Month: July 2019

礼法 – Wikipedia

礼法(れいほう)とは、日本において望ましいとされる行動様式や心構えを指す言葉である。 礼法は歴史上、様々な変遷を遂げており、敗戦直後までは小笠原流礼法が大きな影響を与えていた[1]。現代ではエチケットやマナーと混同されることが多い[1]。 日本の礼法史[編集] 日本における礼法は、当初は礼儀作法の意味で用いられる言葉であり[1]、礼儀は宮廷での儀礼や年中行事を表し、作法は行事における人間の動作の方式を表していた[1]。やがて、礼儀の意味が一般化し、礼法は貴族社会での身分秩序の中での精神的な心構えを表す言葉となり[1]、礼節や礼式といった言葉と同じ意味を持つようになった[1]。武家中心の社会になると、礼法は規範化された行動方式となり[1]、支配階級の関係を通じた教化や町民や農民による模倣が行われて一般化していった[1]。 明治維新を迎えると、礼法は一時存続が危ぶまれるが、天皇と国民間の親和の心構えを身体動作で表すものとして再編成された[1]。第二次世界大戦中は、軍人礼法に基づいた国民礼法が制定され、この礼法が国民の行動を規定した[1]。敗戦後、礼法は弱体化し、洋風のエチケットやマナーが支配的となった[1]。これ以降、礼法はエチケットやマナーと混同され、消費主義や商業主義と結びついた流行に留まるとする指摘がある[1]。一方で、私立中高一貫校を中心に、礼法を積極的に教育課程に導入する学校もある[2][3][4][5][6]。 武道における礼法[編集] 武道の礼法が意識されたのは、江戸時代中期頃と推測される[7]。幕末明治期には、蹲踞礼と折敷礼の礼法が確立していた[7]。一方、西洋式の軍事訓練が日本に流入すると、直立不動の姿勢が普及し、武道界でも受け入れられていった[7]。武道の礼法は一見古いように見えるが、実は明治末から大正・昭和にかけて和洋を折衷したり、国際的な基準に従ったりして、伝統を再構成したものである[7]。 例えば、柔道においては、1940年の礼法制定までは礼法そのものは重んじられていたものの、所作は厳密でなかった[8]。しかし、稲葉太郎による礼法批判や南郷次郎の礼法普及方針に伴い、講道館と大日本武徳会が修行者礼法を制定し、1940年の修行者礼法では神道的で軍事的な不動の姿勢が採り入れられた[8]。1942年12月に右座左起が左座右起に改められたのも、戦中の神社作法改正に合わせた動きであった[8]。敗戦後しばらく経った1967年には、学生選手の試合態度を是正するという理由で、試合礼法が制定された[8]。 外部リンク[編集]

