Month: November 2019

北朝鮮サイバー軍 – Wikipedia

北朝鮮サイバー軍(きたちょうせんサイバーぐん)は、北朝鮮の電子戦部隊。実行部隊は朝鮮人民軍偵察総局所属だが、統括センターは参謀部所属とされ、軍事大学機関も関係しており全容が分かっていない。複数の呼び名で報道されており統一した名称が確定していない。 暗号解読、機密の入手、産業技術入手、世論操作、資金獲得、Webサイトの書き換え、通信破壊、ウイルスの制作と拡散、他国の会社員を買収してのユーザーIDパスワードの大量入手、サイバー攻撃による企業活動の妨害などの行動が確認されている。当組織に関係していた脱北者が複数存在しており、彼らの証言から一部明らかになっているものの、組織改編や名称変更を繰り返しており、実態把握を困難にしている。規模人員についても諸説あり2014年現時点で5,900人で近年3,000人態勢から増員されたとの報道がある[1]その一方で中国系メディアでは3万人規模にて美林大学・牡丹峰大学・金日成軍事総合大学などで毎年1,000人ほどハッカー育成して増員している[2]ともあり、報道で数字にばらつきがある。2011年時点では、朝鮮人民軍総参謀部の「情報統制センター」が統括しており、実行部隊として偵察総局の「121局」、心理戦部隊として情報・心理戦を担当する同総局の「204局」、「情報偵察部隊」などがある[3]。金正日総書記体制から設立されており、これまでも、北朝鮮の国家規模からは考えられない程の巨額資金と人員を投入しているとされ、小学生から才能ある人材を探してはスカウトし英才教育を施しているとされる[4]。金正恩は特にサイバー戦を重視しており現体制に移って規模が倍増した[5][1]。韓国に対して2009年7月、2011年3月、2013年3月20日、2013年6月に大規模なサイバー攻撃が行われている。2009年の際にはおよそ11万台のパソコンに不正侵入したとされ、韓国内の協力者が逮捕されている[6]。また、2013年3月の韓国大規模攻撃にはおよそ5万台のコンピュータが使用不能にされATMも停止した[7]。また、2014年5月から4か月間に2万台以上のスマホをハッキングしたと韓国政府は発表している[8]。なお、北朝鮮はこれら一連のサイバー攻撃について否定している。中華人民共和国の武漢市などの学校で訓練や教育を受けているとする資料もあり[9]、中国サイバー軍との連携の報道が存在する[10]。サイバー攻撃に重要な北朝鮮のネット回線は中国の国営企業である中国聯合通信が全て独占してきたが[11]、2014年に北朝鮮でネット障害が起きた際は米国の要請を受けた中国によるものとも報道され[11][12][13]、国連の制裁に同調する中国によるネット遮断を恐れた北朝鮮は2017年からロシア企業にもネット回線を開設させた[14]。また、2018年の米朝首脳会談の前には中国サイバー軍と技術や外交情報の交換を積極的に行ってると報じられた[15]。 1986年に軍指揮自動化大学(現・金一軍事大学)にて米国暗号解読に100人規模の組織が立ち上げられたのが最初とされる。 1991年には暗号解読と情報分析から湾岸戦争の正確な開始時刻を的中させ、それにより金正日が重要視するようになり、北朝鮮の大使館など出先機関に出向いてハッキング行為を開始した。 1996年に専門の部隊として北朝鮮労働党作戦部所属として本格的に設立された。当時コンピュータ委員会委員長だった金正男の後押しもあったとされている[9]。2009年に組織改編され人民武力部(国防省に相当)偵察総局傘下に統合された。 2014年12月23日には、金正恩が視察激励に訪れている事が朝鮮中央テレビにて報道されている。 名称[編集] 「北朝鮮サイバー部隊」「北朝鮮ハッカー部隊」「北朝鮮サイバーテロ部隊」あるいは「北朝鮮サイバー攻撃」など複数の呼び名で報道されており2014年時点では名称統一されていない。脱北者のチャン・セユルは取材にて、「サイバー攻撃は秘密戦争」と北朝鮮国内で語り合っていた事を証言[16][17]しており、秘匿性を重視している事が窺い知れる。そのため正式名称も不明な点が多く、また正式名称が判明しても組織改編や名称変更も多く各国報道機関などでの名称も統一を見ない。 121局[編集] 偵察総局に121局 (Bureau_121) と呼ばれる部隊が存在しており最精鋭とされる。2010年に所から局に昇格した[18][19]。この121局がソニーを攻撃したと報じられている[20]。この部隊に所属したものは、高級マンションを与えられるなど極めて優遇されるため多くの子供たちが競って技術を磨いているとの報道が存在する。なお、すでに増員により2師団に分割されているとの報道[21]も存在するが、詳細は不明である。 本拠地は平壌だが、中国国内にも複数の活動拠点を複数置いており、司令所は北朝鮮との国境近くで領事館もある中国遼寧省瀋陽市との報告があり[22][23][24]、瀋陽七宝山飯店が本拠地ともされる[25]。このホテルは「勝利貿易会社」を経営する張成沢のビジネスパートナーだった中国共産党党員[26]の実業家馬暁紅と北朝鮮の合弁会社が共同経営を行っていた[27]。しかし、2016年9月に国連安保理の経済制裁に同調する中国当局によって馬暁紅は逮捕され[28]、2017年11月に北朝鮮のサイバー部隊は七宝山ホテルから撤収した[29]。 204局[編集] 偵察総局に属する心理戦部隊。他国の世論操作などを担当する。後述する世論操作の項目参照。 情報偵察部隊[編集] 偵察総局に属するが詳細不明。名称から情報収集部隊と推測される。 情報統制センター[編集] 各部局と統括する部署とされる。朝鮮人民軍総参謀部所属。ただし、サイバー部隊は金正恩が直接指示しているとの報道もあり実態は不明な点が多い。 その他の部隊[編集]

