Month: July 2018

ガルダン・ハーン – Wikipedia

ガルダン・ハーン(モンゴル語:Галдан хаан、中国語:噶尔丹 汗、1644年 – 1697年4月4日)は、オイラト部族連合に属すジュンガル部(ジュンガル・ホンタイジ国、英: Zunghar Khanate)の第4代部族長および第3代ホンタイジ(在位:1671年 – 1697年)。バートル・ホンタイジの四男、またホシュート部のグーシ・ハーンの孫でもある。 1644年、ガルダンはバートル・ホンタイジとグーシ・ハーンの娘との間に生まれ、まもなくして前年に亡くなったチベットの高僧ウェンサ・トルクの転生と認定された。13歳の頃、チベットへ留学し、パンチェン・ラマ1世とダライ・ラマ5世に師事した。10年の後、故郷へ戻り、還俗する。 1670年、ジュンガル部長で同母兄であるセンゲが異母兄たちによって殺されると、ガルダンはセンゲの仇を討ち、センゲの妻を娶ってジュンガル部長となった。翌1671年、ダライ・ラマ5世はジュンガル部を制覇したガルダンに「ホンタイジ」の称号を授けた。 1675年、ガルダンは舅であるホシュート部長オチルト・ハーンと衝突し、翌1676年の冬にオチルト・ハーンを捕虜とした。この功績により、ガルダンはダライ・ラマ5世より「持教受命王」の称号を授かり、ガルダン・ボショクト・ハーンとなり、ジュンガル部における最初で最後のハーンとなった[1]。これにより、それまでオイラト部族連合の盟主であったホシュート部に代わり、ジュンガル部がオイラト部族連合の盟主となり、ゲルク派の擁護者に認定された。 1679年、ガルダン・ハーンはハミとトルファンを征服し、翌1680年にカシュガル,ヤルカンド,ホータンなどのオアシス都市を征服して、東チャガタイ・ハーン家の一族と黒山党(イスハーキーヤ)のホージャをイリに幽閉した。一方で白山党(アーファーキーヤ)のホージャを代官としてヤルカンドに据えて、毎年莫大な貢納を取り立てた。翌年(1681年)からは毎年西方の中央アジアに遠征し、カザフ人とキルギス人を攻め、1684年にはタシュケントとサイラムを、1685年にはアンディジャンに遠征し、瞬く間に中央アジアを征服していった。 1687年、モンゴルのハルハ部において、トシェート・ハーンとジャサクト・ハーンの内紛が起き、ジャサクト・ハーンであるチェングン(成袞)がガルダン・ハーンを頼ってジュンガル部に向かったところ、トシェート・ハーンであるチャグンドルジ(察琿多爾済)に追いつかれて殺され、ジュンガル部から出動したガルダン・ハーンの弟もチャグンドルジによって殺された。翌1688年、ガルダン・ハーンは3万の兵を率いてハンガイ山脈を越え、待ち構えるトシェート・ハーンの軍を破り、二手に分かれて、仏教寺院エルデニ・ジョーとチェチェン・ハーンの領地を略奪した。これによりハルハ部の人々は算を乱して逃亡し、数10万にのぼる人々が漠南へ行って清朝の保護を求めた。ガルダン・ハーンは清朝の康熙帝に手紙を出し、ハルハ侵攻の言い訳として、「1686年の講和会議における、チャングンドルジの弟で、ガルダンの前世であるウェンサ・トルクの弟子であったチョナン派の高僧ジェプツンダンバ・ホトクト1世がダライ・ラマの名代であるガンデン大僧院座主(ガンデン・ティパ)と同じ高さの席を占め、あらゆる点で対等にふるまったことは、ダライ・ラマとゲルク派に対する冒涜である」と説明した。ガルダン・ハーンは清朝を敵に回したくなかったが、チャングンドルジとジェプツンダンバ・ホトクト1世の引き渡しを要求すべく、何度も使者を派遣した。しかし、清朝側は引き渡しに応じなかった、 1690年、ガルダン・ハーンは2万の兵を率いて北京北方のウラーン・ブトンで清朝と衝突し、激しい射撃戦となった。やがてダライ・ラマ5世の摂政が派遣した高僧が来て仲裁に入ったため、清軍と交渉している間にジュンガル軍は漠北に撤退した。同じ頃、兄センゲの子であるツェワンラブタンがガルダン・ハーンに反旗を翻し、ジュンガル部の本拠地であるイリ地方とタリム盆地を支配して康熙帝と連絡を取り合った。 1696年、康熙帝はハルハ部民の土地を取り返すという大義名分を得たため、3個軍団を率いて漠北に侵攻した。両軍はウラーン・バートルから東へ30キロのジョーン・モドで戦闘になり、ガルダン・ハーンの軍は壊滅し、ガルダンの妃であるアヌ・ハトンが戦死した。ガルダン・ハーンは少数の部下と共に脱出したが、故地に帰ることができなかったため、ハンガイ山脈とアルタイ山脈の間を放浪したあげく、1697年4月4日に病死した[2][3]。その後は子のタンチラが継いだ。 ^ ジュンガル部で「ハーン」になったのはガルダン・ハーンのみなので、「ジュンガル・ハーン国」というのは誤り。ジュンガル部の君主号は基本「ホンタイジ」である(宮脇p212)。 ^ 清朝で編纂された漢文史料が述べているアルタイ山脈での服毒自殺は史実ではない(宮脇p203)。

