今立吐酔 – Wikipedia

今立 吐酔(いまだて とすい、1855年(安政2年)1月26日 – 1931年)は、日本の教育者、外交官。京都府京都中學校(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)初代校長。

1855年(安政2年)、越前国今立郡松成村(現・福井県鯖江市松成町)の浄土真宗本願寺派の満願寺の第14世今立乗永の五男として生まれる。幼名は芳丸。「神童」と言われるほど幼い頃から優れた才能を現した。14,5才の時に吐酔と改名。

1871年(明治4年)、福井藩の藩校・明新館(旧・明道館)に入学、アメリカ人理化学者ウィリアム・グリフィスに学ぶ。
1972年(明治5年)、1月にグリフィスが大学南校(東京大学の前身の1つ)の教授に就任して福井を去った後、武生進修小学校で1年間英語を教えており、この時の教え子には松本源太郎、土肥慶蔵がいる。
1973年(明治6年)8月、グリフィスを追って上京しグリフィス宅に寄寓。
1874年(明治7年)、4月に大学南校が改称された開成学校に入学するが、7月には帰国するグリフィスに伴って渡米。
1875年(明治8年)3月、ペンシルベニア大学に入学。この頃、グリフィスの著作『皇国』(The Mikado’s Empire)の執筆に際して多大な協力、貢献をしている。
1879年(明治12年)、バチェラー・オブ・サイエンスの学位(専攻は化学)を得て卒業、成績は優秀であったという。

1879年に帰国後、10月に京都府に雇用され学務課に出仕する。
1881年(明治14年)7月、京都府中學校(京都府京都中學校の前身)の理化学教師に委嘱され、英語、万国史、物理、化学の教授をした。
1882年(明治15年)5月、京都府京都中學校初代校長に就任。化学の授業も受け持ち、語学練習の目的で説明も質問も一切英語を用いた。この頃、実験器具、書籍、薬品が不足していたため、東京に出向き、東京大学総長山川健次郎に頼んで東京大学で不要になった物品を払い下げてもらう道筋を付けている。また、京都府知事北垣国道と共に、大阪にあった第三高等中学校を京都へ移転させることに尽力し、これが後に第三高等学校となる。

1887年(明治20年)6月、京都中學校校長を退任し、外務省翻訳官奏任官四等に叙任される。
1888年(明治21年)7月、公使館書記官に着任し清国北京公使館勤務となる。
1889年(明治22年)5月、臨時代理公使に着任。
1890年(明治23年)1月、在北京公使館出納官吏に着任。7月に正七位に叙せられる。

1892年(明治25年)7月、福岡県立尋常中学修猷館教諭に着任。当時の館長(校長)黒田長成が貴族院議員であり在京であったため、代理館長(校長事務代理)も務めた。
1894年(明治27年)8月、兵庫県立神戸商業学校校長に着任。
1895年(明治28年)6月、日清戦争による占領地総督部民政部事務官に任官し遼東半島の金州に勤務するが、11月に三国干渉による遼東還付条約が調印され占領地が還付されたため帰国。
1896年(明治29年)2月、日清戦争の功により勲六等瑞宝章を授与される。同年、滋賀県商業学校校長に着任するも、11月に脳充血症を発症し依願退職。

その後、敦賀―琵琶湖―山科―宇治川と繋がる運河を建設して、日本海―大阪湾間の船舶輸送を可能にし、水力発電も行う「日本中央運河計画」を計画立案。その事業を行う「日本中央運河株式会社」を南貞助らと共に発起人となって設立して、内務省、京都府へ工事起業申請書を提出し、住民の理解を得るために奔走したが、計画は実現しなかった。
1909年(明治42年)7月、横浜地方裁判所並同検事局裁判所通訳嘱託に着任。
1919年(大正8年)12月、同通訳掛書記に着任。

1931年(昭和6年)、娘の嫁ぎ先であった東京市板橋の松谷家を訪れていた時に病に倒れ客死。

  • 『仏教問答』(ヘンリー・スティール・オルコット著『A Buddhist Catechism』の日本語訳)、仏書出版会、1886年
  • 『The Tannisho(Tract on Deploring The Heterodoxies), An Important Text-book of Shin Buddhism founded by Shinran(歎異抄(異説を歎く論考)─親鸞創設の真宗の重要教典)』(歎異抄の英語訳)、鈴木大拙との共訳、東方仏教徒協会、大谷大学、1928年

参考文献 [編集]

  • 山下英一『グリフィスと今立吐酔』英学史研究第8号 83-91頁、日本英語史学会、1975年
  • 青木孝文『公文書に見る今立吐酔の履歴』若越郷土研究第63巻2号 32-50頁、福井県郷土誌懇談会、2019年
  • 青木孝文『日本中央運河計画と今立吐酔』若越郷土研究第64巻2号 1-20頁、福井県郷土誌懇談会、2020年