Month: December 2017

オートマタ – Wikipedia

「手紙を書くピエロ」(レオポール・ランベール作 1900年) 右手が滑らかに文字を書くように動き、少し眠気が差したように目の表情が変化する。首が上下しランプの炎が小さくなると、はっと我に返るようにまた手紙を書き始めるという一連の動作をする。野坂オートマタ美術館所蔵品 オートマタ(英: Automata [ɔːˈtɑmətə] 複数形)、オートマトン(Automaton [ɔːˈtɑməˌtɑn] 単数形)は、主に12世紀から19世紀にかけてヨーロッパ等で作られた機械人形ないしは自動人形のこと。 本項で述べる人形は、日本の伝統的な機械仕掛けの人形をからくりと呼ぶのに倣うと、いわゆる「西洋からくり人形」に該当する。 概要と呼称[編集] オートマタは、言葉の原義としては「自動機械」のことであり、語源のギリシャ語「automatos」は「自らの意志で動くもの」というような意味合いを持つ言葉である。どういう条件を満たせばオートマタと呼ぶのにふさわしいかは、作られた時代背景や用途、特徴によっていろいろな種類があるがゆえに見解が分かれるところである。本項では主に、18世紀から19世紀にかけてのドイツやスイスの時計技術の革新と、ルネサンス以降のフランスが持っていたディレッタンティズムの複合によって作られた、動力がぜんまいばねによる人形状のものを中心に説明する。また、表記は「オートマトン」「オートマータ」などが同様の意味で用いられるが、学術用語との区別がつきやすく「人形」の意味で使うケースが多い「オートマタ」とする。 発祥と背景[編集] オートマタの起源は人形の起源にまでさかのぼる。娯楽のためだけではなく宗教的な儀式などに用いられた人形や仮面のなかには部分的に可動するものもあり、操作することにより伝承などの効果的な補助として使われていた形跡がある。こうした試みは、人間が自ら仮面をつけたり人形を操作するという動力によって動いていたが、機械的な仕掛けにより自動で動くという演出を付加することで、人形(ひとがた)信仰においてあたかも人形に魂が入っているかのように見せることができる。人形を作り、それが動く(動かす)というテーマはユダヤ教のゴーレムやギリシア神話のタロースでも明らかなように、人間にとっては根源的なテーマであり、創造主としての神への挑戦といった面も垣間見える。 一方、オートマタのもうひとつの要素である機械仕掛けは、単に人形の稼動部分を人間が直接動かすという段階を経た後、古代ギリシアにおいてより洗練される。アルキメデスの螺旋や同時期に発明されたといわれる歯車、サイフォン、水力、滑車などの技術が生まれる。アレクサンドリアのヘロンが作ったといわれるコインを入れると水が自動で出る装置やビザンチウムのフィロン[注釈 1]により、シンプルな仕掛けであるが自動装置と呼べるものが作られた。 ゼンマイとオルゴール[編集] 13世紀にはいるとオートマタの基本的な技術要素であるカムシャフトが文献に現れる。この時期には時計の製造技術も飛躍的に向上した。決められた時間に鐘を鳴らす仕組みが考えられ、その技術は教会に設けられた時計台の鐘を鳴らすオートマタに応用された。それまで時を知らせるのは鐘つき男の仕事だったが、鐘つき男を模したジャックマールと呼ばれる時計人形が代わりに鐘を鳴らした。この人形は人気を集め、動きや表情など多様化が見られた。14世紀末に作られたストラスブール大聖堂 の天文時計では高さ122センチメートルの雄鶏のオートマタが羽ばたいて時を告げた。1574年には第二の天文時計が作られ、ジャックマール以外にも天使や死神など宗教的なモチーフのオートマタが用いられた。 15世紀にはゼンマイによる蓄積できる動力が発展していく。これによって時計の小型化が可能となり、職人の増加や市場の拡大が進んだ。