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meiyo – Wikipedia

meiyo(メイヨー、1991年1月7日 – )は、日本のミュージシャンである。シンガーソングライターであると同時に、ドラマー、作詞家、作曲家として活動している。2018年7月、ソロ名義を「ワタナベタカシ」から「meiyo」へ変更。2021年7月にTikTokに投稿した「なにやってもうまくいかない」が注目をされ、ユニバーサルミュージック内の邦楽レーベル「Virgin Music」から2021年9月26日メジャーデビューした。 高校3年生の時に軽音楽部に入部。ドラムを始める。 2009年から「シガテラ」のドラムコーラスとして活動。[1] 2011年バンド活動の合間に初めて自分で歌うために「ゆったりと」を作曲[2]。サウンドクラウドにアップする。 2015年「シガテラ」活動休止に伴い「ワタナベタカシ」としてのライブ活動開始。初ライブはSMA主催イベント HARENOVA vol.6[3] 6月 おかもとえみ(フレンズ,科楽特奏隊 etc)など強力なサポートを迎え録音された 1st アルバム「日々のこと」を ライブ会場、タワーレコード新宿店[4]、各種配信ストアにて販売開始。 7月 お台場みんなの夢大陸マイナビステージにてイベントオープニングアクトを務める。 2016年11月 公開レコーディングイベントを主催。「I’m Alone」を公開レコーディング。12月 BS-TBS「イクゼ、バンド天国!!」出演。

