Month: June 2018

ウォルター・アルバレス – Wikipedia

ウォルター・アルバレス 生誕 (1940-10-03) 1940年10月3日(81歳) アメリカ合衆国 カリフォルニア州 研究分野 地質学 プロジェクト:人物伝 テンプレートを表示 ウォルター・アルバレス(Walter Alvarez、1940年10月3日 – )は、アメリカ合衆国の地質学者。現在はカリフォルニア大学バークレー校にて、地球および惑星科学の教授を務めている。 父親は、ノーベル物理学賞を受賞したルイス・ウォルター・アルヴァレズ。 父親とともにK-T境界におけるイリジウムの過剰濃集の発見と、隕石の衝突による大量絶滅のシナリオを発表したことで知られる。 目次 1 経歴 2

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ゆいにしお – Wikipedia

ゆいにしお(1997年7月3日 – )は、日本のシンガーソングライター。愛知県生まれ。名古屋・東京を拠点に活動中。 2016年9月より名古屋市内のライブハウスで活動を開始。同月に行われた名古屋から新たな才能を発掘するプロジェクト「SONG’S NAGOYA 2016」最終審査に出場する[1]。 2017年6月、株式会社テイチクエンタテインメント、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ、カラオケJOYSOUNDを運営する株式会社エクシングが共同で主催したオーディション「キミウタ ~キミのウタが聴きたい~」ファイナル出場。同年7月に「未確認フェスティバル」名古屋地区に出場。2018年3月に、日本コロムビア株式会社と、タワーレコードとレコチョクによるインディーズ活動支援プロジェクト「EGGS」が開催した「半熟オーディション2018」にてグランプリを獲得する[2]。 ディスコグラフィ[編集] ミニアルバム[編集]   発売日 タイトル 規格 規格品番 収録曲 1st 2019年5月15日 角部屋シティ CD

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テルモコックス綱 – Wikipedia

テルモコックス綱(Thermococci、サーモコッカス綱)は、ユーリ古細菌に属す綱の1つで、海洋熱水域に広く生育する超好熱菌のグループである。 深海の熱水噴出孔から良く単離される生物の一つ。油田鉱床、浅瀬の熱水域からの単離例もある。一方で陸上の熱泉からの分離例はない。海底火山が噴火した際に周囲の海水から高濃度で検出されたことがあり、分布の中心は熱水噴出孔周辺の地下とみられている。 全種が超好熱性、偏性嫌気性の従属栄養生物であり、熱水域でペプチドや多糖類を分解して生活している。水素により強い増殖阻害を受けることから、代謝の結果生じる水素を硫黄と反応させ、硫化水素として除去している。このため単体硫黄や硫化金属が多量に存在する環境をよく好む。一般にサイズ1-2μmのあまり特徴のない不定型の球菌として観察される。殆どの種が多極の鞭毛を有している。細胞壁はS層から構成される(細胞壁を欠損する種もあり)。その他の性質は典型的な古細菌と同じである。 進化的にはユーリ古細菌の基部付近から分岐したと考えられている。ユーリ古細菌における系統関係の一例を示す。 ユーリ古細菌共通祖先   テルモコックス綱       その他のユーリ古細菌     下位分類[編集] テルモコックス目/Thermococcales テルモコックス科/Thermococcaceae Thermococcus Thermococcus celer、T. acidaminovorans、T. aegaeus、T. aggregans、T.

