国鉄C12形蒸気機関車 – Wikipedia

国鉄C12形蒸気機関車
基本情報
運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道
製造所 日立製作所、三菱重工業
川崎車輛、汽車製造
日本車輌製造
製造年 1932年 – 1947年
製造数 282両
主要諸元
軸配置 1C1
軌間 1,067 mm
全長 11,350 mm
全高 3,900 mm
機関車重量 50.00 (50.05) t(運転整備)
39.50 (39.55) t(空車)
動輪上重量 32.00 (32.02) t(運転整備)
28.40 (28.42) t(空車)
固定軸距 3,800 mm
先輪径 860 mm
動輪径 1,400 mm
従輪径 860 mm
軸重 最大10.90 (10.92) t(運転整備、第3動輪)
最大9.70 (9.70) t(空車・第1動輪)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程)
400 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
大煙管
(直径×長さ×数)
127 mm × 3,200 mm × 16本
小煙管
(直径×長さ×数)
45 mm × 3,200 mm × 68本
火格子面積 1.30 m2
全伝熱面積 73.3 (74.2) m2
過熱伝熱面積 19.8 m2
全蒸発伝熱面積 53.5 (54.4) m2
煙管蒸発伝熱面積 46.1 m2
(大煙管18.8/小煙管27.3 m2
火室蒸発伝熱面積 7.4 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 1.50 t
水タンク容量 5.5 m3
制動装置 ET6自動空気ブレーキ
最高運転速度 70 km/h[1]
最大出力 435 kW[要出典]
動輪周出力 約310 kW[1]
シリンダ引張力 81.3 kN
粘着引張力 78.4 kN[2]
備考 ( ) 内はC12 38 – 275( ( ) なしはC12 1 – 37と同一)、『鉄道技術発達史 第4篇』 p.209の諸元表のC12 1 – 37のデータ[3]を基本に、必要に応じて『国鉄蒸気機関車史』 pp.109 – 110[4]その他の文献より補足。
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国鉄C12形蒸気機関車(こくてつC12がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が製造した、過熱式のタンク式蒸気機関車(タンク機関車)である。

軸重制限の厳しい簡易線用の小型軽量な機関車として設計され、本形式とテンダー式のC56形が並行して生産された。

導入の経緯[編集]

昭和時代に入り主要幹線の整備が一通り終わると、大きな需要の見込めない閑散支線の建設が進められた。しかし折からの経済恐慌が深刻化し、建設費を低く抑えるため簡易線が数多く建設された。このような路線には軸重が軽く、運転コストの低い新形の小型機関車が要求されたため、C12形が製造されることになった。

鉄道院・鉄道省の鉄道路線は1900年(明治33年)の逓信省令による『鉄道建設規程』制定以降、路線の規格はすべて同一であった[5]が、その後輸送量の増加、鉄道の電化、鉄道網の発達、列車速度の向上に対応しつつ合理化を図るため、輸送上の重要程度に応じた線路等級を定めて適切な施設の規格を定めた[6]1929年(昭和4年)改定の鉄道省令による『国有鉄道建設規程』により、主要幹線その他重要な路線を「甲線」、地方線およびこれに準じた路線を「丙線」、両者の中間程度の路線を「乙線」とし、特に主要な線区を甲線のうちの「特に主要なる線路」としている[6]。さらに、1932年(昭和7年)に『国有鉄道簡易線建設規程』[7]が制定されて「簡易線」が設定されており[注釈 1][8]、この簡易線は運転に関しても同時に制定された『国有鉄道簡易線運転規程』[9]に基づき行われることとなり、これらの規程の制定とともに『鉄道省告示第376号』により全国で既存66の路線・区間が簡易線に設定されている[10]

この簡易線は関東大震災や昭和恐慌に伴う財政圧迫の中でも少ない予算で多くの路線を建設する目的で[11]、輸送量の少ない路線について、線路規格(勾配、曲線半径、停車場有効長、構造等)[注釈 2]、信号設備、駅・停車場等の営業設備の簡易化による建設費の低下と、営業方の簡易化による営業費の減少を図ったものである[11]。この中で機関車に関連して以下の条文その他の規程がなされている。

  • 軌道の負担力は最大軸重11 t・最少軸距1,500 mmの機関車が重連で牽引して直線で45 km/hで運転することに耐えるものとする(建設規程第六条)
  • 機関車の車輪一対の軌条に対する圧力は停車中において11 t以下とする(建設規程第二十条)
  • 列車は45 km/hを超える速度で運転してはならない、ただし、軌道・橋梁に影響を与えない場合は65 km/hまで可能(気動車の運転を考慮)(運転規程第十一条)

しかし、タンク機関車は特殊用途を除き、1930年(昭和5年)以降のC10形製造までの21年間新製されておらず[13]、それまでの機関車は老朽化が進んでいたため[14]、その中でも軸重11 tを下回る機関車は230形や私鉄買収機の一部などごくわずかという状況であった。

そういった状況の中、C10形をベースとして、「旅客用タンク機関車[15]」のC11形と並行して設計された簡易線用の「旅客貨物用タンク機関車[15]」がC12形であり、少し遅れてC12形をテンダー式機関車とした「旅客貨物用テンダー機関車[16]」C56形が計画されている[17]