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大西宏 – Wikipedia

大西 宏(おおにし ひろし、1962年5月14日[1] – 1991年10月16日、29歳没)は、日本の登山家。名古屋市出身。1989年、スキーによる北極点到達とエベレスト登頂の「2極」征服を達成した。 名古屋市に生まれた[2]。1978年、東京都立九段高等学校に入学、山岳部に入部した[2]。明治大学に進学し、2年生のときから山岳部に入って活動した[3]。 卒業後も、一度は食品会社に就職したが、肉体労働のアルバイトをしながら登山中心の生活を送り[3]、OB会である炉辺会(ろばたかい)のメンバーとして活動した[4]。 1985年、日本山岳会の80周年記念行事として行なわれた中国登山隊に参加し、崑崙山脈カカサイジモンカに登頂した[4]。 1987年、日本・中国・ネパール1988チョモランマ・サガルマタ友好登山隊に参加し、北稜ルートでエベレストに登頂した[4]。 1988年、アンデス山脈のワスカランに登頂した[4]。 1989年、ロバート・スワンが率いる、スキーによる北極点到達を目指すアイスウォーク国際北極遠征隊の一員として、北極点に到達した[4][5]。 同年、カトマンズクラブのエベレスト登山隊1989に参加し、南東稜ルートでエベレストに登頂した[4][6]。10月13日に頂上に立ち、1年のうちに地球の「2極」に到達した[7]。 1990年、マカルーに登頂した[4]。また、日中合同ナムチャバルワ偵察隊に参加し、ナイプン直下の鞍部に到達した[4]。 1991年、ナムチャバルワ日中合同登山隊に参加した[4]。大西は輸送、会計担当であったが[3]、“エース”と目されており[8]、「並外れた体力でルート開拓の牽引役となっていた」[9]。10月16日[10]、第4キャンプ予定地へ向かって南稜を登攀中に、標高6,150m付近で雪崩に巻き込まれ、遭難死した[11]。遺体は現地で荼毘に付された[12]。享年29。 大西は南極点到達による「三極制覇」を目標としていたが、大西の計画を継承して1993年に徒歩で南極点を目指した「アンタークティックウォーク南極点探検隊」は、大西の遺影と遺骨の一部をそりに積んで南極点に到達した[13]。 大西宏著、「大西宏の遺稿・追悼集」発行の会編『遠く高く:大西宏遺稿集』 悠々社、1993年11月、ISBN 4946406247。 ^ “登山家・故大西宏さん(ことば抄)”.

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地球物理学 – Wikipedia

地球物理学(ちきゅうぶつりがく、英語: geophysics)は、地球を物理的な手法を用いて研究する学問分野。[1][2][3][4]20世紀後半に大きく発展した。 地球物理学に含まれる分野として、 測地学 – 地球の形状・特性を解明する。衛星を用いた地殻変動の測定、重力の測定など。[5][6][7] 地震学 – 地震の発生メカニズムの解明、地震波を用いた地球内部構造の推定など。[8][9][10] 火山学 – 火山の噴火メカニズムの解明、物理探査による火山体の構造の推定など。[11] 気象学 – 気圏の物理学的特性を扱う。大気力学はどちらかというと並列分野。天気予報は大きな応用分野。[12] 海洋物理学 – 水圏の物理学的特性を扱う。潮汐、潮流の研究など。[13][14] 地球電磁気学 –

