Month: November 2018

水防警報 – Wikipedia

水防警報(すいぼうけいほう)とは、所定の河川の一定の流域において、洪水や高潮による災害の恐れがあるとき、河川管理者として国土交通大臣または都道府県知事が、水防機関に対して行う発表。気象庁が発表する洪水警報などとは異なる。 1955年に水防法の改正に伴って洪水予報とともに創設された。同法第16条に規定されている。 水防警報の役割[編集] 河川が所定の水位に達したことなどをもって、水防団などの水防に関わる防災機関の出動の契機とするためのものである。一般向けの洪水警報や洪水予報より早めに水防関係者が準備を整えられるように、より低い水位で段階的な警報の発表が定められている。予報としての性格はない。 主な制度上の規定[編集] 実務上、国土交通大臣による発表は、国土交通省地方整備局の河川事務所などが代理して行う。水防法では国土交通大臣の発表した水防警報は直ちに都道府県知事に伝えなければならないとされている。都道府県知事による発表も、実務上は都道府県の河川や防災の担当部署が代理して行う。 発表された水防警報は、関係する水防管理者や水防機関に直ちに伝えられる。水防法の規定では、水防団や消防機関が出動の根拠とするのは水防警報以外にもう1つあり、それは河川の水位がはん濫注意水位に達したことであるが、水防警報(水防団などの出動)の発令基準がはん濫注意水位であるため、事実上根拠は1つになる。 水防警報の対象河川(指定河川)と洪水予報の対象河川は、ほとんど同じであるが若干異なる。また、水防警報は河川のほか、湖沼、海岸も対象としている。 情報の種類[編集] 待機 水位の上昇が予想されるとき、水防団や消防機関が出動できるよう人員の確保などを行う。また、出動が長引いたため人員削減が必要であるが、最低限の人員が未だに必要であるときにも発表する。 準備 水防に関係する資材、機器、通信手段、輸送手段などの準備や点検を行う。 出動 水防団や消防機関に出動を促す。 警戒または指示 出動後、水位や各地の越水状況など、警戒すべき情報とともに状況を伝える。 解除 一連の水防警報の解除を伝えるもの。 (情報)

Continue reading

京王れーるランド – Wikipedia

京王れーるランド(けいおうれーるランド)は、東京都日野市にある鉄道保存施設・博物館。京王動物園線多摩動物公園駅に隣接し、京王電鉄が運営する。 京王電鉄・京王バスの保存車両や資料などが展示されているほか、両社の各種イベント会場としても使用されている。 旧施設の外観(2006年6月3日撮影) 2000年3月24日開業。多摩動物公園駅の駅舎に併設された展示施設として運営されていた。この施設は多摩都市モノレール開業に伴う乗客減を補う施策の一つとして、京王電鉄社員の手作りで準備されたものである[1]。 館内には京王電鉄の電車のNゲージ鉄道模型を運転できるジオラマ(レイアウト)や、カーペット敷きのスペースで遊べるプラレールのコーナーが設置され、過去の行先板・駅名板・乗車券等が展示されていた[2]。Nゲージの運転装置は実際の京王電鉄の車両で使用していた運転台機器を利用したワンハンドル式とツーハンドル式で、来館者が有料で操作できた[2]。一部にはCCDカメラの画像を映すディスプレイがあった。 旧施設は入場無料で[3]、営業時間 9:30 – 17:30[3]、水曜定休(水曜日が祝日の場合は翌日)[3]として運営されていた。館内では「京王れーるランド」限定品を中心とした鉄道グッズが販売されたが、通信販売は行われなかった[3]。 新施設へのリニューアルに伴い、2013年8月25日に営業を終了した[4]。 多摩動物公園駅前広場(2003年7月21日撮影) 建設中の新施設左下の建物が旧施設(2013年8月13日撮影) 旧施設営業終了直前の駅前(2013年8月14日撮影) 新施設の外観(2013年10月12日撮影) 新施設開業直後の駅前(2013年10月12日撮影) キャラクターが描かれた駅改札(2014年2月28日撮影) 「京王の電車・バス100周年記念事業」の一環として、2013年10月10日にリニューアルオープンした[5][6]。京王電鉄・京王電鉄バスの前身である京王電気軌道は、1913年(大正2年)4月15日に笹塚 – 調布間で京王線を開業、同日より未成区間の新宿 –

