Month: August 2019

二条師良 – Wikipedia

二条押小邸跡(京都府) 二条家墓(京都府 二尊院) 菩提所(岐阜県 立政寺) 菩提所(岐阜県 立政寺) 二条 師良(にじょう もろよし)は、南北朝時代の公卿。太政大臣・二条良基の嫡男。官位は従一位・関白、左大臣。二条家6代当主。北朝の後光厳天皇、後円融天皇の2代にわたって関白を務める。晩年に発狂した。 関白就任まで[編集] 北朝で権勢を振るった、関白・二条良基の長男として貞和元年(1345年)に誕生。貞和5年(1349年)に5歳で元服して正五位下となり[1]、さらに1月後には従四位下・右近少将に叙せられる。摂関家の嫡子として順調に昇進し、文和3年(1354年)には従三位・権中納言に昇進する。貞治5年(1366年)には内大臣、翌年に右大臣、応安2年(1369年)25歳の時に藤氏長者・内覧となって後光厳天皇の関白に任命される。懇望したにも拘わらず、前関白鷹司冬通は直衣始もないまま関白辞任に追い込まれており、冬通が自発的に左大臣職を譲ったのではなく、良基の策謀によって師良の昇進が強引に進められたといわれている。太政大臣・久我通相も大臣職を辞し、次第に朝務は師良へと集中していった[2]。 父・良基の陰に隠れて目立たないながらも、師良は白馬節会の内弁を見事に務めあげるなどの職務はよくこなし、異例の出仕ぶりを見せた[3]。応安元年(1368年)には異母弟の二条師嗣と一条経嗣も共に非参議に上っており、押小路邸の泉から白龍が昇天するという、この頃の二条家の繁栄を象徴する奇瑞な出来事も起こっている[4]。師良他良基の子息たちの異例な昇進ぶりは、良基の絶大な政治権力によって支えられていた。師良が関白に就任した応安2年(1369年)に、師嗣は師良の猶子になっている。 歌会参加[編集] 応安4年(1371年)9月13日に後光厳仙洞の三度御会始を行い、良基に譲られて初めて御製読師を務め、近衛道嗣ともここで初めて対面した[5]。この頃から、歌人との交流や歌会・御詩会への参加が見られるようになる。禁裏での歌会の他に、貞治5年(1368年)には良基主催の年中行事歌合に参加。 貞治6年(1367年)には、足利義詮の求めに応じて催かれた新玉津島社歌合や宮中の中殿御会に参加。良基主催で連歌師の救済や周阿、歌人の冷泉為秀や四辻善成等が集まった連歌寄合の会 光源氏一部連歌寄合にも参加している。連歌に関しては、良基の著した連歌書『知連抄』は、奥書によれば応安7年(1374年)に関白師良の求めに応じて書かれたものとされる[6]。勅撰和歌集へは、新拾遺和歌集に2首、新続古今和歌集に2首ほど入集している。師良自筆和歌歌懐紙は冷泉家時雨亭文庫に一紙現存している。[7]また「今年はや 若紫に咲きそめて 三代にこえたる 北の藤波」(「貞和百首」・『新続古今和歌集』春下・198番歌)貞和2年(1346年)年良基によって詠まれたこの歌は、「若紫」を若君師良誕生の言祝ぎ歌とする解釈[8]と、関白として先祖越えを果たした若い良基の自祝歌[9]とで解釈が分かれる。 発狂事件[編集] 応安3年(1371年)には従一位に叙せられ、この年に即位した後円融天皇の元服・加冠役を師良が務めた。光厳天皇忌の宸筆御八講も関白として参仕している。応安7年(1374年)には、父・良基が放氏となる事態とまでなった神木が3年ぶりに南都に帰座し、延引していた後円融天皇の即位大礼が執り行われた。永和元年(1375年)にかけて、良基親子はこれらの儀式に参仕している。同年に師良は左大臣・関白を辞し、この頃から歌会などへの不参が目立つようになる。 その後、永和4年(1378年)34歳の時に、師良が発狂するという事件が起こる。師良はこのところ狂気の様子が続いていたようで[10]同年4月7日の夕刻、師良は衣カヅキの体で路上に走り出し、月輪家尹等家司達に取り押さえられた。近衛道嗣は『愚管記』にこのことを記しており、二条家外部の目撃者も多くあった。良基は息子の発狂の知らせを聞いてもそのまま平然と連歌会を続けており、近衛道嗣は良基の異常な態度を非難した[11]。良基の叔父の大僧正良瑜が長吏をしていた常住院から祈祷の僧達も派遣されたが、激昂する師良に押し伏せられて手の付けようもなかった[12]。師良の発狂に際して、正室・正親町三条行子も度々実家に逃げ帰っていた[13]。

