エドガル・ホヴァニシャン – Wikipedia

エドガル・ホヴァニシャン(アルメニア語: Էդգար Հովհաննիսյան、ロシア語: Эдгар Сергеевич Оганесян〈エドガル・セルゲーヴィチ・オガネシャン〉、1930年1月14日 – 1998年12月28日)は、ソビエト連邦およびアルメニアの作曲家・教育者。

1930年1月14日にエレバンで生まれた[1]。グリゴリー・エギアザリャン (ru) に師事して1953年にエレバン音楽院を卒業し、アラム・ハチャトゥリアンに師事して1957年にモスクワ音楽院を卒業した[1]。1952年からソビエト連邦共産党の党員となる[1]

1962年から1968年までエレバン・オペラ劇場アルメニア語版監督、1970年から1974年まで国立アルメニア民謡・舞踊合唱団 (hy) 音響監督を務めた[1]。1956年から1973年までは、アルメニア共和国作曲家同盟副会長でもあった[1]。1979年から1985年までアルメニア・テレビ・ラジオ音響監督を務め、1986年からはエレバン音楽院の教員・学長でもあった[2]

政治の分野では、アルメニア共和国最高会議の第6期・7期代議員を務め[1]、人民代議員選挙ではエレバンのスパンダリャン選挙区から立候補、当選している[3]。1998年12月28日にエレバンで死去[4]

バレエ音楽

  • «Мармар»(1957年)[1]
  • «Голубой ноктюрн»(1964年)[1]
  • «Вечный идол»(1966年)[1]
  • «Антуни»(1969年)[1]
  • «Давид Сасунский»(1976年)[5]

カンタータ

  • «Миру — мир!»(1950年)[6]
  • «Страна родная»(1960年)[1]
  • «Эребуни»(1968年)[1]
  • «В армянских горах»(1969年)[1]
  • «Памятник героям»(1975年)[1]
  • «Слава партии Ленина»(1977年)[6]

合唱とオーケストラのために

  • «Коммунистической партии»(1952年)[1]
  • «Витоша-Арарат»(1967年)[1]
  • «Ереван-Эребуни»(1968年)[1]
  • «Сардарапат»(1968年)[1]
  • «Арпа-Севан»(1969年)[1]

アカペラ合唱のために

  • «Два берега»(1952年)[1]
  • «Упокой»(1969年)[1]

交響曲

  • バレエ組曲(1953年)[6]
  • 交響曲(1958年)[6]

室内交響曲

  • ピアノ五重奏(1955年)[6]
  • 協奏曲(1968年)[6]

弦楽四重奏

  • I(1946年)[6]
  • II(1958年)[6]
  • III(1964年)[6]

チェロとピアノのために

  • 夜想曲(1947年)[6]
  • ソナタ・エピタフ(1975年)[6]
  • ロンド・ソナタ(1977年)[6]

チェロ独奏のために

  • ソナタ(1969年)[6]

サクソフォーンとジャズ・オーケストラのために

  • 変奏曲での協奏曲(1965年)[6]

映画音楽

  • «Из-за чести»ru, 1955年)[6]
  • «Северная радуга»(1959年)[6]
  • «Ловцы губок»(1960年)[6]
  • «Рождённые жить»ru, 1960年)[6]
  • «Дорога»ru, 1961年)[6]
  • «Ночной пассажир»(1961年)[6]
  • «Чрезвычайное поручение»ru, 1965年)[6]
  • «Автомобиль Авдо»(1966年)[4]
  • «Жил человек»(1968年)[4]
  • «Взрыв после полуночи»ru, 1968年)[6]
  • «Выстрел на границе»(1970年)[4]
  • «Армянские фрески»(1970年)[6]
  • «Последний подвиг Камо»ru, 1973年)[6]
  • «Испытание»(1977年)[6]
  • «Звезда надежды»ru, 1978年)[4]
  • «Катастрофа»(1993年)[4]