Month: December 2019

清水永三郎 – Wikipedia

清水 永三郎(しみず えいざぶろう[1][2] / えいさぶろう[3]、1858年3月30日(安政5年2月16日[4])- 1902年(明治35年)11月22日[3][5])は、明治期の政治家。衆議院議員、群馬県北甘楽郡高瀬村長。 上野国甘楽郡上高瀬村(群馬県[3]甘楽郡上高瀬村[2]、高瀬村、熊谷県甘楽郡高瀬村、群馬県甘楽郡高瀬村、北甘楽郡高瀬村、高瀬村[1][4]、甘楽郡高瀬村を経て現富岡市[1]上高瀬)で、豪農[4]・嘉蔵の長男として生れた[1][4]。小幡藩士・菅沼正志から漢籍を学び[4]、19学区滴川学校[4]、熊谷県立暢発学校(のち群馬県師範学校)で学び[1][2][4]、小学校教員を務めた[1][2][3]。その後、山井幹六に師事し漢籍、詩文を修めた[4]。 1878年(明治11年)有志と生産会社を設立して頭取に就任したが1880年(明治13年)に辞任し[4]、自由民権運動に加わる[4]。 高瀬村外二ケ村御用掛、北甘楽郡教育会員、高瀬村会議員、連合町村会議員、群馬県蚕糸業組合議員、高瀬村長などを務めた[1][2][3][4]。1883年(明治16年)群馬県会議員に選出され3期在任した[1][2][3]。 1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(群馬県第5区、無所属)で当選し[1][2][6]、公同倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任[3]。同年9月の第4回総選挙(群馬県第5区、立憲革新党)では次点で落選した[1][7] ^ a b c d e f g h i

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ニューヨーク市地下鉄の路線の一覧 – Wikipedia

ニューヨーク市地下鉄は、ニューヨーク市の5つの行政区のうち4区内で運行している公共地下鉄システムである。現在のシステムは、かつてのインターボロー・ラピッド・トランジット (IRT)、ブルックリン・マンハッタン・トランジット (BMT)、そしてインディペンデント・サブウェイ・システム (IND) から受け継がれている。ニューヨーク市はINDの発足時からこの会社を所有しており、BMTとIRTは1940年に買収した。かつてのIRTのシステムは現在はAディビジョンに属しており、かつてのBMTとINDのシステムを統合したものはBディビジョンに属している。 命名体系[編集] ニューヨーク市地下鉄の命名体系(英語版)において、”路線” (line) と”運行系統” (service) という用語は互いに異なった意味を持っており、混同してはいけない。日常的に、またはメディアや時にはMTAのウェブサイト (例:[1]) ですら、”line”と”service”を混同している場合がある。この一覧では、正式な意味での”line”についての用法を使用する。 路線 (line) とは、列車がその上を走る物理的な構造物および軌道 (track) のことである。ニューヨーク市地下鉄システムの各区間には独自の路線名が割り当てられている。各路線名は、その路線が所属するかつてのディビジョン名 (IRT、BMT、またはIND) が頭に付けられている。例えば、マンハッタンの8番街の地下を走る路線はIND8番街線である。幾つかの路線は名前を変更したものもある(中にはディビジョンを変更したものもある)が、それは稀である。

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リンの同位体 – Wikipedia

リンの同位体(リンのどういたい)には、何種類かがあるが、そのうち31Pのみが安定である。 リンの放射性同位体には次のようなものがある。 33Pは25.4日の半減期でβ崩壊を起こす(0.25MeV)。β線のエネルギーが低いため、DNAシーケンス等の実験に用いられる。 同位体核種 Z(p) N(n) 同位体質量 (u) 半減期 核スピン数 天然存在比 天然存在比(範囲) 励起エネルギー 24P 15 9 24.03435(54)# (1+)# 25P 15

