Month: March 2018

永田恒治 – Wikipedia

永田 恒治(ながた つねはる、1936年[1] – 2016年3月28日)は、日本の弁護士[2][3]。松本サリン事件において、事件の第一通報者で、一時は事実上の容疑をかけられる状態にあった河野義行を、弁護士として支援したことで知られる[3]。 長野県東筑摩郡山形村出身[3]。 東京大学法学部卒業[2]。当初は官僚を目指していたが、60年安保闘争の中で、向坂逸郎の指導下で政治運動に関わり、公安条例違反での逮捕も経験した[4]。30歳を過ぎてから弁護士を志し[4]、1972年に弁護士登録して[2]、松本市で弁護士事務所を開業し[4]、1991年から1992年にかけては長野県弁護士会の会長も務めた[2]。 松本サリン事件の際には、警察が、被疑者不詳のまま河野宅を家宅捜索し、さらに河野に長時間の事情聴取を行なったこと、また、マスコミが河野を犯人同然に扱う報道を展開したことを厳しく批判し、河野の人権擁護と、後の名誉回復に尽力した[2][3]。 永田は行政を相手取った訴訟なども手がけた[2]。1996年には、長野県の住民たちが、長野県東京事務所などが支出した食糧費がいわゆる「官官接待」にあたる違法な支出だとして、吉村午良知事に支出の返還を求めた行政訴訟を担い、1999年に和解に至った[5]。 2006年長野県知事選挙の際には、新長野県政連絡協議会の代表幹事として、現職の田中康夫知事への対抗馬として、当時は総務省の官僚であった務台俊介の擁立に動いたが果たせず[6]、代わって村井仁を出馬させ[7]、村井の県知事当選後は後援会の副会長のひとりとなった[8]。   ^ “松本サリン事件:弁護記録が明かす7年目の真相 永田恒治”. 国立国会図書館. 2016年4月1日閲覧。 ^ a b c

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第72回国民体育大会 – Wikipedia

第72回国民体育大会は2017年に開催された国民体育大会である。長野県で開催された冬季大会の愛称はながの銀嶺国体(ながのぎんれいこくたい)。愛媛県で開催された本大会の愛称は愛顔つなぐえひめ国体(えがおつなぐえひめこくたい)[1]。愛媛県では1953年の第8回大会以来64年ぶりに開催された。 国体閉会後の10月には第17回全国障害者スポーツ大会愛顔つなぐえひめ大会(えがおつなぐえひめたいかい)も開催された。 冬季大会[編集] 第72回国民体育大会冬季大会ながの銀嶺国体は長野県で総合開催された[2]。スローガンは「氷雪に かがやけ君の 技ちから」[3]。参加者数は、スケート・アイスホッケー競技会が1,699人、スキー競技会が1,782人[4]。 会期[編集] スケート・アイスホッケー競技会 2017年1月27日 – 1月31日 スキー競技会 2017年2月14日 – 2月17日 実施競技・会場一覧[編集] 正式競技3競技が長野県内の4市町村を会場に実施された[5]。 愛媛県としては昭和28年(1953年)に第8回大会を四国4県で共同開催して以来、64年ぶり、初の単独開催となった。大会愛称は「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」。スローガンは「君は風 いしづちを駆け 瀬戸に舞え」で、愛媛らしく五七五になっている。[6]マスコットはみきゃん。[7]

