Month: September 2020

バルチースク – Wikipedia

バルチースク (ロシア語:Балти́йск バルチーイスク;ドイツ語:Pillau ピラウ;ポーランド語:Piława ピワヴァ;リトアニア語:Piliava ピリアヴァ)は、ロシア連邦・カリーニングラード州の都市である。ヴィスワ砂嘴(ロシア語名バルチースク砂嘴、en)の北部に位置し、カリーニングラード(ドイツ語名ケーニヒスベルク)とは29マイル離れている。ロシア最西端の都市である。人口は33,252人(2002年)。ロシア海軍バルト艦隊の主要海軍基地があり、サンクトペテルブルクへのフェリー港でもある。 プルーセン[編集] バルチースクの衛星写真 プルーセン人の漁村が、13世紀、海岸部の数カ所に生まれた。村の名前であるpilsという言葉は、古プルーセン語で『砦』を意味していた。1510年9月10日、大きな嵐が村の前の航行できる潟をつくった。これが、ピラウがプロイセン公国の重要港となるよう成長を促した。1537年には小防塞が建設され、1543年には石造り構造になった。1550年には初期の防御施設となった。 三十年戦争中、スウェーデン軍がポーランド・リトアニア共和国に勝利を収めた後、港を占領した。グスタフ・アドルフ王は1626年5月、自軍を引き連れてピラウへ上陸した。1629年のアルトマルクの和議後もスウェーデン軍はピラウを保持し、その防御施設を改良した。彼らは星形要塞を建設した(現在は市のランドマークである)。1635年、ピラウ市民は10,000ターラーの賠償金を払い、スウェーデン軍はブランデンブルク選帝侯へ駐屯地を明け渡した。 ドイツ都市[編集] 灯台と、ピョートル1世像 17世紀終わりから、町はかなり拡大した。灯台と石造りの教会が建てられた。ロシア皇帝ピョートル1世はピラウを三度訪れている。最初は1697年で、遣欧使節団を派遣する際であった。灯台の隣にピョートル大帝の像が立つ。1725年にピラウが市特権を授けられた後、市庁舎が建設された。このバロック様式の大建築物は1745年5月に落成式が行われ、第二次世界大戦末期に破壊された。 七年戦争の最中、ロシア軍がピラウを占領し、小さなロシア正教会の教会を建てた。この出来事は、ロシア女帝エリザヴェータの騎馬像によって記念されている(2004年)。1807年6月、ピラウはナポレオン1世の率いる大軍に襲われた。その後の19世紀には目立った出来事は起こらなかった。31.38mの高さの灯台が建てられた。要塞全体が最新式に更新され、1871年にプロイセン人によって再建された。 現代史[編集] 1901年11月15日、ケーニヒスベルク運河が、ピラウとケーニヒスベルクとの間で開通した。建設にかかった費用は1億3千万マルクという、この水路は喫水21フィートの船舶がピラウ市に沿って停泊でき、またピラウで止まることなしに東プロイセンの首都へと航行できた。これがピラウの経済に深刻な打撃を与えた。 第二次世界大戦中、ピラウはUボートの訓練施設を抱えていた。1945年、赤軍が東プロイセンへ侵攻し、45万人を越える難民がピラウからドイツ中央部・西部へとフェリーで脱出した。戦後、東プロイセンに属したピラウ一帯はソビエト連邦の手に渡り、ドイツ人追放が行われた。ロシア化が進められ、ピラウという名からバルチースクへ変えられた。 1952年、ソ連執行部はバルチースクにバルト艦隊の海軍基地を落成させた。その結果、バルチースクは閉鎖都市となった。外国人との往来、許可のない外部者との往来は禁止された。冷戦時代、バルチースク空軍基地によって運営されていた。カリーニングラードとともにバルチースクは、ロシアへ航行可能なバルト海沿岸の不凍港である。 見どころ[編集] 市周囲にある歴史的建築物は、五角形のピラウ要塞(en)がある。これは1626年にスウェーデンがつくり、1670年にプロイセンが完成させた。1870年に修繕され、現在は海軍博物館が入っている。13世紀に建てられたロヒシュタット城、19世紀の海軍防御施設の迷宮、聖ゲオルク聖堂(1866年)、32mの高さがあるドイツ表現主義の監視塔(1932年)、ゴシック・リヴァイヴァル建築のバルチック艦隊博物館(1903年)、19世紀初頭の優雅な灯台、石造の十字架(1830年、聖プラハのアダルベルトが殉教したとされる地に建てられた。ソ連時代に破壊されたが、1997年に再建された)などがある。

