足利義詮 – Wikipedia

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府第2代将軍[4]。初代将軍足利尊氏の嫡男[注釈 1]。母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室の赤橋登子(登子の子としては長男)。

幼少時から将軍就任まで[編集]

元弘3年(1333年)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・高氏(尊氏)が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに北条家の人質として鎌倉へ留め置かれた。

高氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。

尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直の謀反により直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され、直義に代わり幕府の政務を任される。正平6年(1351年)8月には、尊氏が直義派に対抗するため義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一統が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木正儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光厳、光明、崇光天皇の3上皇および皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器のない状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353年)6月、正平10年(1355年)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている。

将軍就任後[編集]

足利義詮像(『古画類聚』)。等持院の木像を模写したもの

正平13年(1358年)4月に尊氏が没し、12月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平16年(1361年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平17年(1362年)7月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命する。正平18年(1363年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の19番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平20年(1365年)2月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関などを破却させた。正平21年(1366年)に斯波氏が一時失脚すると、細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。

正平22年(1367年)11月、側室の紀良子との間に生まれた幼少の嫡男・義満を細川頼之に託し、12月7日に病により死去した。享年38。死の2日前に鼻血を多量に噴出したと、三条公忠の日記『後愚昧記』は伝えている。なお、同年3月5日には弟の基氏が義詮に先立って死去している。

死の間際、天龍寺の春屋妙葩と等持寺の黙庵が盥漱などの心身を清める仏事を行い、義詮を看取った(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。遺骨は神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院に納められ、神奈川県鎌倉市瑞泉寺および神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院も分骨を許可された(『空華老師日用工夫集』[3])。その他の寺は義詮の遺命にないとして分骨を許可されなかった(『空華老師日用工夫集』[3])。なお、京都府京都市右京区嵯峨野の宝筐院および善入山宝筐院および静岡県三島市の宝鏡院にも墓標が存在するが、史実としては不明である。

通称と邸宅[編集]

三条坊門に邸宅を営んだため「坊門殿」と呼ばれた。また、室町季顕から「花亭」を買い受け別邸とした。のちに「花亭」は足利家より崇光上皇に献上され仙洞御所となったが、第3代将軍義満は再び皇室から「花亭」を譲り受け御所とした。世にいう花の御所である。

※日付=旧暦

墓所・肖像画・木像[編集]

墓所
法名は寶篋院瑞山道權。墓所は京都府京都市北区の萬年山等持院。また、京都府京都市右京区の善入山宝筐院や静岡県三島市川原ケ谷の地福山宝鏡院にも伝承がある。
肖像画
宝筐院本(束帯姿。重要文化財)
記録上では義詮の画像はいくつか確認できるが、現在そう言い伝えられている作品は、これ以外ほとんど無い。美術史学者の米倉迪夫は、神護寺三像(国宝)の一つ「伝藤原光能像」について、足利義詮像とする新説を唱えている。伝光能像の容貌が等持院像に酷似しており、共通の紙型を元に制作された可能性が高いことが根拠である。また日本中世史家の黒田日出男は、米倉の論旨や当時の政治状況をふまえて、神護寺三像のうち特にセット性が明瞭な伝源頼朝像と伝平重盛像がそれぞれ足利直義像と足利尊氏像とすると、残りの伝光能像は義詮像としか考えられない、と論じている[5]。一方、従来の宝筐院本について見ると、同作品が発見され義詮像とされたのは意外に新しく、戦後になって日本史学者の赤松俊秀によって紹介されてからである[6]。しかし、宝筐院本の面貌表現を比較すると、等持院像やあるいは伝光能像よりも、安国寺にある尊氏像との共通性が感じられる。また、宝筐院は幕末に一時全くの廃寺になり、義詮像は大正8年(1917年)に宝筐院が再興された時に他からもたらされた蓋然性が高いことから、宝筐院本は義詮ではなく尊氏像である可能性が指摘されている[7]
木像
等持院像、鑁阿寺像、瑞泉寺像
等持院像は、幕末に尊皇攘夷派により尊氏・義満の木像と合わせて三条河原に梟首されたことで知られる(足利三代木像梟首事件)。

