新免一五坊 – Wikipedia

新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) – 1941年(昭和16年))は、日本の俳人・教員。本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る。

岡山県吉野郡大野村(現・美作市)出身[1]。小石川哲学館を卒業。1898年(明治31年)の夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。一五坊と同じ哲学館出身の子規門人として真言宗僧の和田性海(不可徳)がいる[2]正岡子規(1867年 – 1902年)は旧来の月並俳句を批判して「俳句革新」を提唱し、1898年(明治31年)に陸羯南(くがかつなん)の新聞『日本』に歌論『歌よみに与ふる書』を発表し、和歌の革新を展開した。翌明治32年には根岸歌会が開かれ、伊藤左千夫・長塚節らが入門する。

一五坊は、明治32年・明治33年の正岡子規・伊藤左千夫の一五坊宛書簡の宛名に拠れば、東京日本橋数寄屋町(中央区日本橋)の長井医院に住む[3]。根岸派の新進歌人として活躍し、明治32年10月の菊十句会では子規から幹事を任されている。明治33年1月7日の一月短歌会にも参加する[4]。一五坊は幕末期の歌人・平賀元義の和歌が万葉調であることを、同郷の赤城格堂を通じて子規に伝える。このことは、子規の『墨汁一滴』において大きく取り上げられた。

一五坊は1901年(明治34年)に山梨県南都留郡明日見村(富士吉田市明日見)の永嶋医院に居住し、医学を学ぶ。この頃に父親を亡くしている。その後同郡谷村町(都留市谷村)へ移り、山梨において俳句会を指導する。山梨県は伊藤左千夫が長野県諏訪、静岡県沼津を並び活動の拠点とした地で、主に「馬酔木(あしび)」「アカネ」「アララギ」などの同人活動に加わった地元歌人が中心として活動を行った。一五坊は左千夫よりも入門が早く、また左千夫と面識のあった人物として山梨における活動を主導した。山梨転居後も子規との交流も続き、1902年(明治35年)には病床の子規に谷村のヤマメを届けており、子規は『病牀六尺』で謝意を記している。子規は同年9月19日に死去する。

九十九
おくられものくさぐさ
(略)
一、やまめ(川魚)三尾は甲州の一五坊より
なまよみの、かひのやまめは、ぬばたまの、夜ぶりのあみに、三つ入りぬ、その三つみなを、わにおくりこし

— (八月十九日)『病牀六尺』

子規が死去する直前、山梨では「白雛会」を主催していた堀内柳南や一五坊、神奈桃村らが主導して甲府市で「山梨文学大会」を開催する。8月25日には昇仙峡の御嶽新道へ赴き、翌26日には甲府太田町望仙閣で批評会を行った。山梨文学大会の開催は俳誌『白雛』の刊行へ続くが、一五坊はその後山梨を離れ、故郷岡山へ戻り結婚し、教員となる。北海道にも一時期滞在している。

  1. ^ 新免一五坊富士山NET 山梨日日新聞社・山梨放送
  2. ^ 井上(2010)、p.75
  3. ^ 井上(2010)、p.74
  4. ^ 井上(2010)、p.75

参考文献[編集]

  • 福岡哲司「伊藤左千夫と山梨の歌人たち-もうひとつの「アララギ」前史-」『山梨県史研究-第11号-』山梨県、2003年
  • 『正岡子規とその時代』山梨県立文学館、2006年
  •  井上康明「新免一五坊「筆の跡」翻刻」『資料と研究 第十五楫』山梨県立文学館、2010年