中原致時 – Wikipedia

中原 致時(なかはら の むねとき、生年不詳 – 寛弘8年7月8日(1011年8月9日))は、平安時代中期の貴族。刑部大輔・中原有象の子。官位は従四位上・伊勢守。

村上朝の応和3年(963年)明経得業生に補せられると、康保3年(966年)明経試を課され、翌康保4年(967年)及第する。

兵部少録・造酒権佑を経て、円融朝の天元3年(980年)権少外記に任ぜられると、天元4年(981年)少外記、永観2年(984年)大外記と外記局で順調に昇格し、同年10月に従五位下・肥前守に叙任されて地方官に遷った。

一条朝初頭の永延元年(987年)明経博士に任ぜられると、永祚元年(989年)従五位上・大外記に叙任され、再び外記局に戻る。致時は中原氏として初めて大夫外記となり、以降、大夫外記は中原氏が代々世襲するようになった[1]。大外記の傍らで明経博士・主税権助を兼ねる一方で、丹波介・播磨介などの兼国にも与り、この間の正暦4年(993年)正五位下に昇叙されている。

長徳4年(998年)信濃守に任ぜられて再び外記局を去ると、長保3年(1001年)造宮の功労により従四位下と四位に昇り、寛弘元年(1004年)従四位上・伊勢守に叙任された。

三条朝初頭の寛弘8年(1011年)7月8日卒去。

勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[2]

『地下家伝』による。

  • 応和3年(963年) 日付不詳:明経得業生。日付不詳:美作少目
  • 康保3年(966年) 日付不詳:課試
  • 康保4年(967年) 正月:及第
  • 安和元年(968年) 12月:兵部少録
  • 天禄3年(972年) 閏2月:造酒権佑
  • 天元3年(980年) 正月29日:権少外記
  • 天元4年(981年) 正月29日:少外記
  • 永観2年(984年) 2月1日:大外記。10月10日:従五位下。10月30日:肥前守[3]
  • 永延元年(987年) 日付不詳:明経博士
  • 永祚元年(989年) 正月:兼大外記[3]。4月5日:従五位上(春日行幸行事賞)
  • 正暦元年(990年) 正月29日:兼丹波介
  • 正暦2年(991年) 正月26日:兼播磨介
  • 正暦3年(992年) 正月20日:兼主税権助
  • 正暦4年(993年) 正月12日:停播磨介(申任男致行)。11月12日:正五位下
  • 長徳元年(995年) 正月:兼播磨介
  • 長徳2年(996年) 7月8日:停博士(譲弟致明)
  • 長徳3年(997年) 正月28日:兼紀伊権守
  • 長徳4年(998年) 正月5日:信濃守、去大外記
  • 長保3年(1001年) 7月13日:従四位下(造宮賞)
  • 寛弘元年(1004年) ○月28日:従四位上(去国)。○月29日:伊勢守
  • 日付不詳:斎宮権頭
  • 寛弘8年(1011年) 7月8日:卒去

『古代氏族系譜集成』による[4]

  • 父:中原有象[5]
  • 母:不詳
  • 生母不詳の子女
    • 男子:中原貞清(?-1047)[5]
    • 男子:中原師任(983-1062)[5]
    • 男子:中原俊光[6]
    • 男子:中原致仲
    • 男子:中原致行
  1. ^ 鈴木[1987: 11]
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ a b 『外記補任』
  4. ^ 鈴木真年『諸系譜』第1冊 十市部首、『中原押小路家譜』東大史料編纂所蔵(宝賀[1986: 1174])
  5. ^ a b c 『系図纂要』
  6. ^ 『仁和寺文書』。『尊卑分脈』『系図纂要』では師任の子とするが、師任の子が妥当か(宝賀[1986: 1178])

参考文献[編集]