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西黄寺 – Wikipedia

1860年の清浄化城塔院の主塔。 1901年の清浄化城塔院。 1860年の石牌坊。 西黄寺(さいこうじ)は、中華人民共和国北京市朝陽区にあるチベット仏教ゲルク派の寺院[1]。瓦が黄色であることから西黄寺と名付けられた。 目次 1 歴史 2 伽藍 3 主な住僧 4 脚注 西黄寺は、清の順治9年(1652年)に北京に建設され、元々達頼(ダライ)廟と呼ばれていたとされている[2]。西黄寺の東側にチベット仏教寺院があり、東黄寺 (旧名普静禅林、1651改築)と呼ばれ、そのため、古い北京人は徳外大街一帯を「双黄寺」と呼ぶ。翌年、ダライ・ラマ5世の北京訪問に際してその宿舎として建立され、清浄化城と号した。 乾隆44年(1779年)、パンチェン・ラマ6世が北京に来て、乾隆帝の70歳誕生日を祝った際に住した。咸豊10年(1860年)アロー戦争の乱、兵火により一度は廃寺となる。光緒26年(1900年)、東黄寺は義和団の乱時に八カ国連合軍によって損壊された。1908年(光緒34年)8月、ダライ・ラマ13世が住した。1927年、パンチェン・ラマ9世は寺院の「清浄化城塔院」を修復する、1928年に落成した。中華民国の時、弾薬庫が爆発、慧香閣は爆発で損壊された。 1966年、毛沢東が文化大革命を発動し、紅衛兵により對寺廟などの宗教施設が徹底的に破壊された。東黄寺は徹底的に取り壊され、何も残らなかった。 1979年8月21日、北京市人民政府は仏寺を北京市重点文物保護単位に認定した。1980年より後、地元政府は寺院を修復する。 1983年、中華人民共和国国務院は仏寺を漢族地区仏教全国重点寺院に認定した。 1987年9月、パンチェン・ラマ10世が中国蔵語系高級仏学院を設立[3]。2001年、中華人民共和国国務院は仏寺を全国重点文物保護単位に認定した。

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日比野佐和子 – Wikipedia

日比野佐和子(ひびのさわこ)は、日本の医師。医学博士。内科医、皮膚科医、眼科医、日本抗加齢医学会専門医。医療法人社団康梓会Y’s サイエンスクリニック広尾統括院長、大阪大学大学院医学系研究科臨床遺伝子治療学特任准教授。 兵庫県出身。大阪大学大学院医学系研究科卒業、博士課程修了。「若返り」だけではなく、最先端医療を取り入れながら、健康長寿を追究する「アンチエイジング」を専門とする医師。米国と欧州の抗加齢医学専門家の資格を持つ。同志社大学アンチエイジングリサーチセンター講師、森ノ宮医療大学保健医療学部准教授、(財)ルイ・パストゥール医学研究センター基礎研究部アンチエイジング医科学研究室室長などを歴任。アジア・オセアニア抗衰老促進協会理事長。世界中医学連合理事。専門分野はプラセンタ治療以外にアンチエイジング、ゲノム医療、先端医療、中医学、ホルモン療法と多岐にわたる。著書の「日めくり まいにち、眼トレ」シリーズはベストセラーである。また、ダイエット本や食事に関する本以外にも、幹細胞や美肌本なども出版している。 『これだけで若返りは可能です。―運動嫌いでも続けられる!男のエイジマネジメント講座』(東洋経済新報社、2011年) 『目が若返る! 最新「眼トレ」5つの方法 (生活シリーズ)』(主婦と生活社、2012年) 『あなたの子どもを優秀な子に育てるための30の法則 』(主婦の友社、2014年) 『日めくり まいにち、眼トレ』(林田康隆協力、扶桑社、2015年) 『9割の老眼は自分で治せる』 (KADOKAWA、2015年、中経の文庫) 『忙しくても15kgやせて二度と太らない美習慣』(主婦の友社、2016年) 『目がよくなる魔法のぬり絵』(林田康隆作画・監修、扶桑社、2016年) 『1日1分、2週間 眼トレ 日比野&林田式 』(林田康隆監修、ベストセラーズ、2016年)

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アルベール・ダマデ – Wikipedia

アルベール・ジェラール・レオ・ダマデ(Albert Gérard Léo d’Amade、1856年12月24日 – 1941年11月11日)は、フランスの軍人。最終階級はフランス陸軍の将軍であった。 [1] 生い立ちとモロッコでの軍役[編集] 1856年12月24日トゥールーズに生まれる。 1874年サン・シール陸軍士官学校に入学。訓練を積んだのち1876年に少尉となりアルジェリアのライフル部隊である第3連隊(3rd Algerian Tirailleurs Regiment)に入る。1881年にアルジェリアより帰還すると第143歩兵連隊(143e régiment d’infanterie)にて中尉に昇格。1885年3月に第108歩兵連隊(108e régiment d’infanterie)に異動となる。その後1904年までトンキンでの軍役に参与。フランスに戻ると第71歩兵連隊(71e régiment d’infanterie)に入るが後准将により1907年3月27日参謀となったあとモロッコに赴くこととなった(当時フランスはアフリカ横断政策を行っていた、アフリカ分割を参照)。 モロッコでは既に時の陸軍将軍アントワーヌ・ドルード(Antoine

