Month: September 2021

宇野ヘディング事件 – Wikipedia

宇野ヘディング事件(うのヘディングじけん)[1]は、1981年8月26日に後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ19回戦における、中日ドラゴンズに所属していた宇野勝のエラーである。 この日まで、巨人は前シーズンの1980年8月4日から連続試合得点記録が158試合続いており、この日は159試合目だった[2]。中日の先発・星野仙一はこの記録に対し、「オレが止める!」と並々ならぬ気迫で試合に臨んでいた。 試合は、星野の快投の前に巨人打線が沈黙し6回終了時まで僅か2安打無得点に抑えられていた。中日が2点リードで迎えた7回裏・二死二塁の場面で、巨人監督の藤田元司はこの日無安打の1番・松本匡史の際に代打・山本功児を告げたが、山本の打球は力の無いポップフライとなり、遊撃手後方へ上がった。中日の遊撃手・宇野は打球を追いかけて後退しながら捕球体勢に入り、左翼手・大島康徳も宇野のすぐ後方まで前進してカバーの体勢を取りながら、宇野に捕球を任せていた。打球を確認した星野は捕球を確信して三塁側ベンチへ引き揚げかけ、観客の中には席を立ちかける者もいた。 しかし、この後まさかの出来事が起きる。捕球体勢に入っていた宇野が捕球に失敗したのである。打球は宇野の右側頭部を直撃し、サッカーのヘディングのように大きく放物線を描いて跳ね返ったのち、左翼フェンス際へと転々と転がった。宇野は頭を押さえてうずくまり[3]、カバーに入っていた大島は大きく後逸した打球を追って慌ててフェンス際へと走り、二塁手・正岡真二も急遽中継プレーの体勢に入った。三塁側ベンチへ戻りかけていた星野は思いもよらぬ出来事に三塁と本塁の間で呆然としたのち、慌ててバックアップのために本塁後方へ走り、捕手・中尾孝義は二塁走者・柳田真宏が一気に本塁へ生還するのを、青い顔で見つめるだけだった。ようやく大島が打球を処理し、正岡から中尾への懸命の中継プレーによって打者走者の山本は本塁でアウトとなったが、二死のために柳田は山本が打った瞬間にスタートを切っており、巨人は159試合連続得点を記録した。 この突然の出来事に球場の観客は大爆笑となり、席を立ちかけていた者の中には再び着席して観戦を再開した者もいた。本塁まで走った打者走者の山本が刺殺されたことで同点は防げたものの、記録を阻止できなかった星野はカバーに入っていたバックネット前付近でグラブを地面に叩きつけた。その後、試合は両軍無得点のまま中日が2-1で勝利し、星野は狙っていた完封こそ逃したものの9回1失点(自責点0)で完投勝利を達成した。 試合後[編集] 「あとでカラダ空けとけ!」と怒り狂う星野に対し、宇野は「空いてません!」と必死に逃げるのが精一杯だった。ただし後年になって宇野は雑誌のインタビューにて、宇野を気遣った星野から「メシでも食いに行くか」と声をかけられたが、ちょうど田舎から兄が来ており、断ったと述べている[4]。 翌日のスポーツ紙の1面には宇野のヘディングの写真が掲載され、これに対し星野は「俺の一面を取りやがって」と話している。 星野はグラブを叩きつけたことを、取材陣に対し「同点になったらヘディングどころか自殺点だ。怒ったのは宇野に対してじゃない。完封が無くなったのが悔しかったから」と大人の対応を見せた。しかし、怒ったもう一つの理由として小松辰雄と「どちらが先に巨人を完封するか」で10万円の賭けをしており[2]、星野は結果的に宇野のエラーで完封を逃した。 宇野はこのプレーをきっかけに一夜にして時の人となり、宇野の元へは報道陣が多数詰め掛け取材申し込みが相次いだ。さらにこのプレーが「プロ野球ニュース」(フジテレビ)で、みのもんたが面白おかしくナレーションを入れて放送されたことをきっかけに、「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」がシーズン終了後に開始され「珍プレー」が定着。宇野自身「珍プレーの元祖」として番組に出演していた。 宇野はこのプレーについて、「ヘディング自体は翌日の新聞に記事にされることは覚悟していたが、それよりも「宇野 ヘディング『事件』」。事件と書かれたことには相当堪えた。そもそもの原因はスパイクのケン(歯)が人工芝に引っ掛かりそうになったためで、『事件』という表現には嫌な響きを感じた」と述べている[5]。 巨人はその後、同年9月21日の対中日ドラゴンズ22回戦(ナゴヤ球場)で完封負けを喫し、連続試合得点記録は174試合で止まった。完封勝利を挙げたのは、奇しくも先述の星野の賭けの相手である小松だった[2]。 同日の出来事[編集] 宇野の引退後、名古屋の米穀会社、共和食品『山水米』の広告に出演した際には、米袋をヘディングするという演出があった[1]。 宇野は、5年後の1986年に自伝『ヘディング男のハチャメチャ人生』(海越出版社)を出版している。 TBS系のテレビ番組『風雲!たけし城』では、この事件をパロディにした『君も宇野君』というゲームがあった。 宇野に先立って、広島東洋カープの山本浩二も1981年4月19日の巨人戦(後楽園球場でのデーゲーム)でセンターフライを頭に当てて落球したことがある。しかし、大々的に取り上げられるのは現在に至るまで宇野の方である。 35年後の2016年5月17日の阪神中日戦(甲子園)で、遊撃手だった鳥谷敬が宇野の時と同じように打球を捕球するためにレフト方向に走っていったが、落球して失策となった。 ヘディングとは本来サッカー用語だが、元サッカー選手・指導者・解説者に宇野と同姓同名の人物(1944年5月5日生まれ。東京教育大学サッカー部選手・コーチ、東海大学サッカー部監督、神奈川県サッカー協会会長、1995年ユニバーシアード福岡大会日本代表監督などを歴任。後にSCDスポーツクラブ総監督)がいる[6]。奇しくも宇野は、高校卒業前にその東海大学への進学を原辰徳から誘われていた。

