Month: November 2017

マックス・ヴント – Wikipedia

マックス・ヴント(Max Wundt、1879年1月29日 – 1963年10月31日)は、ドイツの哲学者。イエナ大学教授、マールブルク大学准教授。国家社会主義、反ユダヤ主義の思想家。父は実験心理学の祖として知られるヴィルヘルム・ヴント。 1879年1月29日、ライプツィヒ生まれ。生理学者、心理学者、哲学者のヴィルヘルム・ヴントの息子。ライプツィヒのニコライ・シューレを経て[1]、ライプツィヒ大学、フライブルク大学、ベルリン大学、ミュンヘン大学でドイツ語と古典文献学を学ぶ。1903年にライプツィヒ大学からユストゥス・ヘルマン・リプシウス(Justus Hermann Lipsius)とヘロドトスの歴史学に関する研究[2]で博士号を取得した後、1年間イタリアとギリシャに旅行した。1906年、ドレスデン=ノイシュタットのギムナジウムで保護観察官となった。1907年にテオバルト・ツィーグラーとクレメンス・ボウムカーと共に「ギリシャ倫理学における主知主義」をテーマにハビリテーションを行った後、ストラスブール大学講師となる。ストラスブールで、経済学者のオーガスト・ザルトリウス・フォン・ヴァルタースハウゼン男爵の娘であるセンタ(1885年 – 1961年)と結婚した。 1914年8月に兵役に召集され、1915年1月に現地に派遣された。1915年5月には予備役の中尉に昇進し、中隊長として配属された。兵役後、パウル・ナトルプの反対を押し切って[3]、エーリッヒ・イェンシュのとりなしにより、1918年夏学期にマールブルグ大学准教授となった。1918年の秋には、再開されたドルパット大学で数ヶ月間勤務した。1920年には、ブルーノ・バウフに誘われて、ルドルフ・オイケンの後継者としてイエナ大学の正教授就任の打診を受け入れた。1924年には、ゲオルク・フォン・ベロー、ヒューストン・スチュワート・チェンバレン、ハインリヒ・クラースらが参加していた全ドイツ協会の機関誌「Deutschlands Erneuerung」の編集委員に就任した[4]。1929年から1945年に引退するまで、ヴントはチュービンゲン大学で哲学史家として勤務した。1942年よりプロイセン科学アカデミー客員会員。 第一次世界大戦まで、ヴントは主に古代ギリシャ思想史に関心を持ち、言語論的研究よりも、現在に関連した解釈を重視した。ヴントによれば、ソクラテス以前の思想では、賢者の姿が前面に出ているのに対して、哲学は古典期に自らを解放し、ヘレニズムでは、個人化することで、神秘的な始まりへと回帰した。また、ギリシャ哲学は、常にキリスト教のテロスと関係していなければならない。さらに、プラトン主義を「対象の精神から文化を再生する」と定義し、プラトンの観念論は、危機の時代に人間がより高い目標に向かうために役立つものだとした。[5] マールブルク大学時代には、主に「戦争の哲学」に取り組んだ。1918年の「ドイツの国家観」についての演説では、「命令と服従」をあらゆる道徳的関係の基礎としていた[6]。1920年の時点で、彼は1914年の戦争参戦時のドイツ人の一般的な熱狂を、「神聖な感情がドイツ国民をそのすべての構成員と領地に溶かし込み、内的な一体感と自分自身の真の価値に対する意識が熱狂の中で突き抜けた」瞬間であると認識していた[7]。 マックス・ヴントはワイマール共和国を最初から否定していた人物の一人であり、「この国家は根底から頂上までドイツ的ではない」[8]と述べている。ヴントは早くからフェルキッシュ的な国家観や反ユダヤ主義的な思想を持って公の場に登場し[9]、、反ユダヤ主義的な「ドイツ大学講師リング」(Deutschen Hochschulrings für Dozenten)の会員でもあった[10]。政治的変化に対するヴントの関心は、第一次世界大戦後の彼の著作にも表れており、現在の政治的状況をフェルキッシュな視点からほぼ独占的に扱っている。倫理面では、忠誠と名誉という価値観に基づいた「ドイツ倫理学」を追求した。一連の著書に加えて、ヴントは、『Deutschlands Erneuerung』、『Kreuzzeitung』、『der radikalvölkischen Sonne』、『im