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TOHOシネマズシャンテ – Wikipedia

TOHOシネマズシャンテ(とうほうシネマズ シャンテ、TOHO CINEMAS CHANTER)は、東京都千代田区有楽町のシャンテビル内にある映画館。経営・運営はTOHOシネマズ株式会社。 日比谷映画劇場、有楽座跡地に「シャンテ シネ(Chanter Cine)」として2スクリーンで1987年10月に開業。隣接する東宝日比谷ビルと同時期に建築・計画された。同ビルとは地下階で連絡しており、名称から日比谷シャンテの付属施設と見なされる場合もあるが、TOHOシネマズへ移管されてからは映画館の運営は独立している。また、その東宝日比谷ビルとの連絡通路があるシャンテビル地下階には日比谷シャンテのテナント区画として使われている。 2009年2月3日よりTOHOシネマズ シャンテに館名変更され、全国のTOHOシネマズ名のシネコン同様にインターネット販売「vit」、ポイントカード「シネマイレージカード」が導入された。 単館上映と呼ばれていた映画館をミニシアターとして一般的に認知されるきっかけとなった映画館とされ、インディペンデント系の外国作品のうちアート的なもの、女性向きのものと、ミニシアター系配給会社による邦画作品を中心に上映している。また、年に数回ほど全国公開の東宝洋画系作品(TOHOシネマズ系)のチェーンマスターになることもある。 オープン当初はTBSのサテライトスタジオも設けられており(厳密にはスタジオスペースをTBSが賃借し、スタジオ内の機材運用と管理を千代田ビデオが請け負っていた)、『新伍のお待ちどおさま』『平成名物TV』などの生番組を主に放送していた。サテライト – TBS本局間の映像伝送には、TBSと東京通信ネットワーク(後のパワードコム)が共同開発した、当時としては画期的なデジタル映像伝送システム(伝送速度は100Mbps)が使われていた。これは1994年頃に閉鎖され、1995年にスクリーン3へ改装されている。 2000年頃に日時指定券(全席自由席・定員入替制)制度を導入。2002年頃に1と2の館名を入替え。2005年6月4日から休館して改装工事を行い、同年7月9日にリニューアルオープンした。リニューアルオープン時に全席指定席(初回のみ全席自由席・定員入替制)が導入された。 入り口近くの日比谷シャンテ敷地内にある「合歓の広場」には、森繁久彌、山田五十鈴、池部良、高峰三枝子、三船敏郎、森光子、丹波哲郎、小林桂樹、淡島千景、高峰秀子、植木等、若山富三郎、高倉健、勝新太郎、仲代達矢、菅原文太、平幹二朗、夏木陽介、加山雄三、緒形拳、八千草薫、山本富士子、草笛光子、池内淳子、有馬稲子、佐久間良子、倍賞千恵子、吉永小百合ら映画俳優の手形やゴジラのミニチュア像が置かれている。 2015年3月23日に、TOHOシネマズ日比谷が隣接する東京ミッドタウン日比谷に2018年オープンすることが発表されたと同時に、TOHOシネマズシャンテはTOHOシネマズ日劇とともに入れ替わる形で閉館するとされた。しかし2017年8月31日、日劇の閉館が2018年2月上旬と発表されたと同時に「~シャンテ」は閉館を撤回されている。これにより、2018年3月29日より「~シャンテ」も、すでに一体運営が発表されていたTOHOシネマズスカラ座・みゆき座とともに、16スクリーン、3448席の日本最大級の映画施設群として運営されることとなる。 沿革[編集] 1987年(昭和62年)10月3日 – 「シャンテ