Continue reading

オルジェイ (衛王) – Wikipedia

オルジェイ(モンゴル語: Өлзий, Ölǰei、中国語: 完澤、? – 1324年)は、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの庶子のアスタイの息子。『元史』などの漢文史料では完沢、『集史』などのペルシア語史料ではاولجای (Ūljāī) と記される。 『元史』巻107宗室世系表ではオルジェイがウルン・タシュの息子であると記す一方、『集史』ではアスタイ(آسوتایĀsūtāī)の息子と記しており、記録が一致しない。しかし、『元史』宗室世系表は誤りが多いことで有名なこと、『元史』食貨志でオルジェイ時代の下賜がアスタイ家名義でなされていることなどから、『集史』に従ってアスタイの息子とするのが正しいとされる[1]。 クビライ統治時代のオルジェイの動向は不明で、モンケ家王族の多くが参加した「シリギの乱」に加わったのかどうかも不明である[2]。元貞2年(1296年)、当時モンケ・ウルス当主であったウルス・ブカが大元ウルスに投降した直後、オルジェイは初めて史書に名が記される。この時、オルジェイは成宗テムルより無邑国名の印を与えられている[3]。 大徳9年(1305年)にはアリクブケ家のヨブクルとともに金印を賜り、衛安王に封ぜられた[4]。これはウルス・ブカがそうであったように、元朝に敵対的であった諸王を優遇することでいまだ中央アジアで敵対を続ける人々に帰順を促す目的があったものと見られる[5]。また、「衛安王」とはモンケ・ウルスに割り当てられた投下領の「衛輝路」に由来するものである。 テムルの死後即位した武宗カイシャンは、それまで限られた者にしか許されていなかった最高ランクの「一字王号」を乱発し、オルジェイもまた至大3年(1310年)に「衛安王」より新たに「衛王」に封ぜられた[6]。この時点でモンケ家の中で一字王号を賜っているのはオルジェイただ一人であるため、この頃にはウルス・ブカに代わる新たなモンケ・ウルス当主と見なされていたものと見られる[7]。 この後も仁宗アユルバルワダ・英宗シデバラに仕え続けたものと見られるが、皇慶元年(1312年)にオルジェイおよびその息子のチェチェクトゥに対して下賜があった[8]ことを除けば記録はない。 泰定元年(1324年)、新たにカアンとなったイェスン・テムルよりオルジェイの息子のチェチェクトゥに父の所部を承襲するよう命令がなされており、この頃にオルジェイは亡くなったものと見られる[9]。 『元史』では郯王徹徹禿という息子がいたことを記す。『集史』にはオルジェイの息子に関する記述はないものの、『五族譜』・『高貴系譜』といった系図集にはオルジェイの息子としてチェチェクトゥ(چکتوChektū)の名前が記されており、これが「徹徹禿」に相当するものと見られる。また、『高貴系譜』のみにはBārītāīという息子がいたことを記しているが、他の史料での裏付けはとれず実在したかどうかは不明である[10]。 モンケ家の系図[編集] モンケ・カアン…トルイの長男で、モンケ・ウルスの創始者。 バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子。 トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子。