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ハイブリダイゼーション – Wikipedia

ハイブリダイゼーション(Hybridization)とは、原義としては,物の交雑あるいは雑種形成のこと。しかし現代では、核酸(DNAまたはRNA)の分子が相補的に複合体を形成することをハイブリダイゼーションといい、分子交雑(ぶんしこうざつ)ともいう。特に、遺伝子の検出・同定・定量や、相同性の定量のために、人工的にこれを行う実験方法を指すことが多い(通称「ハイブリ」)。 核酸分子に含まれる塩基はAとTまたはU、GとCというふうに特異的(相補的)に結合する性質がある。これは塩基が形成する水素結合の数の違い(前者が2個、後者が3個)による。ハイブリダイゼーションは核酸のこの性質に基づく。同じ原理で、普通の生物のもつゲノムは互いに相補的なDNA分子が1対結合して二重らせん構造をなしている。 また核酸の生合成(DNA複製やDNAからRNAへの転写)においても、元の核酸を鋳型としてそれに相補的な核酸が作られる。この相補性こそ、生物が遺伝情報を維持する基本原理である。これらからわかる通り、同じ生物種はほぼ同じゲノム配列を持ち、ハイブリダイゼーションを用いて同じ生物種の同じ遺伝子を検出することができる。 ただし同じ遺伝子でも個体によるわずかな違い(多型)やがん細胞における突然変異・増減などがある。別の生物種となるとさらに違いが大きくなる。これらに関してもハイブリダイゼーションによる検出法がある。 基本的方法[編集] ハイブリダイゼーション実験では、まず核酸の水素結合を切り分子を引き離す(変性)。これには加熱する方法と変性剤を用いる方法があるが、一般には加熱が用いられる。次に少しずつ温度を下げること(徐冷処理)で分子を再結合させる(アニーリング=冶金でいうところの焼きなまし)。核酸分子の解離・結合は配列に応じた特定の温度で起こる(固体の融解と同じように)ので、この温度は融解温度と呼ばれる。この再結合の進み方を測定したり、あるいは特定の配列に着目してそれを検出したりする。 特定の配列を持つ核酸を検出する方法としては、電気泳動によるサザンハイブリダイゼーション(DNAを対象とする)、ノーザンハイブリダイゼーション(RNA)がある。さらに多種の配列を同時に検出・定量する方法としてDNAマイクロアレイ(DNA チップ)がある。 また、細胞・組織などの標本をそのまま用いて検出する方法としてIn situ ハイブリダイゼーション、特に蛍光 in situ ハイブリダイゼーションがある。 生物では一般に、進化上の系統が近いほど対応する遺伝子の配列に相同性がある。この配列相同性を定量する方法としてDNA – DNA分子交雑法があり、これは進化系統を明らかにする方法として用いられる。 さらに、がんや先天性異常における遺伝子の増減を検出する方法として、CGH(比較ゲノムハイブリダイゼーション)がある。

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瑞星 (エンジン) – Wikipedia

瑞星(ずいせい)は、第二次世界大戦期に三菱重工業が開発・製造した航空機用空冷複列星型エンジン。 社内呼称はA14(AはAIR COOLINGの意味)。海軍に瑞星として採用され、海軍の主力エンジンとして多くの海軍機に搭載された。陸軍にもハ26(瑞星10型相当)、ハ102(瑞星20型相当)として採用され、陸軍機にも搭載されている。大戦後期の陸海軍統合名称はハ31。使い易い発動機として多くの陸・海軍機に装備され、全型式総計で12,795台生産された。 金星の開発で、空冷複列エンジンの実用化に成功した三菱は、この「金星」の計画、製作の際に使用した各種新技術、新工夫を利用して小型航空機用エンジンと大型航空機用エンジンを開発することになった。前者が瑞星であり、後者が火星である。 瑞星は設計期間を短縮する狙いもあり、先行していた金星との部品の共通性を極力維持することに務めたため、金星のストロークを20mmショートストローク化し、高回転化した他は、開発開始時点での金星との構造上の違いはほとんど無いといえる。瑞星10型は排気量当たりの出力は、同じ1段1速過給機付きの金星四〇型とほぼ同じであるが、瑞星の方が小型のため、正面面積あたりの出力では瑞星の方が優れている。また、先行する金星との部品の共通化は信頼性の確保と同時に量産の容易さにつながった。最初の瑞星11型は1936年(昭和11年)1月に計画を着手し、同年7月に第一号機が完成している。量産開始は1938年(昭和13年)。 零戦が設計に入った頃三菱には「金星」と「瑞星」があったが、小型で前方視界の良い機体を好むパイロット達に気に入られる様に小さい方の「瑞星」を選んで設計した。しかし、試作3号機以降は海軍の要求で中島の「栄」に換装され、そのまま制式採用になった。だが「栄」も「瑞星」同様の小型の発動機で馬力向上の余地が少なかった為、第二次世界大戦開戦後、次々に問題となった性能向上や武装強化の要求に応じきれなかった。この時になって零戦の設計主務者だった堀越二郎技師は設計当初に「金星」を選ばなかった事に「我誤まてり」とほぞを噛んだという(つまり海軍上層部への受け狙いと制式採用を焦るあまりに安易に瑞星を選んだ事を後悔した)。 主要諸元[編集] ※使用単位についてはWikipedia:ウィキプロジェクト 航空/物理単位も参照 瑞星11型[編集] タイプ:空冷複列星型14気筒 筒径×行程:140mm×130mm 排気量:28.02L 外径:1,118mm 乾燥重量:542 kg 燃料:気化器式 過給機:遠心式スーパーチャージャー1段1速 離昇馬力  公称馬力 