本形式は軸重を始め簡易線での運用に対応した仕様となっているほか、タンク式の本形式とテンダー式のC56形と共通設計となっていることと、ボイラーへの溶接工法の拡大や台枠への大型鋳鋼部品の採用などの新技術の導入が特徴となっている。タンク式の機関車とテンダー式の機関車を多くの部品を共通化した標準設計とした事例は日本鉄道のDb3/6形(鉄道省3800形)とDbt2/4形(5830形)、山陽鉄道の28形(3380形)と27形(8500形)に事例が見られ[18]、国外においてはドイツ国営鉄道の64形ドイツ語版(タンク式・車軸配置1C1)と24形ドイツ語版(テンダー式・車軸配置1C)およびイギリス国鉄2形テンダー機と2形タンク機に事例がみられる[17]ものであり、本形式とC56形の場合、基本寸法が共通であるほか、ボイラー、シリンダー、ロッド類、弁装置、動輪などに同一部品を使用[19]していた。

ボイラー[編集]

火室は深く設計され焚火しやすく、C12 38以降は、アーチ管を増設して伝熱面積を増加し、蒸発量を増やす改良が行なわれている。また、給水はインジェクタにより、給水ポンプや給水加熱器は装備していない。

第1ロットのC12 1 – 37のボイラーは火格子面積は1.30 m2、第2缶胴内径はC11形より160 mm小さい1200 mm、煙管長はC11形と同じ3200 mm、全伝熱面積73.3 m3、過熱面積19.8 m2、全蒸発伝熱面積53.5 m2、使用圧力14.0 m2である[3]。大煙管は4列、6列、6列の3段計16本の配置となっており、過熱面積・全伝熱面積比はC10形と同様の約0.27、缶水容量は2.9 m3、ボイラー中心高はC10形と同じ2450 mmとなっている[15]ほか、缶胴の鋼板厚はC11形より2 mm薄い12 mmのものを使用している[20]

その後第2ロットのC12 38以降は、火室内に伝熱面積0.9 m3のアーチ管を設置して全伝熱面積74.2 m3、過熱面積19.8 m2、全蒸発伝熱面積54.4 m2となっている[4]。アーチ管は設置改造を施工した9600形[注釈 3]、C51形の実績をもとに本形式のような小形機にも設置されることとなったものである[21]

本形式のボイラーは溶接組立部分を長手継手部分に拡大したことが特徴となっている。C10形ではリベット組立であった外火室板と外火室後板との間をC11形では突合溶接としていた[22]。さらに、本形式とC56形ではボイラ缶胴の長手(レール方向)継手を従来の当板を介したリベット接合から、新たに溶接での接合とし、当初は補強のため短冊形の当板を長手継手部分に隅肉溶接していた。しかし、のちにはこの当板はむしろ好ましくないとされ、数年後に廃止された[23]。また、蒸気溜のフランジも溶接とされており、これらの溶接範囲の拡大は1933年(昭和8年)製以降のC11形にも適用され、さらに、これらの機関車の約10年の使用実績を基に1943年(昭和18年)から製造された貨物用大型機のD52形のボイラ缶胴の長手継手も溶接組立が採用されている[23]

走行装置[編集]

車軸配置は前進・後進ともに走行性能が良いと定評がある[24]1C1(日本国鉄式)、2-6-2(ホワイト式)もしくは通称プレーリーもしくはダブル・エンダー[15]と呼ばれる配列で、動輪は直径1400 mmのものを3軸装備して、直径860 mmの先輪もしくは従輪を有する1軸先台車および1軸従台車を装備している。軸距離は先輪 – 第1動輪間2450 mm、第1 – 第2 – 第3動輪間は各1900 mm、第3動輪間 – 従輪間2450 mmと、第2動輪を基準として前後対称になっている[1]ほか、先台車・従台車の横動量を左右各100 mmとする[25]とともに、C10形・C11形と同じく第2動輪のフランジを6 mm薄くして[26]曲線通過性能を確保している。各車軸のばね装置は第3動輪は下ばね式、その他は上ばね式であり、先輪と第1・第2動輪の左右の軸ばね群およびイコライザー、第3動輪と従輪の左右の軸ばね群およびイコライザーの計4点支持式である[1]。また、先台車、従台車はともにLT125[注釈 4][注釈 5][27]を装備しており、復元装置の方式はコロ式復元装置で心向棒の長さは1600 mmとなっている[29]

台枠は鋼板切抜式の棒台枠で、C50形やC58形などの中型機以上の機関車は厚さ90 mmの鋼板を使用している[30][31]が、本形式はC11形と同じ厚さ80 mmの鋼板を使用している[1]。また、本形式は前台枠をボイラー台と一体の、同じく後台枠は後部水タンク台と一体のそれぞれ大型鋳鋼部品を新たに採用していることが特徴であり[1]、大型鋳鋼製の前台枠はC55形以降の大型旅客用機関車やD52形に採用されている。

シリンダーは直径400 mm、行程610 mmで2120形の406 mm × 610 mmと同等となっており[15]、C53形の中央シリンダと同じくピストン尻棒(先棒とも称する)を省略していることが特徴となっている[32]。この方式はアメリカやイギリスの機体では一般的な方式で[32]、一般的な日本の機体は鋳鋼製であったピストン体は、アメリカから輸入したC52形では鋳鋼製のピストン体本体の周囲を鋳鉄で鋳包みとしたものとしていたが、C53形ではピストン体本体を鋳鋼製、リムを鋳鉄製とした組立式、本形式ではピストン体全体を鋳鉄製としている[33]。また、ピストン弁はC10形・C11形と同じ直径220 mmで、同じく自動バイパス弁を装備している[34]。弁装置は一般的なワルシャート式であるが、加減リンクを大きくし最大弁行程を154 mmとして最大カットオフをC10形・C11形の78 %から83 %に拡大している[29][1]