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アンドルス・アンシプ – Wikipedia

アンドルス・アンシプ(エストニア語: Andrus Ansip、エストニア語発音: [ˈɑndrus ˈɑnʲˑsʲip]、1956年10月1日 – )は、エストニアの政治家。欧州委員会副委員長兼デジタル単一市場担当委員。エストニアの首相やエストニア改革党党首を務めた。 化学者として研鑽を積んだ後、銀行などのビジネスを手掛けた。2004年に国政に進出してまもなく経済相に抜てきされ、2005年には首相となった。2014年11月1日に欧州委員会委員に任命された。 生い立ち[編集] タルトゥに生まれる。1979年、化学の学位を得てタルトゥ大学を卒業。同年から1983年まで、2年間の兵役をはさんで同大学に技師として勤務した。1986年から1988年まで、エストニア共産党タルトゥ地区委員会組織局長兼産業局教官[1]。銀行や投資事業に何件か関与し、タルトゥ人民銀行の役員やリヴォニア民営化IF委員長、投資ファンド・ブローカー・リミテッドのCEOなどを歴任した。ラジオ・タルトゥの代表取締役でもある。 タルトゥ市長[編集] 1998年、中道右派のエストニア改革党からタルトゥ市長選挙に立候補し、当選した。2004年までの在任中、世論調査におけるアンシプの支持率は非常に高かった。後任のタルトゥ市長には、同党のライネ・ヤネスが就いた。 改革党党首・経済相[編集] 2004年11月21日、アンシプはエストニア改革党の党首となった。これは同党の創設者で、それまで党首でもあったシーム・カラス元首相が欧州委員に選出され、ブリュッセルに移ったためである。これによって、アンシプもタリンに移った。また、同年9月には辞任したメーリス・アトネン経済通信相の後任となったが、在職期間が短かったため、アンシプの経済通信相としての実績を評価することは難しい。 首相[編集] 2005年3月24日のユハン・パルツ首相の辞任を受けて、アンシプは3月31日にアルノルド・リューテル大統領から組閣を命じられた。中央党およびエストニア人民同盟との連立合意によって、アンシプ内閣は4月12日に国会(リーギコグ)の承認を受けた。国会議員101名のうちアンシプ内閣に賛成したのは53名で、40名は反対した。アンシプと閣僚らは4月13日に就任した。 2007年3月4日の総選挙で、アンシプの改革党は27%の票を獲得し、国会における議席数を19から31に増やした。アンシプ個人は2万2500票以上を集めた。トーマス・イルヴェス大統領から組閣を命じられたアンシプは、今度は祖国共和連合と社会民主党と連立を形成した。アンシプの2期目の首相職は2007年4月5日にはじまった。しかし、2009年5月に社会民主党が連立を離脱し、改革党と祖国共和連合の少数与党政権に転落した。 ロンドンで開かれたイギリス・北欧バルトサミットにて(2011年1月20日) 2011年3月の総選挙で、改革党は33議席を獲得し、第一党を維持した。アンシプはイルヴェス大統領から再び組閣を命じられ、改革党と祖国共和連合の連立政権が続くこととなった。アンシプの3期目の首相職は2011年4月6日にはじまった。 2014年3月4日、アンシプは後継者に翌年の総選挙を率いてもらいたいとして、辞任を表明した。2013年12月4日から辞任する2014年3月26日までの期間、アンシプは欧州連合 (EU)