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奥松功基 – Wikipedia

おくまつ こうき 奥松 功基 出身校 立命館大学スポーツ健康科学部卒業筑波大学大学院人間総合科学研究科修士課程修了筑波大学大学院人間総合科学研究科博士課程修了 職業 パーソナルトレーナー 奥松 功基(おくまつ こうき )は、日本のパーソナルトレーナー。学位は博士(スポーツ医学)(筑波大学・2021年)。 目次 1 概要 2 来歴 2.1 生い立ち 2.2 パーソナルトレーナーとして

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あべりつこ – Wikipedia

あべ りつこは、日本の女性漫画家である。初期は阿部律子名義。新潟県新井市(現・妙高市)出身[1]。1970年代に少女漫画雑誌『週刊少女フレンド』(講談社)、『週刊マーガレット』(集英社)を中心に作品を多く発表した。 1967年の講談社新人漫画賞で1位となり[2]、ちばてつやのアシスタントとして「テレビ天使」(1968年)などを手がけたのち[3]、1970年、「おにいちゃんと トコとX」(『なかよし』増刊1970年8月号掲載)でデビューした。週刊時代の『少女フレンド』や『別冊少女フレンド』『なかよし』(講談社)で読み切りや連載を発表。少女フレンドの週刊廃止(月2回刊化)となった1974年以降は集英社発行の『週刊マーガレット』『ぶ~け』に転籍し、1981年まで作品を発表した。また挿絵や子ども用文具向けイラストなどもてがけた。 生い立ちや経済的困窮などの障害を乗り越えた兄弟愛や家族愛、友人愛などを、ユーモアで包んだ明るい作品が多く、また対照的なダブルヒロインの構図をしばしば取り入れた。ちばてつやの元で培った画力に基づく動きのある描写には定評があり、今なお根強いファン層がある。1992年には女性向け月刊誌『CREA』(文藝春秋)によるアンケート企画で、女優の工藤夕貴があべの初期代表作の1つ「でっかいちゃんと集まれ!」を自身のベストに挙げ注目された[4]。 講談社発表作品[編集] おにいちゃんとトコとX(エックス)(『なかよし』1970年8月号増刊) かもしかは びっこ(『週刊少女フレンド』1970年8月4日号増刊) ヤー!ヤー!青春(『別冊少女フレンド』1970年9月号) ひとりぽっちのゴールイン(原作・神保史郎、『週刊少女フレンド』1970年9月8日号) 見えない糸(『なかよし』1970年10月号) ふたごっこ四重奏(構成・羽生敦子、『週刊少女フレンド』1970年11月10日号・11月17日号) ごめんね真奈(『別冊少女フレンド』1970年11月号) あわ雪物語(『別冊少女フレンド』1971年1月号) でっかいちゃんと集まれ!(『週刊少女フレンド』1971年1月19日号-3月9日号) すみれとたんぽぽ(『別冊少女フレンド』1971年4月号) すえっ子台風(『週刊少女フレンド』1971年5月4日号-10月12日号) アルカディアの少年(『別冊少女フレンド』1972年1月号・2月号) ママの王子さま(『週刊少女フレンド』1972年2月22日号-5月9日号)