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総武鉄道モハ1000形電車 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年1月) 総武鉄道モハ1000形電車(そうぶてつどうモハ1000がたでんしゃ)は、現在の東武野田線の前身である総武鉄道(2代)[注釈 1]が新製した電車である。なお、本項では同系のモハニ1100形電車・クハ1200形電車についても記述する。 総武鉄道[注釈 1]が1929年(昭和4年)の大宮 – 粕壁間電化に備え、日本車輌東京支店で新製した電車で、下記3形式10両が在籍した。 モハ1000形:1001 – 1004 モハニ1100形:1101 – 1104 クハ1200形:1201・1202 モハ1000形・クハ1200形は普通車、モハニ1100形は荷物合造車である。いずれも全長16,064mm, 全幅2,730mmの半鋼製車体であるが、同時期に新製されていた東武形車両、東武デハ5形等と比較して、比較的薄い屋根等も相まって若干近代的な印象を与えるものであった。全車とも両運転台構造であり、側面には片側3ヶ所の客用扉と二段式の側窓を備え、前面に設置された狭幅貫通扉と運転席窓上の通風口が特徴であった。窓配置はモハ1000形・クハ1200形が1D6D6D1(D:客用扉)、モハニ1100形が1B6D6D1(B:荷物積卸用扉)。 主要機器はイングリッシュ・エレクトリック(E.E.)社製、もしくはE.E.社の国内ライセンス製品が搭載されており、当時新製されていた東武形車両と同一であった[注釈 2]。制御器は東洋電機製造製の電動カム軸式自動加速制御器[注釈 3]を搭載し、台車はボールドウィン・ロコモティブ・ワークス社製ボールドウィンA形台車の国内デッドコピー製品である汽車製造製BW-75-25釣り合い梁式台車を電動車・制御車ともに装備する。 東武合併後[編集]

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タカアンドトシのどぉーだ! – Wikipedia

タカアンドトシのどぉーだ!は、かつて北海道文化放送(UHB)で放送されていたローカルワイド番組である。なお本項では金曜深夜に放送されていたタカアンドトシの深夜でどぉーだ!についても解説する。 タカアンドトシのどぉーだ![編集] 2007年4月7日から土曜日12:00 – 13:25の生放送で、2008年9月27日まで札幌ステラプレイス内にあるUHBサテライトスタジオ「えき☆スタ」から公開生放送されていたが、毎回大勢の観客で混雑し通路を狭めていたため、2008年10月4日から2009年3月28日までUHB本社第1スタジオからの放送に変わった。 タカアンドトシがメインを務め、博多華丸・大吉、ハリセンボン、ダイノジ、トータルテンボスら吉本興業所属芸人が週代わりで出演する(時折、北海道ローカルという特長を生かし、札幌吉本所属の若手芸人らも登場する)。 2007年4月の放送開始以降続いていた、85分の生放送は2009年3月28日をもって終了。4月26日から毎週日曜日12:57 – 13:55の事前収録番組『どぉーだ!Presents タカトシ牧場』へリニューアルした。 タカアンドトシの深夜でどぉーだ![編集] 金曜日25:35 – 26:35(土曜日1:35 – 2:35)、上記の『タカアンドトシのどぉーだ!』で放送された内容を編集し、特別版として再放送したものである。翌日のレギュラー放送内容の告知を兼ねて放送されていた。 どぉーだ!Presents タカトシ牧場[編集] 『タカアンドトシのどぉーだ!』が2009年3月28日をもって、枠移動・番組内容を大幅に変更する形で終了。4月26日から日曜日12:57-13:55で『どぉーだ!Presents タカトシ牧場』として再スタートし、事前収録番組となった。再放送は、水曜日25:20-26:15放送。

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アレクサンドラ (ユーゴスラビア王妃) – Wikipedia

アレクサンドラAleksandra ユーゴスラビア王妃 アレクサンダル王子とアレクサンドラ 在位 1944年 – 1945年 出生 1921年3月25日 ギリシャ王国、アテネ 死去 (1993-01-30) 1993年1月30日(71歳没) イギリス イングランド イースト・サセックス 埋葬 ギリシャ、タトイ宮殿→ セルビア、トポラ近郊オプレナツ教会(聖ジョルジェ教会)のカラジョルジェヴィチ家大霊廟 配偶者

