高橋紹運 – Wikipedia

高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。

紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。

高橋家相続[編集]

天文17年(1548年)、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として豊後国筧城[6]に生まれる。義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理から1字ずつ賜り鎮理と名乗る。初陣は13歳で永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いと考えられている。永禄10年(1567年)、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。

永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の2城を継ぎ、名を鎮種と改めた。以降は北九州の軍権を任されていた立花道雪と共に筑前国を支配することとなる。

北九州各地を転戦[編集]

天正6年(1578年)耳川の戦いで大友氏は薩摩国の島津氏に大敗を喫する。この大敗により兄・吉弘鎮信、義兄・斎藤鎮実、大友氏重臣の角隈石宗、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将が戦死。肥前国の龍造寺氏や筑後国の筑紫広門、筑前国の秋月種実らが大友領への侵攻を開始した。同年、鎮種は剃髮して紹運と号している。

その後、紹運含む大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮正[注釈 1]、大津留鎮忠[注釈 2]、荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 3]、柑子岳城主先後に臼杵鎮続、木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種、原田鑑尚[注釈 4]、龍造寺隆信、宗像弾正[注釈 5]、麻生元重[注釈 6]、杉連並、問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。

天正9年(1581年)、男子のいない道雪の度重なる要請により、嫡男・統虎を道雪の娘・誾千代の婿養子とした。これにより高橋家は次男・高橋統増が継ぐこととなる。

筑後遠征[編集]

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討ち死にしたことにより、島津方の圧力が強まる中、紹運は立花道雪や朽網鑑康と共に筑後の支配を回復すべく戦っていた。3月、豊後国の大友軍は黒木家永の筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川や道路が未整備の鷹取山、耳納連山の高峰や九十九折など山険難所を越え、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も佐賀へ戻った。つづいて犬尾城の川崎重高(一説には河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の権現山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった。

28日[注釈 7]には道雪が一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 8]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[注釈 9]らが勇戦して数人を討ち取ったが、城主西牟田家親と西牟田家和兄弟の率いる城兵300騎の激しい抵抗に遭った。立花勢は劣勢で、道雪は味方の危機を救うため増援部隊を送ったが、そこへ龍造寺政家の援兵が到着したので、100余りの死傷者を出して髙良山へ撤退した。立花勢の大将、戸次右衛門太夫もこの時戦死したと多くの書物が記しているが、異説もある[注釈 10]

道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・貝津などの集落を焼き払って、ついに大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月5日に落城させた。

9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏、攻落した。この間にもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、9日に柳川城周辺の山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払って、城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。

龍造寺家晴の柳川城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、さすがの道雪、紹運も攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、軍勢を転じて久留米城、安武城、吉木竹井城を攻落した。10月4日、両軍は草野鎮永の発心岳城を進攻し、のち星野吉実の鷹取城・福丸城・星野城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて、秋月領の甘木辺りまで焼き討ちした。その際、田原親家は両将の戦功を嫉み、更に年の暮れが迫っていたので、豊後に引揚げた。残された道雪、紹運や朽網鑑康、志賀親守らは、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える。

天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家、龍造寺家晴、鍋島直茂、江上家種、後藤家信、筑紫広門、波多親、草野鎮永、星野吉実、秋月種実、問註所鑑景、城井鎮房、長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野、十三部、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[7] で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった。

天正13年(1585年)9月、道雪が病没。これを好機と見た筑紫広門に宝満城を奪取されたため、紹運は筑後遠征を中止して宝満城を奪回する。のちに広門と和睦し、広門の娘・加袮を次男・統増の正室に迎えた。

岩屋城の戦い[編集]

天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上。紹運は防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃、島津軍の降伏勧告を拒絶し徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。半月に及ぶ戦いの末、敵兵多数を道連れにし玉砕。岩屋城は陥落した。享年39。

激戦の様子について、

  • 『筑前続風土記』には「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」
  • 『北肥戦記』には「合戦数度に及びしかども、当城は究竟の要害といい、城主は無双の大将といい、城中僅かの小勢にて五万の寄せ手に対し、更に優劣なかりけり」
  • 『西藩野史』には「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」

などと記されている。

紹運は度々の降伏勧告を拒絶し玉砕したというのが通説だが、当時の島津の記録である『上井覚兼日記』天正14年7月26日条において、紹運が笠の陣まで出向き退城しないことを条件に講和を持ちかけたとの記録も存在する。

人物・逸話[編集]