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広島 – 蒲刈・豊浜・豊線 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “広島 – 蒲刈・豊浜・豊線” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月) 広島 – 蒲刈・豊浜・豊線(ひろしま – かまがり・とよはま・ゆたかせん)は、広島市と呉市蒲刈・豊浜・豊地区(大崎下島)を結ぶ高速バスである。 広島と呉市島嶼部(安芸灘諸島)を結ぶ路線は、2000年1月に開業した広島蒲刈線が前身となる。航路廃止に伴う失職者救済のために設立された広島あきなだ高速(のちの広今あきなだ高速)に加え、路線の大半がクレアラインと同一ルートであることから、既存業者の中国JRバス、広島電鉄、呉市交通局を加えた4社局共同運行での路線開設となったが、採算性悪化に伴い早々に中国JRバスと広島電鉄の2社が撤退し、広今あきなだ高速と呉市交通局の共同運行となる。 その後大浦港への延長、広今あきなだ高速撤退と同時に瀬戸内産交参入などの変化があったが、2008年11月の豊島大橋開通に伴い、瀬戸内産交の呉駅前・そごう発着系統と整理統合の上、さんようバスに路線を継承。大崎下島の沖友天満宮前まで路線延長し、「広島・蒲刈・豊島線」(愛称:とびしまライナー)に改称された。 運行会社[編集] 過去には広島電鉄・中国ジェイアールバス・広今あきなだ高速・呉市交通局・瀬戸内産交が運行していた。

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森川さんのはっぴーぼーらっきー – Wikipedia

森川さんのはっぴーぼーらっきー(もりかわさんのはっぴーぼーらっきー)は、tvkで不定期に1クール(全12話)ごと放送されている声優バラエティ番組。略称は「はぴぼ」。2014年から放送が始まり、2018年4月から第五幕(第5期)が放送、2020年に放送された第六幕、第七幕は55分枠の特番で放送された。 声優の森川智之による「台本ナシ!仕込みナシ!ゴールなし!」がコンセプトの観察バラエティ番組。エンディング曲は、安野勇太(HAWAIIAN6)のオリジナル書き下ろしである。 放映リスト[編集] 放送日はtvkのもの。 第一幕[編集] 2014年 話 放送日 サブタイトル 主なロケ地 ゲスト 1 10月9日 今日から始まるよ。 東和モータース 宮田幸季、鈴村健一 2 10月16日 俺の部屋が動く 丸正飯塚

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碧志摩メグ – Wikipedia

碧志摩 メグ(あおしま メグ)は、三重県志摩市をPRするための海女をモチーフとした萌えキャラクターである[1][2][3][4][5][6][7][8]。 日本一の海女を目指す17歳の女の子との設定である[9]。 キャラクターボイス(CV)、声優として三重県出身のみかこしこと、小松未可子(こまつみかこ)が務める。 かつては、志摩市が公認した[10][9]キャラクターだったが、諸事情により現在は非公認としている(後述)。元バイクレーサーの浜口喜博の妻が代表を務める株式会社マウスビーチがキャラクター制作を行った[11][12]。志摩市には碧志摩メグの公認以前から活動している海女のPRキャラクターしまこさんもいる[13]。 浜口喜博がレーサーとしてのデビュー戦を飾ったのが志摩市の合歓の郷であったことから、志摩市への恩返しとしてキャラクターを手掛けた[12]。浜口喜博の妻である濵口幸子が代表を務める四日市市の企業・マウスビーチが制作し、志摩市が公認した[12]。プロフィールはマウスビーチが志摩市と意見交換しながら設定した[14]。 マウスビーチはこれに合わせて、「マリボン事業部」というアニメ制作部門を立ち上げ有限会社MARIBONを設立した[14]。また志摩市の公式ウェブサイトでは、制作の経緯について以下のように記している[15]。 「 三重県出身の元レーサー、現HAMAGUCHIレーシングTEAM監督の浜口喜博さんの呼びかけで、今やクールジャパンとして国策となっている日本の“萌え”文化を通じ、志摩市の観光PR・海女PR・地元愛につなげるべく、志摩市公認海女キャラクターを作成しました 」 2014年11月1日にキャラクターが公開され、名前の公募が始まった[16]。そしてマウスビーチと志摩市観光戦略室が選考を行い、2014年12月9日に浜口喜博が志摩市役所で発表した[12]。アメリカ合衆国やメキシコ合衆国など日本国内外から寄せられた2,000件の中から京都府京都市の男性が名付けた「碧志摩メグ」が選ばれた[12]。名字の「碧志摩」は志摩市の青い海、名前の「メグ」は海の恵みにちなんでいる[10]。翌12月10日に碧志摩メグの公式サイトが設立された[10]。将来は日本国内のみならず、スペイン、タイ、インドネシアへの展開を計画している[9]。 2016年2月3日、萌えキャラ学会の正会員となった。 批判と市の公認撤回[編集] 現役の海女を含む一部の市民は、キャラクターの描写が性的で女性蔑視に当たり海女の信仰心を踏みにじっているとして、市に公認の撤回や市内に掲示しているポスターやパネルの撤去、碧志摩メグを使用したイベントなどの企画の停止を要求し、309人分の署名を提出[17][18][19][20][21][22]。明日少女隊は公認撤回を求める署名運動をChange.orgで展開、7,814人の賛同を得た[23][24]。これに対し、浜口喜博は「批判は一つの意見として受け止めている。地域の活性化、若者の海女への関心を持ってもらうことなどを考えたデザイン」と述べ、志摩市はその時点で公認を外すつもりはないとしていた[17]。また、それと時同じくして、一部市民によるキャラクターの市の公認の維持や、キャラクターのプロモーション企画を支持する活動も行われていた[25]。2015年第3回定例会の9月8日第3号で竹内千尋(無所属、しま)、9月10日の第4号で濵口三代和(無所属、志成会)からの質問もされた[26][27][28][29]。 しかし、2015年11月5日、マリボン事業部側からの申出により志摩市はキャラクターの公認を撤回する旨を発表した[30]。同日、マリボン事業部側は公式サイトにて「本当に全ての海女の方々が反対であるならば企画の停止も考えた」としながらも、2015年9月30日に地元の海女の代表24人との話し合いを通じて7割近くの賛同を得たことからデザインを変更せずに非公認キャラクターとして企画を継続していく旨を発表した。後の2015年10月29日に中日新聞に掲載されたアンケートではデザインについて69.2%が問題ない、志摩市が「公認」したことについて70.1%が問題ないと回答している(うち、女性の52.2%が「問題ない」、47.8%が「問題がある」と回答)[31][32][33]。 プロフィール[編集] 身長158cm、体重46kg、血液型O型の17歳の女の子である[16][34]。誕生日は7月20日[35]。好物は手こね寿司とお菓子[16]、好きな色は赤と白、好きな場所は横山展望台とともやま公園[35]。ボーイフレンドを募集している[34][35]。 海女として[編集] 祖母が海女であり、自身も「可愛くておしゃれな海女」を目指している[16]。将来の夢は日本一の海女になることである[9]。頭に水中メガネを付けているが、白の磯頭巾はかぶっていない。手に磯桶を持っている[16]。海女であるが、まださほど潜れない[35][36]。なお、両親はサラリーマンである[35]。

