トニーニョ・セレーゾ – Wikipedia

トニーニョ・セレーゾ (Toninho Cerezo) こと、アントニオ・カルロス・セレーゾ(ポルトガル語: Antônio Carlos Cerezo、1955年4月21日 – )は、ブラジル・ミナスジェライス州ベロオリゾンテ出身[1]の元サッカー選手、サッカー指導者。元ブラジル代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)。

ブラジル代表のレギュラーとして1978、1982年ワールドカップに出場したが、1986年ワールドカップは負傷で出場出来なかった。強固なフィジカルやタックルだけでなく、豊富なスタミナ[2]、長短の正確なパスを武器に活躍した[1]。元オランダ代表のフランク・ライカールトが目標としていた選手であった[3]。利き手は右[4]

選手経歴[編集]

1980年代にブラジル代表ではジーコ、ソクラテス、パウロ・ロベルト・ファルカンと「黄金のカルテット」を中盤で形成した。ブラジルのアトレチコ・ミネイロでプロのキャリアをスタートさせ[1]、約10年間プレーし、ブラジル代表でも中心選手の一人として、1978年のアルゼンチンワールドカップに中心選手として出場、優勝には届かなかったが、ブラジルの3位に貢献した。1982年のスペインワールドカップにもジーコらと黄金のカルテットの一員として出場したが、セレーゾのミスパスによりロッシに得点を許し[1]、イタリアに敗れた後、全盛期にイタリアのセリエAに渡った。

ASローマ[編集]

ASローマではブラジル代表のチームメートであるファルカン、イタリア代表の中心選手ブルーノ・コンティ、ユベントスから移籍のボニエク、と共に中心選手の一人としてプレー。通算成績104試合25得点、2016年にはローマの殿堂入りも果たした[5]

1983-84シーズン、コッパ・イタリアの優勝に貢献[1]、UEFAチャンピオンズカップ決勝進出に貢献、決勝でも先発としてプレーしたが決勝ではリヴァプールFCに敗れた。セレーゾは「試合後、ローマサポーターによるグラッツェ、ローマのサポーターソングが響いていたことは、とてもファンタスティックな光景だった。今でも、あの日のことを思い出すぐらいだ」と当時を振り返った[2]

1985-86シーズン、コッパ・イタリアで2度目の優勝に貢献したが、サンプドリアとの決勝第2戦での怪我の為、ブラジル代表として1986年メキシコワールドカップ出場を逃した[1][5]

UCサンプドリア[編集]

UCサンプドリアに移り長年に渡り中心選手として活躍、チーム初のセリエA制覇やカップウィナーズカップ獲得など、ロベルト・マンチーニ、ジャンルカ・ビアリ、ジャンルカ・パリューカらとサンプドリアの黄金期を築いた。

1987-88シーズン、コパ・イタリア優勝に貢献[1]

1988-89シーズン、コパ・イタリア優勝に貢献[1]、カップウィナーズカップ決勝の進出に貢献したがFCバルセロナに敗れた。

1989-90シーズン、負傷で決勝には出場出来なかったが、カップウィナーズカップ優勝に貢献[1]

1990-91シーズン、怪我で多くの試合を欠場したが[6]、7節のACミランとのゲームでは決勝点を[6] 、26節のSSCナポリとのゲームの先制点、優勝が決定したレッチェとのゲームで先制点となるミドルシュートを決めるなど[6]、チーム初のスクデットに貢献。

1991-92シーズン、UEFAチャンピオンズカップ決勝の進出に貢献、決勝でも先発出場し、ペップ・グアルディオラを良く押さえたが[1]、ジャンルカ・ビアリが決定的チャンスを3度逃がし[6]、FCバルセロナに敗れ、同シーズン限りでサンプドリアを退団した。

サンパウロFC[編集]

1991-92シーズンのセリエA終了後、テレ・サンターナ元ブラジル代表監督の誘いで[1]、母国ブラジルのサンパウロFCに所属、カフー、ミューレルらと共に、サンパウロに多くのタイトルをもたらした。

