前野自行 – Wikipedia

 

凡例

前野自行

時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 天明3年3月2日(1783年3月25日?)
別名 郡平(通称)、市原自行
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家当主
阿波徳島藩上士
氏族 市原氏、前野氏
父母 父:市原勝元、母:?
養父:前野自韶
前野自韶娘
太田茂孝室、前野喜蔵(早世)、女(早世)、前野伴之助(早世)、前野自道、中内三信室、前野自温、前野加賀郎(早世)
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前野 自行(まえの よりゆき、生年不詳 – 天明3年3月2日(1783年3月25日?)[1])は、江戸時代ごろの武士・阿波徳島藩上士。仕阿波徳島藩系前野家三代当主[1]

宝暦7年9月13日、妻の実家である前野家の前野自韶の養子となり家督を継ぐ[1]。元は市原三四郎勝元の嫡男で、前野自韶の娘を妻とした[1]。阿波徳島藩に仕えた[1]。嫡男の前野喜蔵や次男の前野伴之助が次々と若くして亡くなっていったため、他家との養子縁組も考えたが、三男の前野自道が家督を継ぐ[1]。天明3年3月2日、大坂にて病死したと伝わる[1]

前野氏は、桓武天皇皇子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統 で、平安時代末期もしくは鎌倉時代初期に創設された氏である[2]。良岑高成(立木田高成)の子である前野高長もしくはその曾孫である前野時綱が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町〜大口町辺り)に移り住んで前野を名乗ったのが始まりとされている[3]。だが、自香の家系である前野家は、藤原利仁流富樫氏族坪内氏の出身である前野左近将監為定が始祖であり、『蜂須賀家家臣成立書并系図』によるとその実の子孫であるが、別の『前野氏系図』によると為定の家を継いだ前野宗高は養子で良岑氏流前野氏の出身であったとされている。また、自行の父は前野自逸であるとする資料もある。

出典

  1. ^ a b c d e f g 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学付属図書館蔵
  2. ^ 『尊卑分脈』、『良岑氏系図』、『公卿補任』
  3. ^ 『前野氏系図』
  • 父:市原三四郎勝元
  • 養父:前野郡平自韶
  • 生母不明の子
    • 太田勘四郎茂孝室
    • 前野喜蔵(早世)
    • 女(早世)
    • 前野伴之助(早世)
    • 前野武助自道
    • 中内三信室
    • 前野郡平自温
    • 前野加賀郎(早世)

前野氏歴代当主[編集]