平成研究会 – Wikipedia

平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。旧称は経世会(けいせいかい)。略称は平成研(へいせいけん)。

通称、茂木派(竹下登派→小渕派→橋本派→津島派→額賀派→竹下亘派→茂木派)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤派)・木曜クラブ(田中派)の流れを汲む。吉田茂が率いた自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))と共に保守本流とされる派閥の1つである。

自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))と共に保守本流とされる。派閥の源流は旧自由党の吉田派から佐藤派(周山会)と池田派(宏池会)と分ける形で派閥を形成したことが始まりである。その後、田中角栄が1972年に木曜クラブ(田中派)として佐藤派の大部分を引き連れ独立、さらに竹下登が1987年7月4日に経世会として田中派の大部分を引き連れ独立、1994年に平成政治研究会に改称し、その後現在の平成研究会に再度改称されて現在に至る。

田中派時代の昭和50年代から平成中期にかけて主流派として自民党の政治に大きな影響を与えた。田中が最大派閥を維持し闇将軍と呼ばれるほど大きな影響力を発揮、その後昭和の末期に竹下登が経世会として独立してから総理大臣に就任した。その後竹下が総理大臣を辞任した後も影響力は大きく、小沢一郎や羽田孜らが改革フォーラム21として経世会から独立し所属議員数が党内4位に転落しながらも橋本龍太郎や小渕恵三などの総理大臣を誕生させるなど主流派として長年活動していた。しかしその後は、小渕以来総理・総裁を誕生させられていないどころか2003年の自由民主党総裁選挙候補であった藤井孝男以来派閥として独自候補を擁立できない状況が続いており、総裁以上に様々な人物が就任している党幹事長にも2000年に野中広務が退いて2021年に茂木敏充が14人のべ16代ぶりに就任するまで厳しい状況が続いた。そのようなこともあり、派内から派閥領袖に就任した者の指導力に対する疑問が出たり、派閥として結束した行動ができないケースもしばしばある。

田中角栄の影響もあり、親中派とされる議員が多い(平成研究会の事務総長代理を務める小渕優子は日中友好議員連盟の会長も務めている)。

竹下登派時代[編集]

1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らを中心に、木曜クラブ(田中派→二階堂グループ)内に勉強会として創政会が結成される[1]。田中の激しい巻き返しに遭うが、同月27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。

1986年4月25日、創政会は解散され、反対派や中間派の取り込みが図られた。

1987年2月28日の第75版『国会便覧』(日本政経新聞社)時点における木曜クラブ(田中派)所属議員は139人[3][注 1]

同年5月21日、政治資金パーティー「竹下登自民党幹事長激励の夕べ」が東京プリンスホテルで開かれ、史上空前の1万3千人が参集した。売り上げはおよそ20億円と言われ[4]、田中派からの参加者は128人と9割以上に達した。欠席した二階堂グループの議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた。同年7月1日、田中派の常任幹事会が開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂、竹下両グループの話し合いは決裂。ついに田中派の分裂が確定した[6]

同月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人[7]。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった[9]

同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり[10]

同年10月20日、中曽根康弘の裁定により、竹下、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちの3人から、竹下が次期自民党総裁に内定した[12]

同年11月6日の竹下内閣発足時には、竹下派は121人に増えた。竹下の総理就任後、金丸信が経世会会長に就任した。

竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、「経世会支配」と呼ばれた。また、このころには竹下派七奉行などの有力政治家を擁していた。リーダーによる鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。

竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が内閣総理大臣官邸よりも、TBRビルを優先して訪問していた様は、首相による権威の低下と経世会支配の象徴とされた。

元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者の竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼いの小沢一郎が自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任し、金丸の庇護のもとに辣腕をふるったことは竹下に近い議員の反発を買った。この頃には、海部内閣の衆議院解散に際して小沢が反対して海部内閣が総辞職に追い込まれた海部おろしなどの動きがあり、海部内閣から宮澤内閣に至る時期は、金丸、竹下、小沢のいわゆる「金竹小(こんちくしょう)」が政府および自民党の実権を掌握していた。

1992年10月14日、金丸は東京佐川急便事件の責任をとり、議員辞職願を提出し、会長も辞任した。10月16日、経世会の総会が開かれる。出席者は所属議員109人中93人。竹下派を支えてきた七奉行がここで真っ二つに割れた。小沢支持グループは奥田敬和、渡部恒三に小沢を加えて3人。これに対し、反小沢グループは橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六の3人。派内状況の行方を決定付ける立場に立っていたのが、これまで独自の道を歩んでいた羽田孜であった。羽田は総会が終わると真っ直ぐに赤坂プリンスホテルに向かった。ホテルの一室に入ると、小沢を筆頭に奥田、佐藤守良、石井一、左藤恵らがいた。奥田は一枚の文書を羽田に示した。経世会新会長に誰を推薦するとは書いてなかったが、羽田を想定していることは明白であった。この会合から小沢支持グループの「羽田会長構想」がスタートした。