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栃富士勝健 – Wikipedia

栃富士 勝健(とちふじ かつたけ、1946年6月8日-2003年4月28日)は、埼玉県大里郡三尻村(現・熊谷市)出身(出生地は東京都渋谷区)で、春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は小暮 晴男(こぐれ はるお)。最高位は東前頭3枚目(1971年5月場所)。身長186cm、体重141kg。得意手は左四つ、寄り。 来歴・人物[編集] 渋谷区立上原中学校在学時の1961年に春日野部屋へ入門し、同年5月、14歳で初土俵を踏んだ。 小兵力士が多かった同部屋に於いて、珍しい大型力士として早くから注目されていた。 幕下までは順調に昇進するも、ここで苦労する。特に1967年3月場所では東幕下筆頭で6勝1敗と好成績を挙げながら、場所後の「番付枚数削減」の煽りを受けて翌5月場所では東幕下3枚目に下げられた。しかし腐らず7戦全勝で幕下優勝し、7月場所で新十両昇進を果たした。 さらに、1968年9月場所では新入幕を果たしたが、6勝9敗と負け越して1場所で陥落。2場所後の翌年1月場所で再入幕して11勝4敗の好成績を挙げ、幕内上位に進出した翌3月場所では9日目に柏戸をうっちゃりで破り、初めての横綱戦で金星を挙げた。 だが同年9月場所では再び十両に陥落し、1971年1月場所で再々入幕。5月場所では自己最高位となる東前頭3枚目に進み、初日に横綱・大鵬と対戦した。この一戦で、大鵬の突き押しを凌いで押し返すと大鵬は尻餅を着き、柏鵬の両方から1度だけの対戦で金星を得るという記録を残した。大鵬は同場所5日目に貴ノ花に寄り倒しで敗れた後引退を表明したが、尻から落ちるという負け方を下位力士相手に2度も喫したことで限界を実感したとされ、栃富士戦での敗戦も引退の要因となっている。なお、柏鵬の二人と幕内で対戦して無敗の力士は本項目の栃富士と彼の師匠・栃錦だけである。また、大鵬が幕内で対戦した全力士で1度も勝てずに終わったのは、この二人と福田山、錦洋の4人だけである(2度戦った福田山以外は、いずれも1度のみの対戦)。 貴ノ花や輪島は十両から平幕の頃彼を苦手としており、貴ノ花に対しては4勝3敗、輪島に対しては4勝1敗の成績を残している。だが、彼らが三役に昇進した時期に対戦する機会はなかった。 左を差しての一気の寄りに威力があって時に横綱や人気力士を倒すことがあったので、「スター・キラー」という異名もあった。反面、取り口にムラがあり、鋭い切れ技も持ち合わせていなかったことから体力を持て余した。以後は結局、幕内と十両との往復に終わった。 1974年9月場所後、28歳で引退。 引退後は年寄・山分を襲名し、春日野部屋付きの親方となった。 1990年1月に師匠・春日野(元横綱・栃錦)が亡くなった後は、兄弟子だった元関脇・栃東の玉ノ井親方の独立に同行。以降は玉ノ井部屋で、師匠の右腕として後進の指導に当たった。日本相撲協会では木戸委員、指導普及部委員を務めた。 2000年頃より体の不調を訴えていたが、2003年4月28日、急性心筋梗塞のため死去した。56歳没。 亡くなった当日は、来客にちゃんこを振る舞うために自宅の台所で準備をしており、その際に倒れたという。 主な成績・記録[編集] 通算成績:465勝445敗18休

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ホベルト・メネスカル – Wikipedia

ホベルト・メネスカル[1](Roberto Menescal、1937年10月25日 – )は、ブラジルの作曲家、音楽プロデューサー、ギタリスト、ボーカリスト、そしてボサノヴァのパイオニアである。彼の歌の多くには、彼の最も有名な作曲「O Barquinho」(「Little Boat」)を含む海への言及がある。彼はまた、カルロス・リラ、ナラ・レオン、ワンダ・サー、エール・ヴァンゼラ、その他多くの人々との仕事でも知られている。メネスカルは、ムジカ・ポプラール・ブラジレイラ(ブラジルのポップス)、ボサノヴァ、サンバなどのラテン音楽のジャンルで演奏してきた。2002年に息子のボッサ・グループ「ボサクカノヴァ (Bossacucanova)」との仕事でラテン・グラミー賞にノミネートされ、2013年11月にラスベガスで「2013年ラテン・レコーディング・アカデミー特別賞」を受賞した[2]。 1957年、彼はブラジルのシルヴィア・テリスのサイドマンとして働いた[3]。1年後、彼はカルロス・リラと一緒にギター・スクールを始めた。彼は、ベベット、エンリケ、ジョアン・マリオ、ルイス・カルロス・ヴィーニャスとともに、最も初期のボサノヴァ・バンドの1つを結成した[3]。彼は、1950年代後半から1960年代初頭にかけて、「I Festival de Samba Session」などのパフォーマンスやコンサートを通じてボサノヴァを広めた[3]。アライヂ・コスタは1959年にメネスカルの歌「Jura de Pombo」を録音した[3]。「O Barquinho」は翌年、マイーザ、パウリーニョ・ノゲイラ、ペリー・ヒベイロによって録音された[3]。彼は1962年にカルロス・リラとアントニオ・カルロス・ジョビンと一緒にボサノヴァ・フェスティバルに参加したとき、カーネギー・ホールで「O Barquinho」を歌った[3]。1960年代半ばから後半にかけて、彼はポリグラムの編曲家にして音楽プロデューサーとして、マリア・ベターニア、ガル・コスタ、ジルベルト・ジル、ジョルジ・ベンジョール、カエターノ・ヴェローゾの音楽をプロデュースした[3]。1970年にはポリグラムのタレント・スカウトとなり、映画やテレビの音楽を作曲し、ナラ・レオン、エリス・レジーナ、ジャイル・ロドリゲス、そしてクローデット・ソアレスのスタジオにおけるサイドマンを務めた。1980年代に彼はソロのキャリアに集中し、ジャズ・サックス奏者のジョー・ヘンダーソンとレコーディングを行った。彼はレコード・レーベル「アルバトロス (Albatroz)」を所有している[3]。 ディスコグラフィ[編集] リーダー・アルバム[編集] 『ボサノヴァ』