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魚津市 – Wikipedia

魚津市(うおづし)は、富山県の東部に位置する市である。 魚津市は、富山市の市街地より北東に約22 kmに位置する日本海(富山湾)に面した都市である。 旧越中国の一部であり、かつては北陸街道の宿場町、富山湾の港町、魚津城等城郡の城下町、寺社群の門前町、商業・産業都市として栄えた。現在は新川地方中核都市圏である魚津都市圏の中心都市であり、富山県における7番目の人口規模[1]。 市内の多くが立山黒部ジオパークである。沿岸地域は世界で最も美しい湾クラブに加盟した富山湾に面し、蜃気楼、ホタルイカ、魚津埋没林(国の特別天然記念物)が有名。また、漁業が盛んであり、北洋漁業の根拠地となっている。ホタルイカが水揚げされる富山市から魚津市にかけての富山湾沿岸は、特別天然記念物に指定されている。周辺都市に比べ大型の郊外型商業施設の出店が多い。また、あいの風とやま鉄道線と富山地方鉄道本線の乗り換えが可能なため、立山黒部アルペンルートや黒部峡谷鉄道(トロッコ電車)など観光地への交通の要衝であり、乗り換え客や宿泊施設が多い。 市名は、大道、魚堵(をど)→小戸ヶ浦(をどがうら)→小戸(をど)→小津(をづ)と変わったのが、小戸ヶ浦の称していた頃の住人である高円、久和の2氏が、当地で開発した漁法によって魚が多く獲れるようになった結果、魚の産地ということで1595年(文禄4年)4月に「魚津」となったのが由来である[2]。また現在は「うおづ」であるが、戦後すぐまでは「うをづ」と表記しており、昔は「を」を「うぉ」と発音した時期があったことから、「表記:をづ(発音:うぉづ)」から「うおづ」になった可能性がある。一部の地元住民の発音では「うぉーづ」と聞こえる。ローマ字表記ではUODU(うおづ)ではなく、UOZU(うおず)となる。 市のマスコットキャラクターは「ミラたん」で、2012年の市制60周年に合わせて一般公募により採用された[3]。 都市情報[編集] 基本データ[編集] 人口集中地区(DID:平成17年度) 面積:4.28km2 人口:約1万6000人 世帯:6094 面積割合:2.1% 人口割合:35.5% 人口密度:3845.8人 市章[編集] 魚津市章は、カタカナの「ウ」を主題とした構想で、「ウ」の三方に突き出すのは市勢の飛躍的発展と、本市が世界に誇る三大奇観の蜃気楼・埋没林・ホタルイカを表わしたものであり、さらに友愛・誠実・健康の三大美点を象徴させている。波頭は、日本海の良港を表わすとともに「津」の感覚を盛り、波型を円に作図して市民の融和・団結を表示したものである。(昭和32年制定)(魚津市役所より) ※なお、特記事項に添付されている画像は市章のみであり、実際の旗とは寸法や位置が異なる場合がある。 市のキャッチコピー[編集] “蜃気楼の見える街