この抗争においては、反小沢グループは小渕を担ぎ出す方針を決めた。衆議院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示。加えて宮澤喜一首相が現職の蔵相である羽田の派閥活動を行きすぎがあるとして警告を発した。

同年10月21日、議院運営委員会で金丸の議員辞職願が受理される[16]。同日朝、国会地区のキャピトル東急ホテル前で「羽田擁立集会」が始まった。そして午前10時、最高幹部会が開かれると、沈黙を守っていた金丸から小沢に「すぐに事務所に来い」と電話が入る。小沢が赴くと金丸は「いつまで子供みたいな喧嘩をしてるんだ」と叱責した。金丸の隣には竹下がいた。「ここは小渕で行くしかないだろう。敵が少ないのがこの際一番だ」と竹下は言った。「参院経世会を動かしたのは竹下さんですね。納得できません。卑劣じゃないですか」「だから君は若いんだ。参院の小渕待望論が亀裂の溝を埋めるんだ」「あなたの認識はずっとおかしい」

竹下の説得は平行線をたどり、小沢は聞く耳を持たなかった。午後に再開された最高幹部会も膠着状態が続いた。午前0時を回ったとき、座長格の原田憲が突然席を立ち、記者会見で「新会長には小渕君が適任だと考える」と述べた。同年10月28日午前11時から始まる臨時総会で半ば強引に竹下子飼いの小渕の会長就任が決まった。それから5時間後、羽田は政策集団「改革フォーラム21」を結成すると発表した。

同年12月18日、小沢支持グループは「改革フォーラム21」を派閥に衣替えし、44人から成るグループ「羽田派」(代表:羽田孜)を正式に結成。これにより竹下派は党内第四派閥の小渕派と、第五派閥の羽田派に分裂した。

小渕派時代[編集]

1993年6月、羽田・小沢派は離党して新生党を結成。細川護煕を首相とする非自民政権を樹立した。

細川・羽田内閣と非自民政権が短期間で崩壊、村山内閣が成立し自民党が与党に復帰すると、小渕派も次第に勢力を回復した。1995年の総裁選で竹下は派閥幹部の橋本龍太郎の擁立を決定。総裁就任後、1996年1月の村山内閣退陣をうけ、後任の総理大臣に就任した。その間、党内の派閥解消運動や、小派閥転落で事務所維持費が厳しくなったため、田中派時代より入居していた砂防会館から経世会の看板を下ろし、平成政治研究会に改称した。その後、平成研究会に改称。

派閥出身の橋本龍太郎が首相時代に普天間基地移設問題に尽力したこともあり、防衛問題や沖縄問題に強い派閥として知られている。

1998年7月の参議院議員選挙で敗北すると、竹下は即座に総理総裁職を橋本から派閥会長である小渕へ交代するよう指示。後継の会長には綿貫民輔が就任した。この決定を不服として、梶山静六は派閥を退会して独自に総裁選に出馬。のちに令和の年号を発表することとなる菅義偉も同時に退会して宏池会に移った。

竹下は小泉純一郎を出馬させて三つ巴の形を採り、それまで「一致結束・箱弁当」と呼ばれた小渕派が初めて綻びを見せた。この頃から、将来をつなぐはずだった若手のほとんどが小沢・羽田らと共に自民党を離党したことを背景に、小渕派の後継者が不在であることが派閥のアキレス腱として囁かれ始める。

橋本派時代[編集]

2000年に小渕、竹下が相次いで死去。7月に綿貫が衆議院議長に就任し派閥を離脱したため橋本が後任の会長に就任した。しかし、実質的に派閥の実権を握っていたのは、野中広務と青木幹雄であった。

橋本は、2001年4月、森総裁の後任を選ぶ総裁選に出馬したが、小泉純一郎に大敗した。田中派以来、「一致結束・箱弁当」と呼ばれる鉄の団結を誇ったが、小泉政権成立以降、総裁候補が不在のままとなり求心力が低下した。また、角福戦争以来の怨念を抱く小泉首相からは、「抵抗勢力」と位置付けられて目の敵にされ、小泉政権では2003年9月まで橋本派は党執行部から外された。橋本派が党執行部ポストに就任できなかったことは過去を遡ると田中派時代の三木政権(1974年 – 1976年)以来25年ぶりのことであり、橋本派の影響力低下を物語った。