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蔵人賢樹 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2022年3月) 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2022年3月)出典検索?: “蔵人賢樹” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 蔵人 賢樹(くろうど まさき、1979年1月25日-)は日本の実業家。神奈川県出身[1]。コロワイド代表取締役会長である蔵人金男(くろうど かねお)の長男[2][3][4]。 コロワイド専務取締役。コロワイドの連結子会社であるシルスマリア[5]、WORITS、大戸屋ホールディングスの代表取締役社長。 目次 1 来歴・人物 2

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佐賀県議会事件 – Wikipedia

最高裁判所判例 事件名 公務執行妨害、監禁、職務強要 事件番号 昭和38(あ)1184 1967年(昭和42年)5月24日 判例集 刑集第21巻4号505頁 裁判要旨 一 地方議会の議事進行に関連する議員の刑事犯罪については、議会または議長の告訴告発を訴訟条件と解すべきではない。 二 地方議会の議長が議員から提出された質疑打切り、討論省略、全上程議案一括採決の動議に基づき全上程議案の一括採決を議場に諮ろうとした措置は、かりに会議規則に違反するものである等法令上の適法要件を完全には満たしていなかつたとしても、原審の認定した具体的な事実関係のもとにおいては、刑法第九五条第一項にいう公務員の職務の執行にあたる。 大法廷 裁判長 横田正俊 陪席裁判官 入江俊郎、奥野健一、草鹿浅之介、長部謹吾、城戸芳彦、石田和外、柏原語六、田中二郎、松田二郎、岩田誠、下村三郎、色川幸太郎、大隅健一郎 意見 反対意見 なし 参照法条

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スマートレール (企業) – Wikipedia

スマートレール (株)Smartrail Co.Ltd. 種類 株式会社 本社所在地  大韓民国慶尚南道金海市七山路 210番キル196(花木洞222-1) 設立 2010年12月24日 業種 鉄道建設・運営 事業内容 鉄道路線建設・保守 代表者 김선호 (代表取締役) 主要株主 農協[1]:57.47%・SK建設[2]:14.46%サムスン物産:10.42%・ハンファ建設:2.89%・東部建設:2.35%・コーロングローバル:2.22%・テヨン建設:2.13%・韓信工営:1.87%・漢陽:1.74%など 外部リンク

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さくらリンク – Wikipedia

『さくらリンク』は、河南あすかによる日本の4コマ漫画作品。『まんがぱれっとLite』(一迅社)(Vol.12までの誌名は『まんが4コマKINGSぱれっとLite』)誌上で連載され、その後は舞台を生徒会に移した続編に当たる『少女えーす!』が連載された[1]。 「さくら基地」に住む女子高生たちを中心に、女の子たちのスクールライフを描く4コマ漫画。 登場人物[編集] 高等部[編集] 霧島桜 面白そうな学校、という理由で舞台となる学校に転校してきた筋金入りの面白いこと好き。 面白いことのためなら労力は惜しまない性分。 しいの作成した張り紙[2]を見て「さくら基地」[3]のルームメイトになる[4]。 しいに誘われてサバゲーに参加するようになり、つばめに誘われて即売会などのイベントにも参加するようになる。 そのため週末には常に何かしらのイベントがあり、非常に充実した日々を送っている[5]。 行動力がある上に、思った事はなんでも口にするため、無意識のうちに自然と周囲の人間をいい意味で変化させる。 時間のかかりそうな計画については「五十年計画」を持ちだす。 暁椎 さくらのルームメイトでクラスメイト。 サバゲー好きで、それ以外は面倒臭がり。 勉強をはじめ、何かと適当な性格だが、サバゲーに関しては精力的に行動する。 さくらが来るまではつばめとはお互いの趣味に干渉していなかったが、さくらに誘われる形でイベントにも参加するようになった。 また、普段から事あるごとにコスプレをさせられることも。 春日燕 普段からメイドの格好をするほどのコスプレ好き。

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ブロードウェイ・ジャンクション駅 – Wikipedia