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黎錦熙 – Wikipedia

黎錦熙(れい きんき、1890年2月2日 – 1978年3月27日)は、中国の言語学者、教育家、国語運動家。字は劭西。中国語の標準的な口語(国語)の文法を記述した『新著国語文法』によって知られる。 黎錦熙は湖南省湘潭県中路鋪鎮に8男3女の11人兄弟の長男として生まれた。弟にも有名人が多く、次男は流行音楽で有名な黎錦暉(中国語版)、七男は日本でも有名な「夜来香」を作曲した黎錦光(中国語版)である。 1920年代には国語ローマ字の制定にかかわり、国語ローマ字の教育用に『国語模範読本』を編纂した[1]。また、中国大辞典編纂処の総主任をつとめた。 北平師範大学の教授であったが、日中戦争で大学が移転するとそれにともなって奥地に移った。 中華人民共和国が成立すると、文字改革協会(のちに文字改革委員会)のメンバーになった。 文化大革命では当初「反動学術権威」として批判されたが、同郷の毛沢東の湖南時代からの恩師であったため、それほどひどい迫害をされずにすんだ[2]。 黎錦熙の代表的な著作は『新著国語文法』(1924)である。『馬氏文通』以来、中国の近代的な文法書は文言を対象にしていたが、『新著国語文法』は標準的な口語(国語)を対象としていた。 黎錦熙は文法要素を「字 – 詞(単語)- 語 – 句(文)」の4つのレベルに分け、西洋文法と異なって中国語では句法(統辞論)を中心とする必要があるとした。黎錦熙の特徴的な方法として図解法があり、主語と述語の間を二本線、動詞と賓語(目的語)の間を一本線などで区切った。中国語では主述構造を持つ節がそのまま主語になることがあるが、その場合は二行に分けて、子句(入れ子の文)から母句の主語の位置へ縦線を引くことで図解した。 品詞としては9種類を認めたが、文中で果たす役割によってこれを実体詞(名詞・代詞)、述説詞(主要動詞)、区別詞(形容詞・副詞)、関係詞(介詞・連詞)、情態詞(助詞・嘆詞)の5つに分け、たとえば実体詞は主位(主語の位置)・賓位・補位・領位・副位・同位・呼位の7つの位置に置くことができるとした。 『新著国語文法』は中華民国の中学校の文法教科書として使用された。日本でも戦時中に重用され、邦訳もされている。 黎錦熙『黎氏支那語文法』大阪外国語学校 大陸語学研究所訳、甲文堂書店、1943年。