2003年の総裁選において、反小泉の急先鋒であった野中が独自候補の擁立を主張したものの、青木幹雄や村岡兼造が小泉支持を表明したために野中は完全に孤立。総裁選のさなかに野中はこれを理由に議員引退を表明する事態となった。派内からは笹川尭・熊代昭彦など複数の会員が公然と出馬意欲を示すなど大きく混乱したが、最終的に藤井孝男を擁立。派内の支持をまともに得られない中で藤井は落選し、小泉が再選された。その後の小泉政権下の党役員人事では2003年9月から2004年9月まで額賀福志郎が政調会長に、2004年9月から2006年9月まで久間章生が総務会長に起用され、久々に党三役ポストを得た。

2004年に日歯連闇献金事件が浮上し、野中広務や青木幹雄が立ち会う形で橋本龍太郎が1億円の小切手を受け取り、政治収支報告書に闇献金として処理していた疑惑が浮上(この疑惑では村岡兼造元官房長官が在宅起訴され有罪)。2004年7月30日、橋本は責任をとる形で会長を辞任。派からも離脱し、2005年の衆院解散で政界を引退した(その翌年に死去)。その後、綿貫民輔元衆議院議長、次いで保利耕輔元自治大臣兼国家公安委員会委員長の会長就任の声が上がるも、両者共に固辞した。

さらに、郵政国会での郵政法案の対応を巡り2005年の第44回衆議院議員総選挙で綿貫・保利ら法案反対組が非公認となり、党内第一派閥の座を森派(現・安倍派)に明け渡した。

津島派時代[編集]

会長不在の状態が続いたが、第3次小泉改造内閣が成立した4日後の2005年11月4日、会長に津島雄二が就任。2003年9月の総裁選以来、派内で続いている衆院と参院のわだかまりの解消が大きな課題であった。また、衆議院幹部の多くが、1993年以降の政界再編の中で離党後に復党した「出戻り」(ほとんどが小沢一郎率いる新進党からである)や「外様」議員(鳩山邦夫(2010年に2度目の離党)・笹川堯・石破茂・船田元など)となり、生え抜きは額賀などの少数派となった。会長の津島も元は旧宮澤派出身の出戻り組であった。

もともと経世会分裂とその後の嘘つき解散において、船田元・鳩山邦夫などの将来を担うと目された議員が離党ないし派閥離脱し(その後大半が復党したが、鳩山邦夫は再度自民党を離党、船田元は落選した)、”NYKK”の一人といわれた中村喜四郎(現在は立憲民主党所属)がゼネコン汚職事件で失脚するなど、人材が不足する中で藤井孝男・鈴木宗男・額賀福志郎が「御三家」とみなされるようになった。しかし、鈴木が2002年に不祥事で失脚し、離党と橋本派離脱を余儀なくされたほか、藤井も2005年の郵政政局で離党・落選した(藤井は2007年の参院選で当選し、復党と同時に再入会をしたが、2010年に再離党し新党たちあがれ日本を結成)。

このため最後まで残った額賀福志郎を総理総裁候補として育ててゆく方向であるという見方が強くなったが、久間章生や青木幹雄が総裁選のたびに額賀擁立に賛同しないなど、自他共に認める総理総裁候補とは言い難い状況であった。また、鳩山邦夫は派閥復帰後も麻生太郎の盟友として活動し、派としての行動の統一がとれなかった。さらに、郵政造反組で復党した議員の多くが他派閥に移籍するか無派閥となっており、世話する幹部が不在となった。

2007年の第21回参議院議員通常選挙では、片山虎之助参議院幹事長をはじめ、武見敬三厚生労働副大臣、青木幹雄参議院議員会長の地元島根県選出の景山俊太郎など、議員立候補者が次々に落選し、参議院においても町村派に次ぐ第2派閥に後退した。

2008年の福田康夫総裁の辞意表明を受けた総裁選で、麻生太郎や与謝野馨に支持表明する派閥幹部が出る中、若手や中堅を中心に石破茂を擁立し、石破が総裁選に立候補したが5位で敗れた。

総裁選後、鳩山邦夫を中心にした戸井田徹、吉川貴盛、馬渡龍治、田村憲久、河井克行の通称「鳩山5人組」も分派行動をとり始めた。鳩山が総務大臣を更迭された際には、集団離脱が懸念された(第45回衆院選で戸井田、吉川、馬渡は落選)。

