志貴皇子 – Wikipedia

志貴皇子(しきのみこ、? – 716年9月1日〈霊亀2年8月11日〉)は、日本の飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。芝基皇子または施基皇子親王)、志紀皇子とも記す。天智天皇第7皇子[1]。位階は二品。

皇位とは無縁で文化人としての人生を送った。しかしその薨去から54年後に、息子の白壁王(第49代光仁天皇)が即位し、春日宮御宇天皇の追尊を受けることとなった。

今日の皇室は、志貴皇子の男系子孫にあたる。

天武天皇8年(679年)天武天皇が吉野に行幸した際、鸕野讚良皇后(後の持統天皇)も列席する中、天智・天武両天皇の諸皇子(草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河島皇子・忍壁皇子)とともに、皇位継承の争いを起こすことのないよう結束を誓う(吉野の盟約)[2]。天武天皇14年(685年)冠位四十八階の制定により吉野の盟約に参加した諸皇子が叙位を受けるが、志貴皇子のみ叙位を受けた記録がない[3]。朱鳥元年(686年)封戸200戸を与えられる。

持統朝では、持統天皇3年(689年)撰善言司(良い説話などを撰び集める役)に任ぜられた程度で、叙位や要職への任官記録がなく、天皇の弟でありながら不遇な状況にあったか[4]

文武朝に入ると、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて四品に叙せられる。大宝3年(703年)持統天皇の葬儀では造御竃長官を務め、慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御にあたっては殯宮に供奉している[5]

同年7月に元明天皇が即位し、再び天皇の兄弟となる。元明朝では、和銅元年(708年)三品、和銅8年(715年)二品と昇進を果たしている。元正朝の霊亀2年(716年)8月11日薨去。

壬申の乱を経て、皇統が傍系・天武天皇系に移ったことから、天智天皇系皇族であった自身は皇位継承とは無縁で、政治よりも和歌などの文化の道に生きた人生だった。

薨去から50年以上後の宝亀元年(770年)、第6男子の白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、天皇の実父として春日宮御宇天皇の追尊を受けた。御陵所の田原西陵(奈良市矢田原町)にちなんで田原天皇とも称される。

清澄で自然鑑賞に優れた歌人として『万葉集』に6首の和歌作品を残している。いずれも繊細な美しさに満ち溢れる名歌である。

  • 石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
  • 神なびの 石瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ
  • 大原の このいち柴の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
  • むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも
  • 采女の 袖ふきかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
  • 葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ

『新古今和歌集』以下の勅撰和歌集にも5首が採録されている[6]

『六国史』による。

光仁天皇の即位により、春日宮御宇天皇の皇孫として二世王待遇となった皇族[16]

孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡を、志貴皇子の落胤とする説が『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』『僧綱補任』『公卿補任』などに見られる[17]

  1. ^ 『続日本紀』霊亀2年8月11日条による。『類聚三代格』では第3皇子とする。
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇8年5月6日条
  3. ^ 『日本書紀』天武天皇14年正月2日条
  4. ^ 『世界大百科事典 第2版』
  5. ^ 『続日本紀』慶雲4年6月16日条
  6. ^ 『勅撰作者部類』
  7. ^ a b 『日本書紀』天智天皇7年2月23日条
  8. ^ a b 『本朝皇胤紹運録』
  9. ^ 『日本後紀』延暦24年11月12日条
  10. ^ 『続日本紀』宝亀4年10月14日条
  11. ^ 『続日本紀』光仁天皇即位前紀
  12. ^ 『日本後紀』延暦25年4月24日条
  13. ^ 『本朝皇胤紹運録』には「海上王」とあるが、『続日本紀』養老7年正月10日条などに海上女王の記載がある。
  14. ^ 『続日本紀』宝亀3年7月9日条
  15. ^ 『続日本紀』宝亀9年5月27日条
  16. ^ 『続日本紀』宝亀元年11月6日条
  17. ^ 太田亮は『姓氏家系大辞典』でこれを否定している。

参考文献[編集]

関連項目[編集]