ブロードウェイ・ジャンクション駅(Broadway Junction)はニューヨーク市地下鉄の複合駅で、高架を走るBMTカナーシー線とBMTジャマイカ線、地下を走るINDフルトン・ストリート線が駅舎を共用している。1956年にBMTフルトン・ストリート線(英語版)が廃止されるまでは同線も乗り入れていた。駅はブルックリン区ベッドフォード=スタイベサントとイースト・ニューヨーク(英語版)の境にあたるブロードウェイ/フルトン・ストリート/ヴァン・シンダーン・アベニュー交差点付近にある。改札はフルトン・ストリート線駅の東端にある。以下の運行系統が乗り入れている。 現在ブロードウェイ・ジャンクション駅があるブロードウェイ/フルトン・ストリート/ジャマイカ・アベニューの合流点は以前はジャマイカ・パス(英語版)と呼ばれていた[2]。この地域に最初に開通したのはロングアイランド鉄道アトランティック支線(英語版)で、イーストニューヨーク駅(英語版)が設けられた[2]。1865年には現在のBMTカナーシー線の前身であるブルックリン・アンド・ロッカウェイ・ビーチ鉄道が開通した[2]。1885年に現在のBMTジャマイカ線が開業した際には、マンハッタン・ジャンクション駅あるいはマンハッタン・ビーチ・ジャンクション駅という駅名であった[3][4]。これは当時この地域でロングアイランド鉄道マンハッタン・ビーチ・ディビジョン(英語版)が交差していたことからマンハッタン・ビーチ・クロッシングと呼ばれていた[5][6]ためである。1889年7月4日にはフルトン・ストリート高架線(英語版)がアトランティック・アベニュー駅(英語版)から延伸[7]されてサックマン・ストリートに新駅が設けられた。 フルトン・ストリート高架線からブロードウェイ高架線の間に、ベスタ・アベニュー(現在のヴァン・シンダーン・アベニュー)東側沿いに複線で1ブロック半ほどの長さの高架連絡線が設けられた[8]。この連絡線は1900年8月9日に開業し、第三軌条が設けられていた。また、この際にラッシュ時以外にレキシントン・アベニュー線とフルトン・ストリート線をマンハッタン・ジャンクション駅で乗り換えて通し運転を行うという新しい運行パターンが導入された[9][10]。このイーストニューヨーク・ループ(英語版)(”East New York Loop”)は定着せず、すぐに中止されてしまった[11]。続いて1906年にBMTカナーシー線を経由してBMTジャマイカ線ブロードウェイ・フェリー駅(英語版)を走る運行系統(後のBMT15系統)がフルトン・ストリート高架線ピトキン-スネディカー・アベニュース駅まで乗り入れるようになった[2][12]。 1913年には駅名がマンハッタン・ジャンクション駅からブロードウェイ・ジャンクション駅に改められた[13]。1910年代のデュアル・コントラクト(英語版)時代にはフルトン・ストリート高架線とブロードウェイ高架線に双方向運転の急行線が追加され、1919年に現在も使われているイースタン・パークウェイ側のブロード高架線の駅が開業した[2]。BMT14丁目-カナーシー線は1928年7月14日に全通し、同時にモントローズ・アベニュー駅からブロードウェイ・ジャンクション駅への接続線が設けられた[11][14] 1936年までにINDフルトン・ストリート線はロッカウェイ・アベニュー駅まで延伸された。その時点ではブロードウェイ・ジャンクション駅はBMTだけの乗換駅であった。さらに東側への延伸は第二次世界大戦の影響で遅れ、ブロードウェイ-イーストニューヨーク駅は1946年の開業となったが、INDとBMTのホーム間にはエスカレーター付きの連絡通路が設けられた[2][11][15][16]。 フルトン・ストリート高架線は重複区間となったため、レファーツ・ブールバード駅までの東側区間をINDの路線に接続させることで1956年4月26日に廃止となった[17]。 長い間、当駅はジャマイカ線はイースタン・パークウェイ駅、カナーシー線はブロードウェイ・ジャンクション駅、フルトン・ストリート線はブロードウェイ・イースト・ニューヨーク駅というように線区ごとに別の駅名になっていたが、2000年代初めに統一された[11]。 BMTカナーシー線[編集] BMTカナーシー線ブロードウェイ・ジャンクション駅は島式ホームと相対式ホームを各1面持つ高架駅である。マンハッタン方面行き(北行)は島式ホーム、カナーシー方面行き(南行)は相対式ホームに停車する。同様の構成はIRTレキシントン・アベニュー線ボウリング・グリーン駅でみられるが、必要に応じてカナーシー方面行きも島式ホームを使うことができる点が同駅との相違点である。 開業は1928年7月14日[14]で、既設のBMTジャマイカ線の高架上に設けられたためニューヨーク市内でも最も高所にホームがある駅の一つである。一方でホーム北端からわずか180メートル(200ヤード)ほどのところにトンネル入口があるため、ホーム北端からは急な下り勾配になっている。駅にはダイヤモンド・クロッシングが設けられており、北行ホームからはイーストニューヨーク車両基地がよく見える。北行ホームは南端部で二叉に分かれており、通常使われないカナーシー線とジャマイカ線の連絡線が設けられている。1999年から一連の改修工事が行われており、屋根や跨線橋(素朴な赤いサイディングと白の梁から「物置(”The Barn”)」と呼ばれている)の新設や危険な連絡通路の撤去が行われた。旧式化したホームの照明はニューヨーク市地下鉄の至る所で見られるループ型の固定具に交換された。 構内には2001年にアル・ラビング(Al Loving)が制作した Brooklyn, New Morning