ブレーキ装置[編集]

ブレーキ装置は自動空気ブレーキ、手ブレーキを装備しており、台枠内第1・2動輪間の内側にブレーキシリンダ2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。制輪子は当初は制輪子が制輪子吊に直接取付けられる甲種のうち甲-5号を使用していたが、1933年(昭和8年)製造分から制輪子吊に制輪子ホルダーが付き、そこに制輪子を取付ける乙種のうち、乙-65号(制輪子ホルダーは5号)を使用するようになり、従来の機体も順次乙種を使用するように改造されている[35]

空気ブレーキ装置はアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 6]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6吸気弁などで構成されるもので、その特徴は以下のとおりとなっている[36]

  • 構造が簡単で取付および保守が容易。
  • 非常ブレーキが使用可能。
  • ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。
  • 補助機関車(補機)もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。

その他[編集]

本形式は基本的には除煙板を装備していないが、C56形と同型のものを装備したC12 28[37], 75[38]や、C11形と同型のものを装備したC12 198[39], 199[40]など、除煙板を装備した車両も少数存在した[注釈 7]

本形式は増備中の設計変更事項は少なく、主要な変更事項は前述のアーチ管装備(C12 38以降)、制輪子の変更(1933年製造分以降)のほか、先輪および従輪のスポーク輪心からディスク輪心への変更(C12 276以降)のみとなっている[16]。ボイラー上部の蒸気溜と砂箱の配置は並行して設計されて、同じ1932年(昭和7年)から製造されていたC11形では当初蒸気溜が前、砂箱が後ろであったものをC11 24以降これを前後逆の配置に変更している[41]が、本形式においては当初から砂箱が前、蒸気溜が後ろの配置となっている。

鉄道省(国鉄)[編集]

鉄道省(国鉄)向けとしては1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)まで、および1947年(昭和22年)に計282両が製造されている。製造メーカーは川崎車輛、汽車製造会社、日立製作所、日本車輌製造、三菱重工業の5社である。第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、日本車輌製造では60両のうち、42両は未成で18両のみが竣工した[16]一方で、鉄道省以外に納入されて戦時買収などにより鉄道省に引継がれ、C12形に編入された同形機が11両 (C12 265 – 275) あるため、最終番号はC12 293となっている[42]

製造年次ごとの番号と両数は次のとおり。
竣工年度・製造所ごとの番号、製番、両数は下表のとおり。

C12形製造一覧[43]
(上段:番号 下段 ( ) 内:メーカー製造番号、斜体字 は編入機)
年度 日本車輌 川崎車輛 日立製作所 汽車製造 三菱造船所 合計
番号 両数
1932年度 C12 32 – 34
(270 – 272)
C12 12-26
(1417 – 1431)
C12 27 – 31
(468 – 472)
C12 1 – 11
(1182 – 1192)
C12 35 – 37
(120 – 122)
C12 1 – 37 37両
1933年度 C12 42 – 43
(286 – 287)
C12 46 – 53
(1488 – 1493)
C12 38 – 41, 66 – 68
(496 – 499, 517 – 519)
C12 54 – 65
(1213 – 1224)
C12 44 – 45, 73 – 77
(129 – 130, 136 – 140)
C12 38 – 68, 73 – 77 36両
1934年度 C12 69 – 72
(296 – 299)
C12 78 – 83
(1488 – 1493)
C12 90 – 94, 99
(567 – 571, 625)
C12 84 – 89
(1248 – 1253)
C12 95 – 98
(151 – 154)
C12 69 – 72, 78 – 99 26両
1935年度 C12 100 – 102
(339 – 341)
C12 106, 114 – 127
(1610 – 1614, 1618 – 1627)
C12 110 – 113
(683 – 686)
C12 107 – 109
(1337 – 1339)
C12 103 – 105
(158 – 160)
C12 100 – 127 28両
1936年度 C12 139 – 143, 155 – 156
(470 – 474, 480 – 481)
C12 128 – 135, 144 – 147
(1689 – 1696, 1771-1774)
C12 136 – 138
(734 – 736)
C12 148 – 154
(1463 – 1469)
C12 128 – 156 29両
1937年度 C12 162 – 178
(482 – 485, 568 – 580)
C12 157 – 161
(1485 – 1489)
C12 157 – 178 22両
1938年度 C12 179 – 204
(581 – 593, 649 – 661)
C12 179 – 204 26両
1939年度 C12 205 – 234
(724 – 753)
C12 205 – 234 30両
1940年度 C12 235 – 264
(1262 – 1291)
C12 235 – 264 30両
1941年度 C12 267 – 270[表注 1]
(959, 968 – 970)
C12 265 [表注 2]
( 1411)
C12 265, 267 – 270 5
1942年度 C12 273[表注 3], 274 – 275 [表注 4]
(1068, 1070 – 1071)
C12 271 – 272[表注 5]
(1556 – 1557)
C12 271 – 275 5
1943年度 C12 266[表注 6]
(1782)
C12 266 1
1944年度 0両
1945年度 0両
1946年度 0両
1947年度 C12 276 – 293
(1478 – 1495)
C12 276 – 293 18両
110両 56両 55両 44両 17両 C12 235 – 264, 276 – 293
C12 265 – 275
282+11
  1. ^ 小倉鉄道C1211 – 14 → 鉄道省C12 – C15 → 改番C12 266 – 270
  2. ^ 鉄道省C12 265予定機 → 恵須取鉄道C121予定機 → 樺太庁鉄道C121 → 鉄道省C12 265
  3. ^ 恵須取鉄道C124予定機 → 鉄道省C12 273
  4. ^ 相模鉄道21 – 22 → 鉄道省C1201 – 02 → 改番C12 274 – 275
  5. ^ 恵須取鉄道C122 – 3予定機 → 鉄道省C12 271 – 272
  6. ^ 鉄道省C12 266予定機 → 播但鉄道20予定機 → 鉄道省C12 266