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ロベール・リナン – Wikipedia

ロベール・リナン (仏:Robert Lynen、1920年5月24日 – 1944年4月1日) は、フランスの男優。名子役として活躍したが、成年後にレジスタンス運動に身を投じ、ナチスにより処刑された。 出生、子役として[編集] ロベール・リナンは父親が画家、母親が歌手でピアニストという芸術家一家に生まれ、両親が動物を飼育していたジュラ県で幼少期を過ごした。 1923年に家族はパリに移り、父親は製図工となった。 ロベールはエコール・デュ・スペクタクル在学中にジュリアン・デュヴィヴィエによって12歳でスカウトされ、映画『にんじん』の主役に抜擢された。ロベールはこの作品の成功によってフランス映画の子役スターとなり、1934年、エクトール・アンリ・マロ作の『家なき子』でレミの役を演じ、1937年にはロバート・シオドマク監督の『モレナール』、レオポール・シモン監督の『詐欺師』に出演。1938年、モーリス・クローシュ監督の『人生は美しい』に出演し、アルフォンス・ドーデ作の『 小さなこと』では主役を演じ、『プリンスの教育』でルイ・ジューヴェと共演した。 レジスタンス活動と死[編集] 1940年、20歳のロベールはウィリー・ロジェ監督の『エスポア』に出演したのちレジスタンス運動に加わり、ヴィシー政権のユースキャンプに向かった。1941年、ロベールは劇場巡演のかたわら、ジャン=ポール・ポーラン監督の映画『Cap au large』に出演。これが彼の最後の映画作品となった。 ロベールは、トゥーロンの幹部によってレゾー同盟に採用され、「L’Aiglon」(レグロン、フランス語で若鷲の意味)のコード・ネームでブリュッセルのドイツ本部に関する間諜を担当するが、1943年2月7日、ナチスに買収されたフランス人将校の密告によりフォンクルーズ城でカシスのゲシュタポにより逮捕され、マルセイユのサン=ピエール通りにある刑務所で尋問・拷問を受けた。 ロベールの身柄はドイツのフライブルクに移され、2度の拷問を受け食事も与えられず、12月15日にロベールは他の10名の仲間とともに軍事裁判にかけられ、スパイ容疑で死刑を宣告され、カールスルーエ近郊のブルッフザール要塞に収容された。数か月の拘留で2度の脱獄を試みたが失敗、帝国軍事法廷によって再び死刑判決を受けた。 1944年4月1日、ロベールはカールスルーエのハードトワルドの森にあるドイツ国防軍の射撃場で、レジスタンスの13名のメンバーとともに処刑され、ラ・マルセイエーズを歌って死んだ。 戦後、集団墓地に埋葬されていたロベールとその仲間の遺体は、1947年にフランスに送還された。オテル・デ・ザンヴァリッドで彼らを讃える式典が行なわれ、ロベールにクロワ・ド・ゲール勲章が授与された。現在、ロベールはジャンティイ墓地の軍事広場に埋葬されている。 映画出演[編集]

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当別町立西当別中学校 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “当別町立西当別中学校” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年2月) 当別町立西当別中学校(とうべつちょうりつにしとうべつちゅうがっこう)は、北海道石狩郡当別町獅子内5134-1にある公立中学校。2学期制。北緯43度11分51秒 東経141度27分9秒に位置する。 校舎は鉄筋コンクリートの二階建て。体育館は木造。かつては校舎南部にプールを併設していた。 1947年(昭和22年)5月 – 当別町立西当別中学校が獅子内小学校に併置開校 1948年(昭和23年)1月 – 校訓制定「協和・自立・創意・健康」 1948年(昭和23年)8月 –

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大阪薬科大学 – Wikipedia

大阪薬科大学(おおさかやっかだいがく、英語: Osaka University of Pharmaceutical Sciences)は、大阪府高槻市奈佐原4-20-1に本部を置いていた日本の私立大学である。1950年に設置され、2021年に廃止された。大学の略称は大薬(だいやく)。 廃止認可日は2021年7月5日[1]。 1904年 – 大阪市東区(現中央区)道修町に大阪道修薬学校設立 1925年 – 専門学校令による道修女子薬学専門学校となる。その後帝国女子薬学専門学校に改名 1932年 – 大阪府南河内郡北八下村(現松原市)に移転 1938年 – 設置者が同じであった帝国高等女学校(大阪国際大学等の前身)の設置者が別法人(財団法人帝国学園)となる 1949年