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エルンスト・フォン・プフェル – Wikipedia

この記事はドイツ語版の対応するページを翻訳することにより充実させることができます。(2021年12月) 翻訳前に重要な指示を読むには右にある[表示]をクリックしてください。 翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いることは有益ですが、翻訳者は機械翻訳をそのままコピー・アンド・ペーストを行うのではなく、必要に応じて誤りを訂正し正確な翻訳にする必要があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針についての説明があります。 エルンスト・ハインリヒ・アドルフ・フォン・プフェル(ドイツ語: Ernst Heinrich Adolf von Pfuel、1779年11月3日 – 1866年12月3日)は、プロイセンの軍人、政治家。ドイツ統一運動の最中に起こった1848年革命の間、第4代首相で第13代陸軍大臣[1]を務めた。 プフェルは、1779年11月3日にプロイセンの将軍ルートヴィヒ・フォン・プフェル(1718–1789)の息子として生まれた。ヤーンスフェルデの荘園領主であり、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム王子[2]とソフィー・クランツ(1755–1783)の元法廷元帥であり、実弟にフリードリヒ・ハインリヒ・ルートヴィヒ・フォン・プフェル中将がいる。 プフェルは、リベラルで改革に前向きな人だと思われていた。ベルリンでは、ラーヘル・ファルンハーゲン・フォン・エンゼのサロンに通う数少ない将校の一人であった。その後、ベルリン無法地帯協会に所属する。 13歳の時、家族からベルリンの士官学校に送られた。1797年9月12日、プフェルはプロイセン軍の「皇太子」歩兵連隊の少尉に任じられた。1799年10月8日、中尉に昇進したが1803年6月18日、プフェルは辞表を提出し、友人のハインリッヒ・フォン・クライストのいるドレスデンに赴き、彼とさまざまな旅をすることとなった。1805年4月、彼は軍への復員を申請した。その後、プフェルは東プロイセン第2フュージリア旅団のフュージリア大隊「フォン・シャフトマイヤー」に入隊した。1806年の作戦では、グラーフ・フォン・シュメッタウ将軍の副官としてイエナ・アウエルシュタットの戦いに参加した。リューベックの近くでフランス軍の捕虜となったがすぐに釈放された。プロイセンの敗戦とティルジット条約後、プフェルは再び休暇を取り、ドレスデンでベルンハルト公の教師として働くことになった。 ナポレオン戦争中の1814年から15年まで、ケルンとパリのプロイセン軍の指揮官を務めた。1848年3月11日から18日まで、ベルリンの知事を短期間務めた。その後、彼はヨーロッパ各地で起こった1848年革命の混乱の中、プフェルはプロイセン国民議会の議員となり、その年の後半9月7日にはカール・ヴィルヘルム・フォン・ウィリセンに代わって、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世からプロイセン首相兼陸軍大臣に任命され11月2日まで務めた。9月22日のプロイセン国民議会で、プフエルは、国王の権利と尊厳を守ることを望む一方で、「国王が歩んできた憲法の道を堅持し、獲得した自由を守り、あらゆる反動的試みを拒絶し、公務のあらゆる部門で憲法原則が守られるようにし、国民の権利と自由を神聖視」する決意も固めていることを、政権構想の中で明言した。1848年9月の陸軍省令は、すべての反憲法的な願望はプロイセン将校の地位と相容れないと宣言し、将校界に悪い感情を抱かせることになった。10月の国民議会で貴族や国王の称号にある「神の恩寵による」呼称を廃止する審議と決議に対して、国王は必要な抵抗をしなかったことに憤慨した。プフエルは、1848年11月1日に休暇をとった。1858年にはプロイセン貴族院議員に任命され、1864年6月18日には「プール・ル・メリット勲章」授与された。彼はまた、平泳ぎの水泳技術の革新者であり、1810年にプラハで世界初の軍事水泳学校の創設した。1866年彼はベルリンで死亡した。彼の死後、ヤーンスフェルデの墓地に埋葬された。 ^

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