また、発注年度・製造所ごとの、発注両数は下表のとおり。

C12形発注年度別製造両数一覧[16]
年度 日本車輌 川崎車輛 日立製作所 汽車製造 三菱造船所 合計
1932年度 3両 15両 5両 11両 3両 37両
1933年度 6両 8両 7両 12両 7両 40両
1934年度 3両 6両 6両 6両 4両 25両
1935年度 15両 4両 3両 3両 25両
1936年度 7両 12両 3両 7両 29両
1937年度 17両 5両 22両
1938年度 26両 26両
1939年度 30両 30両
1940年度 30両 30両
1941年度 0両
1942年度 0両
1943年度 0両
1944年度 0両
1945年度 0両
1946年度 0両
1947年度 18 (60) 両[表注 1] 18 (60) 両
147両 56両 55両 44両 17両 282両
  1. ^ 60両発注されたうち竣工18両

鉄道省以外向けの同形機[編集]

小型軽量で軸重が軽いC12形は、国鉄規格の車幅が特認を要するものの地方私鉄や産業用鉄道向けにも最適で、同形機が外地を含む全国各地の私鉄や専用鉄道などに37両が製造・供給されている。このうち11両は、台湾総督府鉄道および樺太庁鉄道向けに製造されたものである。鉄道省向けの製造は1940年(昭和15年)で一旦終了しているが、民間向けの製造はそれ以後に行なわれたものが多い。

これらのうち、樺太庁鉄道向けに製造された4両は南樺太の内地化により、播丹鉄道(現・加古川線)に納入された1両、相模鉄道(現・相模線部分)に納入された2両および小倉鉄道(現・日田彦山線)に納入された4両の計7両は戦時買収により、それぞれ鉄道省のC12形に編入された。

  • 帝国燃料興業内幌線[注釈 8][注釈 9](樺太) – 1両[46]
    • 21 – 1940年・川崎車輛(製造番号 2392)
  • 小倉鉄道 – 4両(1943年国有化)[47]
    • C1211 – 1941年・日本車輌製造(製造番号 959) → 鉄道省C12 → 改番C12 267
    • C1212 – 1941年・日本車輌製造(製造番号 968) → 鉄道省C13 → 改番C12 268
    • C1213 – 1941年・日本車輌製造(製造番号 969) → 鉄道省C14 → 改番C12 269
    • C1214 – 1941年・日本車輌製造(製造番号 970) → 鉄道省C15 → 改番C12 270
  • 常総鉄道 – 1両[51]
    • 51 – 1942年・日本車輌製造(製造番号 1175[52])(1964年廃車)
      • 本機はボイラーが飽和式で大煙管を装備せず小煙管のみで全伝熱面積が64.9 m2、自重49 tであるほか、発電機を装備していない[53]
  • 播丹鉄道 – 1両(1943年国有化)[54]
    • (鉄道省C12 266予定 → 製造中譲渡20予定) → 鉄道省C12 266 – 1944年・日立製作所(製造番号 1782)
      • 鉄道省向けのものを播但鉄道へ割譲したものの、竣工は買収後となったため直接省籍に編入)
  • 南薩鉄道 – 3両[55]
    • 12 – 1944年・汽車製造(製造番号 2352)(1963年廃車)
    • 13 – 1948年・日本車輌製造(製造番号 1499)(1963年廃車)
    • 14 – 1949年・日本車輌製造(製造番号 1522)(1963年廃車)
      • このうち12号機は角形の蒸気ドーム被い、砂箱を装備しており、これはC12形および同形機では唯一の事例となっている[56]
  • 島原鉄道 – 5両[注釈 10][59]
    • C1201 – 1948年・日本車輌製造(製造番号 1497)(1968年廃車)
    • C1202 – 1948年・日本車輌製造(製造番号 1498)(1963年廃車)
    • C1203 – 1949年・日本車輌製造(製造番号 1519)(1968年廃車)
    • C1205 – 1949年・日本車輌製造(製造番号 1520)(1968年廃車)
    • C1206 – 1949年・日本車輌製造(製造番号 1532)(1968年廃車)
  • 日本炭鉱遠賀砿業所 – 2両[60]
    • C1201 – 1949年・日立製作所(製造番号 1859)(1960年廃車)
    • C1202 – 1952年・日立製作所(製造番号 12071)(1965年廃車)
  • 恵須取鉄道(樺太・未成路線) – 4両(1943年鉄道省に編入)[61]
    • (鉄道省C12 265予定 → 製造中に譲渡・恵須取鉄道C12 1予定) – 1941年・日立製作所(製造番号 1411) → 樺太庁鉄道C12 1 → 1943年・鉄道省C12 265(現車はC12 1のまま)
    • (恵須取鉄道C12 2 – C12 3予定) – 1943年・日立製作所(製造番号 1556 – 1557) → 1943年鉄道省C12 271 – C12 272(配置は不明)
    • (恵須取鉄道C12 4予定) – 1942年・日本車輌製造(製造番号 1068) → 1943年・鉄道省C12 273(配置は不明)