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ロンディニウム – Wikipedia

ロンディニウムの想像図 イギリスのロンドン市内におけるロンディニウムの位置 ロンディニウム(羅:Londinium)は、ローマ人によって設立された古代ローマ帝国の都市である[1]。紀元前にブリテン島にすでに侵入していたローマ人が、紀元後1世紀頃に造った町であり、テムズ川北岸の一画を3辺の城壁で囲み、川に橋をかけて建設された[2][3]。「ロンディニウム」は、先住民族であるケルト民族の言葉で「沼地の砦」を意味する[4][5]。民族が多様な都市で、ブリテン島南部の商業の中心地となり、後のシティ・オブ・ロンドンの原型となった。このロンディニウムの創建が、今日のロンドンという都市の起源である。 ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認されるが、ロンディニウムは最初の大きな開拓地としてローマ帝国によって創建されたのである(この開拓は17年間続いた)[6]。 ロンドンはローマと同様に、橋を架けるのに十分なほど狭い川がある都市であり、水運を利用してヨーロッパの多くの場所に行き来しやすい場所であった。当時のロンドンは、現在のハイド・パークとほぼ同等の面積で、狭かった。そして61年ごろ、ブーディカが率いるイケニ族によって強襲され焼き討ちされた[7]。しかし都市は、ローマの都市として計画通りにすぐに再建され、10年後に復旧した。都市はその後数十年で急速に成長した。 2世紀の間、ロンディニウムは高度成長の頂点に達し、紀元100年にコルチェスターに代わってブリタンニアの州都となった。当時の人口は約6万人であった。大聖堂はアルプスの北で有数の大きさだった。広場、円形劇場、浴場、駐屯地などのローマの都市に特徴的な施設があった。 多くの建物は木造だったため何度か大規模な火災にあった。3世紀以降は景気が悪化し、都市の成長は停滞した。 西暦180年から西暦225年にかけての間に、ローマ人はロンディニウムの周囲に「ロンドン・ウォール」という防御壁を建設した。防御壁は全長約3km、高さ6m、厚さ2.5mであった。 3世紀後半、ロンディニウムはサクソンの海賊によって何度か襲撃された[8]。これにより、約255年以降、川沿いの壁が次々と建設された。壁には門が備えられていたが、伝統的な7つの門のうち、6つはローマ起源であった。 5世紀までにローマ帝国は急速に衰退し、西暦401年に西ローマ皇帝ホノリウスがゴート人との戦いのために軍団から兵士を引き抜き、さらに407年にコンスタンティヌス3世が皇帝を自称して残りのローマ軍団を引き連れて大陸へと渡り、後にはブリトン人と入植していたローマ系住民たちが残された。410年にホノリウスは独自に防衛するよう通達を出し、ここにブリタンニアのローマによる統治は事実上終焉を迎えた。その後、テムズ川に面しているという立地条件から度々サクソン族の襲撃に晒されるようになり、450年から500年の間に全ての住民が立ち去ってロンディニウムは放棄された[9]。異民族による襲撃から生き残ったブリトン人とローマ系住民は一部が征服者に同化し、大部分がウェールズへと逃げ込んでいった。600年頃にサクソン族が新たな定住地をテムズ川沿いに築いた際も、石造りの建造物の管理・補修方法も知らないことや彼らが木造建築を好んだこともあり[10]、廃墟となっていたロンディニウムを再生させることもなく引き続き放置され、現在のコヴェント・ガーデンに当たる場所に置かれた。 ウィキメディア・コモンズには、ロンディニウムに関連するメディアがあります。

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