筒井氏 – Wikipedia
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “筒井氏” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) 筒井氏(つついし)は、大和の戦国大名。大和国添下郡(明治30年以降は生駒郡)筒井[1]から起こったと伝える。 出自[編集] 筒井氏は大神神社の神官・大神氏の一族と言われている。筒井氏は大和国添下郡筒井の土豪として大和に勢力を持っていた。鎌倉時代以降、大和守護は興福寺が務めており、筒井氏もその衆徒として組み込まれるが、室町時代に大和永享の乱が発生、戦国時代に入ると興福寺の勢力が衰退し、大和四家と言われる筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭してくる。応仁元年(1467年)の応仁の乱では、河内の守護大名である畠山氏の抗争に巻き込まれて、大和国内は混乱する。筒井順永は畠山政長に協力して畠山義就派の越智家栄らと戦ったが、息子の順尊は義就に敗れ衰退した。 そのような中で筒井氏の当主となった筒井順興は英明で、大和国人衆の一人として興福寺に属しながら越智氏を滅ぼして勢力を拡大し、筒井氏を大和の戦国大名として地位を確立した。天文4年(1535年)に順興は死去し、嫡男の筒井順昭が後を継いだ。順昭は、信貴山城を本拠とする木沢長政と連携して越智氏を圧迫。長政が没落すると、その勢力を大和より駆逐し、大和を統一。さらに、敵対関係にあった義理の兄十市遠忠と和解し、河内にもその勢力を伸ばし筒井氏の全盛期を築き上げた。しかし、順昭は天文19年(1550年)に28歳で死去し、嫡男で2歳の筒井順慶が後を継ぐこととなる。木阿弥の話はこの世代交代を舞台にしている。 全盛期[編集] 筒井順慶像(奈良伝香寺所蔵) 順慶は2歳で当主となり、叔父の筒井順政が後見人を務めた。しかし順慶が幼少であるのを見て、三好長慶の家臣・松永久秀が大和に侵攻して来る。順慶は幼少で、しかも順政も永禄7年(1564年)に死去という悪条件が重なった筒井氏には軍の統率が取れず、筒井城を久秀に奪われた(筒井城の戦い)。順慶は大和から追放された。 後に久秀が三好三人衆と対立した時には、三人衆に属して大和奪回を目指したが、久秀の前にたびたび敗れた。このため、順慶は織田信長の家臣となり、その後ろ盾をもって信長の客将となっていた久秀から大和守護に任じられた。その後は明智光秀の与力大名として久秀討伐(信貴山城の戦い)、一向一揆討伐などで活躍した。天正10年(1582年)、本能寺の変が起きて光秀が信長を殺すと、その与力という関係から協調行動を勧誘されるが、順慶は拒否。このため光秀の滅亡後も所領は安堵された。この時の筒井軍の行動が後世に脚色され、日和見的態度を指す「洞ヶ峠」の由来となった。 順慶は天正12年(1584年)に36歳で死去する。嗣子が無いため、後を養嗣子で従弟の筒井定次が継いだ。 筒井氏の滅亡とその後[編集] 定次は羽柴秀吉の家臣として仕えた。中坊秀祐の讒言を受け入れて重臣の島清興と対立し、これを追放してしまう。さらに秀吉も大和には信用できる身内を置いておきたいという考えから、定次は天正13年(1585年)、伊賀上野に移封された(大和は秀吉の弟・秀長が入った)。これは四国征伐の武功による加増と言われているが、実質は40万石から20万石もの減封である。このため、筒井氏は家臣の多くを改易し、伊賀の土豪をも潰していかざるを得なかったといわれている。
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