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リールステージ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “リールステージ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年11月) 株式会社リールステージRirestage.Co.,LTD. 種類 株式会社 本社所在地 日本〒630-8115奈良県奈良市大宮町5丁目3−14不動ビル406 設立 2008年7月1日 業種 医療、福祉 法人番号 7150001008401

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跳躍地雷 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “跳躍地雷” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年5月) 代表的な跳躍地雷である、第二次世界大戦中のドイツのSマイン(Sミイネ) 跳躍地雷(ちょうやくじらい)とは、対人地雷の一種。 跳躍地雷の概念説明図最初の爆発で空中に飛び出し、二度目の爆発で殺傷する 第二次世界大戦でドイツ軍が用いたS-マインが代表的なものである対人地雷のカテゴリーの一つで、人などが圧力信管を踏んだり、それに連動したワイヤーロープに引っ掛かったりした時、地雷底部のスプリング、または跳躍用爆薬が作動し、高さ1.5m程度まで跳ね上がってから地雷本体が炸裂し、金属球を飛び散らせて広範囲の人間を殺傷する。同じように金属球を飛散させるクレイモア地雷では地雷の正面部分に金属球などを配置することで危害範囲に指向性を持たせてあるが、跳躍地雷では全方向が危害範囲となる。 跳躍地雷は、アメリカ兵によりBouncing Betty(跳ねるベティ)のニックネームで呼ばれており、このBouncing Bettyという呼称はアメリカ軍以外でも跳躍地雷を指すものとして使われている。 従来の「地雷」は地中に埋設して対象に「踏ませる」ことによって作動するもので、その「踏むまで存在がわからない」ことによる効果は高いものの、地中に埋設するという特性から、一度に多人数の兵士を殺傷することには不向きであった。埋設することにより爆発のエネルギーのかなりの部分が地面を吹き飛ばすことに“浪費”されてしまうためである。そこで、榴散弾のように炸薬による爆発よりも爆発によって鉄片や鉄球を飛散させることにより多数の人間を殺傷させることが発想され、飛散効果を最大限に高めるため、地中に埋設して地中で爆発するのではなく、作動すると空中に打ち上げられて炸裂する、という機構を持つ地雷が構想された。 兵器としては第二次世界大戦前から存在したが、その構造上、大型で複雑な構造のものが多く、設置・埋設に手間が掛かるため、主に要塞や塹壕線の前面といった場所に設置して国境線防衛の補助兵器として使うものとされており、広く用いられる兵器とはならなかった。 第二次世界大戦においてドイツ軍の開発・使用した「S-マイン」と呼ばれる跳躍地雷は小型で使用法も簡便であり、効果も非常に高かったことから、第二次世界大戦後にはS-マインを模倣した同方式の対人地雷が世界中で開発されて広く装備され、数々の戦争や紛争で用いられた。 アメリカ軍のM16

