國民新聞 – Wikipedia

國民新聞』(こくみんしんぶん)は、徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊した日刊新聞である。現在の『東京新聞』の前身の一つである。

國民新聞社員(1890年)

1890年(明治23年)2月1日に第1号を発行した。発行会社は國民新聞社。

徳富が雑誌『國民之友』の発行に成功したのちに創刊した日刊新聞で、最初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていた。やがて、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになる。明治後期から大正初期にかけては山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、大浦兼武ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれることもあり、政府系新聞の代表的存在となる。

日露戦争終結時には世論に対して講和賛成を唱えたため、1905年(明治38年)9月5日には講和反対を叫ぶ暴徒の焼き討ちに遭ったが(日比谷焼打事件)、憲政擁護運動でも第3次桂内閣を代弁する論陣を張ったため、1913年(大正2年)2月11日に護憲派民衆の襲撃にあっている(第1次護憲運動東京事件、大正政変)。この間1907年(明治40年)9月、日本新聞史上初めて地方版を創設した(千葉版)。また1924年(大正13年)8月21日には、同じく初めて天気図を掲載したことでも知られている。大正中期に大衆化が図られ、東京五大新聞(東京日日・報知・時事・東京朝日・國民)の一角を占めるようになるが、関東大震災の被害を受け社業は急激に傾いた。

1926年(大正15年)5月、甲州財閥の根津嘉一郎の出資を仰いで共同経営に移り、副社長には根津の推薦した河西豊太郎が就任する。やがて根津と徳富は対立し、1929年(昭和4年)1月5日に徳富が退社して『東京日日新聞』に移籍した。一時は「昭和の天一坊」とまで言われた伊東ハンニの手に移るが業績は好転せず、伊東の後継社長に就いた伊達源一郎は1931年(昭和6年)10月に「大夕刊」と称して夕刊紙に転換したものの失敗に終わる。1933年(昭和8年)5月1日、窮した根津は経営を名古屋の新愛知新聞社(現・中日新聞社)に譲渡した。新愛知傘下を期に、編集方針を国防・軍事に重点を置くこととなる。1941年(昭和16年)度には黒字決算に漕ぎ着け、再建に成功した。

1942年(昭和17年)、戦時体制下により『都新聞』と合併することとなり、10月1日『東京新聞』が誕生した。同時に新愛知は東京から撤退を余儀なくされ、『東京新聞』の主導権は都新聞側が握った。しかし戦後の激しい販売競争の中、『東京新聞』は経営不振に陥り、1961年(昭和36年)に東京新聞社は社団法人から株式会社に改組したがその甲斐なく、1963年(昭和38年)、再び新愛知新聞社の後身の中部日本新聞社(現・中日新聞社)が支援することになる。4年後に、発行や営業などのほとんどの事業を中部日本新聞社が引き継いだ。

国民文学欄[編集]

1908年(明治41年)10月1日より「国民文学」欄が開設された。これは、高浜虚子、東春像(俊造(本名)、草水)、嶋田青峰らが担当してできたもので、公平さを旨とし、片上天弦や霹靂火(千葉亀雄、江東)が評論を担当したほか、小宮豊隆、安倍能成など、漱石門下生などもよった。連載小説では、徳田秋声が『新世帯』(1909年(明治42年)10月16日-12月6日)、上田敏が『渦巻』(1911年(明治44年)1月1日-3月2日)を発表したほか、高浜自身2作を発表した。また、森鷗外がイプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の訳を発表をしたのも国民文学欄においてであった。

しかし、1911年(明治44年)秋ごろに高浜が編集を退くと途端に活性を失い、衰退した。

プロ野球大東京軍[編集]

1936年(昭和11年)2月には新愛知新聞がプロ野球に進出し、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を結成したのに歩調を合わせ、国民新聞も大東京軍を結成。しかし、不採算のため春のシーズン終了後にプロ野球からは撤退した(松竹ロビンスの項参照)。その後は共同印刷専務の大橋松雄が資本を引き受け、夏のシーズンから「ライオン歯磨本舗」の名で営業していた小林商店(現在のライオン株式会社)をスポンサーに付けたライオン軍と改称。同年暮に大橋の依頼で共同出資者となっていた田村駒治郎がチームを買い取ることとなった。なお、大東京軍創設時に常務となった元國民新聞記者の鈴木龍二はその後もプロ野球界で長く要職を務めることになる。

その他の「國民新聞」[編集]

以上のとおり、徳富蘇峰創刊による『國民新聞』は現在の『東京新聞』であり、旧『國民新聞』に関する事業が他に譲渡されたことを示す資料はない。しかし、『東京新聞』に合併された後に『國民新聞』を名乗って発行された新聞が他にも存在する。

確認されているのは、1958年(昭和33年)「創刊」[1]のもの(発行:國民新聞社、発行形態:旬刊、出版地:八幡)、1966年(昭和41年)民友社版を「復刊」と称する[2]もの(発行:國民新聞社、発行形態:旬刊、出版地:東京)、1972年(昭和47年)創刊のもの(発行:國民新聞社、発行形態:月刊、出版地:東京)がある。なお、1972年創刊のものは、公式ホームページでは「明治23年 徳富蘇峰創刊」としているものの、上記のとおり歴史的に受け継いでいるのは『東京新聞』であり、徳富とは全く無関係である。また、葛飾区議会議員の鈴木信行が率いる日本国民党の機関紙が『しんぶん国民』である[3]

参考文献[編集]

  • 國民新聞復刻刊行会編纂『國民新聞9-自617号(明治25年1月)至674号(明治25年3月)』日本図書センター、1988。ISBN 4820507036
  • 國民新聞復刻刊行会編纂『國民新聞10-自675号(明治25年4月)至752号(明治25年6月)』日本図書センター、1988。ISBN 4820507044
  • 國民新聞復刻刊行会編纂『國民新聞11-自753号(明治25年7月)至830号(明治25年9月)』日本図書センター、1988。ISBN 4820507052

関連文献[編集]

  1. ^ 全国新聞総合目録データベースによる。
  2. ^ 全国新聞総合目録データベースによる。1966年(昭和41年)12月、旧國民新聞社の小松道雄(日大名誉顧問)、長谷川了(鶴ヶ丘高校校長)らが「マスコミの左翼偏重、革命勢力の暴走、自民党腐敗などの政治的危機」に「対処するために発刊したもの」とされている。(警備研究会著『極左暴力集団・右翼101問』立花書房/1991年)
  3. ^ 日本国民党の新聞「しんぶん国民」」『日本国民党』。2018年4月29日閲覧。

外部リンク[編集]