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アニュラス – Wikipedia

数学において、アニュラス(羅: annulus, ラテン語で「小さい環」を意味する)あるいは円環とは、輪の形をした対象、特に 2 つの同心円によって囲まれた領域である。 数学的な記述[編集] 開アニュラスは円柱側面(円筒) S1 × (0,1) や穴あき平面(英語版) R2∖ {(0, 0)} に同相である。 アニュラスの面積は半径 R の大きい円の面積から半径 r の小さい円の面積を引いたものである:

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宮城県選挙区 – Wikipedia

宮城県選挙区(みやぎけんせんきょく)は日本の参議院議員通常選挙における選挙区である。定数は1995年の第17回参院選より定数が2(改選1)から4(改選2)に増やされたが、2016年の第24回参院選より2(改選1)に戻る。これにより、東北地方の参議院選挙区はすべて1人区となる。 宮城県全域。戦前からの農民運動が盛んだったことに加え宮城県や仙台市など革新系の首長が選出されたこともあって、第1回の参院選から1995年の参院選までの定数2(改選1)だった頃にも、社会党や民主改革連合など非自民系の候補者が当選したことがある。 1995年の参院選からは定数4(改選2)となり自民党と民主党が議席を分け合う状態が続いたが、2013年の参院選で和田政宗が民主党の岡崎トミ子に代わる形で当選[1]。更に定数是正によって2016年の参院選からは定数が再度2(改選1)に戻されることになる。 2016年3月2日、民主党(後に民進党)は現職の桜井充を野党統一候補とするために日本共産党との間で政策協定を締結して民共共闘となり[2]、結果として民進・共産・社民・生活の野党4党統一候補となった桜井が自民党の熊谷大との現職対決を制して当選した。 第1回参院選時における最大の一票の格差の事例は宮城県選挙区(定数2)と鳥取県選挙区(定数2)の格差が2.62倍であり、後の一票の格差の議論として国会や裁判所で取り上げられることがある。2018年に埼玉県選挙区の定数が増加したことに伴い、再び当選挙区が一票の格差が最も大きい選挙区となった。 選出議員[編集] 選挙結果[編集] 時の内閣:第4次安倍内閣 第1次改造内閣2019年(令和元年)7月21日執行当日有権者数:1,942,518人 最終投票率:51.17%(前回比:-1.22ポイント) (全国投票率:48.80%(5.90%)) 和田は比例区から立候補し当選。 時の内閣:第3次安倍内閣 第1次改造内閣2016年(平成28年)7月10日執行当日有権者数:1,947,737人 最終投票率:52.39% (全国投票率:54.70%(2.09%)) 熊谷は2018年2月、利府町長選挙に立候補し当選[3]。 時の内閣:第2次安倍内閣2013年(平成25年)7月21日執行当日有権者数:1,906,260人 最終投票率:50.75% (全国投票率:52.61%(5.31%)) 当落 氏名 年齢

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小野真次 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “小野真次” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年9月) 日本の政治家 小野 真次 おの しんじ 生年月日 1893年4月15日 出生地 和歌山県西牟婁郡田並村 没年月日 (1974-01-03)

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アルボザッジャ – Wikipedia

アルボザッジャ(伊: Albosaggia)は、イタリア共和国ロンバルディア州ソンドリオ県にある、人口約3,000人の基礎自治体(コムーネ)。 位置・広がり[編集] ソンドリオ県中部に位置する。県都ソンドリオから南南西へ3km、州都ミラノから北東へ92kmの距離にある[4]。 隣接コムーネ[編集] 隣接するコムーネは以下の通り。 地勢・地形[編集] 地震分類[編集] イタリアの地震リスク階級 (it) では、3 に分類される [5]。 山岳部共同体[編集] 広域行政組織である山岳部共同体(イタリア語版)「ヴァルテッリーナ・ディ・ソンドリオ山岳部共同体」 (it:Comunità montana della Valtellina di Sondrio) (事務所所在地: ソンドリオ)を構成するコムーネの一つである。 分離集落[編集]