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院司 – Wikipedia

院司(いんし、いんのつかさ)は、日本の中世・古代において、上皇や女院の直属機関として設置された院庁の職員。中流貴族が任命されることが多く、他の官職と兼任する兼官だった。平安時代後期に院政が開始すると、上皇の政務機関である院庁の院司は、政治の枢要を担う重要職とされた。 本項では、院政の院司について詳述する。 院政の院司[編集] 院司は、嵯峨上皇の835年(承和2年)、院別当安倍安仁とあるのが初見である。当初、院庁は上皇の家政機関として設置され、所務・雑務が主要な用務であった。長官は別当(べっとう)、次官を判官代(ほうがんだい)、主典を主典代(さかんだい)といった。 1086年(応徳3年)前後に白河上皇が院政を開始すると、院庁を構成する院司の役割は非常に重要なものとなった。院司は、治天の君(皇室の家長)の命を受け、院庁下文・院庁牒・院宣を発給し、治天の政治意思を具現化するため、実務を遂行していった。そのため、院司には、蔵人・弁官・受領などを歴任した実務官僚が充てられることが多かった。彼らは、摂関家のような上級貴族ではなかったが、実務能力をもって登用され、政治に大きな影響を及ぼした。 院司や他の中流貴族の中には、治天の側近となり、権勢をふるう者も現れ、これを院近臣という。院司や院の近臣は、治天の権力を背景として、様々な利益を得ていたが、例えば知行国が給与されることもしばしば見られた。保元の乱以降の平清盛の急速な台頭も、後白河上皇の院司だったことが、主な理由の一つである。 白河~後鳥羽までの院政最盛期が経過した後も、政務遂行の担い手として院司は重要な役目を果たし、広橋兼仲のように後深草院と亀山院の院司を兼ね、更に女院である室町院と摂関家である近衛家と鷹司家の家司を兼ねる者もいた[1]。実質的に院政が消滅する室町時代前期まで(一部の期間を除いて)、院司は政治の枢要を担う重要な役割を果たしていった。 主な役職[編集] 院別当 院司の最高責任者。嵯峨上皇の譲位とともに南淵永河が任命されたのが最初。複数名が任命されるのが通例で、公卿もしくは上皇の天皇在位中の蔵人頭が任命されることが多く、公卿が任命された場合には「公卿別当」、四位が任命された場合には「四位別当」と呼ばれた。白河上皇の頃に公卿別当から院執事(いんのしつし・執事別当)、四位別当から院年預(いんのねんよ・年預別当)が1名ずつ任命されて院庁を統括し、更に鎌倉時代にはその上に院執権(いんのしっけん)1名が置かれて公卿別当の中から選ばれた。 院判官代 別当を補佐して庶務を処理し、院庁が発給した公文に署判する。宇多上皇の時代に設置される。白河上皇の時には四位の判官代も存在したが、五位(1・2名)または六位(4・5名)から選出されるのが通例であった。 院主典代 別当・判官代の下にあって院の文書・記録作成や考勘、雑務に従事した。朱雀上皇の時代に設置される。六位の中から2・3名が任命された。後白河上皇の時代に院庁職員の責任者である庁年預(ちょうのねんよ、院年預とは別の役職)が1名選出された。 院蔵人 上皇の天皇在位中の六位蔵人のうち、院主典代の定員外となった者を特に待遇した役職。『拾芥抄』では定員4とされている。なお、女院である上西門院の院蔵人に時に13歳の右近衛将監兼皇后宮少進源頼朝が任命されたことが『山槐記』平治元年2月19日条(公卿補任は同年同月13日)に記されている。 院伝奏 上皇に各方面からの奏請を取次ぐ役。後白河上皇時代の吉田経房・高階泰経を初見とするが、実際に機能したのは後嵯峨上皇の時代の宝治元年(1246年)に吉田為経・葉室定嗣を任命して関東申次が担当する事項以外の一切の取次を任された。亀山上皇の時代の弘安2年(1279年)には定員6名を3組に分け、交代で取次を行った。後に武家伝奏などへと派生するが、江戸時代には現任あるいは前任の大納言・中納言が院伝奏を兼ねて大事にあたった。 院御随身 上皇やその御所などを護衛する。主として近衛府などから選ばれる。譲位後の上皇に対して新天皇より尊号が授与されるとともに封戸・随身が与えられた。左右近衛府からそれぞれ5名ずつ(後に6名ずつ)を定員とする。上皇が出家して法皇となると、世俗から離れることを名目に随身は返上されたが、近衛将曹級の左右各1名ずつはそのまま法皇院司の職員として留まった。