初号機であるC12 1の実質的な最初の配属は赤谷線で、その後も分庫や駐泊所への配置が目立っていた[2]。一例として、初回製造ロットである1928年(昭和3年)発注のC12 1 – 37の製造当初の配属先は以下のとおり。

C12 1 – 37配置一覧[43]
鉄道局 機関庫 機番 両数
札幌鉄道局 長万部機関庫 C12 4, 15, 16, 33 4両
野付牛機関庫 C12 23, 24 2両
深川機関庫 C12 30, 31, 36 3両
遠軽機関庫渚滑分庫[表注 1] C12 9, 10 2両
仙台鉄道局 会津若松機関庫 C12 1, 2, 3, 7, 12, 13, 20 7両
福島機関庫 C12 14, 21 2両
新津機関庫新発田駐泊所[表注 2] C12 22 1両
東京鉄道局 宇都宮機関庫 C12 5, 17 2両
名古屋鉄道局 名古屋機関庫 C12 6, 18 2両
大阪鉄道局 山田機関庫相可口駐泊所[表注 3] C12 32 1両
梅小路機関庫 C12 26 1両
鳥取機関庫 C12 35 1両
米子機関庫出雲三成分庫[表注 4] C12 8, 19, 29 3両
門司鉄道局 熊本機関庫 C12 25, 27 2両
宮崎機関庫 C12 11 1両
宮崎機関庫杉安駐泊所[表注 5] C12 34 1両
吉松機関庫 C12 28, 37 2両

戦後も国内に残った残存機、および戦後に製造された新製機は戦前から引続き全国各地の比較的短距離の閑散線区で使用されていたほか、多くが入換用に転用[2]されて使用された。使用路線の軌道強化によるC11形への代替[63]や、気動車の導入拡大とそれに伴う客貨分離および1958年(昭和33年)以降の入換用ディーゼル機関車のDD13形の導入拡大により、1959年(昭和34年)から廃車が始まった[43]が、貨物輸送のある簡易線での需要があり、簡易線で使用可能な軸重12 t未満のDD16形ディーゼル機関車の導入が1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)となった関係で、蒸気機関車の末期の1975年(昭和50年)まで使用された。本形式について、鉄道車両史研究家の臼井茂信は「構造も外観も非の打ちどころのなき安定した小型機」と評しており[64]、同じく髙木宏之は「基本設計には構造・外観とも大きな欠点がない」と評している[16]

1968年(昭和43年)10月時点での本形式の配置および用途は下表のとおりであった。

その後も、1969年(昭和44年)ごろには、会津若松運転区配置のC12形が使用されていた日中線の列車に、C11形が主に使用されるようになる[66]など置換えが進み、1972年度末には33両、1973年度末には20両の残存となっていた[65]。1975年(昭和50年)3月9日に高森線立野 – 高森間で、当時熊本機関区に配置されていたC12 208による貨物列車の牽引が、最終営業運転となっている。翌10日から同機は休車となり、同31日付で廃車となっている[67]。また、1974年(昭和49年)5月に吉松機関区に配置され、同年12月まで運行された後に休車となったC12 64, 225[注釈 12]が、同じく1975年(昭和50年)に廃車となっている[68]ほか、その前年の1974年(昭和49年)に廃車となった機体は小樽築港機関区のC12 38、木曽福島機関区のC12 69, 199, 230, 南延岡機関区のC12 167, 287、熊本機関区のC12 241の計7両である[43]

国鉄のC12形にはお召し列車牽引の記録がないが、島原鉄道のC1205が1949年(昭和24年)5月25日に牽引している。

C12形の年代ごとの配置両数の変遷は以下のとおり。

本形式の鉄道省・国鉄からの譲渡は、次の5両である。

外地におけるC12形[編集]

同じく外地に渡ったC56形についてはタイで数多く保存され、日本に戻ってきたものもあるのに対して、C12形については日本に戻ってきた例はない。

軍の要請による供出[編集]

C12形はC56形とともに軽量小型を買われ、戦時中の作戦に用いるため[要出典]軍へ供出された。本形式の供出に伴う特別廃車の状況は次のとおり[2]

  • 華北交通
    • 1938年(40両) – C12 101 – 140(5月に15両、8月に20両、11月に5両)
    • 1939年(20両) – C12 141 – 160(3月に全20両)
  • ジャワ島
    • 1943年(2両) – C12 94, 168(11月および12月に各1両)

なお、C12 109, 159, 160が陸軍に供出されたのち、海軍に転換されたとする文献もある[43]

華北交通[編集]

1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)にかけて60両が陸軍に供出され、1m軌間に改造されて中国華北地方の日中合弁会社である華北交通の石太線に送られてプレA形[注釈 14][84]となり、同線が標準軌に改軌された後は同蒲線[注釈 15]で使用されている。1945年(昭和20年)に華北交通の路線は終戦に伴い国民政府交通部に接収され、その後中華人民共和国鉄道部では本形式はPL51形に改称されている。華北交通への供出にあたっての改造内容は以下のとおり[85]