Continue reading

まつもと市民芸術館 – Wikipedia

正面右斜め前方より まつもと市民芸術館(まつもとしみんげいじゅつかん)は、長野県松本市深志にある音楽ホール・劇場である。 館長兼芸術監督に俳優・演出家の串田和美を迎えて2004年8月に開館した。 設計は日本を代表する建築家の一人伊東豊雄。日本では比較的珍しい4層のバルコニー席を備える馬蹄形の主ホールは、田の字型の巨大な4面舞台を備え、幅広い演出に対応している。優良ホール100選に選ばれている。 日本最大級の音楽祭であるセイジ・オザワ 松本フェスティバル(旧称サイトウ・キネン・フェスティバル松本)の主要会場である。 また歌舞伎役者の十八世中村勘三郎(1955年 – 2012年)が、生前最後となった『信州・まつもと大歌舞伎』の舞台に立った劇場でもある[1]。 現在のまつもと市民芸術館の敷地には、戦後すぐに、第二公民館が建築された。これは同地に建設された初代の公共施設である。この建物は1955年(昭和30年)に焼失した。 その跡地には、1958年(昭和33年)に、2代目の公共施設となる松本市民会館が着工、翌年竣工した。この会館は、約1,300の座席を持つホールとして長く利用された。また、会館前の広場は「ライラック広場」と呼ばれ、大型の噴水と美しい庭園が整備されていた。しかし、建物が老朽化するとともに、他の大型ホールが市内に新設されたため、主要なコンサートなどは次第に開催されなくなっていった。 現在のまつもと市民芸術館は、老朽化した松本市民会館を取り壊して、2004年(平成16年)に竣工したもので、同地での公共施設として3代目に当たる。この建物は以前の広場も含めた約9,000平方メートルの敷地に建設され、それまでのものと比べ圧倒的に規模が大きい。建物は地上7階地下2階建てで、内部には約1,800席の主ホール(800から1,400席まで規模を調整できる)、240席の小ホールのほか、主ホールの舞台を利用した約400席の実験劇場、リハーサル室やレストランなども完備している。総事業費は145億円。来館者用の駐車場は設けられていない。 まつもと市民芸術館の建設に対する賛否[編集] 松本市民会館の改築に対しては、1997年頃から、松本商工会議所、松本商店街連盟、松本中央商店街振興協議会といった経済団体、松本市民劇場、松本こども劇場、松本アマチュア劇団連合会といった芸術団体により、陳情・要望が行われていた[2]。 一方、松本市による改築計画は、施設の規模が大きく、総工費も145億円(松本市の負担はこの内55%)と高額であった。しかも、松本市には他にも同様のホールが存在し、都市の規模からコンサートも頻繁に開かれるものではなかった。このため、新施設の設備は過剰であり、その建設は税金の浪費にすぎないと捉える向きも多かった。また、競争入札の不透明さが問題となり、建設に対して市民の不信感が一層増すことになった。このため、建設中止の是非を問う住民投票の実施を求める請願の市議会への提出や、署名運動などの激しい反対運動が起きた。 このような中、当時の市長有賀正は計画を強力に推進し、新施設は規模を縮小することなく建設された。しかし、芸術館建設の是非が争点となった竣工直後の市長選挙では、現職の有賀は敗れ、反対派の菅谷昭が当選した[3]。 アクセス[編集] 松本電鉄 新浅間線 北市内線