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高山清司 – Wikipedia

髙山 清司(たかやま きよし[1]、1947年9月5日[2] – )は、日本のヤクザ。特定抗争指定暴力団・六代目山口組若頭と三代目弘道会総裁を兼務する。 六代目山口組第二の有力者と目される人物で、警察庁の報告書は、僅か26年という短期間で弘道会という組織を4,000名の人員を擁するまでに強化した張本人(中心人物)と名指した[3]。六代目山口組組長・司忍が銃刀法違反の罪で服役していた時期(2005年 – 2011年)には、山口組の「事実上の最高指導者」とされていた[4]。 生い立ち[編集] 1947年(昭和22年)に愛知県津島市で生まれる[5]。少年時代は野球に打ち込んでいた。しかし、高校時代に野球ボールを顔面に受け、右瞼の神経と筋を切る怪我を負う。これがもとで瞼が常に垂れ下がる状態となり、現在の片目を瞑る特徴的な容貌となった[6]。その後、喧嘩沙汰を起こし高校を中退する。 暴力団への加入[編集] 1967年(昭和42年)、20歳で山口組系弘田組傘下の佐々木組に加入する[7]。1969年(昭和44年)に弘田組と独立組織・大日本平和会との間で、組員の移籍に関するトラブルが生じる。すぐさま件の組員の移籍先である弘田組系神谷組が襲撃を受け、死傷者を出す事態に発展した。 この報復に動いたのは、髙山の所属する佐々木組と司興業であり、司興業組長・司忍の指揮のもと髙山は、大日本平和会系豊山一家組長・豊山王植の殺害に関与する。事件後、懲役4年の判決を受けた[8]。出所後に佐々木組若頭に就任し、同組内に髙山組を結成する。1976年(昭和51年)には弘田組の直参に昇格し、1980年(昭和55年)には若頭補佐に昇格する。 1984年に弘田組の後継組織である弘道会が発足した後も継続して若頭補佐職を務めて1989年(平成元年)には若頭に昇格した。 山口組直参昇格[編集] 2005年(平成17年)3月には弘道会の二代目を継承する。翌4月に五代目山口組の直参に昇格し、同年7月に司忍を首領に据えた六代目山口組の発足と同時に、司が務めていた若頭の役を引き継ぐ[9]。 2013年には、後述する恐喝事件での収監を見越して「子分中の子分」とされる竹内照明に弘道会の跡目を譲る。自身は弘道会の総裁に就任する[10]。 六代目山口組の発足に伴い若頭の役に就いて以降は神戸市内の私邸に居住し、平日は午前から夕方頃まで山口組の総本部へ詰め、週末のみ名古屋に帰省する生活様式となっている。私邸は新神戸駅近くの高台に位置し、入り口には防弾仕様と見られるステンレス製の門と監視カメラが四方に配置され、さらに護衛を担う組員の詰め所と見られる4階建てのビルが隣接する。内部では10数台のモニターで接近者の監視を行うという警備体制が敷かれており、2008年に立ち入った捜査員は“砦のようであった”と発言した[11]。また、三重県桑名市にも別宅を所有する。 後縦靭帯骨化症の持病を抱えており[12][注 1]、2012年11月に京都地方裁判所に出廷した際には、首にコルセットを装着して杖をつく状態であった[13]。また、後述する恐喝罪で服役した際、刑務所内の医療体制が不十分であることを理由に国を提訴した[14]。2019年10月18日に刑期を終えて出所し、名古屋への移動のため品川駅を訪れた際も首にコルセットを装着する姿が目撃されている[15]。