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中島仰山 – Wikipedia

中島 仰山(なかじま ぎょうざん、天保3年7月10日(1832年8月5日) – 大正3年(1914年)4月22日[1])は、日本の明治時代の絵師、一説に写真家。旧姓は船橋。通称は鍬次郎。同時代の関根雲停や増山雪斎に並び、博物図譜的な動物画を数多く残した。 出自[編集] 一橋家付け切りの船橋半右衛門の次男として生まれる。ここでいう「付け切り」とは、身分は幕臣だが、代々一橋家だけに仕える身分である。一橋家の家臣は、幕臣に比べて薄給だが格式は高かった。船橋家9代当主正道は600俵の用人格で、旗本寄合席なら3000石相当の布衣を許されている。 開成所での勤務[編集] 高橋由一と同時期、文久2年(1862年)頃から開成所に学んだと推測される。元治元年(1864年)2月に出された老中への願書[2]には、物産や写真の需要が増え今の人員では手が回らないので、西洋画に格別の腕前で熱心に勤務する画学世話心得・仰山と由一の2人を、画学並出仕に昇進させて欲しい、と記されている。この申請は老中から却下されたが、慶応2年(1866年)6月の時点で仰山は画学局設置の母体となった絵図調方で、教導職である絵図調出役になっている。翌年8月、歩兵差図役並勤方へ移動となり、その後任に島霞谷が任命されている。 写真家・仰山[編集] この間、仰山は御用のため大坂に赴いており、慶喜の写真御用を務める1人だったとも言われる。石井研堂によると、仰山は「邦人中最も古い写真家の一人だ。慶喜公上洛の時、従って京都に在り、写を乞はるること多く、謝礼を受くる毎に、その額をも定めもせず、これを袖に納め宿に帰りて後、今日は一つかみあった、今日は二つかみあったといってる位、無慾人であった。その器械は、蘭人から買ったものだが、当時の写真器は、レンズ四枚あり、四枚の焼点が、一点に集中せなければならず、それが難しいので高価なのだと言はれて買ったと自ら言って居た」という[3]。また、慶喜将軍時代、彼の命で二条城内や同本丸などを撮影し、ナポレオン3世から贈られたフランス軍服を身に付けた慶喜像を撮影したという。これらの記述に裏付けは取れないものの、先述の願書や仰山の後任に油絵と写真が巧みな霞谷が登用された経緯から、仰山が慶喜の写真御用を勤めていた可能性は高いと考えられる[4]。 維新後の仰山[編集] 明治維新前後に、中島家に養子に入り、中島姓を名乗る。徳川慶喜に従い、上野大慈院、水戸弘道館、静岡宝台院、静岡紺屋町と移動し、二級侍従として勤める傍ら、慶喜に油絵を教えた[5]。なおこの時、仰山は古風なピストルを所持し、これを持って慶喜のお供をしたという[6]。 明治5年(1872年)東京へ移住し、内務省博物館掛で出仕し[7]、ここで動物画を中心に博物図譜的な挿絵を多く描いた。他の画家たちと共作をした「大日本国産童蒙一覧」では仰山は草綿一覧、製茶一覧、葛布一覧、糖製一覧などを描き、明治21年(1888年)まで博物館で仰山の名を見ることが出来る[8]。展覧会にも何度か出品したらしく、明治7年(1874年)湯島聖堂大成殿での新古書画展に「油絵、人物・柳橋真果図」を、明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、第三区支那南北派として「孔雀」「月ニ蝙蝠」を出品している[9]。明治17年(1884年)刊行の杉浦高陽閲 渡辺祥霞編 『明治画家略伝』では、「北 中島仰山 浅草区西三筋町十六番地 花鳥 天保三年七月生ル

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テレポート山陰 – Wikipedia

テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい。検証可能性に基づき除去される場合があります。 テレポート山陰 on the Radio ジャンル 報道番組 放送方式 当日放送分の収録 放送期間 2019年9月30日 – 放送時間 月-金曜22:00 – 22:15(15分) 放送局 山陰放送ラジオ 制作 山陰放送報道部