  • 動輪のタイヤを幅広の特殊形のものに交換し、1000 mm軌間に対応。
  • 先輪および従輪は動輪同様のタイヤの交換もしくは車軸の交換により、1000 mm軌間に対応。
  • 上記により左右間隔が狭まった動輪との干渉を避けるため、第1・第2動輪の担ばねを上ばね式から下ばね式に改造するとともに、火室下部および外火室を一部切欠き。
  • 排障器および基礎ブレーキ装置を改造して1000 mm軌間に対応。
  • 連結器を、中央に緩衝器、その左右にフックとリングを配したねじ式連結器に交換。
  • 炭庫を上部に継ぎ足し、石炭搭載量を約2.8 tに拡大。

PL51形は1956年(昭和31年)に同蒲線が標準軌に改軌されるまで使用された。その後、うち9両が1958年(昭和33年)に1000 mm期間の路線が多いベトナムに譲渡され[86]ベトナム国鉄131形として使用されている。その後、2002年(平成14年)まで131-436(元C12 106)[87]がタイグエン省の鉱山と製鉄所間の専用線で使用されている。また、131-428(元C12 119)がベトナム南部の避暑地ラムドン省ダラットの山岳鉄道で観光用に使用され、現在では静態保存されている[88]

ジャワ島[編集]

1943年(昭和18年)には海軍に2両が供出され、1067 mm軌間のままジャワ島に送られている。戦後はインドネシア国鉄に編入され、C32形 (C3201 – 02) となって、1970年代まで使用された。

樺太[編集]

恵須取鉄道(未成線、恵須取 – 塔路間)の建設用に1941年(昭和16年)に用意されたC12 1 – 4のうち、導入後に樺太庁鉄道に譲渡されたC12 1は1943年(昭和18年)4月1日、樺太の内地編入に伴い樺太庁鉄道が鉄道省に編入されたためC12 265となり、残りの3両 (C12 2 – 4) は1944年(昭和19年)9月1日の恵須取鉄道の鉄道省への譲渡に伴い買収されてC12 271 – 273となった[61]。このほか、大谷 – 内渕間の樺太人造石油内渕鉄道に1両が製造されてC1211となり、のちにC121に改番されている[62]。これらは1945年(昭和20年)、日本が太平洋戦争に敗戦するとともにソビエト連邦に接収され、以後の消息は明らかでなく、C12 265, 271 – 273は書類上は1946年(昭和21年)3月31日付で廃車となっている。

台湾[編集]

日本が領有していた台湾の台湾総督府鉄道向けに1936年(昭和11年)と1942年(昭和17年)に計7両が日本車輌製造で製造され、C12形 (C12 1 – 7) として使用された。台湾のC12形には日本のC56形と同様の除煙板が装備されている。

太平洋戦争後は台湾鉄路管理局が接収し、CK120形 (CK121 – 127) と改称され、引続き支線区で使用されていたが、1979年(昭和54年)6月の西部幹線電化に伴い廃車され、CK124が動態保存されている(後述)。

海南島[編集]

日本窒素肥料が開発した石緑鉄鉱山から、積出港である八所港にあった海南原鉄の原鉄工場まで58.9 kmの専用鉄道である日本窒素海南興業石碌鉄道において、建設工事の頃から2両が使用されていた。1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)にかけて陸軍に供出され、同鉄道で使用されていた5両の
D51形 (D51 621, 632 – 635) とともに[89]太平洋戦争後の消息は不明である[48]。なお、1945年(昭和20年)の海南島における日本軍から国民政府軍への引継資料にはC12形が軍用鉄道に1両、石原産業田独鉄道に7両、日本窒素石碌鉄道に2両の計10両が残存していた旨が掲載されている[注釈 16][90]

蒸気機関車末期まで使用された形式であるが梅小路蒸気機関車館には収蔵されなかった一方で、各地で静態保存され、そのうちの2両が動態復元された。現在、動態保存されているのは1両である。

動態保存機[編集]

C12 66[編集]

真岡鐵道でC12 66が動態保存されている。1933年(昭和8年)11月29日に日立製作所笠戸工場で落成(製造番号 517)。同年12月8日に鹿児島機関庫に新製配置されてからは、指宿線(現・指宿枕崎線)で使用された。1937年(昭和12年)12月に小牛田運転区、1938年(昭和13年)2月8日に宮古機関区、1939年(昭和14年)9月17日に釜石機関区、同年11月12日に弘前機関区に転属した。1944年(昭和19年)10月3日に上諏訪機関区に転属してからは、上諏訪駅や岡谷駅、辰野駅などの構内の入換作業や、辰野線での善知鳥峠を走行する列車の補機に使用されたほか、飯山線にも乗り入れた。その後ディーゼル機関車の普及に伴い、1972年(昭和47年)3月22日に会津若松機関区に転属の上、郡山工場(現・郡山総合車両センター)で静態保存用に整備された。同年5月13日に川俣線で、岩代飯野駅まではC12 60と重連で、その後岩代川俣駅まで単機で走行した。翌14日付で廃車となり、同日から岩代川俣駅の跡地(その後、団地へ移動)で静態保存されていた。1991年(平成3年)ごろ、観光用の蒸気機関車牽引列車の運行を計画していた真岡鐵道が本機を選定。同年9月7日に芳賀地区広域行政事務組合(真岡線SL運行協議会)が譲り受け、真岡鐵道が借り受ける形となり、同10月5日からは真岡駅で静態保存されていた。1992年(平成4年)12月18日に大宮工場(現・大宮総合車両センター)へ入場し、1993年(平成5年)2月16日に動態復元工事が開始された。同年11月17日に火入れ式が行われ[91]、同12月7日に同工場で構内試運転が行われた。1994年(平成6年)1月14日付で車籍編入し、同年2月7日に真岡鐵道へ入線し、同月16日に試運転を開始。翌3月27日に下館 – 茂木間の「SLもおか」として営業運転を開始した。