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艦隊情報群 – Wikipedia

艦隊情報群(かんたいじょうほうぐん、英称:Fleet Intelligence Command)とは、海上自衛隊の自衛艦隊に属する部隊である。 1997年(平成9年)1月20日、情報本部の創設とともに情報業務群として編成された海上自衛隊唯一の情報専門部隊である。 2020年(令和2年)10月1日付で「情報業務群」を廃止し、「艦隊情報群」を新編。作戦情報支援隊、電子情報支援隊、基礎情報支援隊を廃止し、「作戦情報隊」、「電磁情報隊」を新編[1][2]。艦隊情報群の新編により、定員は約200人から約230人に増強し、部隊の統合による業務の効率化を図り、電磁波情報などの収集・分析能力を向上させ、自衛艦隊に対する情報支援機能が強化された[3][4]。 主たる任務は艦艇・航空機を運用している自衛艦隊、地方隊等の部隊に必要な作戦情報を分析し、配布することである。 司令部は船越地区(神奈川県横須賀市船越町7-73)の「海上作戦センター」内におかれており[1]、艦隊情報群司令は1等海佐(一)[5]をもって充てられている[6]。 艦隊情報群司令部(船越地区) 作戦情報隊(船越地区) 総務科 作戦情報第1科 作戦情報第2科 作戦情報第3科 電計科 電磁情報隊(船越地区) 総務科 電計科 運用部 電磁情報第1科 電磁情報第2科

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竹島漁猟 – Wikipedia

竹島漁猟合資会社(たけしまぎょりょうごうしがいしゃ)は、1905年(明治38年)、島根県隠岐郡(当時・隠地郡)竹島での共同漁業のためにつくられた会社[1][2][注釈 1]。 竹島を漁場として開拓した五箇村(現・隠岐の島町)久見の人びとによって担われた[3][4]。 隠岐群島の沖合にあって、それまで「松島」ないし「リャンコ島」と呼称されてきた島が、日本政府によって正式に「竹島」と命名されたのは、1905年(明治38年)1月18日のことであった[3]。それに先立つ1904年9月、西郷町(現、隠岐の島町)在住の中井養三郎は内務大臣、外務大臣、農商務大臣に「りゃんこ島領土編入並貸下願」を提出した[4]。そのなかの説明書には「海驢ノ保護方法」、「海驢ノ群集ニ及ボス競争捕獲ノ害」等の項目があるように、当初からアシカ猟は竹島での漁労の中心であった[4]。 1905年(明治38年)2月22日、竹島が島根県の所管に決定すると、島根県は同年4月漁業取締規則を改正して竹島のアシカ漁を許可漁業とした[2]。隠岐島司はこの許可書を獲得した者を指導する義務を負うこととなり、共同で漁をするために竹島漁猟合資会社を作らせた[2]。 日本政府に「りゃんこ島領土編入並貸下願」を出した中井養三郎も、「アシカ群集ニ及ボス競争捕獲ノ害」を訴えていたので、会社組織での漁に賛同した[2]。島根県は竹島でのアシカ漁の経験のある西郷町(現・隠岐の島町)の中井養三郎、加藤重蔵、中村(現・隠岐の島町)の井口龍太、五箇村の橋岡友次郎の4名に許可書と鑑札を与えた[2][注釈 2]。 漁猟合資会社は同年6月には始動し、その「明治39年度計算書」には「明治39年度ハ前年度失敗ノ余弊ヲ受ケ、資本ハ空乏シ信用ハ地を掃キ」、「本年度ノ本社ノ経済ハ資本払込額ハ僅カニ八百円ニ過キザルニ、前年度ノ損失額ハ実ニ二千五百円ニノボリ(中略)、然レドモ本社ノ未払込資本金ハ弐千弐百円ノ余裕ヲ存スルヲ以テ、本員ハ其ノ払込ヲ得テ此不足ヲ償ヒ及ビ本年度営業ノ資ニ供セントシタル」とあり、創業時の経営は必ずしも順調ではなかったことがうかがわれる[2]。 注釈[編集] ^ 山田吉彦は、会社設立を1906年としている[1]。 ^ 穏地郡浦郷村の淀江徳若、八束郡森山村の加納仙吉、鳥取県東伯郡赤埼村島田虎蔵らも許可書の発行を希望したがかなえられなかった[2]。 出典[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ニーハイム – Wikipedia