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鈴木雅之 (国学者) – Wikipedia

鈴木 雅之(すずき まさゆき、1837年(天保8年)4月 – 1871年(明治4年)4月21日)は、幕末の国学者。 若年期[編集] 下総国埴生郡南羽鳥村(現在の千葉県成田市)の百姓であった鈴木清兵衛・いねの子として生まれた[1][2]。幼名は一平。20歳の時にいとこの寿と結婚したが、家庭を顧みることなく、妻や家業も捨て放浪人生をおくり、近隣の村々の有力家に寓居しながら遊学した。そのころ次の妻萬子を娶った。ほとんどを独学で学び、安政年間に同郷の歌人神山魚貫に歌学を、平田篤胤学派の国学を学び[1][2]、国学者としての頭角を現わした[1]。 国学者として[編集] 主著『撞賢木』で天御中主神を中軸とする哲学を説いた[1][2]。宇宙に存在する万物は、悠久無限の働きを続けている生成の道によって生じ、生成の道を行なう事によって活かされ[1]、生成の道を行ない得て時期が来れば死に至る物であると[1]。この生成の道は、高天の原に存在する天御中主神などの天神の魂を万物に分有する事で宇宙に顕現しており[1]、同じく天神の魂を有した人間はこの生成の道を尽くし[1]、生成の徳を全くするべき存在でありその生成の功が成るならば[1]、やがてその魂は天に昇る物とされている[1]。特に天御中主神は魂のみから成る根源的な存在とされており[1]、魂の他に過不及を生じさせる物としての心を有する他の天神や天照大神とも峻別された創造主宰神として位置付けられている[1]。このような天御中主神の魂の分有による宇宙生成という視点は朱子学的な天地生々の一元気の運動を彷彿させる主張である。殆んど独学でありながら[1]、国学的産霊の説を主張した[1]。 晩年[編集] 後に明治維新前後に様々な著書を執筆し[1]、村落の民族的慣行の改変や国学を軸とした祭礼の復活、村落の致富策などを見せていた。維新後の1869年(明治2年)、同じ神山門下の同郷の伊能穎則の招きで上京し大学校少助教に任ぜられ穂積姓に改姓し[1][2]、翌年には宣教使中講義に転じた。当時の建白草稿には、宣教使内の教義を巡る混乱に対する批判が述べられているが、自らの主張を反映させる間もなく急逝した[1]。 主な著作物[編集] 代表的な著書[編集] その他の著書[編集] 『歌学正言』 『日本書紀名物正訓』 『民政要論』 ^ a b

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スペース・トラベル (ビデオゲーム) – Wikipedia