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羅教 – Wikipedia

羅教(らきょう)は、明の正徳年間(1506年 – 1518年)に羅祖が開創したとされる中国の民間宗教である。また、無為教(むいきょう)とも呼ばれる。教祖自らの宗教観を説いた『五部六冊』を作成し、その後の中国に多数現れた宝巻形式の経典を持つ民間宗教結社に影響を与えた。 仏教系の民間宗教においては、浄土教系に属する白蓮教に対して、禅宗系の民間宗教の代表として、羅教が挙げられる。とりわけ『金剛般若経』に基づいた無為解脱の無為法を説く。その教風は、個人主義的な勤学・清修を特色としている。 当初は、その教徒には、聖典に注釈を施したり、宝巻や語録を著述する者が見られたが、やがて、秘密の行法を伝習する秘密宗教化した。明代では、雲棲祩宏や紫柏真可に代表される伝統仏教の既成教団から、白蓮教に類した邪教として激しく排斥を受けた。時代が下がって清代になると、支配者・官憲の手によって取り締まられるようになる。羅教の教線は、福建省・江蘇省・安徽省・浙江省・江西省など、江南地方に拡大していた。 羅教の系統の結社は、各地に斎堂を建立し、そこを中心に活動を行った。斎堂では、教祖の羅祖を祀り、天・地などの諸像と共に信者に礼拝させた。羅教は、その初期から、漕運業者(水夫集団[2])や運搬業者などに信仰されていた。そこから、清代には、運糧水手が組織した秘密結社である青幇との結びつきが生まれることとなった。 羅教の思想の中心は「空」と呼ばれる宇宙万物の本体にある。「空」は原初から存在し、この世のすべてはこの「空」から流出・生成したとされ、万物は「空」の化体であり「空」と一体無二とであるという。五部六冊は仏教書からの引用が多数みられるが、羅教の「空」は大乗仏教の「空」とは概念が異なり、むしろ老荘思想の「空」に近い。さらに、羅教では「心」の働きを重視しており、「心」こそが仏であり本体であると気付くことで、誰もが悟りを得ることができるとされている。 『五部六冊』には具体的な悟りへの方法は示されておらず、各人の主体性に任される形になっている。羅祖の死後、羅教はいくつもの系統に分派して行き、その教義も多様となっていく。 『五部六冊』では宇宙万物の本体を、老真空・無生老母・無極老祖・本来面目・家郷・自己光などと呼んだ。これらはあくまで抽象的な概念に過ぎなかったが、次第に実体化・神格化し始め、信者からの礼拝を受けるようになっていった。こうして宇宙万物の本体は悟るべき主体から、彼岸に存在する帰依すべき客体へと変化していった。また、羅教は当初白蓮教や弥勒信仰を邪教・邪法として批判していたが、信者の増加と万物一体観の発展から明末清初の時代にはこれらとの習合が起こった。 五部六冊[編集] その根本経典は、『五部六冊』と呼ばれる宝巻であり、1509年(正徳4年)の成立である。 苦功悟道巻           1冊 嘆世無為巻           1冊 破邪顕証鑰匙巻        2冊 正信除疑無修証自在宝巻  1冊 巍巍不動泰山深根結果宝巻 1冊 信徒のランク[編集] 信徒には、禅僧や居士が多く含まれていたが、その入信以後の修行の階梯によって、9つのランクに分けられていた。 空空 (教主) 太空 (教区長)

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明治大学付属明治高等学校・中学校 – Wikipedia

明治大学付属明治高等学校・中学校(めいじだいがくふぞくめいじこうとうがっこう・ちゅうがっこう)は、東京都調布市富士見町四丁目に所在し、中高一貫教育を提供する男女共学の私立高等学校・中学校。学校法人明治大学が運営する附属学校。略称は明大明治(めいだいめいじ)、明明(めいめい) 高等学校において、中学校から入学した内部進学生徒と高等学校から入学した外部進学生徒が第1学年からクラスが混合する併設型中高一貫校[1]。 明治大学唯一の直系附属校。校内では「明治高校」、「明治中学」と呼ばれ、生徒は「明中生」(めいちゅうせい)、「明高生」(めいこうせい)、両者合わせて「明校生」(めいこうせい)と呼ばれる。 1912年(明治45年)4月、旧制明治中学校として神田区駿河台南甲賀町の明治大学構内にて開校。1922年(大正11年)に同区裏猿楽町(現:神田猿楽町)に移転した。初代校長には極東国際軍事裁判日本側弁護団長にして西園寺公望や原敬のブレーンなどを務めた政治家でもあった鵜澤總明、教頭にはイェール大学大学院出身の村田勤が就任。当初は旧制麻布中学校、旧制開成中学校等と共に東京を代表する私学といわれるなど進学校の性格が強かったが[2]、戦後は明治大学までの10年一貫教育を方針とした学校となり今日に至っている。 旧制麻布中学校との間には教員などの往来のほか、関東大震災の校舎焼失の際に同校校舎を借用するなどの交流があった[3]。 1950年から1955年までの一時期、伊豆七島の八丈島に明治大学付属八丈島高等学校が存在したが、短期間で閉鎖された。 1960年頃まで、明治第二高等学校(夜間部)が設置されていた。著名な卒業生に明治大学評議員舩曵寛眞(日本航空名誉顧問)等がいる。 大学受験において最も多くの志願者を集める人気校である明治大学の唯一の直系付属校であることなどから、大手進学塾日能研等による入試データでは早慶付属校などと並び、私立大学付属校としては最難関圏内にランクされている[4][5]。 2008年(平成20年)に調布市の日本航空グラウンド跡地へ移転し、同時に男女共学となった。新キャンパスへの移転により、総工費約240億円の最新鋭の施設での少人数教育、クラブ活動など、教育環境は大幅なレベルアップを遂げた。日本初の女性法曹・裁判官、キャリア官僚、女性政治家などから、現在活躍中の女優・ファッションモデルまで、時代をリードするOGを輩出してきた明治大学に対し、付属校として永らく男子校の伝統を守ってきたが、共学化により新たな伝統が生まれることが期待されている。なお学校説明会によると、2008年の移転・共学化に伴い、教員採用の応募倍率は60倍でとなった。 出典:明治大学付属明治高等学校・中学校「校訓・沿革」 校歌[編集] 校歌 学生歌 応援歌 第一応援歌「紫紺の歌」 第二応援歌「血潮は燃えて」 第三応援歌「紫紺の旗の下に」 社会科(倫理)において「ジグゾー法」という画期的なプログラムを用いた授業が実践されており、コミュニケーション能力等の社会的スキル、自己と他者への気づきなどを拡大させることを通じ、単なる知識の習得ではない全人格的な成長を促すものとして、教育界の注目を集めている。 中学校における外国語教育では、全授業の半分をクラス分割した少人数制で実施(中2からは習熟度別編成に移行)。また外国人講師による英会話・文法の授業等が実施されている。 毎年1月末に学校内行事として、英語によるスピーチコンテストが開催されている。中学3年生から高校1年生を中心に選抜された10人が、テーマを決めて英語でプレゼンテーションを行うもので、選抜された10人には英語圏への語学研修用の奨学金が支給されている。