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グロヴナー橋 – Wikipedia

座標: 北緯51度29分05秒 西経0度08分51秒 / 北緯51.48472度 西経0.14750度 / 51.48472; -0.14750 グロヴナー橋(グロヴナーばし、Grosvenor Bridge)、別名ヴィクトリア鉄道橋は、ロンドンのテムズ川に架かる鉄道橋で、ヴォクスホール・ブリッジとチェルシー橋の間に位置する。1860年に架けられたのち、1865年と1907年に拡幅され、1960年代に架け替えられた。 初代グロヴナー橋は、ヴィクトリア・ステーション・アンド・ピムリコ鉄道(英語版)が1859年から60年に8万4千ポンドをかけて建設した。この橋はヴィクトリア駅へと行き来する列車用で、2本の線路が敷かれた。この橋はロンドン中央部に架けられ、ジョン・ファウラーが設計を担当した[1][2]。 その後1865年から66年に、ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道とロンドン・チャタム・アンド・ドーバー鉄道(英語版)が合同で工事を行い、24万5千ポンドをかけて橋の東側に線路を4本追加した。この工事を担当したのはチャールズ・フォックス(英語版)である[1][3]。 1907年にはロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道が単独で拡幅工事を行なった[1][4]。 その後1963年から67年には橋の架け替えが行われ、同時にガス管があった場所に10本目の線路が新設された。交通機関への影響を最小限に抑えるためそれぞれの線路を別々に更新し、次の線路が閉鎖される前に使用できるようにした。この工事の設計者はフリーマン・フォックス・アンド・パートナーズ(英語版)で、プロジェクト・エンジニアは国鉄の南部地区主任土木技師のA・H・カントレルである[5][6]。更新後の1968年には1日およそ1000本の列車が通過する世界で最も忙しい鉄道橋と言われていた。 北岸には北と東にピムリコ、西にチェルシーがあり、北西にはリスター病院と王立チェルシー病院(英語版)がある。南岸には、東にナイン・エルムス(英語版)、西にバタシーがある。また橋のすぐ南側にはバタシー発電所、南西側にはバタシー公園(英語版)がある。 ^ a b c

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キネマ旬報映画データベース – Wikipedia

キネマ旬報映画データベース(キネマじゅんぽうえいがデータベース)は、2009年(平成21年)3月15日からキネマ旬報社によって運営されていた、日本で公開された映画についてのオンラインデータベースである。 2012年10月、キネマ旬報社が同年1月に公開した映画鑑賞記録サービス「KINENOTE」[2]に統合された[3]。 略歴・概要[編集] キネマ旬報映画データベース[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “キネマ旬報映画データベース” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年11月) 本データベースの本来の設立日はさらにさかのぼる。それをリード・ビジネス・インフォメーションが2007年10月、バラエティ・ジャパンのデータベースとして引継いだが、2009年6月30日に閉鎖されている。それを受けて、新たに本データベースが開設された。2001年(平成13年)にキネマ旬報社が角川グループ傘下となり、角川マーケティングが運営する映画データベースMovie Walkerに同一情報が提供されている。キネマ旬報社は現在、同グループから離脱している。 第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)から現在まで、日本で劇場公開された映画のデータベースである[4]。テレビ映画やテレビドラマ、ビデオ映画やOVA等は範囲外である。タイトル数は約4万件、人名は20万件以上が記載されていた[4]。日本映画に関しては上記の範囲であり、サイレント映画に関する記述は一切ないが、アメリカ合衆国の映画等のいわゆる「洋画」に関しては、1919年(大正8年)の日本公開作、製作年はさらにさかのぼって網羅されている[5]。日本映画以外のサイレント映画に関して、非常に充実している。 俳優、スタッフ別の作品一覧ページでのリスティング序列は、年代の新しいものから古いものへの降順であり、allcinema ONLINE、goo 映画等の日本語による他のデータベースと同様である。昇順でリスティングが厳密に公開日順である日本映画データベースと同様、同一公開年内での順列は厳密である。 Wikiで運営している「ユーザ辞典」は、会員登録することにより、無料で編集が可能であった[6]。