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中村忠司 – Wikipedia

中村 忠司(なかむら ただし、1961年 – )は、日本の観光学者[1]、東京経済大学コミュニケーション学部教授、日本フードツーリズム学会会長[2][3]。 目次 1 経歴 2 おもな著書 2.1 共著 2.2 共編著 3 脚注 4 外部リンク 1961年、大阪府生まれ[1]。 1984年、関西大学経済学部を卒業して、日本交通事業社(後のJTBコミュニケーションデザイン)に入社し、以降、観光関係のプロモーション、ブランディングなどに従事して、広島営業部長、事業開発局チーフプロデューサーなどを経験した[1][4]。この間、2013年から法政大学大学院政策創造研究科政策創造専攻に学び、2015年に修了して、修士(政策学)を取得した[4]。さらに、2015年から一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程に進んだ[4]。

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ザラ語 – Wikipedia

ザラ語(英: Dzala language)は、シナ・チベット語族チベット・ビルマ語派に属する言語である。ザラカ、ザラマ、ヤンツェビカとも呼ばれる。ブータン東部のルンツェ県、タシ・ヤンツェ県で話されている[2]。 ブータンの言語分布 ^ Dzala at Ethnologue (18th ed., 2015) ^ ヴァン・ドリーム, ジョージ (1993年). “Language Policy in Bhutan (PDF)”.

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オースティン・ディーン – Wikipedia

オースティン・ディーンAustin Dean サンフランシスコ・ジャイアンツ セントルイス・カージナルス時代(2021年4月20日) 基本情報 国籍 アメリカ合衆国 出身地 テキサス州ハリス郡スプリング(英語版) 生年月日 (1993-10-14) 1993年10月14日(28歳) 身長体重 6′ 0″ =約182.9 cm215 lb =約97.5 kg