2009年7月19日、会長の津島雄二が第45回衆議院議員総選挙の直前になって不出馬・政界引退を表明した。同選挙で自民党は結党以来初となる衆議院第一党の座を明け渡す大敗北を喫し、平成研も改選前の45議席から1/3以下となる14議席へ勢力を激減させた。

額賀派時代[編集]

2009年9月8日、津島雄二の引退と総選挙大敗の結果を受けて臨時総会が行われ、会長代理の額賀福志郎が会長に就任した。

額賀の会長就任後、政界再編や新党結成などを主張していた鳩山邦夫が離党し、派閥解消を唱える石破茂が2011年に政調会長を離任後に派閥へ復帰せず離脱するなど所属議員の数が減少を続け、党内第三派閥に後退。
2012年の総裁選にも派閥内で候補を擁立することができなかったものの、第46回衆議院議員総選挙で自民党大勝の影響から49議席まで勢力を広げ、党内第二派閥に復活。

しかし2015年の総裁選でも独自候補を擁立できず、さらには2017年に麻生太郎率いる志公会が発足したため再び党内第三派閥に。安倍内閣の主流派であるにも関わらず額賀の求心力に大きな疑問符がついていた。

竹下亘派時代[編集]

額賀の就任以降、指導力に派内で長らく不満がくすぶり続けたが、2018年1月に参院幹事長で参院平成研会長の吉田博美を中心に派内の参院議員が集団離脱を盾に額賀の退任を要求。額賀は3月に退任を表明し、後任に創設者の竹下の異母弟である竹下亘を指名した[20]

同年4月に竹下が会長に就任、これにより、26年ぶりに「竹下派」が復活(「大政奉還」とも表現された)。会長代行には茂木敏充と吉田を据えた。

2018年の総裁選では、竹下は派として一致した対応を模索したが、派内の衆院議員の多数は現総裁の安倍晋三を推す一方、参院側では青木幹雄の影響などから対抗馬の石破茂支持となり衆参で分裂。事実上の自主投票を選択せざるをえなくなり、かつてのような「鉄の結束」とは程遠い姿を、またしても露呈することになった[21]

2019年1月9日、竹下が記者会見し、食道がんであることを公表し、会長にはとどまるものの、派閥の運営は当面は最高顧問の額賀、会長代行の茂木、吉田らに委ねることになった[22]。このうち、吉田は病により2019年7月21日投開票の第25回参議院議員通常選挙に立候補せず、同年10月に死去した[23]。その後、竹下は体調が整わないことから、第49回衆議院議員総選挙には立候補せずに政界からの引退を表明し[24]、2021年9月に現職のまま死去した[25]。これ以降一部メディアでは「旧竹下派」の呼称が用いられるようになった。

竹下の死と同日に告示された2021年の総裁選では、会長代行の茂木が「グループとしては大半が岸田氏支持でまとまった。方向性が明確になった」と話し、他候補の支持を認めつつも、派閥として事実上岸田文雄を支持する形となった[26]。竹下自身は生前に岸田を支持することを表明していた[27]。同年10月4日に発足した岸田内閣では、竹下派から党内最多の4人が入閣した[28]

同年10月6日、石破派を退会していた古川禎久(岸田内閣で法務大臣に就任)が入会し、前日に入会していた小松裕も加え志公会と並んで党内第2派閥となった[29]

同年10月31日の第49回衆議院議員総選挙では自民党が絶対安定多数を確保したものの、幹事長の甘利明が小選挙区(神奈川県第13区)で落選し、比例代表で復活当選したことを理由に辞任。後任に茂木が就任した。平成研からの幹事長就任は野中広務以来21年ぶりのこととなった[30]

茂木派時代[編集]

参院竹下派から船田元を次期会長に推す声もあったが[31]、同年11月11日の派閥会合にて会長代行の茂木敏充が次期会長に就任することが決まった[32]。同月25日の総会にて茂木が会長に就任し、正式に茂木派へと衣替えした[33]

歴代会長[編集]

太字は首相(総裁)経験者

現在の構成[編集]

役員[編集]

衆議院議員[編集]

(計32名)

参議院議員[編集]

(計21名)

参議院平成研究会[編集]

平成研究会とは別に参議院平成研究会として、参院の派閥議員に加え三原じゅん子ら無派閥議員10人が参加している[37][38]

注釈[編集]

  1. ^ 田中派はピークの時点では143人を抱えた。
  2. ^ 有隣会(谷垣グループ)にも所属。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]