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イリュリア州 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “イリュリア州” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年2月) イリュリア州 Provinces illyriennes (国旗) (国章) イリュリア州またはイリリエンヌ州 (フランス語: Provinces illyriennesプロヴァンス・イリリエンヌ、スロベニア語: Ilirske provinceイリルスケ・プロヴィンツェ、クロアチア語:

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金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 – Wikipedia

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(重要文化財、東京国立博物館所蔵) 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさく がんしゅ りゅうもん てっきょう[1])は、大分県日田市日高町にあったとされるダンワラ古墳から出土したと伝えられる弥生時代中期の鉄鏡[2]。国の重要文化財に指定されている。金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡、金銀錯嵌珠龍文鏡とも呼ばれる。 直径21.1cm、厚さ2.5mmの鉄鏡で、反りはなく平面である。装飾は、腐蝕のために剥落した部分が多いが、約3分の1が残存しており、原状をうかがうことができる。背面全面に金で竜文が象嵌されており、角や爪は銀で象嵌されている。また、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌められている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられているが、前漢か後漢かについては両論がある[3]。金銀を象眼した鉄鏡は、日本国内ではこの金銀錯嵌珠龍文鉄鏡しか出土していない。 また、中国の三国時代に書かれた『曹操集訳注』には、魏の曹操が金錯鉄鏡を持っていたと記されており、この種の鉄鏡は高位の支配層の所持物であったと考えられる。2019年には中国の研究者が、曹操の陵墓(西高穴2号墓)から出土した鉄鏡をX線を用いて調査した結果、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とほぼ同型式である可能性が高いと発表している[4][5]。 1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で、久大本線の敷設工事のために線路の盛土のための用土を採集している際に出土した石棺の中から発見されたとされる[2]。しかし、この鉄鏡は注目を集めることなく、行方も分からなくなった。 1960年(昭和35年)に京都大学の梅原末治が奈良の古物商からこの鉄鏡を買い取り[6]、天理大学附属天理参考館に依頼して研ぎ上げると、1962年(昭和37年)に金銀玉による模様が施されていることが明らかになった。 そこで、梅原は、発見者の渡辺音吉の案内のもとで現地調査を実施。その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、出土地点は前述の線路工事によって発見当時に破壊されていたため、ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。また、古墳からではなく、横穴墓から出土したとも言われる[7]。 このような希少な鉄鏡がなぜ日田で出土したのかは不明であり、様々な仮説が唱えられている。九州国立博物館の河野一隆・文化財課長は、伊都国との争いに敗れた奴国の王族が、王権を象徴する物品が伊都国の手に渡らないように、漢委奴国王印を志賀島に埋納する一方、この鉄鏡や同じく日田市で発見された金錯鉄帯鉤を日田に持ち込み埋納したとする仮説を提唱している[8][9]。 また、邪馬台国九州説の根拠ともされ[10]、一般に受け入れられている説ではないが、邪馬台国の卑弥呼または台与の所持品であるとする説や、この鏡が八咫鏡であるとする説もある。曹操墓出土の鉄鏡との酷似が判明したことを踏まえて、近年、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された鏡の1枚である可能性が改めて指摘されている[11]。 この鉄鏡は東京国立博物館の所蔵品である[7]。2011年-2012年頃には福岡県太宰府市の九州国立博物館で常設展示されていたこともある[12][13]。 また、復元レプリカが大分県日田市の天領日田資料館で展示されている[14]。 外部リンク[編集]

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