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明倫歌集 – Wikipedia

『明倫歌集』(めいりんかしゅう[1])は、前水戸藩主徳川斉昭が、人倫を明らかにする古今の和歌千首以上を選んだ歌集[2]。版木は文久2年晩冬(1863年初[3])刻[4]。10巻5冊からなる[5]。 従来の歌集は春夏秋冬恋雑の分類のものばかりで、忠君愛国の観点で選んだものはなかった。徳川斉昭は、人倫道徳を明らかにして修身の鑑とするために、みずからも選び、また小山田与清、吉田令世、前田夏蔭、鶴峯戊申などに命じて広く歌集を渉猟させた。歌を選んで整理し、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友・神祇・国体・文・武・拾遺の10部門に分類し、明倫歌集を作った[6]。 書名は和文で『人の道を明らむる歌集(うたふみ)』[7]、別書名を『五倫歌集』とも『明倫和歌集』ともいう。旧書名を『五倫和歌集』といった。五倫和歌集3冊は旧彰考館が所蔵している[5]。 編纂の背景[編集] 明倫歌集は、徳川斉昭が世道人心に有益とみなした和歌を古今の歌集から抽出したものである[8]。その編纂の背景には水戸学があった[9]。 いわゆる水戸学は水戸藩主によって指導された。義公徳川光圀に始まり、後に烈公徳川斉昭が力を入れた。大義名分と国体明徴とを根本とし、幕末に多くの志士を世に送り、明治維新に寄与した。水戸学にもとづく『大日本史』は大義名分を掲げ、国体に即した史観を示した。このほか国学の発達にも水戸学からの援助が大きかった。徳川光圀は大日本史編修と共に古典の研究を志し、難波の僧・契沖を援助して万葉集を研究させた。これにより国学の基礎が築かれた。万葉集初の全註・万葉代匠記は光圀に捧げられた。こうした国学の流れが水戸学とともに明治維新の原動力の一つとなった[9]。 国学を大成した本居宣長は玉鉾百首を詠んで国体の優美をうたった[9]。宣長の弟子たちは、宣長の思想を基盤として庶民教化に和歌を使用した。宣長の思想を活かすため、和歌の教訓的解釈を強調した。政教主義の観点から社会秩序の安定を説いた[10]。鈴屋学(本居流国学)は地方に広まる過程で政治や教化との結びつきを強めていった。たとえば仙台藩士で藩の文教政策に関わった保田光則は、本居大平(宣長の養嗣子)の門人でもあった。保田光則の編んだ撰集『訓誡歌集』(文政10年(1827)序)は、幼年から成年に至る男性に向けて編まれた、新しい教訓歌集であった[11]。 後期水戸学は、藤田東湖の父・藤田幽谷が創唱した。彼は町民出身で大日本史編修総裁に抜擢された。尊王攘夷の先駆者であった[12]。彼も万葉集を重んじた。万葉集は我が国の詩経であって、彼の国の詩に優り、正しく麗しいものだと評価していた。万葉集から歌を選んでこれを一種の経書とし、神武天皇の蘆原の歌にちなんで蘆原集と名づけようと提唱していた。徳川斉昭はこの事から明倫歌集の編纂を思いついたのではないかと言われる[13]。 編纂と出版の経緯[編集] 水戸藩は天保年間(1830年~1843年)に明倫歌集の編纂を始めた[14]。藩主徳川斉昭が発案し、藤田東湖と吉田令世との協議を経て、歌集編纂のことが決まった[14]。編纂の目的は、日本固有の道徳が神代以来の伝統であることを和歌によって裏付けること、そして、それによって勅撰集として認められることであった。認められていたら500年以上ぶりの勅撰集になるはずであった[15]。歌集編纂は水戸藩における『大日本史』や『八洲文藻』などの編纂事業の延長であるとともに、天保・安政の藩政改革を背景とした士民教化の目的もあった。目的が2つあったため、編纂の方針は勅撰歌集の体裁をとるのか、あるいは子弟の教育の体裁をとるのか、2つの体裁の間で揺れ続けた[14]。勅撰歌集の体裁にしていたら春夏秋冬恋雑の分類になるところであった[6]。 徳川斉昭は、政務の合間をぬって自ら歌を選び、人々にも選ばせた[16]。弘道館に歌道方という部局を設けて、和歌・和文を教授させ、また明倫歌の撰集に従事させた[13]。しかし斉昭は弘化元年(1844年)4月18日に突然、幕府により江戸に召還され、ついで5月6日、隠居・謹慎の処分を受けた。藩政改革の行き過ぎを咎められたのである[17]。江戸の駒込で謹慎している間、投げやりにになって書き物も何もしなくなった。ただ、古い歌集を繰り返し読んで、その中に訓戒になるような歌を選んで附箋を貼って侍臣に命じて書き抜かせた。歌集の編纂だけは続けたのである[13]。