Continue reading

矢ノ川峠 – Wikipedia

矢ノ川峠(やのことうげ〈矢ノ河峠〉[1])は、三重県尾鷲市と熊野市の間にある標高807メートル(かつて808メートルと記録)の峠である[2]。峠の名称は矢ノ川の谷沿いに登ることによる[3]。 矢ノ川峠は、台高山脈の南端に位置する[1]。この付近は紀伊山地が急斜面をなして熊野灘に沈降する地形となっており、それ故に現在の尾鷲市と熊野市の間を結ぶ陸路は、危険な海岸沿いのルート(現在の国道311号とほぼ同じ)を行くか、江戸時代に開かれた[3]尾鷲湾に注ぐ矢ノ川に沿って源頭を登り、高峰山(標高1045メートル)の南にあるこの峠を越えるルートを行く方法しかなく、熊野街道で最大の難所とされた[4][5]。 江戸道[編集] 江戸時代の矢ノ川峠は、高峰山山頂の南部を通っていた[5]。また、江戸道の登坂はデンガラ越え(伝唐越)と呼ばれ[6]、途中にはデンガラ滝などがある[7]。平安時代より存在した熊野古道の伊勢路には[8]、その難所として古くから知られた八鬼山(やきやま)越えがあったが[9]、それに対して、矢ノ川峠のかつての記録としては、享保11年(1726年)に江戸幕府の薬草調査役人が越えたほか、明治3年(1870-1871年)に上陸したキリスト教徒が尾鷲方面に越えたことなどが認められるのみであるとされる[3]。 明治道[編集] 1880年(明治13年)3月1日、三重県議会において、山谷に阻まれた東紀州の産業活性化に向けて新たな熊野街道を通すにあたり、技術や予算において困難な八鬼山越えでなく、矢ノ川峠を改修する案が可決されると、1886年(明治19年)より峠道の改修(第1次改修)が着工され、1888年(明治21年)5月2日に完成した。しかし、この新たな道も険しい登坂や九十九折れを繰り返し、さらにこの地方特有の豪雨の影響により、実用には不十分なものであった[3]。 1911年(明治44年)になって再び改修(第2次改修)に着手されると、次第に街道の各所に隧道(トンネル)などが設けられていき、通行の実用性が高まっていった。それに伴い、1916年(大正5年)に紀州自動車が設立されるとともに、1920年(大正9年)には尾鷲自動車が設立されると、乗合の定期自動車が松阪 – 木本(きのもと)間を運行されるようになる。1924年(大正13年)には、両社が紀伊自動車として合併し、尾鷲から木本方面は、積雪のない4-10月に一日2便が運行された。しかし、その運行にはなお豪雨による土砂崩れなどにより多くの支障があった[3]。 索道[編集] 1927年(昭和2年)1月より、尾鷲からの運行において最も障害があった大橋 – 小坪の間を、ロープウェイに乗り換え連絡するための敷設工事が着工され、当時、7万円を要して同年5月、日本初の旅客用ロープウェイ「安全索道」(紀伊自動車索道線)が完成した。この索道により、標高差479メートルの区間を結び往復輸送されるようになると[3]、1927年(昭和2年)から約10年間、紀伊自動車が乗合自動車と旅客索道[10]による乗り換え輸送を行なっていた。この「安全索道」の乗客数は年間4000人弱であった[3]。なお、この時代には、熊野巡航船による尾鷲 – 木本間の航路もあったが(1932年〈昭和7年〉-1959年〈昭和34年〉)[11]、その海路もまた天候により大きく影響を受けるものであった[12]。 昭和道[編集] 1934年(昭和9年)12月19日、紀勢東線(現在の紀勢本線)の三野瀬駅 – 尾鷲駅間が開通し、同年、峠道も本格的な改修に着手されると、1936年(昭和11年)、かつての峠道から南谷を回るルート(矢ノ川新道[13])を通る自動車道(県道松阪新宮線)が開通した(後に旧国道41号、二級国道170号を経て、現在の国道42号)[3]。この1936年(昭和11年)から[14]、鉄道省運営の省営バス[15](後に国鉄バス紀南線[13])が走り、紀勢本線が開通するまで[4]、一日4便、片道2時間45分かけて運行していた[3]。このバスからの眺めは熊野灘が一望できる絶景であった[4]。自家用車が稀であったこの時代、矢ノ川峠の運行は、ほとんどがバスおよび木材を運搬するトラックであったとされる[3]。1944年(昭和19年)になり、紀伊自動車が三重交通に統合されると、矢ノ川峠の明治道は昭和初期に設営された旅客索道とともに廃止された[3]。 1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通の前日まで、矢ノ川峠には休憩所を兼ねた茶屋が存在したが、国鉄バスは、尾鷲駅