ニーハイム (ドイツ語: Nieheim、 [‘niːha͡im][ヘルプ/ファイル]) はドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州デトモルト行政管区のヘクスター郡に属す市である。この街はハイルクリマーティシャー・クールオルト(健康によい気候の保養地)であり、おおむね田舎の構造を持つこの地方の中心都市となっている。現在の地名 Nieheim は、歴史的には Nihem、Nyem、Nym とも表記された。面積約 80 km2 のこの街には約 6,400人が住んでいる。 位置[編集] ニーハイムはオストヴェストファーレン地方南部に位置する。ニーハイムはエッゲ山地/トイトブルクの森南部自然公園の東端にあたる上部ヴェーザー高地(ドイツ語版、英語版)に位置する。市域の半分は、肥沃な黄土のシュタインハイマー盆地に属す。この地域は古くから定住・開拓がなされていた。西部はエッゲ山地(ドイツ語版、英語版)の東の前山であり、南部はネーテベルクラントである。山に囲まれた盆地は、現在も森に覆われている。ニーハイムの歴史的中核市区は、北部の盆地と南部の山地の間に位置している。市域全体がヴェーザー川水系に属しており、最も重要な川はハーメルンの南でヴェーザー川に注ぐエンマー川(ドイツ語版、英語版)である。 地質学[編集] 市域の岩盤は、主に中生代、特に三畳紀およびジュラ紀の粘土岩、泥灰岩、石灰岩、砂岩で構成されている。これらの堆積岩はおよそ 1 km から 1.5

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武藤浩 – Wikipedia

武藤 浩(むとう ひろし、1956年〈昭和31年〉2月23日[1] – )は、日本の運輸・国土交通官僚。 愛知県出身[2]。愛知県立旭丘高等学校を経て[11]、1979年(昭和54年)、京都大学法学部を卒業し、運輸省へ入省[2]。 入省後、航空局航空事業課長、国土交通省大臣官房広報課長、国土交通省総合政策局観光企画課長、国土交通省大臣官房人事課長、同審議官(海事局・港湾局担当)、航空局監理部長などを歴任[9][12]。 2009年(平成21年)7月14日、観光庁次長に就任[9]。 2011年(平成23年)9月16日、国土交通省大臣官房総括審議官に就任[8]。 2012年(平成24年)9月11日、自動車局長に就任[7]。 2013年(平成25年)8月1日、国土交通省大臣官房長に就任[6]。 2014年(平成26年)7月8日、国土交通審議官に就任[5]。 2016年(平成28年)6月21日、国土交通事務次官に就任[2]。 2017年(平成29年)7月7日、退官[3][4]。 2018年(平成30年)1月11日、みずほ銀行顧問に就任[3]。同年2月1日、ぐるなび総研顧問に就任[3]。 2019年(平成31年)4月8日、学校法人國學院大學顧問に就任[4]。 出典[編集] ^ a b