スペース・トラベルは1969年にケン・トンプソンが開発し初期のビデオゲームで、太陽系の旅をシミュレーションできる。プレイヤーは2次元の太陽系を目的もなく宇宙船で彷徨い、様々な惑星や衛星への着陸を試みることだけができる。プレイヤーは宇宙船を動かしたり回転させたり、画面の拡大率を調整することで全体の速度を調整したりできる。宇宙船を引き寄せることができる天体は付近で最も強い重力を持つ星1つだけである。 このゲームはビデオゲーム市場が立ち上がる前にベル研究所が開発したもので、1969年にMulticsからGE 635用のGECOSに移植され、続けてPDP-7に移植された。トンプソンはゲームをPDP-7に移植するついでに独自のオペレーティングシステムを開発し、後にこれがUNIXの原点となった。スペース・トラベルはベル研究所の外に広まることなく、以降のゲームに影響を与えることもなく、ただUNIX開発の出発点として歴史に名を残している。 スペーストラベルは宇宙飛行のシミュレーションゲームで、2次元の平面を上から見下ろす視点になっており、黒い背景に白い線でオブジェクトを描くモノクロのゲームである。プレイヤーはこの2次元空間内に作られた太陽系の中で宇宙船を制御する。このゲームは太陽系の惑星や衛星に着陸する以外に目的がない。惑星や衛星はサイズや個々の間隔で特徴づけられており、軌道はシンプルな円のみである。宇宙船の速度を十分に落として、地表を表す線に交差させると、星に着陸できる。プレイヤーは前進、後進、方向転換で宇宙船を制御できる。画面を拡大縮小することで宇宙船の速度を制御でき、拡大率に合わせて一定の加速度を保つ。画面を縮小しすぎると数秒で太陽系を脱出できるが、一度飛び出すと再び太陽系を見つけて戻るのは難しい。画面を拡大すると宇宙船がゆっくり移動して着陸が可能になる。宇宙船は常に画面の中央にあり、上を向いている。宇宙船を右や左に回転させると、宇宙船ではなく太陽系のほうが回転する[1]。 惑星や月には質量があり、重力を持つが、それぞれの星がお互いに影響を及ぼすことはなく、周辺で最も強い引力を持つ星だけが宇宙船に影響を及ぼす。この設計は奇妙な挙動を生む。例えば火星の重力は衛星フォボスの重力よりもはるかに強い。つまりフォボスに着陸しようとする場合、フォボスの重力に支配されるようになるまでは宇宙船がフォボスに向かていくように操作し、支配が火星からフォボスに切り替わったらその瞬間に宇宙船の向きを逆にして着陸する。画面には現在宇宙船が引き寄せられている惑星や衛星の名前が表示される。プレイヤーはプログラムを変更することで設定を変更できる。重力を増やして難易度を上げたり、宇宙船が画面の中央に固定されないようにしたり、星ではなく宇宙船が回転するようにしたり、重力が作用している星を画面の下に固定して宇宙船が相対的に動作するようにするなどの改造が、当時ベル研でスペース・トラベルを遊んでいた人々の間で人気だった[1]。 プログラマーのケン・トンプソンは1969年にベル研究所でOSのMulticsを開発するプロジェクトに参加していた。トンプソンは仕事中にGE 635でスペーストラベルを開発していた。ベル研究所がMulticsの開発から撤退した時には、Multics用に記述されたスペース・トラベルをFORTRANに移植し終えており、既に研究所にあったGE 635で動作するGECOSでこれを走らせることができた[1][2]。トンプソンの他に、ベル研究所の仲間たちであるラヴィ・セティやデニス・リッチーらもこのマシンでこのゲームを遊んでいた。しかしこのコンピュータは複数の端末が1台の中央コンピュータに接続するインタラクティブ・バッチモードで稼働しており、各端末のジョブをキューに送る必要があったため、GE 635が他の端末のジョブを実行している間はゲームが長時間停止した[1]。コンピュータの使用状況はコストシステムにより社内で把握されており、1回のプレイで$50~$75のコストがかかっていた[1][3]。またGECOSではMulticsのようにはスムーズに動作しなかった[4]。さらにこのシステムはボタン入力をリアルタイムで検知できず、コマンド入力方式で操作をしなければならなかったことから、宇宙船のコントロールは難しかった[3]。良い解決策を求めていたトンプソンは、当時$12万のPDP-10をOSの開発用として購入することをベル研究所に提案したが、Multicsから撤退したばかりのベル研究所はOSの開発にこれ以上の予算を浪費することに否定的であり、提案は却下された[4]。しかしトンプソンは隣の部署に古くてほとんど使われていなかったミニコンのPDP-7を発見し、別の目的で使ってもよいことを確認した[1]。 トンプソンがこのゲームを新しいシステムに移植する作業を始めたとき、既存のコードを流用せず、一から書き直すことにした。結果的に数学関数やグラフィック処理などのライブラリから開発することになった。これらのサブシステムは当初はGECOSシステム上でアセンブリ言語によって記述されてアセンブルされ、出力されたバイナリを紙テープに書き出してPDP-7に読み込ませた。次にトンプソンはこの面倒な作業をやらなくても済むようにPDP-7で動作するアセンブラを開発した[3]。新しいマシン上ではゲームの動きが非常に遅かったため、少し作業を脱線させて、Multicsの開発経験があったデニス・リッチーやラッド・カナダらアイデアを部分的に拝借して独自のファイルシステムを開発し、この上でスペース・トラベルを動かした[3][4][5]。 トンプソンはスペース・トラベルをPDP-7に移植する作業を終えると、MulticsやGE 635ではできなかった進め方で、このソフトウェア一式を基本的ながらも完全なOSに仕上げた。彼が開発したOSは社内に広まり、1970年にUNIXと名付けられたOSのコアになった[2][3]。スペース・トラベルはビデオゲーム市場が立ち上がる前に初期のメインフレーム上で開発されたゲームの1つで、研究所の外に配布されることはなかった。そのため以降のビデオゲームに影響を与えることはなく、ただUNIX開発の出発点として歴史に名を残している[2][6]。 参考文献[編集]

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