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デルサタ – Wikipedia

『デルサタ』は、名古屋テレビ(メ〜テレ)で2016年4月9日から2021年3月27日まで毎週土曜日に生放送されていた、中京広域圏の朝のおでかけ情報番組である。放送時間は6:30 – 7:55(JST)。 本項では2018年4月7日から放送開始した姉妹番組『デルサタ11(イレブン)』、『デルサタ11』の代替番組『いえサタ』についても記述する。 司会は、濱口優(よゐこ)と鈴木ちなみ(『デルサタ』・『デルサタ11』ともに担当)。 メ〜テレは、2016年春の改編にあたり、朝の番組を強化・充実させる狙いを発表[1][2]。「(月曜日 – 土曜日の帯番組であった)『ドデスカ!』を平日の朝らしい番組に、『デルサタ』を土曜日の朝らしい番組に」として[1]、同年4月2日に土曜日の『ドデスカ!』を終了、その翌週より本番組をスタートさせた。 番組コンセプトは「いつだってお出かけ日和」。20代から40代の母親を中心とした層をターゲットに、レジャーやグルメ、ファッション、天気などの情報を紹介する[3][4]。番組名の『デルサタ』は、「外へ出るサタデー」を略した造語である[4]。番組ロゴには「ODEKAKE」の文字が入っている。 『デルサタ』については毎年6月中旬の全米オープンゴルフ(2017年までは毎年7月上旬の全米女子オープンゴルフも該当)など、スポーツ中継時は休止または放送時間が短縮となる。また、番組は基本生放送だが、年2回(8月のお盆シーズン及び12月の年内最後の放送)はスタジオパートを含め全編事前収録となっている。その場合はニュース・天気予報のコーナーも休止となる。なお、12月最終週(年内最後の放送の翌週)についてはテレビ朝日制作の『週刊ニュースリーダー』を臨時ネットする。(同番組休止時は特番を放送) 2017年10月7日より、『題名のない音楽会』(テレビ朝日制作)を土曜6:00 – 6:30枠に枠移動の上、制作局より4時間先行ネットで放送することになったため[5]、本番組は30分短縮の6:30 – 7:55に変更された。 2018年4月7日より、『昼まで待てない!いいコト聞いた』の後番組として『デルサタ11』が放送開始。前番組同様に9月最終週は放送局主催のイベント[注 4]会場(栄・久屋大通公園)から公開生放送による拡大スペシャルを放送する。また、この日は朝の『デルサタ』が事前収録となる(夏季の事前収録回が8月から9月最終週に変更となった)。 新型コロナウイルス感染症による緊急事態宣言に伴う対応[編集] 日本国内における新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行により、政府は2020年4月7日に7都府県(埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・大阪府・兵庫県及び福岡県)に対し、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言を発令。また、愛知県は4月10日に県独自の緊急事態宣言を発表した[注 5]。これに伴い、4月11日の放送では、MCの鈴木・濱口が東京からリモートアクセスによる出演となり、スタジオでは局アナウンサー3人が番組を進行(『デルサタ』、『デルサタ11』とも)。そして番組エンディングで当面の番組休止が発表された[9]。

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鞏昌府 – Wikipedia

鞏昌府(きょうしょうふ)は、中国にかつて存在した府。金末から民国初年にかけて、現在の甘粛省定西市一帯に設置された。 1072年(熙寧5年)、北宋により秦州古渭寨に通遠軍が置かれた。1104年(崇寧3年)、通遠軍は鞏州と改められた。鞏州は秦鳳路に属し、隴西・寧遠・永寧の3県と定西城と寧遠・永寧・通渭・通西・塩川・熟羊の6寨を管轄した[1]。 1142年(皇統2年)、金により鞏州に通遠軍が置かれた。鞏州は臨洮路に属し、隴西・通渭・通西・定西・安西の5県と塩川鎮と永寧・熟羊・来遠・南川の4寨を管轄した[2]。1228年(正大5年)、鞏州は鞏昌府に昇格した。 元のとき、鞏昌府は陝西等処行中書省に属し、録事司と隴西・通渭・障・寧遠・伏羌の5県を管轄した[3]。 明のとき、鞏昌府は陝西省に属し、直属の隴西・安定・会寧・通渭・漳・寧遠・伏羌・西和・成の9県と秦州に属する秦安・清水・礼の3県と階州に属する文県と徽州に属する両当県、合わせて3州14県を管轄した[4]。 清のとき、鞏昌府は甘粛省に属し、隴西・安定・会寧・通渭・寧遠・伏羌・西和・岷州・洮州庁の1庁1州7県を管轄した[5]。 1913年、中華民国により鞏昌府は廃止された。 ^ 『宋史』地理志三 ^ 『金史』地理志下 ^ 『元史』地理志三 ^ 『明史』地理志三 ^ 『清史稿』地理志十一 表 話 編

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