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ノーザン・ロック – Wikipedia

ノーザン・ロック(Northern Rock)は、イギリスのイングランド北部ニューカッスル・アポン・タイン近くのリージェント・センターに本拠を持つ銀行である。かつてはノーザン・ロック住宅金融組合と呼ばれており、1997年にその組合が貯蓄口座や住宅ローンを持っていた人に株を分配し、ロンドン証券取引所に上場したときに、銀行となった。ノーザン・ロックは弱小銀行として上場しそのうちもっと大きな銀行に買収されると見られていたが、そのまま存続し、 2000年にはFTSE100種総合株価指数を構成する株に選ばれた。 2007年、この銀行はサブプライムローン問題に端を発する信用市場の問題からイングランド銀行の特別融資を受けた。 2011年11月、リチャード・ブランソン率いるヴァージン・グループ傘下のヴァージン・マネーによる買収が決定した。 ノーザンロック住宅金融組合は1965年に、ノーザンカウンティ恒久住宅金融組合(1850年設立)と、ロック住宅金融組合(1865年設立)の合併により成立した。多くのイギリスの住宅金融組合と同様、事業拡大のためノーザンロックは非協同組合化し、株式を上場する道を選んだ。このとき、反対意見として、組合の資産は利益を受ける当時の加入者だけでなく過去の加入者によって形成されたので、非協同組合化は作られたときに貢献しようとした共同体への裏切りであるというものがあった。ノーザンロックはこのような懸念に対し、ノーザンロック財団を設立することで対処することを選んだ。ノーザンロックの新しい社章としてマゼンタの正方形に社名の入ったものを導入し、NRをブロックのように並べた従来のロゴを置き換えた。 ノーザンロックは、貸し出し量の点からイギリスで5本の指に入る住宅金融業者である。 住宅ローンの他に、貯蓄口座や、ローン、保険も扱っている。現在住宅ローンを払っている既存の客に対して有担保ローンもすすめている。無担保ローン事業はリーズのヴェンチュラ社によって管理および裏書がなされている。家および家財の保険は、その住宅ローンと証券部門を買い取ったリーガルアンドジェネラル(保険業)が扱っているにもかかわらず、アクサによって扱われている。債務保証は、ロンドンのカーディフピナクル社であつかうことがある。 2006年、リーマン・ブラザーズとの取り引きによって、サブプライムローンに参入した。住宅ローン商品はノーザンロックのブランドで売られるが、そのリスクはリーマンブラザーズによって裏書される。 スポンサー[編集] ノーザンロックは、地元のサッカークラブニューカッスル・ユナイテッドFC、ラグビー・ユニオンチームのニューカッスル・ファルコンズ、デュラハムとミドルセックスのクリケットクラブ、プロゴルフ選手ポール・イールス、そして自転車競技会ノーザンロックサイクロンの公式スポンサーになっている。 ニューカッスル・ユナイテッドのスポンサー契約はイングランドのサッカークラブの中でも条件の良いものであり、2003年から2010年までの契約になっている。そのため、ニューカッスル・ユナイテッドのライバルであるサンダーランドAFCのサポーターたちの間でノーザン・ロックに対するボイコット運動がおきた。 ノーザン・ロック財団[編集] 2007年の信用危機[編集] 早朝からノーザン・ロック銀行の前に列を作る人々 2007年9月、サブプライムローン問題により資金繰りが悪化。イングランド銀行に支援を要請したことから信用不安が広がり、預金払い戻しなどを求める客が店頭やインターネット口座に殺到した(取り付け騒ぎ)。数日で預金残高の8%にあたる20億ポンド(約4600億円2007年9月15日現在の為替レート)が引き出された。英金融当局は「預金の安全性に問題は無い」と緊急声明を出し沈静化を図る。 救済策として買収が検討されヴァージン・グループ等が名乗りをあげていたが、2008年2月、イギリス政府は一時国有化を行う事を決定した。 その後、新旧分離を行い2009年12月31日にバッドバンクであるノーザン・ロック資産管理会社 (Northern Rock