1992年、リーグ優勝、1992年12月のトヨタカップでは先発出場し、効果的なパスを再三見せるなど[7]、優勝に貢献[7]、同年5月のUCサンプドリア所属時にチャンピオンズカップの決勝で敗れたFCバルセロナに勝利し雪辱を果たした。

1993年、リベルタドーレスカップ優勝、トヨタカップの優勝に貢献。ACミランとの対戦では、ACミランDF陣の隙を突く鋭いパスからミューレルの決勝点となるゴールをアシスト[1][8]、38歳ながら1ゴール1アシストを記録して大会MVPに選ばれた[9]。スーペルコパスダメリカーナ、レコパカップの優勝にも貢献した。

その後は1994年にクルゼイロECでプレー、サンパウロFCへ復帰、最後はアトレチコ・ミネイロでプレー後、1997年に現役を引退した[1]

鹿島の監督時、親友であるマンチーニの引退試合に急遽駆け付け、MVPを受賞した。

指導者経歴[編集]

また、1999年にECヴィトーリアの監督に就任して当時2部のクラブを若手主体で州選手権優勝に導いた。

2000年より鹿島アントラーズの監督に就任。就任1年目にJリーグ初の年間3冠(Jリーグ年間王者、ナビスコカップ、天皇杯)に輝くなど在任中に合計5冠を獲得した。2005年シーズン終了後に勇退。6シーズンという長期政権を敷いた[4]。(2008年に当時ガンバ大阪監督の西野朗に抜かれた。)

2006年よりブラジル・グアラニFCの監督に就任したが、チームの2部降格、フロントとの衝突もあって2ヶ月で退任。

2007年2月にサウジアラビアのアル・ヒラルの監督に就任したが、成績不振により2ヶ月で解任。

2008年、UAEのアル・シャバーブ・アル・アラビークラブの監督に就任し、チームを優勝に導き、最優秀監督賞を受賞。2009年10月、成績不振を理由に解任された。

2009年12月にUAEのアル・アインFCの監督に就任したが、2010年4月15日、AFCチャンピオンズリーグ2010でFCパフタコール・タシュケントに2-3で敗れた直後に解任された。

2011年、イタリア・UCサンプドリアの強化部で一時的にスカウトの仕事を務め、その後に古巣であるECヴィトーリアの監督に13年ぶりに就任。

2013年、8年ぶりに鹿島の監督に就任。第5節セレッソ大阪戦での勝利により、J1監督100勝目を史上最速で挙げた[4]。外国人監督としてはハンス・オフトを抜いて、最速189試合目での到達となった。2014年は優勝争いをするも僅かに優勝には届かず。2015年7月21日、成績不振により解任[4]。下位クラブへの取りこぼしや、采配のワンパターンぶりを指摘された[10]

人物・エピソード[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1972 アトレチコ-MG 3 0
1973 4 0
1973 ナシオナル-AM 20 3
1974 アトレチコ-MG 5 0
1975 12 0
1976 19 2
1977 18 0
1978
1979 8 1
1980 19 4
1981 9 3
1982 3 0
1983 11 2
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
1983-84 ローマ セリエA 30 6
1984-85 22 3
1985-86 18 4
1986-87 サンプドリア 28 3
1987-88 28 3
1988-89 29 2
1989-90 21 2
1990-91 12 3
1991-92 27 1
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯 オープン杯 期間通算
1992 サンパウロ
1993 13 1
1994 10 3
1995 パウリスタ 3部
1995 サンパウロ 8 0
1996 アトレチコ-MG
1996 アメリカ-MG 2部
通算 ブラジル
イタリア セリエA
総通算

獲得タイトル[編集]

選手[編集]

ナシオナルFC
アトレチコ・ミネイロ
ASローマ
UCサンプドリア
サンパウロFC

指導者[編集]

鹿島アントラーズ
アル・シャバーブ・アル・アラビークラブ

外部リンク[編集]