古典『太平記』では、他者の口車に乗りやすく酒色に溺れた愚鈍な人物として描かれているが、実際には父の尊氏が不在の際に半済令を発して武家の経済力を確保する一方、異母兄の直冬からの侵攻により幕府が窮地に陥った際も、神南の戦いから京都市中での合戦でこれを破るなど、内政や軍略で功績を残している。さらに細川清氏の失脚や斯波氏の一時失脚(貞治の変)に乗じて、守護勢力を抑制し中央の将軍権力を高めるなどの政治力も発揮している。また義詮時代に大内弘世・山名時氏ら有力守護をはじめ、仁木義長や桃井直常・石塔頼房も幕府に帰参しており、その治世に南北朝動乱をほぼ終熄させて幕府政治に安定をもたらしたことも無視できない。奥州には石橋棟義を、九州には斯波氏経、渋川義行を派遣したが、九州平定は実現しなかった。『太平記』は、義詮が没し細川頼之が管領に就任する章(巻第三十七)で物語を終えている。

尊氏同様に文人でもあり、連歌や和歌が多く後世に伝わっている他、正平22年(1367年)3月には京都の新玉津島神社において新玉津島社歌合を開いている。また、尾道に天寧寺を建立した。

正室は足利一族の渋川幸子であるが、彼女との間に生まれた男子は早逝している。その後しばらく子に恵まれず、後継ぎを得たいためか不明であるが、公家の娘や天皇に仕える女官など多くの女性と交わり、義詮は腎虚になって寿命を縮めたと言われている。

楠木正行との関係[編集]

義詮の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行(楠木正成の長男で「小楠公」と尊称される)の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた、という伝説がある。

これは永和3年(1377年)4月に宝篋院第二世院主の呉渓が記したと称する記事に基づく[3]。しかし、南北朝時代を専門とする研究者藤田精一は、以下の点からこの伝説に疑問を投げかけている[3]

  • 記事の文体書風が南北朝時代のものと合わず、呉渓本人の著とは考えられない[3]
  • 自称呉渓の記事では楠木正行が正平3年(1348年)1月5日に黙庵(宝篋院第一世院主)に参禅し、その翌日(6日)に戦死したとするが、史実としては1月5日中に四條畷の戦いで戦死しており、日付が一致しない[3]
  • 義詮が黙庵を崇敬しており、死の間際に何か後事を託したのは一次史料から確認できる(義堂周信『空華老師日用工夫集』[3])。ただし、自称呉渓の記事では、死のずっと前のある日、たまたま義詮と黙庵が正行の話題に及んだのを、黙庵が義詮の死後に思い出して遺言を実行したとしており、史実と状況が一致しない[3]
  • そもそも義詮の遺骨が納められたのは鎌倉浄妙寺光明院である(『空華老師日用工夫集』[3])。他に鎌倉瑞泉寺と円覚寺黄梅院は分骨を許可されたが、それ以外の寺は遺命にないとして分骨を却下されている(『空華老師日用工夫集』[3])。したがって、善入山宝筐院に足利義詮の遺骨は存在しない。

ただ、足利将軍家が楠木氏を敬慕していたのは、足利氏寄りの史書『梅松論』で楠木正成が「賢才武略の士」として英雄視されていることなどから事実である。義詮が第一世院主の黙庵を崇敬していたこともあり、そうした経緯からこの伝説が生じた可能性はある。

  • 父:足利尊氏
  • 母:赤橋登子
  • 兄弟
  • 正室:渋川幸子
  • 側室:紀良子
  • 生母不明の子女

義詮の偏諱を受けた人物[編集]

「義」の字
「詮」の字
(補足)
  • 「義」の字は、足利氏の祖先にあたる清和源氏の通字であり、統治にあたってその子孫であることを示す意図があったものとみられ、子の満以降の足利将軍家でも代々用いられるようになった。なお、室町時代においては、この字が与えられることは破格の待遇を意味していた。
  • 「詮」の読み方について、義詮とその子である満詮は「あきら」、その他の人物は「あき」と読まれる。また、後者では「のり」と読まれることもある。
  • 年代的にほぼ同時代の人物であることから、上記のほか、斯波将・斯波種兄弟[注釈 2]や畠山深、畠山(二本松)国(二本松氏、畠山国氏の子)や京極高、二階堂行(行良)など(諱の2文字目に用いている人物)も義詮から偏諱を受けた者と考えられるが、確証はない。

注釈[編集]

  1. ^ 足利竹若丸、足利直冬という2人の庶兄に次いで三男とされる。
  2. ^ 孫の義淳の時代において「斯波氏は代々『』の字を与えられる」(『満済准后日記』)と明確に述べられていることや、兄の氏経・氏頼が足利尊氏(義詮の父)、年齢的に割と近い甥(兄の子)の詮経・詮将が足利義詮、義将の子の義重や義種の子の満種・満理が足利義満(義詮の子)から1字を受けていることからほぼ確実とみられる。

出典[編集]

参考文献[編集]

足利義詮が登場する作品[編集]

テレビドラマ

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