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長門美保 – Wikipedia

長門 美保(ながと みほ、1911年(明治44年)6月23日[1] – 1994年(平成6年)11月11日[1])は、日本の声楽家(ソプラノ)、歌手、オペラ歌手、翻訳家(訳詞家)、歌劇団主宰者・総監督、オペラ演出家。本名は鈴木 美保[1]。 福岡県若松市[2][脚注 1](現: 北九州市若松区)出身。3歳の時、家族とともにドイツに渡り[3]、幼時をドイツで過ごす[1]。小学校1年のとき帰国し、日本女子大学附属豊明小学校に半年遅れで編入[4]。日本女子大学校附属高等女学校を経て[5]、東京音楽学校に入学。在学中に東京音楽学校春期演奏会[5]におけるマーラーの交響曲第2番(指揮: クラウス・プリングスハイム[5])のソリストとなる[1]。1933年(昭和8年)同校を卒業し研究科に進む[6]。船橋榮吉、ヘルマン・ヴーハープフェニッヒ[5]、ネトケ=レーヴェ[7]、クラウス・プリングスハイム[8]、研究科でマリア・トル[5]に師事。1934年(昭和9年)の第3回日本音楽コンクールで第1位に入賞[1][5]。 1935年(昭和10年)6月有楽座開場記念のオペレッタ『シューベルトの戀』に出演[5][脚注 2]。 1936年(昭和11年)5月7日、日比谷公会堂において第1回独唱会(ピアノ: 高木東六、ヴァイオリン: 疋田小枝子[9])を開催[5][9]。盛況で聴衆があふれ始末書を書かされたという[10]。1937年(昭和12年)6月8日[9]日比谷公会堂[9]において第2回独唱会[5](伴奏: 橋本國彦、ピアノ伴奏: 竹村参郎、合唱: 門下生[9])。 1937年(昭和12年)11月及び1938年(昭和13年)4月の2回にわたって、新交響楽団、ローゼンシュトック指揮によるヴェルディ『レクイエム』ソロを務める[5]。 1939年(昭和14年)3月当時すでに「長門美保音楽研究所」が存在[5]し、多くの弟子を養成し、またM・Nサークル女声コーラスを主宰した。PCL(東宝の前身)の社長の娘の依頼により[11]、原節子、清川虹子、細川ちか子、山根寿子、堤真佐子、高峰秀子など、映画俳優の声楽指導にも当った[5][11]。

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鬼月あるちゅ – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “鬼月あるちゅ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年6月) 鬼月 あるちゅ(きづき あるちゅ、12月1日 – )は、日本の漫画家(同人作家)、イラストレーター。ZAN(ざん)と二人で同人サークル「うどんや」を主宰。宮城県出身である。 2004年10月に同人サークル「うどんや」を設立して同人誌デビュー。 主な作品[編集] 漫画[編集] メイド嫁 (HOTMILK COMICS)

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無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年5月) ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作曲した無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータBWV1001-1006は、3曲ずつのソナタ(BWV番号は奇数)とパルティータ(BWV番号は偶数)合計6曲からなり、ヴァイオリン独奏の楽曲として、今日では古今の名作の一つに数えられる。 作曲の背景[編集] ソナタ第1番 アダージョ(自筆譜) 作曲時期は1720年、バッハが35歳、ケーテン宮廷楽長として、音楽好きの君主レオポルト侯に仕え、多くの世俗曲(協奏曲、室内楽曲)を書いていた頃の楽曲である。 バッハ自身の自筆譜による原版はベルリンのプロイセン文化財国立図書館の音楽部門に所蔵されている。そのタイトル・ページには「無伴奏ヴァイオリンのための6曲の独奏曲、第1巻、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作、1720年」と記されている。「第1巻」とあるが、「第2巻」というのは「無伴奏チェロ組曲」のことである。バッハならではの達筆で記された原版には誤記や訂正はほとんどなく、清書であったことがわかるが、草稿は残されていない。 3曲のフーガ、有名なシャコンヌをはじめとして、全体に重音奏法が多く、演奏は容易ではない。ヴァイオリンによる対位法的表現はバッハ一人の発明ではなく、その前にはイタリアのフランチェスコ・ジェミニアーニ、ドイツのハインリヒ・イグナツ・フォン・ビーバー、ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフ(英語版)、ヨハン・ヤーコプ・ヴァルター(英語版)、ジャン・バティスト・ヴォリュミエ、ヨハン・ゲオルク・ピゼンデルといった作曲家が試みている。このバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」はとくにヨハン・ゲオルク・ピゼンデルの影響が指摘される。バッハはビゼンデルとも交流があったことから、ヴァイオリン奏者としても名高かったピゼンデルのために書いたのではないか、とも推定されている。 各曲について[編集] 3曲の「ソナタ」は、緩—急—緩—急の4楽章の、典型的な教会ソナタの形式をとっている。ソナタの第2楽章にはどれも長大なフーガを置いている。 一方「パルティータ」は、第1番・第2番がアルマンド、クーラント、サラバンド、ジーグという組曲の典型的な4楽章形式をとり、第3番は前奏曲、ルール、ガヴォット、メヌエット、ブーレ、ジーグと、フランス風の管弦楽組曲を思わせる舞曲を配置している。なお、第1番はジーグのかわりにブーレがおかれ、第2番は4曲の舞曲のあとに、有名なシャコンヌが置かれている。また、曲によっては曲の後半を「ドゥーブル」として、一種の変奏曲にしている。 ソナタ第1番ト短調

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