  • 『高橋記』は紹運について「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将であり」、数百人の侍が岩屋城で共に戦死した理由がそこにあると記し、また紹運の人となりを義に於き「義に生き義兵を以て義に死んだ。家中の勇も仁義の勇である。」、「賢徳の相有りて、衆に異る。器量の仁にてましませば」と評価している。
  • 立花道雪と並んで、風神・雷神と称される(風神が高橋紹運、雷神が立花道雪)。
  • 『筑前国続風土記』では「紹運 平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故 一人も節義うしなわざるべし」と評価される。
  • ルイス・フロイスは本国宛の報告書で、紹運を「希代の名将」と絶賛した。
  • 斎藤鎮実の妹(一説には娘ともいわれる)・宋雲院との結婚が決まっていたが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に鎮実の妹は疱瘡を罹い、容貌が悪くなってしまった。鎮実は破談を申し出たが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え、二男四女を儲けた。紹運の菩提寺である柳川市天叟寺に祀られている紹運の位牌は現在、宋雲院との比翼の位牌となっており、墓所も夫婦合葬されている。
  • 長男の統虎の婿入りの際、紹運は統虎に対し「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせた。また、備前長光[8]を与え「道雪殿とわしが争うことになったならこれでわしを討て」と訓戒したといわれている。
  • 愛用の太刀は仁王三郎清綱、のちに次子・統増に譲った。
  • 耳川の戦いでの大敗を機に、前当主・高橋鑑種の頃からの筆頭家老・北原鎮久は紹運に大友氏を見限るよう説得したが、紹運はそれを拒絶した。秋月種実はこれに目をつけ鎮久を籠絡し、主君・紹運を放逐させるよう画策したが、企みは紹運に露見し失敗。鎮久は岩屋城に登城するところを誅殺された。その後紹運は、経緯を知らない鎮久の子・北原種興に誅殺の仔細を説明し、種興を不問に付して遺領を継ぐことを認めた。一方、秋月種実は鎮久の内応確約を受け取り、内田彦五郎に命じ岩屋城を奪うべく300名ほどの軍勢を派遣するが、この内応確約は紹運と示し合わせた種興の策略であり、紹運率いる軍勢に待ち伏せされて内田は戦死、軍勢も生きて帰れたのは30余名ほどだったと言われる(龍ヶ城夜襲戦と血風奈須美の陣)。汚名を雪いだ北原種興はその後、高橋家の重臣として用いられることとなった。
  • 秋月氏、筑紫氏、原田氏ら周辺の反大友勢力と常に数の上では劣勢となる戦いを強いられたが、敵陣に援軍到着の虚報を流し、退路に見せかけの援軍の旗を立たせて混乱を誘うなど、武勇だけではなく、智将としての活躍も伝えられている(柴田川の戦いや血風奈須美の陣)。
  • 岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は中櫓の上から「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵味方双方から感嘆の声があがったと言われている。
  • 岩屋城の戦いにおいて、紹運以下全員が玉砕することになるが、島津軍にも戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を与えた。島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、豊臣軍の九州上陸を許してしまう。紹運らの命を賭した徹底抗戦は結果的に島津軍の九州制覇を打ち砕くことになった。
  • 岩屋城落城後、般若坂の高台にて紹運以下の首実検が行われた。攻め手の総大将・島津忠長は床几を離れ地に正座し、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっている。
  • 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させる。帰途、太宰府の観世音寺(後の山王の社)に立花統虎を呼び、父・高橋紹運の忠節義死を「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西(九州)にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華(乱世の華)である」とその死を惜しんだと伝わっている。
  • 岩屋城甲の丸跡には、家臣の子孫によって建立された「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑がある。
  • 岩屋城下に石で築かれた塚がある。この塚は島津軍に金で雇われ、水の手に導いた老婆が落城後、紹運を慕う領民に責められ、生き埋めにされたと伝わっている。
  • 紹運以下、高橋家家臣団の命日7月27日には、現在でも縁者による岩屋城戦犠牲者追悼法要が行われている。

高橋紹運を題材とした作品[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。
  2. ^ 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。
  3. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。
  4. ^ 元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮忠の伯父。甥と同じ「鑑尚」と「弾正」の名を使用していたのでよく混同されている。大友氏から原田氏に寝返ると推測される。
  5. ^ 宗像氏貞の受領名や官位からみると「弾正」を使用することはなかったと確認された。一族の他人もしくは宗像賜姓を受けるの家臣と推測される。
  6. ^ 麻生民部丞。宗像郡津屋崎城主。のち大友氏に属し、筑前多々良川上松崎城主となる。その後裏切って秋月氏に付く。
  7. ^ (矢野 1972b, pp. 405–406)には「天正11年」のこととある。(馬渡 1995, p. 718)には「天正13年乙酉正月」とある。(犬塚 1992b, pp. 342–343)には「天正12年9月」とある。
  8. ^ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均という人物のみ。のち立花宗茂が筑後柳川大名になった際、今古賀城主を務めるの人物で、関ヶ原の戦いの際に鍋島直茂の柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した(『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』)。立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史』等々多数ある。尚、この「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。
  9. ^ 薦野増時の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のちの三潴郡掃討戦で戦死した説もある。
  10. ^ 右衛門太夫が戦死したと記述しているのは『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史』など。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談. 上巻』
  • 岡茂政、光行照太、藤丸満『柳川史話(第1巻 人物篇其の1)』(福岡県文化会館、1969年)
  • 古賀敏夫『戸次道雪・高橋紹運(長編歴史物語戦国武将シリーズ)》』(1974年)
  • 吉永正春『九州戦国の武将たち』(海鳥社、2001年)95-105頁 ISBN 4874153216
  • 吉永正春『筑前戦国争乱』(海鳥社、2002年)197頁-231頁 ISBN 4874153372

外部リンク[編集]