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張紹曽 – Wikipedia

張 紹曽(ちょう しょうそ)は中華民国の軍人、政治家。北洋系の軍人ながら革命派としても知られる。後に北京政府、直隷派の軍人となり、さらには国務総理もつとめた。字は敬輿。 北洋士官の三傑[編集] 1896年(光緒22年)、北洋武備学堂に入学した。卒業後に湖広総督張之洞の官費援助を受け、日本に留学する。陸軍士官学校第1期砲兵科で学んだ。同期には、呉禄貞、藍天蔚があり、後にこの2人とともに、「北洋士官の三傑」と称される。 1901年(光緒27年)に卒業、帰国し、袁世凱の下で砲兵隊の士官として登用された。以後、順調に昇進を重ね、1905年(光緒31年)に砲兵第5標標統、1906年(光緒32年)に第5混成鎮正参謀官となる。1907年(光緒33年)、呉禄貞・藍天蔚とともに、東三省総督徐世昌に任用された。そしてこのときに、張紹曽ら3人は、宋教仁に協力して、中国同盟会に秘密加入し、その遼東支部を奉天に設立している。1911年(宣統3年)2月、張は、第20鎮統制に任命され、奉天・新民に駐屯した。 1911年(宣統3年)10月、張紹曽・呉禄貞・藍天蔚は、直隷省永平県(現在の河北省盧竜県)で開催予定の秋季演習を機に挙兵をもくろむ。しかし、武昌起義勃発で演習が中止されてしまったために予定を変更し、急遽清朝に向けて憲法制定・責任内閣制実施を要求する声明を発した。これにより、清朝は憲法公布を迫られるなど一定の圧力となった。しかし、張らに対する清朝、さらには再起した袁世凱の追及も厳しかった。呉と張は更迭されてしまい、呉はまもなく袁の刺客に暗殺され、張も下野に追い込まれている。 袁世凱の下で[編集] 中華民国が成立すると、張紹曽は袁世凱から長江宣撫使として再起用され、孫文(孫中山)ら革命派との調停役を務めた。1913年(民国2年)5月、進歩党の名誉理事に就任した。同年10月、綏遠将軍に任命され(署理としては前年10月から)、蒙古王侯貴族の安撫、地位保障などにつとめた。1914年(民国3年)4月に、北京へ召還され、民国4年(1915年)に陸軍訓練総監をつとめる。袁が皇帝即位を画策した際には、張は、曹錕とともに直隷省公民代表として、袁に即位を求める請願書を上程した。 袁世凱死後は、張紹曽は直隷派に接近し、安徽派の段祺瑞とは対立した。1916年(民国5年)12月、全国陸軍訓練総監の地位に就く。張勲復辟の際には、馮玉祥とともに張勲討伐を図ったが、段に先を越されてしまう。さらに張勲討伐画策を叛逆行為とみなされ、陸軍総監から罷免されてしまった。 つかの間の国務総理[編集] 1920年(民国9年)7月の安直戦争で安徽派が敗北すると、呉佩孚、馮玉祥の下で政界に復帰する。1922年(民国11年)8月、陸軍総長に就任し、さらに翌年1月、国務総理兼陸軍総長となった。しかし、国務総理となってからは、総統黎元洪とともに南方政府との和平路線を唱え、武力統一路線を唱える呉や曹錕とは対立するようになる。同年6月、対立の果てに黎、張はともに辞任に追い込まれた。 その後も政界への復権を図る張紹曽は、天津に隠居しながらも、北方各派に連絡をとって活動を続けた。しかし、容易に復帰することはできなかった。1928年(民国17年)、張紹曽は、馮玉祥と連絡を取り合い、張作霖討伐を画策する。しかし、これを察知した張作霖が放った刺客により、張紹曽は同年3月21日に狙撃され、翌朝死亡した。享年49。 ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』による。陳寧生「張紹曽」は1880年生まれとする。 参考文献[編集]

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ケン・ブース (歌手) – Wikipedia

ケン・ブース(英: Ken Boothe、1948年3月22日 – )は、ジャマイカのレゲエ歌手。キングストンで生まれた。ストレンジャー・コールとのデュオとして1966年にデビュー。その後はソロ歌手として1970年代にブレッドの「エブリシング・アイ・オウン、 (原曲邦題:涙の想い出)」を大ヒットさせた。「ミスター・ロックステディ」と呼ばれている。[1] ディスコグラフィー[編集] アルバム[編集] Mr. Rock Steady (1968), スタジオ・ワン More of Ken Boothe (1968), Studio One

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鈴木翔登 – Wikipedia

鈴木 翔登(すずき しょうと、1992年10月16日 – )は、埼玉県出身のプロサッカー選手。Jリーグ・福島ユナイテッドFC所属。ポジションは、DF。 埼玉県出身のディフェンダーで、センターバックと左サイドバックをこなす。 テクニックこそないが、『気持ちくん』の愛称のように、激しい守備と声出しなど気持ちがこもったプレーを持ち味としている[1]。 大学4年時には流通経済大学のインカレ初優勝に貢献し、大会最優秀選手に輝いた[2]。 2015年1月6日、ロアッソ熊本への新加入が発表された。2015年は当初は控えだったが、シーズン中盤にレギュラーを奪取し主力の座を得た。 2016年は植田龍仁朗や薗田淳、小谷祐喜の加入で主力の座を失い、計10試合の出場にとどまった。翌年1年間、ギラヴァンツ北九州へ期限付き移籍したが、出場は6試合に終わった。シーズン終了後に熊本に復帰となった[3]。 2018年シーズンは出番は限られ、足元の技術を求める監督のサッカースタイルに適応することが難しかった。その中でもプロ初ゴールを決めるなどの活躍を見せた。 2019年シーズンはコーチングができるという事から監督によってキャプテンに任命され、センターバックで主力として出場した。 2020年シーズンは開幕当初は出番を掴んだが、酒井崇一にポジションを奪われる形で、ベンチ入りすらならない状況となり、同シーズンをもって契約満了で退団した。 2021年1月7日、カターレ富山への完全移籍が発表された[4]。シーズン終了後、契約満了により退団した[5]。 2021年12月27日、福島ユナイテッドFCへの完全移籍が発表された[6]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] その他:KFA 第23回熊本県サッカー選手権大会 (2019.5.12)