吉田令世・鶴峯戊申・西野宣明・前田夏蔭などの江戸在住の国学者が歌集編纂に携わった[14]。 歌の収集を命じられた小山田与清と吉田令世は完成前に死去した。ついで前田夏蔭と鶴峯戊申らが命じられたが、彼らも公務に忙しかったり老衰したりして、編纂事業に難渋した。最後は吉田令世の子・尚悳が整理した[16]。このほか西野宣明が編纂に携わり、自己の『松宇日記』に明倫歌集編纂のことを記録している[14][18]。また鶴峯戊申も記録を残している[14][19]。 やがて明倫和歌集が完成した。序文は嘉永4年(1951年)秋、徳川斉昭の自序であった[7]。初め自分で起草して、吉田尚悳に修文させ、それをもとに自ら筆を執って清書した。達筆すぎて素人には読めない筆跡であった[13]。 安政6年(1859年)8月27日、幕府は徳川斉昭に水戸での永蟄居を命じた。安政の大獄である[20]。大獄を主導した大老井伊直弼は翌年3月3日に桜田門外の変で水戸浪士らに殺害された[21]。この年、徳川斉昭は、吉田尚悳に命じて明倫歌集から百首を選んでカルタにした。奥女中たちの遊びにも正しい詞心を感得させようと考えたのである。大勢の女中が集まって遊ぶには百首では数が足らないということで、吉田尚悳にまた命じて、もう百首を選ばせた。合計二百首、カルタの枚数は四百枚になった。縁起をかつぐ女中たちが四(し)百を不吉な数だと言いあっていたら、斉昭が急死した[13]。万延元年(1860年)8月15日、月見の宴の後、便所で倒れ、薨去した[22]。享年61[2]。 徳川斉昭薨去の翌年、文久元年(1861年)11月、松平頼位が明倫歌集の跋文を書いた[16]。松平頼位は水戸藩支藩の宍戸藩の前藩主であった[23]。いずれ世に広めようと置いてあった明倫歌集を、このたび堅木に彫らせて広く人々を諭すことにしたのである[16]。文久2年晩冬[4](1863年初[3])、藩校・宍戸脩徳館にて桜木に彫った[24]。10巻5冊を江戸の書肆・和泉屋金右衛門が発行した[5]。弘道館蔵版もあったが[14]、後世に伝わったのは宍戸脩徳館蔵版本である[13]。なお、宍戸脩徳館蔵版本に引用された歌を原歌集と突き合わせて校訂すると、往々にして歌にも作者にも間違いがあるという[25]。この蔵版は、明治初期にも印刷されたが、大正末期までには稀覯本になっており、また文字が達筆すぎて読み難い[8]。 明倫歌集を出版した宍戸藩は、その3年後の元治元年(1864年)に取り潰された。天狗党の乱の際に、松平頼位の子で宍戸藩主の松平頼徳が、水戸藩主の名代として尊攘派水戸藩士を率いて天狗党の鎮撫に向かったが、逆に天狗党の側に立って戦ってしまい、幕府に釈明しに行って捕まって切腹させられ、宍戸藩も改易となったのである[26]。一旦潰された宍戸藩は、慶応4年(1868年)明治新政府によって復興された。明倫歌集の跋を書いた松平頼位が藩主に再就任した[23]。 序文と跋文[編集] 明倫歌集は序文や跋文などを加えて出版された[2]。序文は徳川斉昭の自序である[7]。これによると徳川斉昭は次のように考えた。神代には、上は天皇から下は庶民に至るまで、清い真心をもって神々を祭った。神に習うままに、国は平和であった。ことさらに教えを立てることもなく、言挙げもしなかった。それでも儒教の五倫が総て神習いの中に備わっていた。そうであるので父母を尊び妻子を慈しんだ。大国主神の若妻のスセリ姫は、「定めたる吾が夫をおきて他に男はなし」と歌った。大伴氏の遠い先祖は武人で、「山行かば草むす屍、海行かば水づく屍」、天皇の命令のままに身を尽して山や海に死骸を晒せと歌った。神代を過ぎて人の代になっても神の習いを歌い継いできた。人々の心に表裏なく、神習いの真心を受け継いできた。名教を言い立てる彼の国よりも、はるかに優れていた。教えを創らなくても、世々に詠まれた多くの歌の中に自然と言葉に現われていた[7]。 こう考えた徳川斉昭は、神習いの真心が現われた歌を集め、人にも命じて集めさせた。幼い子供も口ずさみ、古くからの真心に染まるようにと思い、更に整理選択した。天皇の御製にも憚らずこれを採り、土民の歌も捨てずに拾った。古く万葉集からそうしているので、自分も許されるだろうと考えた。歌はおよそ千首、巻は十巻。これを「人の道を明らむる歌集(うたふみ)」と名づけた。この歌集が世に広まり人々の心を染めて、細やかで勇ましい万葉ぶりに還し、国の光を増して海外をも照らし、国内に古の道を歌う人が多ければこの書はこれで終わらない、後世にも選び重ねて何千巻にもなれば、ついには外国人たちにも我が神国の道を諭すことになり、そうなれば幸いであると思った[7]。 跋文[編集]