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バトルボーン – Wikipedia

『バトルボーン』(Battleborn) は、Gearbox Softwareが開発し、テイクツー・インタラクティブより2016年5月3日に発売されたゲームソフト。日本語字幕版は5月19日に発売された。対応プラットフォームはPlayStation 4、Xbox One、Windows。 25人のヒーローからキャラクターを選び、対戦する一人称視点の3Dアクションシューティングゲームであり、マルチプレイヤーオンラインバトルアリーナ(MOBA)のゲーム。公式のジャンルは「ヒーローシューター」とされている。PS4では2016年4月9日から4月18日までXbox One,Windows版は4月14日から4月18日まで実施されたオープンベータテストには200万人以上が参加した[1]。 2009年に発売された『ボーダーランズ』の開発チームが本作の開発を行った。本作のシニア・プロデューサーのクリス・ブロックは『ボーダーランズ』のキャラクター性をもっと突き詰めてみたら、と思ったのが開発のきっかけだと語っている[2]。 あらすじ[編集] かつて宇宙に数多くあった星々はロザー・レンダイン将軍と彼の率いる異次元の存在「ヴァレルシ」によって吸収されてしまった。宇宙最後の星ソーラスを侵略から守るため、ヒーローたちが立ち上がる。 登場人物[編集] 使用できるヒーローは発売時点では25人だが、発売後の無料アップデートでさらに5人が追加される予定。 ラスト・ライト・コンソーティアム[編集] 宇宙一の経済力を誇る勢力で、利益を重視する傾向にある。かつては統合平和維持共和国(UPR)の一部だったが、利益を重視するあまり、離脱した経緯を持つ。 兵器メーカーであるミニオン・ロボット社は子会社にあたる。 フィービー 貴族の令嬢にして冒険家。多相サーベル「アドネクサス」とレイピアを武器として使う近接タイプのキャラクター。 エル・ドラゴン 元プロレスラーで、ISICに敗退して両腕を奪われる形で引退した経緯を持つ。サイバネティクス技術の義手を両腕にはめ、ISICとの再戦を待ち望みながら戦いに身を投じている。 なお、エル・ドラゴンはリングネームであり、本名はフランチェスコ・ドレイク。

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私設取引システム運営業務 – Wikipedia

この項目では、株式PTS、債券PTSを問わず、証券会社の行う私設取引システム運営業務について説明しています。株式PTSについては「私設取引システム」をご覧ください。 私設取引システム運営業務 は、証券会社(有価証券関連業を行う第一種金融商品取引業者)が行うことのできる業務の1つ。 取引システムを使用して「有価証券の売買」(自己取引)または「有価証券の売買の媒介・取次・代理」(顧客の取引の仲介)を行う。「PTS運営業務」ともいう。 私設取引システム運営業務を行う証券会社は、第一種金融商品取引業の「登録」のほかに、さらに申請して「認可」を受ける。私設取引システム運営業務の「認可」を受けた証券会社は、告示[1]により「財務局監理」から「本庁監理」に変わる。「認可」は取引システム(Proprietary Trading System, PTS)ごとに受けるので、運営対象を追加・変更する場合には、申請して「変更認可」を受ける。 証券会社は、公設取引システムである証券取引所と違って「自主規制機能」を有しないので、証券会社が運営する私設取引システムは、証券取引所に比べて「価格形成機能」が低いものであるべき、とされる,[2][3]。そのため、売買価格の決定方法が法令に限定列挙されているほか、取引量に係る数量基準(監督指針IV-4-2-1③ロ)が設けられている。 1998年金融システム改革法により解禁され、2000年12月から「私設取引システム(PTS)開設等に係る指針」の運用が始められた後、少なくない数の証券会社が申請して「認可」を受けた。しかし、その多くが運営を中止したため、現存するPTSの数は、株式PTS、債券PTSとも必ずしも多くない。 売買価格の決定方法[編集] 私設取引システムの売買価格の決定方法は、法令(金融商品取引法2条8項10号、定義府令17条)に限定列挙されている。これと異なる取引システムについて「認可」を受けることはできない。 根拠法令 売買価格の決定方法 内容 法2条8項10号ロ・ハ 市場価格売買方式 (クロッシング) 証券取引所において形成された価格を用いる。ゆえに価格形成機能を全く有さない[4]。 法2条8項10号ニ 顧客間交渉方式

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