを望む強硬派と、国王の要求に応じるべきだと考える穏健派が争った[41]。ベリンガムは強硬派の側に付き、結論として国王に手紙を送ることになった。その手紙では、要請が国王の発案になるものかを問い、植民地は国王に忠誠であり、議会がなぜ国王の要求に従えないかを既に十分に説明してきたと抗議していた[42]。議会は満艦飾の船を贈り物として贈ることで怒れる権威筋を宥めようとした(ニューイングランドにはイギリス海軍にとって木材の貴重な資源があった)[39]。チャールズ2世はオランダとの戦争(第二次英蘭戦争)と国内の政治に気を散らされ、ベリンガムの死後までこの問題を追及しなかった。ただし多くの理由があってマサチューセッツ湾植民地の認証は1684年に取り消された[42][43]。

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クラウス・トイバー – Wikipedia

 クラウス・トイバー クラウス・トイバー、エッセンSpiel2017にて 生誕 (1952-06-25) 1952年6月25日(69歳) ドイツ 職業 ボードゲームデザイナー 著名な実績 カタンの開拓者たち 公式サイト http://www.catan.de/ueber-uns/klaus-teuber クラウス・トイバー (Klaus Teuber, 1952年6月25日-、ドイツヘッセン州オーデンヴァルト群ブロイベルグ市ライ=ブライテンバッハ出身)は、 ドイツのボードゲームデザイナーである[1]。トイバーの代表作『カタンの開拓者たち』は1995年の発売から2016年までで2500万個以上の売り上げがあり、30以上の言語版が存在するなど、世界的な人気がある[2]。 目次 1 経歴

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美馬市立図書館 – Wikipedia

美馬市立図書館(みましりつとしょかん)は、徳島県美馬市脇町大字脇町の美馬市地域交流センター内にある市立図書館である。 2009年度から指定管理者制度の下、株式会社図書館流通センター (TRC) が運営を行っている。所管課は、美馬市教育委員会事務局文化・スポーツ課である。 前身である美馬市立脇町図書館は2017年12月20日に閉館する。 立地と建物[編集] 脇町図書館が立てられた地域は、竣工から翌々年の1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されており[4][2]、伝統的な建造物が立ち並んでいる。図書館計画ではこの伝統的な建物をうまく活用した図書館が求められた。現在の図書館建物では、明治初期に建てられ、伝統的様相を保ちつつ放置されてしまった農業用倉庫2棟を修復した建物が閉架書庫として利用されている[2]。図書館の開館にあたり、新しく建てられた建物は鉄筋コンクリート造2階建てで、周りの景観にうまく溶け込ませるため、伝統的な「うだつ」や「虫籠窓(むしこまど)」の装飾が施されている[2]。図書館建設事業に要した費用は1億5335万円となった[2]が、建築に対する評価は高い。 一方で、図書館建築として同館を見た場合、館内の随所に段差が存在する建物となってしまったことから、棚橋満雄 1991は「機能的な図書館建築としては失敗であった」と評している。 利用情報[編集] 開館時間:9:00〜19:00 休館日:毎週火曜日、祝日、資料整理日(毎月第3木曜日)、年末年始(12月28日〜1月4日)、特別整理期間(年1回、10日以内)。 駐車場:美馬市立脇町図書館駐車場有、駐車台数XX台、駐車料金は無料。 貸出袋:「狸」(幅41cm)と「うだつまる」(縦横32cm、奥行き11cm)の2種類[6] 1983年(昭和58年)ころから図書館建設の計画が進行し、1986年(昭和61年)に建物が竣工した[2]。開館当時は図書館独自の蔵書としては公民館が所蔵していた約5,000冊の図書だけであり、約10,000冊を県立図書館から借りることで開館にこぎつけた。2005年(平成17年)3月1日の市町村合併により、美馬市立脇町図書館に名称が変更され、同時に美馬市立図書館設置条例(平成17年美馬市条例第94号)、美馬市立図書館管理規則(平成17年美馬市教育委員会規則第23号)が施行される。 2009年(平成21年)4月1日から図書館流通センター (TRC) に管理運営を委託する。この委託は3年間で終了するものであったが、その後も指定管理者としてTRCが選定されているため[7][8]2018年3月31日まで、指定管理者制度による管理が継続している。 指定管理者制度下の2011年(平成23年)8月10日にはブックスタート事業が開始され、2年後の2013年(平成25年)4月1日には、貸出袋がリニューアルされ[6]、11月11日には美馬市立脇町図書館公式Facebookページが開設された。 2017年12月20日、美馬市立脇町図書館が閉館。2018年5月12日に美馬市立図書館として美馬市地域交流センター内にリニューアルオープンした。