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ソルヴァルド・コズラーンスソン – Wikipedia

ソルヴァルド・コズラーンスソン(トルヴァリド・コドランソン)[注 1](アイスランド語: Þorvaldr Koðránsson、ベラルーシ語: Торвальд Кодрансан、950年頃 – 1002年以降)は、アイスランド出身の伝説的なキリスト教の宣教師かつ旅行家であり、「Pallteskja」または「Pallteskiuborg」(現ベラルーシ北部の市・ポラツク。当時ポロツク公国の首都であったポロツクとされる。)に洗礼者ヨハネ修道院を建設したとされる人物である。ソルヴァルドの冒険譚は、アイスランドの『オーラヴ・トリュッグヴァソン王のサガ』、『洗礼のサガ(英語版)』、『平たき島からの書』に所収される、「旅行家ソルヴァルドに関する紡ぎ話(ノルウェー語版)」に記されている[注 2]。 アイスランドにある、ソルヴァルドとフリドリクの記念碑 ソルヴァルドはアイスランド北部のスカーガフィヨルズル付近で生まれた。青年時代にはデンマーク王スヴェン1世(ノルウェー王、イングランド王を兼ねる。)に仕え、軍事に関する職工に携わっていた。ソルヴァルドは情け深く、捕虜となった同郷人を買い戻し、自由の身へと戻らせていた。また、アイスランドでキリスト教の教えに触れた。980年ごろ、職を捨ててザクセン公国に渡ると、司教フリドレク[注 3][訳語疑問点]から洗礼を受けた。 981年、ソルヴァルドはフリドレクと共に、布教の使命を帯びてアイスランドに帰還した。2人によって、アイスランド最初のキリスト教教会が開設されたが、同郷の異教徒らはソルヴァルトを嘲笑した。激高したソルヴァルドは、ソルヴァルドらに悪意を示し、わずらわしく感じられた人物2人を殺した。これによってソルヴァルドらは、アイスランドから早急に逃亡する必要に迫られた。 985年、ソルヴァルドはビザンツ皇帝バシレイオス2世、コンスタンティノープル総主教(ru)ニコラオス2世(ru)との会見のためにコンスタンティノープルへと派遣された。エルサレムを経由し、コンスタンティノープルに到着したソルヴァルドは、会見において、「東バルトの地のルーシの公」に対するビザンツ全権大使に任命するという勅書を与えられた。この、ルーシの公を頂く東バルトの地とは、おそらくポロツク、ノヴゴロド、プスコフを意味している。 986年、ソルヴァルドは同僚のステヴニル・ソルギルスソンと共にドニエプル川に沿って北上し、キエフを通過してポロツクに至った。ポロツク公ログヴォロド(ru)が支援の意を示したため、ソルヴァルドらはポロツクへの滞在を決めた。ドロフナという山に教会が開設され、洗礼者ヨハネ修道院が開かれた。また、ポロツクではソルヴァルドと、著名なヴァイキングで、後にノルウェー最初の聖人となるオーラヴ(995年よりノルウェー王)との面会がなされた。 おそらく1002年以降に、ソルヴァルドはポロツクで死亡した[1]。後にポロツクを訪れたスカルド詩人(古代スカンディナヴィアの吟遊詩人[2])は、ソルヴァルドは聖ヨハネ教会の傍らの山に埋葬され、聖人として崇拝されている、という主張を残した[3]。 注釈[編集] ^ 「トルヴァリド・コドランソン」はロシア語: Торвальд

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