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恋姫†無双 〜ドキッ☆乙女だらけの三国志演義〜 – Wikipedia

『恋姫†無双 〜ドキッ☆乙女だらけの三国志演義〜』(こいひめむそう ドキッ おとめだらけのさんごくしえんぎ)は、2007年1月26日にBaseSonより発売されたアダルトゲーム。 日本美少女ゲーム広告賞2006年度最優秀広告賞受賞作品。美少女ゲームアワード2007では、ニュージャンル賞およびベストキャラクター賞の2部門で大賞を受賞している。 2008年4月11日には、パッケージをリニューアルしておまけディスク『謝謝†無双』(しぇいしぇいむそう)を同梱した新装版が発売された。 2008年11月20日には、PlayStation 2版『恋姫†夢想 〜ドキッ☆乙女だらけの三国志演義〜』がイエティより発売された。 2008年7月から9月までは、テレビアニメ版『恋姫†無双』が放送された。 2008年4月26日発売の『電撃G’s Festival! COMIC』 Vol.2から、ひづき夜宵によるコミカライズ版『恋姫†夢想』が連載された(2010年10月まで)。 2008年12月26日には、ヒロインを大量に追加してシナリオを一新し、新たな物語を描いた『真・恋姫†無双 〜乙女繚乱☆三国志演義〜』が発売された。 真名(まな) 『三国志』の世界を舞台としたアドベンチャーゲームだが、武将を初めとした登場人物が、本作ではほぼ全員女性として登場する。また、名前についてもゲーム独自の設定として“真名”(まな)という姓・名・字以外の名を持つ。この“真名”は、本人が心を許した証として呼べる名前であり、本人の許可無く“真名”で呼びかけることは、問答無用で斬られても文句は言えないほどの失礼に当たる。 あらすじ[編集] 聖フランチェスカ学園に通う少年・北郷一刀は、ある夜、学園から古い鏡を盗もうとした泥棒を見つける。泥棒を捕らえようとしたその時、鏡が光り輝き、一刀は見知らぬ世界へと飛ばされてしまう。状況が掴めない一刀は賊に襲われるが、青龍偃月刀を振るう黒髪の美少女に助けられる。少女は関羽と名乗り、一刀こそが戦乱に喘ぐこの世界を救う天の御遣いだと言った。戸惑う一刀だったが、苦しむ民衆たちの姿を見て、英雄として立つ事を決意する。曹操や孫権など三国志の英雄と同じ名を持つ少女たちとの出会いや戦いの中で、一刀はこの世界の真実を知る…。

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上村英明 – Wikipedia

上村 英明(うえむら ひであき、1956年12月15日[1] – )は、日本の社会運動家。恵泉女学園大学教授、ソーシャル・ジャスティス基金運営委員長などを務めている。アイヌ民族や琉球民族の先住民族としての国連活動を支援している市民外交センター(SGC)共同代表である[2][3]。 1956年、熊本県熊本市で生まれる[4]。 1975年、熊本県立熊本高等学校卒業。 1979年、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。 1981年、早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。 1982年、学習塾(AU英語進学教室)専任講師。 1982年、NGO市民外交センターを設立して代表になる。 1992年、川崎市によって開設された川崎市平和館で初代の専門調査員を務める。 1998年、明治学院大学国際平和研究所特別所員。 2002年、恵泉女学園大学助教授 2007年、同大学教授。 1982年(5月):「犬・猫反核署名の会」(のちに「どうぶつ反核署名の会」に改称)を設立し、どうぶつの視点から反核署名運動を展開し、第2回国連軍縮特別総会に署名を送る。この運動で知った第二次世界大戦中の身近などうぶつの強制処分を調査し、『ワンニャン探偵団』としてまとめ、戦時下の民衆史の掘り起こしを行う。[5] 1986年(12月):市民外交センター(SGC)の財源として、通常の会費形式ではなく、自主的に金額を決めて「平和税」の形を取る「ピースタックス」運動を発案し、開始する。SGCの財政的基盤が整備され、2012年には設立30周年を迎えた。それまでの成果や課題は、『市民の外交』として翌2013年に刊行される。 1989年(10月):個人によるネットワーク組織「実践国際人権研究会」(のちの「国際人権NGOネットワーク」)の設立を発案、結成する。 1991年(4月):湾岸戦争に対し、その本質的な原因は国連常任理事国を中心とする武器輸出国にあると考え、「武器貿易禁止条約」草案を起草し、各国の政府やNGOに送る。井上ひさしによって、日本国憲法平和主義のユニークな実践例として、『憲法を考える本』で紹介される[6]。他方、1992年12月には、日本政府とEU諸国政府の協力で、通常兵器の輸出入を国際監視下に置くための「国連通常兵器登録制度(UN Register

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