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マンガワン – Wikipedia

作品名 作者(作画) 原作など 更新日 あまりものてもこいはあまいあまりものでも恋は甘い 銀色かな - 01隔週月曜 いきぬけはくそうくそはむちやん生きぬけ!爆走!クソハムちゃん NORICOPO - 01隔週月曜 いけんせんきうえるんていお異剣戦記ヴェルンディオ 七尾ナナキ - 01月曜 いせかいてせいきしのはこおししてたらとうとみかすきてせいしよになつてた異世界で聖騎士の箱推ししてたら尊みが過ぎて聖女になってた 山悠希(作画) のんべんだらり(原作) 01隔週月曜

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つぶし合いクイズ!悪意の矢 – Wikipedia

『つぶし合いクイズ!悪意の矢』(つぶしあいクイズ!あくいのや)とは、2020年9月28日の、22:30 – 23:50で日本テレビYouTube公式チャンネルおよびHuluで生配信、23:59 – 0:54の月曜プラチナイト(日本テレビ)で生放送されたクイズ番組である。 秋元康企画によるクイズ番組。日本テレビ公式YouTubeチャンネルとHuluによる生配信から開始し、放送時間内で勝ち残った者がそのまま地上波での生放送へと進み最後の一組を決めていく。 放送は地上波放送前に日本テレビ公式YouTubeチャンネルとHuluによる生配信によって行われる「第1部(予選)」と地上波本放送である「第2部(決勝)」に分かれて行う。 親となる「KILLER」は出題後の様子や態度などを踏まえ不正解だと思う解答者を指名。解答者が不正解の場合はその解答者は即刻退場となる。正解だった場合はその解答者にKILLERが入れ替わる。[1][2]。正解・不正解に関わらず問題は1問につき1組の指名のみで行われる。 第1部の最初のKILLERは解答者の中で最年長者(2回とも水道橋)が、第2部は第1部の最後にKILLERだった解答者が引き続き行う。 解答は第1部では指名された解答者のみが口頭で解答、第2部では全組モニターへの筆答で行い、正解発表時には適宜全員の解答も紹介される。2人組で参加する解答者は相談も可。 一部解答者はスケジュールの都合により途中参加となる場合もあり、その場合はその時点で出題されている問題から参加することとなる。 最後まで生き残った解答者が優勝となり賞金100万円を獲得。しかし、第1回では時間の都合により生き残ったJO1と乃木坂46の2組で100万円を山分け。第2回も時間の都合により生き残った森田と宮崎がじゃんけんで勝負し勝利した森田が100万円を獲得した。 司会・進行[編集] MC 実況 解答者(ゲスト)[編集] 第1回 地上波放送(第2部)開始時点で残っていた解答者 ネット配信(第1部)の時点で敗退・退場し、地上波に出演できなかった解答者 第2回[3]

