琉球民族(りゅうきゅうみんぞく)とは、かつて琉球王国(琉球國)の領域に相当する沖縄県の沖縄諸島と先島諸島、鹿児島県奄美群島に住む人々を、言語、生活習慣、歴史的経緯等から、独自の一民族であると定義した場合の集団である。言語学上は、琉球語を母語とする民族を指す。 この場合、いわゆる「本土日本人」を大和民族とし、「琉球民族」とアイヌ民族、大和民族を合わせて日本民族とする。 そもそもは沖縄学の創始者伊波普猷が『日琉同祖論に基づいて、沖縄県民(「琉球民族」)が大和民族の支族である』と言う概念のもと用いた言葉である。 沖縄戦後、新左翼や琉球独立運動の文脈でしばしば用いられていたが、2010年代に入り多用されるようになっている。 概要 この節の加筆が望まれています。 「琉球民族」と言う言葉は、そもそも沖縄学の創始者である伊波普猷が論文の中で用いた言葉である。伊波は沖縄県民について「琉球民族」の文言を用い、その民族意識を称揚する一方で、学問的には「日琉同祖論」と呼ばれる観点を提唱している。つまり、伊波による意図は、『日琉同祖論に基づいて、沖縄県民(「琉球民族」)が大和民族の支族である』とするものである。もっとも、近年の人文科学、社会科学研究では、「琉球人」や「日本人」と言う枠組みが本質的に実在するものではなく、作られた、構築されたものであると考えるのが主流である。 琉球王国領域の言語と生活習慣と本土との差をどうみるかについては多くの議論がある。新崎盛暉は、「日本だと言い切ってしまうとあまりにも多くの非日本的要素が目立つ」、しかし、たとえば朝鮮や台湾に比べれば「あまりにも日本的要素が目立つ」と述べている[1]。 現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民として認識しており、琉球民族を沖縄の「先住民族」とは認定していないが[2]、2014年8月に国連人種差別撤廃委員会は「国連教育科学文化機関が琉球・沖縄について特有の民族性、歴史、文化、伝統を認めている」と言う理由付けで「先住民族」であるとし、これと対立している。このため、沖縄県が基地問題等で不利を被っていることが人種差別にあたるのではないか等の問題に関して、国連人種差別撤廃委員会は先住民族としての権利を保護するよう日本政府に勧告を行なっている[3][4]。これに対し日本政府や自民党系議員からは「民族分断工作」であるとの反発が高まっている[5]。 2007年、琉球大学法文学部准教授の林泉忠(香港系英国籍)が沖縄県民意識調査を実施(電話帳から無作為抽出して電話をかける方法で、18歳以上の沖縄県民を対象に実施、1201人から有効回答を得た。2005年度より三ヵ年実施)。結果、沖縄県民の内、沖縄人であると答えた人は41.6%、沖縄人で日本人が29.7%、日本人であるが25.5%との回答が得られた[6]。 範囲 「琉球民族」論では歴史的に琉球王国として日本とは別の国であったため、大和の朝廷を中心とした大和民族とは別の民族であると定義する。しかし、その民族範囲はそれを主張する者の中でも異なっており、琉球処分直前の領土であった沖縄県の大半とする主張(この場合、沖縄民族ともいう)と、これに琉球王国統一後の最大版図であった奄美群島を含むとする主張とがある。 分布と歴史 「琉球民族」の先住地は、現在の沖縄県全域と鹿児島県の奄美群島であり、言語学的に琉球諸語と総称される言語の分布とほぼ一致する。歴史的には沖縄県は琉球王国の領域を踏襲しており、奄美群島は、尚徳王による制圧(1466年)から薩摩藩への割譲(1613年)まで琉球王国による支配を経験している。 1879年の琉球処分以降、職を求めて北海道・本州・四国・九州、いわゆる日本本土に移住する者も増加した。日清・日露戦争期の経済成長・工業化に伴い、男子は製鉄・製造業の中心地であり沖縄との定期航路の多かった大阪へ行くものが多く、女子は紡績工として大阪のほか、兵庫・和歌山・静岡などに出向いた[7]。以上のような経緯から大阪には沖縄に出自を持つ者が多く、1935年の時点で本土在住の沖縄出身者32,335人のうち、15,648人が大阪在住であった[8]。 現在でも大阪の大正区では沖縄出身者とその子孫が人口の約1/4を占めると言われており、沖縄食材を売る店や沖縄料理店はもちろん、琉球舞踊や三線教室も多く見受けられ、沖縄文化が色濃く残っている。沖縄民謡で大御所と呼ばれる演者に大阪生まれ、または出身で沖縄へ移住した者が多いのも事実である。また、エイサーと呼ばれる沖縄の祭りも50年近く開催されており、大正区以外に在住する多くの沖縄出身である大阪府民も訪れている。 海外への移民は琉球王国時代から募集されていたが、琉球処分後、特に1904年に沖縄を襲った干ばつ以降、人々の目は海外に向かった。1935年の時点で沖縄出身の海外在住者数は、ハワイ12,820人、ブラジル10,668人、ペルー7.647人、フィリピン6,229人、アルゼンチン1841人だった[9]。とりわけハワイは、温暖な気候と、作り慣れたサトウキビ栽培を理由に、出稼ぎ先、移住先として人気が高く、ハワイ各地に「沖縄村」が形成された。また、ハワイの民族衣装とも呼ばれるアロハシャツは沖縄出身の移住者が着物をシャツに仕立て直した物を着ているのを見た現地人が気に入り注文したのが由来と言われている。しかし、広島、山口、福岡、熊本を中心とした本土出身のコミュニティの反感を買うこともあったという[10]。逆に沖縄から海外移民が増加した時期に、米国本土への移民が制限されたため、日系人コミュニティのあるカリフォルニアなどには沖縄出身者は比較的少ない[9]。 遺伝的比較 本土日本人 (Mainland
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