Continue reading

氷川神社 – Wikipedia

この項目では、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町の氷川神社について説明しています。その他の氷川神社については「氷川神社 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年7月) 氷川神社(ひかわじんじゃ)は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社。式内社(名神大社)、武蔵国一宮(または三宮)、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される神社の1つ。 東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社である。他の氷川神社と区別する際は「大宮氷川神社」とも呼ばれる。 埼玉県・東京都の荒川流域、特に旧武蔵国足立郡を中心にして氷川信仰に基づく氷川神社が多数分布しており、当社はその中心である。「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来する普通名詞から転じたものである。埼玉県周辺の広域から参拝者を集め、正月三が日の初詣の参拝者数(警察調べ)は全国10位以内に数えられる[1]。特に全国的に初詣客が増加した2008年(平成20年)以降は毎年200万人以上が訪れている[2]。 神社の境内は、見沼(江戸時代中期まで存在した広大な沼)の畔に位置し、もとは見沼の水神を祀っていたと考えられている。神社の南側に広がる神池(かみいけ)は、神社の西側から涌き出た地下水が溜まったものであり、かつて見沼の一部であった。神社に隣接する埼玉県営大宮公園は、明治期に神社周辺の森を取得して整備したものであり、神社のある小山を見沼の入江が囲んでいた、という地形の特徴をよく保存している。 大宮の氷川神社、見沼区中川の中氷川神社(現 中山神社)、緑区三室の氷川女体神社は、いずれも見沼の畔にあり、かつ一直線に並んでいる。この三氷川とかつて大宮の氷川神社境内にあった三社(男体社・女体社・簸王子社)がよく混同されるが、別のものである[3]。 現在の主祭神は次の3柱。 現在の祭神は、1833年(天保4年)当時の神主・角井惟臣が著した『氷川大宮縁起』に拠る。 祭神の変遷[編集] 祭神がどの神であるかは、以下のように多くの議論がなされてきた[4]。平安時代中期の『延喜式神名帳』では一座として記載されている。 日本武尊の東征時、須佐之男命を勧請したとする説(吉田兼永)。 須佐之男命とする説(『大日本神祇史』)。 男体社:須佐之男命(相殿に伊弉諾、日本武尊、大己貴)、女体社:奇稲田姫命(相殿に天照太神宮、伊弉冉、三穂津姫、弟橘媛)、簸王子社:大己貴とする説(『新編武蔵風土記稿』)。 男体社:伊弉諾、女体社:伊弉冉、簸王子社:軻遇突智とする説(『大宮氷川太明神縁起之書』)。 前史[編集] 社伝によれば、孝昭天皇3年4月の創建という[6]。「国造本紀」によると、初代无邪志国造の兄多毛比命は成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し[7]、祖神を祀って氏神として、当社を奉崇したという。この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲の簸川(ひかわ)に由来するという説がある。 一方、氷川神社の摂社に「門客人神社」がある(現在も氷川神社社殿の東隣に鎮座)。元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[8]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[9]、先住の神がアラハバキとみられる[8]。

Continue reading

豊岡市立八条小学校 – Wikipedia

豊岡市立八条小学校(とよおかしりつ はちじょうしょうがっこう)は兵庫県豊岡市九日市下町にある公立小学校。略称は八条(はちじょう) 1873年(明治 6年) 7月  上町勝妙寺に旭小学校開設 1874年(明治 7年) 9月  上町女代神社に校舎移転 1882年(明治15年) 6月  上町72番地に校舎新設 1887年(明治20年) 4月  旭簡易小学校と改称 1900年(明治33年) 6月  八条尋常小学校と改称 1903年(明治36年) 7月  下町328番地に校舎移転、新校舎完成 1933年(昭和 8年) 4月  豊岡町に合併 1941年(昭和16年)