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算額 – Wikipedia

算額(さんがく)とは、江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。 平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの[1])が多い。和算家のみならず、一般の愛好家も数多く奉納している。 算額は、和算において、問題が解けたことを神仏に感謝し、ますます勉学に励むことを祈念して奉納されたと言われる。やがて、人びとの集まる神社仏閣を問題の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、それを見て解答や想定される問題を再び算額にして奉納することも行われた。 このような算額奉納の習慣は世界中をみても他に類例がなく、日本独特の文化といわれる。その一部は重要文化財や民俗文化財に指定されている。明治時代になると、日本には西洋から数学が導入されることとなったが、算額奉納の風習は、この導入を容易にしたとも評価されている[誰によって?]。 1997年に行われた調査結果によると、日本全国には975面の算額が現存している[2]。これら現存する算額で最古の記年銘をもつものは栃木県佐野市の星宮神社に奉納された天和3年(1683年)のものであった[3]。延宝8年(1681年)の村瀬義益『算学淵底記』によれば、17世紀中頃には江戸の各地に算額があったことが記されており、ここでは目黒不動の算額の問題が紹介されている。京・大坂にはさらに古くから算額があったと推定される。17世紀後半には算額に書かれた問題を集めて書物にするものも現れ、出版物としての算額集の最初は寛政元年(1789年)藤田貞資『神壁算法』とされる。 算額奉納の習慣は、江戸中期に入ると全国的に盛行し、特に寛政・享和・文化・文政のころは最も隆盛し、1年に奉納数が100面を越えたこともあったといわれている。明治に入ってからも昭和初年頃まで和算の伝統として継承された。近年、算額の価値を見直す動きが各地で見られ、21世紀に至ってもなお算額の奉納を受け入れる神社もあり[4]、また算額を神社仏閣に奉納する人びとも増えている。これは直接和算の伝統を受け継いだものではないことが多いが、いずれにしても日本人の算術好きをあらわす文化事象とする主張もある。 算額が多く分布する地域や寺社[編集] 現存する算額は関東地方や東北地方が多く、最も多いのが福島県の103面、次いで岩手県93面、埼玉県91面、群馬県などとなっている。長野県木島平村の算額8面は、山間部の小村としてはきわめて濃密に分布している例である。また、愛媛県松山市の伊佐爾波神社には22面の算額が奉納されており、これは1箇所で確認されているものとしては最多である[5]。伊佐爾波神社の算額については、『道後八幡伊佐爾波神社の算額』として図録にまとめられ、同神社より発行されている。 文化財に指定された算額[編集] 金王八幡宮 東京都渋谷区渋谷 嘉永3年(1850年)水埜與七郎正衜門人 海老澤總右衛門正泰奉納 渋谷区指定有形民俗文化財 金王八幡宮 東京都渋谷区渋谷 安政6年(1859年)御粥安本門人 西條藩 山本庸三郎貴隆奉納 渋谷区指定有形民俗文化財 金王八幡宮 東京都渋谷区渋谷 元治元年(1864年)水野與七郎門人 野口冨太郎 源貞則奉納 渋谷区指定有形民俗文化財 珍しい扇型の算額[7] 算額を扱った作品[編集] ^ 算額の問題に挑戦して見ませんか?

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寝むって行くあの雲よ – Wikipedia

『寝むって行くあの雲よ』(ねむって いく あの くも よ、朝鮮語: チャゴ カヌン チョ クルマ、ハングル: 자고 가는 저 구름아)は、韓国の小説家朴鍾和の小説作品である。2003年制作のSBSのテレビドラマ『王の女』の原作である[2]。 1961年から1967年まで韓国日報上で連載され、連載終了後の1968年に三省出版社から全5巻の単行本が出版された[1]。2003年、テレビドラマ化に伴い再版されている[2]。 宣祖治世下の1591年から仁祖が即位した1623年までを舞台に、李氏朝鮮第15代国王光海君の生涯を描いているが、正史上では暴君とされていた光海君の業績を再評価する形で描いている[2][3]。 あらすじ[編集] 光海君は幼少時に実母恭嬪金氏を亡くす。その後父宣祖の関心は仁嬪金氏に移るが、彼を実子のようにかわいがっていた王妃懿仁王后の推薦により、仁嬪の王子たちを抑えて彼が王世子となった。 宮廷の女官として仕えていたカヒ/ケトンは秘かに光海君を愛していたが、宣祖に見初められて承恩尚宮となった。これ以上光海君を愛し続ける事ができないと思ったカヒは出家しようとするが説得もあり思いとどまる。 懿仁王后が崩御し、宣祖は継室として金悌男(朝鮮語版)の 19歳の娘を迎える。カヒは王后の懐妊を阻止しようとするが、彼女は永昌大君を出産。宣祖の譲位を巡る重臣間での対立もあり、宣祖と光海君との対立はますます激しくなった。光海君の王世子としての立場が危くなったと思われた矢先、宣祖はカヒが献上した薬飯を食べた直後に急逝、光海君が新たな国王となった。

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