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ソコトラ空港 – Wikipedia

ソコトラ空港 (ソコトラくうこう、Arabic:مطار سقطرى) は、イエメンのソコトラ島にある空港である (IATA: SCT, ICAO: OYSQ)[1]。アラビア海に浮かぶソコトラ諸島における、またその中心都市ハディブ(英語版)に通じる唯一の民間空港である。 空港開港以前のソコトラ島は、ほとんど外界から遮断されていた。1年のうち5か月間は、海が荒天で荒れ、天然の港と呼べる場所もないため、本土と船舶で行き来ができなかった。そのため、地球上でも有数の到達困難かつ手付かずの土地と見なされていた。戦略的に極めて重要な位置にあるため諸島全域が軍の厳しい管理下に置かれ、既存の滑走路は軍事目的で使用されており、民間機はほとんど利用していなかった[2]。 1999年7月に開港したソコトラ空港は、島の北海岸に位置し、首都ハディブ(英語版)から島の西部にある観光地へ向かう道路上にある。軍事目的で使用されているが、民間の航空機が定期的に発着している。その結果、島の経済は一気に活性化し、アスファルトの道路が整備され、港湾建設計画も始動した。こうした開発には、かつてない自然改造が伴なった[3]。 イエメン内戦に周辺各国が介入(英語版)を始めた後の2015年3月、民間航空輸送が停止された。2018年4月にはアラブ首長国連邦がソコトラ空港に上陸部隊を乗せた輸送機を送り込んだ。アラブ首長国連邦軍はソコトラ諸島に展開し、ソコトラ空港からイエメン兵を追い出して管理下に置いた[4]。この事件に対しイエメンの首相府が、イエメンの主権に対する正当化できない攻撃であると非難する事態に発展した[5]が、翌月にサウジアラビアの仲介によりイエメンに返還された。数週間後にソコトラ島がサイクロン・メクヌの被害を受けた際には、ソコトラ空港はエミレーツ航空などによる空路支援の拠点となった。2018年末に民間利用が再開された[6]。 環境への影響[編集] 自然保護の観点からは、外来種が空港を経由して島に侵入してくることが懸念されている[7]。道路整備の際には多くの場合環境への影響が考慮されず、また外界との交流が増えたことで、貴重で脆弱なソコトラ島の生態系バランスが脅かされている[8]。 就航路線[編集] 1999年の開業以降、週に2本の頻度で旅客便がソコトラ空港とイエメン本土を行き来している[9]。現在就航している路線は以下の通り。 ^ Airport SOCOTRA, Fallingrain ^ Socotra

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ムスト – Wikipedia

ムスト(ラテン語のvinum mustum、”若いワイン”)は、新鮮な圧搾した果物ジュース(通常はブドウジュース)で果物の皮、種、果梗が含まれている。ムストの固形部分はポマース(ポミス)と呼ばれ、通常はムストの総重量の7% – 23%分ができる。ムストの製造はワイン作りの第一歩である。ムストはさまざまな料理に甘味料として使われることもある。 ワインのムスト[編集] ブドウを圧搾してムストを作る ポマースが果汁の中に浸っている(スキンコンタクト)期間は最終的なワインの性格を決める上で重要な要素である。よって地域ごと、ワイン生産者ごとに違いがある。 ワイン生産者は頃合の時期を判断すると果汁をポマースから取り出し、それから果肉の細胞に残っている果汁を搾り出すためにポマースを圧搾する。発酵させるために酵母を果汁に入れる一方で、ポマースはしばしば肥料として使用するために葡萄園や果樹園に戻される。選別された未発酵のムストの一部は、瓶詰めに先立って甘味料として添加するためにズュースリザーブ(Süssreserve)として取り置かれる。 ワイン生産者は中には、使用済みのポマースに取り出した果汁と同量の水を加えたものを24時間置いてから水分を取り出して2番搾りのワインを作るところもある。こうして作られたワインはワイン生産者の雇い人への振る舞いとして供されたり、グラッパのようなポマース・ブランデーの基に使用される。 料理のムスト[編集] ムストは古代ローマでは料理の材料として普通に使われていた。ムストは鉛製か青銅製のやかんで沸かされ軽く濃縮されたものがデフラタム(Defrutum)、濃く濃縮されたものがサパ(Sapa)と呼ばれた。これはしばしば、特に果物に酸味付けや防腐剤として使用された。地球科学者のジェローム・リアグ(Jerome Nriagu)は1983年に出版されたニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンの中の記事でデフラタム と サパは恒常的にこれらを摂取する者には危険な量の酢酸鉛を含んでいたかもしれないという仮説をたてた。 濃縮されたムストはバルカン諸国と中東の料理でペクメズやディブス(pekmez or dibs)として知られるシロップや、小麦粉と混ぜ合わせて濃厚にしたものが菓子の素材(moustalevria、soutzoukos、churchkhela)として使われる。 蜂蜜酒のムスト[編集] この言葉は蜂蜜酒生産者が蜂蜜酒になる未発酵の蜂蜜と水の混合物を指す用語としても使用される。ビール醸造における類似の用語が麦汁である。 キリスト教の教会儀式におけるムスト[編集]

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