Continue reading

田嶋一雄 – Wikipedia

田嶋 一雄(たしま かずお、1899年11月20日 – 1985年11月19日)は、日本の実業家。ミノルタカメラ(現:コニカミノルタ)創業者。和歌山県海南市出身。 座右の銘は「難有り有難し」。 目次 1 経歴 2 脚注 3 関連項目 4 外部リンク 1899年11月20日、和歌山県海草郡日方町(現:海南市日方)で父・田嶋常吉と母・きくえの長男として生まれた。田嶋家は鎌倉時代に大野荘[要曖昧さ回避]を管理していた大野十番頭を務めた家柄で、祖父・長三郎の代から漆器製造卸業の田嶋長三郎商店を営んでいた。 日方尋常高等小学校、和歌山商業学校を経て、1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。卒業直後の1923年、日本電報通信社(現:電通)に入社して広告部門に配属されたが、同年9月1日に関東大震災が発生したため会社を退職し、兵庫県神戸市で父が経営する貿易商の株式会社田嶋商店(1920年設立)へ入社した。 1927年11月、父の勧めで日本商品旅商団の一員として、中近東や東欧諸国に向けて出発。翌1928年5月に約6ヶ月の行程を終えた一雄は、一行と別れて単身でドイツ・ベルリンを経て、仏国通商のフランス・パリ支配人を務める同郷の日疋誠[1]を訪ねてパリへ向かった。日疋は数日後に仏国通商の取引先の工場を案内し、その中にSOM社というフランスでも第一級の光学兵器会社があり、巨大な工場の一角には最新鋭の測距儀が並んでいたが、日疋は「光学兵器は難しくて日本では作れない」と説明した。この一件以来、一雄は光学に興味を持つこととなった。 帰国後、2人のドイツ人に勧められてカメラの製造を行うことを決断し、1928年11月11日には「日独写真機商店」の操業を開始し、国産カメラの製造に着手する。技術者のノイマンの指揮により、翌1929年3月に第1号機「ニフカレッテ」が完成。 1931年7月1日、事業の一段の発展を目指し、会社組織に改組して社名を「モルタ合資会社」と改める。1933年に速写タイプの「ミノルタ」[2]を開発。同年有田郡保田村山田原(現:有田市)の上山家の末女・睦子と結婚。1936年には国産初の二眼レフカメラ「ミノルタフレックス」を開発。

Continue reading

アウェアネスコンテキスト – Wikipedia

アウェアネスコンテキスト(認識の文脈)とは、患者と医療スタッフの両方が患者の健康状態について持っているさまざまなレベルの知識または疑問を指す。 この用語は一般的に末期症状の患者の文脈で使用される [1]。それは「死に至る過程に関しての最初の包括的な社会学的調査」であり、末期患者の権利を改善する活動を支援したことは称賛に値する[1]。 この概念は、社会学者のバーニー・グレイザーとアンセルム・ストラウスが1965年の著書『「死のアウェアネス理論」と看護――死の認識と終末期ケア』で紹介したものである[1][2]。認識の文脈は、認識の文脈の中で人々がさまざまな行動をとる方法の違いに基づいて、閉じた、開いた、または疑わしい認識と分類することができる [3]。 患者が自分の状態を知らないが、さまざまな程度で疑問を持っている場合、意識の文脈は閉じていると分類され、病院のスタッフが相互作用制御の文脈で慎重かつ人道的に防御的な立場をとる間、患者は攻撃を続ける [4]。 一方、誰もが患者の状態を認識している状況であれば、それは開いた認識の文脈といえる[5]。それは、誰もが状態について知っているが、彼らは知らない、または患者がすでに死んでいる場合に患者が回復する可能性があるというふりをする相互のふりとは区別される [5]。 参考文献[編集] ^ a b c Timmermans, Stefan (2007), “Awareness Contexts” (英語),

Continue reading