JR東日本乗入れ用のATS-SNを装備し、定期検査を受け持つ大宮総合車両センターにおいて、例年5月開催の鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェアのイベントに貸出されており、2014年(平成26年)の同センターの創業120周年に際しては、試験線で旧型客車3両およびDE10形を連結し、体験乗車を行った。また、1998年(平成10年)11月24日から約1か月間、JR北海道に貸し出され、NHK連続テレビ小説『すずらん』の撮影用の列車として、同時に貸し出された高崎運転所(現・高崎車両センター)の旧型客車2両とともに留萌本線で運転された。

上記以外の動態保存機[編集]

台湾ではCK124が動態保存されている。かつては新北投線の新北投駅で静態保存されており、1988年(昭和63年)の新北投線廃止と台北捷運淡水線の工事開始に伴い、北投駅に隣接していた職員訓練施設に移設された。その後2000年(平成12年)に台北工場で動態復元ののち、同年6月9日に運転が開始され、現在は彰化扇形庫を基地として台湾各地で不定期で運転されている。

鳥取県の若桜鉄道若桜駅に置かれているC12 167は、圧縮空気を動力として構内で自力走行を行うための整備が実施され、駅構内の展示線で運転されており、将来的に本来の動態保存機としての復元するための募金活動が行われている[92]

明知鉄道明智駅展示のC12 244はリニア中央新幹線の開業に合わせて営業運転を行うための復元する計画があり、2015年(平成27年)8月10日には明智駅構内で圧縮空気を使用してデモ走行を行い、以降車掌車ヨ8000形(ヨ18080)を牽引する体験乗車を行っている[93]

過去の動態保存機[編集]

大井川鐵道でC12 164が動態保存されていた。1937年(昭和12年)9月に日本車輌製造で落成(製造番号 484)。同年9月12日に上諏訪機関区に新製配置された。1949年(昭和24年)3月1日に岡山機関区に転属してからは、入換作業や貨物列車に使用され、1961年(昭和36年)3月31日に厚狭機関区に転属してからは、宇部線等で石灰石輸送列車に使用され、1973年(昭和48年)3月31日に運用を終了した。同年9月20日に木曽福島機関区で廃車となり、同月24日に本川根町(現・川根本町)に無償貸与された。同日に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ入線し、同年10月から千頭駅構内で静態保存されていたが、のちに動態復元工事を受け、走行が可能となった。1976年(昭和51年)7月9日からSL急行「かわね路号」として営業運転されているC11 227の予備機となった。単機で運用されたほか、同鉄道保有の蒸気機関車との重連運転や一部区間の後部補機にも使用された。検査期限切れのため、1984年(昭和59年)5月に休車となり、千頭駅構内で保管されたが、公益財団法人「日本ナショナルトラスト[注釈 17]」が本機を購入することが1985年(昭和60年)11月15日に決定され、1986年(昭和61年)ごろから募金活動が行われた。市民の募金で1987年(昭和62年)2月に購入し、同月25日に国鉄との車両取得手続きが完了した。同年4月28日に新金谷車両区へ回送され、同5月14日に再度動態復元工事を開始。7月24日に労働省(現・厚生労働省)からボイラーの認可を、運輸省(現・国土交通省)から車両設計の認可を受けた本機は、同日に試運転を実施。翌25日に運行を開始した臨時SL急行「トラストトレイン」の牽引で、運用を再開した。同列車としての運用は1か月に1回であったが、かわね路号等にも使用されたこともある。しかし、2005年(平成17年)からのATS設置義務化に対応していなかったため、同年4月23日のトラストトレインをもって運用を終了。翌24日から休車となった。日本ナショナルトラストは、ATS設置費用確保のための募金活動を同6月から実施したが、必要額の半分程度しか集まらず、その後の検査でボイラーの不具合も判明したため、静態保存に変更[注釈 18]することを募金協力者に通知した。大井川鐵道に塗装を整備され、2011年(平成23年)10月7日からは新金谷駅構内の転車台での展示機となっている。2016年(平成28年)9月28日に、大井川鐵道が日本ナショナルトラストと同年9月1日付で寄託契約を締結し、再び動態保存を目指す方向で調整することについて合意をした[94]

静態保存機[編集]

各地で静態保存されている機体は下表のとおり。当初は30両以上が保存されており、2018年(平成30年)時点でも23両が静態保存されている[65]

注釈[編集]