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ウィリアム・サマセット (第3代ウスター伯爵) – Wikipedia

第3代ウスター伯爵 第3代ウスター伯爵ウィリアム・サマセット(英語: William Somerset, 3rd Earl of Worcester KG、1527年ごろ – 1589年2月21日)は、イングランド貴族。1549年までハーバート卿の儀礼称号を使用した[1]。 第2代ウスター伯爵ヘンリー・サマセットと2人目の妻エリザベス・ブラウン(英語版)(1502年ごろ[2] – 1565年、サー・アンソニー・ブラウン(英語版)の娘)の息子として、1527年ごろに生まれた[1]。幼年期はおそらくモンマスシャーにおける父の領地で過ごしたとされる[2]。 1544年に父とともにイングランド軍に従軍してフランスに駐留、同年7月25日にカレー[2]でGentleman of the Privy Chamberとヘンリー8世のPrincipal Esquireに任命された[3]。1546年7月にイングランドの使節団とともにフォンテーヌブローを訪れた[2]。

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甑島列島 – Wikipedia

甑島列島(こしきしまれっとう[3])は、東シナ海にある列島。鹿児島県薩摩川内市に属する。甑列島(こしきれっとう)ともいう。上甑島(かみこしきしま)、中甑島(なかこしきしま)、下甑島(しもこしきしま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる[3][4]。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした大岩を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては「古敷島」「小敷島」「子敷島」「古志岐島」などとも書いた[5][6][7][8]。列島全体では人口5,576人、面積117.56km2、海岸線延長183.3kmである[1]。 従来、「こしきじま」という呼称であったが、薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきしま」に呼称が変更された[3](#名称参照)。 地名の由来は、海岸にある甑(底に穴の開いた取手付きの食物を蒸すための土器)形の岩を御神体に甑島大明神として祭ったことからであるという。平安時代中期の文献である『和名抄』には「古之木之万(こしきしま)」と表記してある[9]。 「甑島」は従来「こしきじま」と呼称され[3]、椋鳩十の児童文学「孤島の野犬」でも下甑島を「じま」と読ませている[3]。また、教科書や地図でも従来「こしきじま」とルビ表記されていた[3]。しかし、読みが混在しているとして平安時代の文献や、合併前の旧村の郷土誌を調査し、その結果に基づき2014年4月に薩摩川内市は国土地理院に変更を申請し、2014年8月に「こしきしま」に呼称が変更された[3]。薩摩川内市では市民へ強制はしないとしているが、島民からの反発も報道されている[3]。 甑島列島の大字(里地域:■、上甑地域:■、鹿島地域:■、下甑地域:■) 甑島列島はいちき串木野市の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた[10]。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、リアス式海岸と起伏に富んだ地形がある[4]。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある[注 1][11][12][13]。面積は上甑島が44.14km2、中甑島が7.31km2、下甑島が66.12km2であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である[14]。鹿児島県の離島の面積は奄美大島、屋久島、種子島、徳之島、沖永良部島、長島、加計呂麻島、下甑島、喜界島、上甑島の順となり、下甑島の面積は山手線の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山[15]、中甑島が294mの木の口山[16]、下甑島が604mの尾岳[17]であり、尾岳の尾根には航空自衛隊の下甑島分屯基地がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー(J/FPS-5)への更新工事が完了した。 甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない[18]。上甑島と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、下甑島は400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだリアス式海岸の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。 おもな島[編集] 有人島 上甑島(かみこしきしま) 中甑島(なかこしきしま) 下甑島(しもこしきしま) 無人島 野島 近島 双子島 沖の島 筒島 (かせとう)

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