  1. ^ 国有鉄道簡易線建設規程は当初は国有鉄道建設規定の例外条項であり、建設規程の第一条に付記された「特ニ簡易ナル構造ノ鉄道ニシテ別ニ定ムル規程ニ依ルトキ」 に基づいて簡易線建設規程による簡易線を設定していたが、同年9月にはこの「特ニ簡易ナル構造ノ鉄道」を「丙線中特ニ簡易ナル構造ノ鉄道」に改めることで簡易線を丙線のうちの一分類に変更している
  2. ^ 簡易線の規格は1900年(明治33年)から1921年(大正10年)の間にあった軽便鉄道法に基づく軽便鉄道と類似の規格であった[12]
  3. ^ 9600形はボイラが浅くアーチ管の下部が焚火に支障し成績がよくなかったので改造工事は中止された。
  4. ^ C56の先台車はD51の一部と同じLT126を使用しており[27]、C12形のLT125とは軸重の支持方式が1点式である点が異なっており、このため前台枠の鋳物もC12形とC56形とで異なっている[19]
  5. ^ LTはLocomotive truckの略、百位は軸数、十位は復元装置の方式で1:エコノミー式、2:コロ式、3:傾斜面式、4:リンク式、5:バネ式、一位は製造順をそれぞれ表している[28]
  6. ^ Westinghouse Air Brake Company, Pittsburgh (WABCO)
  7. ^ ドイツ国鉄の64形と24形においてもタンク式の64形は除煙板なし、テンダー式の24形は除煙板有を基本としている。
  8. ^ 内幌炭砿鉄道 → 南樺太炭鉱鉄道 → 三菱石炭油化工業内幌工場 → 帝国燃料興業
  9. ^ 1921年(大正10年)9月4日運行開始[45]
  10. ^ 当初C1 – C6として導入され、のちにC1201 – 06に改番されたとする説がある。
  11. ^ 樺太人造石油 → 帝国燃料興業
  12. ^ 山野線で使用されていたC56形が検査期限切れとなった際に補充として転入したもの。
  13. ^ 現・トクヤマ。船舶不足により海上輸送が困難なため専用線(周防富田 – セメント工場間)を1944年(昭和19年)10月開通[79]
  14. ^ 華北交通の形式は南満州鉄道の形式称号規定を使用しており、アメリカ式の略称と一、二、三…の頭文字のイ、ニ、サ…を組合わせたものとなっているが、狭軌用機はA、B…を使用して本形式はプレA形、陸軍鉄道部から華北交通に移管された元鉄道省3040形はプレB形、同じく元鉄道省9050形はソリA形[83]となっている。
  15. ^ 石太線は河北省石家荘市の石家荘北と山西省太原市の太原北間の243 kmの路線、同蒲線は大同 – 蒲州間の路線。
  16. ^ このほか、D51形が石碌鉄道に2両、1150形4両、230形、870形、2800形各1両が掲載されている。
  17. ^ 日本の美しい自然景観や建造物・町並みなどの歴史的環境を国民的財産として後世に継承するために、1968年(昭和43年)に英国の環境保全団体「ザ・ナショナル・トラスト」を模範として設立された。
  18. ^ ただし、車籍は抹消されていない。
  19. ^ 島原鉄道のC12形のうち除煙板が取り付けられていたのはC1205, 06。
  20. ^ ダラット駅の説明書きには1936年製造と書かれている。

出典[編集]

参考文献[編集]

書籍

  • 機関車工学会『新訂 機関車基礎工学』交友社、1931年。
  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第2篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第4篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 日本国有鉄道『鉄道技術発達史 第5篇』日本国有鉄道、1958年。
  • 臼井茂信『日本蒸気機関車形式図集成 2』誠文堂新光社、1969年。
  • 臼井茂信『機関車の系譜図 4』交友社、1978年。
  • 川上幸義『私の蒸気機関車史 下』交友社、1981年。
  • 高田隆雄『蒸気機関車 日本編』小学館〈万有ガイドシリーズ 12〉、1981年。
  • 金田茂裕『形式別 国鉄の蒸気機関車II』機関車史研究会、1985年。
  • 『大井川鉄道 蒸気機関車運転10周年記念 写真集 川根路の煙』川根路号写友会、1986年。
  • 『大井川鉄道 蒸気機関車運転20周年記念 写真集 川根路の煙』川根路号写友会、1996年。
  • 『大井川鐵道 蒸気機関車運転25周年記念 写真集 川根路の煙』川根路号写友会、2001年。
  • 日本鉄道保存協会『SL復活物語』JTBパブリッシング、2003年。
  • 白川淳『現役蒸気機関車のすべて』JTBパブリッシング、2005年。
  • 結解学『SLダイヤ情報21』交通新聞社、2012年。
  • 沖田祐作『機関車表』ネコ・パブリッシング、2014年。ISBN 9784777053629。
  • 高木宏之『国鉄蒸気機関車史』ネコ・パブリッシング、2015年。ISBN 9784777053797。
  • 浅原信彦「ガイドブック 最盛期の国鉄車輌 13 蒸気機関車 1」『NEKO MOOK』第2682巻、ネコ・パブリッシング、2018年、 ISBN 9784777021826。
  • 徳永益男、松本謙一「全国蒸気機関車配置表」、イカロス出版、2018年、 ISBN 9784802204354。

雑誌

  • 寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」『レイル』第23巻、エリエイ出版部、1988年。
  • 頼徳湘・曹志明「台湾鉄路管理局のCK 120形タンク機関車」 交友社『鉄道ファン』2001年1月号 No.477 pp.130 – 131
  • 都築雅人「ベトナム最後のC12形」 交友社『鉄道ファン』2002年5月号 No.493 pp.128 – 131

関連項目[編集]