Month: February 2018

マーシー・マンチ – Wikipedia

マーシー・マンチ(Mercy Manci、1955年9月28日[1]南アフリカ、東ケープ州 – )は、南アフリカのコサ人サンゴマ(Sangoma、呪術医、あるいは伝統的な祈祷師のこと)・HIVの社会活動家。 [2]これまでに、カメルーン、ナイジェリア、イタリアで開催された会議に参加し、発表を行っている。 [3][4][5] マーシー・マンチはポンドランド(Pondoland)にあるフルワールワジ(Hlwahlwazi)という小さな村に、9人きょうだいの長子として生まれた。出産時、マンチは白い物質で覆われていた。母親はそれを「ネット」と呼び、マンチが特別な子供であることを示していたという。 [2]母はダーバンの家庭内労働者だったので、マンチは祖母に育てられた。祖母は伝統的な治療師であり、子供の頃、マーシーは祖母のムティ(Muti、南アフリカで伝統的に用いられてきた薬の事)の準備を手伝ったという。 [2] 10代のころ、マンチは当時コサ族やズールー人で結婚時に男性側が妻の父に伝統的に送っていた金品「ロボラ(Lobola)」を払うためのの長い交渉を回避しようとした家族により「拉致」された(すなわち誘拐婚である)。 [2]処女ではなかったので、母親のもとに戻ることもできず、家族からの4頭の牛と引き換えに結婚は認められることとなり、マンチはこの夫との間に一人の娘を設けている。 [2]この間マンチはシスカイに住んでいて、夫が鉱山で働きに行っている間、彼女はダメリン(Damelin)という私立大学で通信で看護を学んだが、帰宅した夫によって、本は燃やされ、マンチが購入したタイプライターも壊された。 [2]結局、マンチが隠れて避妊薬を服用していることが発覚したのをきっかけに、当時はタブーではあったものの、離婚することとなり、マンチは生まれた家にもどることになった。その後マンチは、ヨハネスブルグに行き、医者の助手としての仕事を始めた。 [2] ヨハネスブルグに住んでいたとき、マンチは病気になり、奇妙な夢を見るようになった。最終的には、伝統的な治癒師から、サンゴマになるためには天命に応える必要があると言われたという。 [2] サンゴマとして[編集] マンチは、アフリカの伝統的な治癒術(African traditional medicine)とHIVを扱う組織であるニャンガゼジズエ(Nyangazeziswe、英語のHealers

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第188回国会 – Wikipedia

第188回国会(だい188かいこっかい)とは、2014年(平成26年)12月24日に召集された特別国会。会期は12月26日までの3日間であった[1]。 目次 1 概要 2 各党・会派の議席数 2.1 衆議院 2.2 参議院 3 今国会の動き 3.1 召集前 3.2 会期中 4 常任委員長 5 脚注

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国鉄タキ18100形貨車 – Wikipedia

国鉄タキ18100形貨車(こくてつタキ18100がたかしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)及び1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化後は日本貨物鉄道(JR貨物)に在籍した私有貨車(タンク車)である。 本形式と同一の専用種別車であるタキ8550形、タキ8950形、タキ13600形についても本項目で解説する。 タキ18100形[編集] タキ18100形は、PPG(ポリプロピレングリコール)専用の35t 積タンク車として1969年(昭和44年)12月19日に1両(コタキ18100)が日本車輌製造にて、1972年(昭和47年)8月1日に1両(コタキ18101)が日立製作所にてそれぞれ製作された。 記号番号表記は特殊標記符号「コ」(全長 12 m 以下)を前置し「コタキ」と標記する。 本形式の他にPPGを専用種別とする形式には、タキ8550形、タキ8950形、タキ13600形の3形式が存在した。 落成時の所有者は、日本石油輸送、武田薬品工業の2社でありその常備駅は東海道本線貨物支線(通称高島線)の東高島駅、山陽本線の徳山駅であった。1982年(昭和57年)6月30日に1両(コタキ18101)が日本石油輸送へ名義変更され、常備駅は名古屋臨海鉄道南港線の南港駅(現在の名古屋南貨物駅)へ変更された。 1979年(昭和54年)10月に制定された化成品分類番号では、93(有害性物質、可燃性のもの)が標記された。 35系に属するステンレス鋼製のタンク体に、厚さ100mmのウレタン断熱材を巻き、薄鋼板製のキセ(外板)が設置された。 荷役方式はタンク上部にある液入れ管からの上入れ、タンク下部にある吐出管からの下出し式である。 車体色は黒色、寸法関係は全長は11,920mm、全幅は2,720mm、全高は3,866mm、台車中心間距離は7,740mm、実容積は35.0m3、自重は17.2t、換算両数は積車5.0、空車1.8であり、台車はベッテンドルフ式のTR41Cである。 1987年4月の国鉄分割民営化時には全車の車籍がJR貨物に継承されたが、2001年(平成13年)9月に最後まで在籍した1両(コタキ18100)が廃車となり同時に形式消滅となった。 タキ8550形[編集] タキ8550形は、PPG専用の30t 積タンク車として1964年(昭和39年)から1967年(昭和42年)にかけて10両(タキ8550 –

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Google マップ – Wikipedia

Google マップ(グーグル マップ、英語: Google Maps)は、Googleが提供するウェブマッピング(英語版) プラットフォームであり、コンシューマー向けの地図アプリケーションである。衛星写真、航空写真、ストリートマップ、道路の360°のインタラクティブパノラマ(英語版)ビュー(Google ストリートビュー)、リアルタイム交通状況、徒歩、車、飛行機(ベータ版)、公共交通機関による移動のルート検索(英語版)などを提供している。2020年現在[update]、Google マップは毎月、世界中の10億人以上のユーザーに利用されている[1]。 Google マップは初め、Where 2 Technologiesという会社でLars(英語版)とJens Rasmussen(英語版)兄弟により、C++のデスクトッププログラムとして開発が始まった。2004年10月、会社はGoogleに買収され、ウェブアプリケーションに書き換えられた。複数の地理空間データのビジュアライゼーション企業とリアルタイム交通分析の企業の追加の買収を経て、Google マップは2005年2月に公開された[2]。サービスのフロントエンドでは、JavaScript、XML、Ajaxを利用している。Google マップはAPIを提供しており、これを利用することで、サードパーティのウェブサイトに地図を埋め込むことができ[3]、また、世界中の多数の国のビジネスやその他の組織向けに場所検索のためのロケーターを提供している。Google Map Maker(英語版)を利用すると、ユーザーは協力してサービスの世界中のマップを拡張・更新することができたが、このサービスは2017年3月に終了した。しかし、クラウドソーシングによるGoogle マップへのコントリビューションの機能は終了せず、Google ローカルガイドプログラムに移行されることが発表された[4]。 Google

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ガンゴートリー氷河 – Wikipedia

ガンゴートリー氷河(ガンゴートリーひょうが、ヒンディー語: गंगोत्री、Gangotri Glacier) は、インドのウッタラーカンド州ウッタルカーシー県に位置する氷河。ヒマラヤ山脈の氷河として最大級の一つ[2]。ガンジス川の主要な源泉の一つであり、長さ29km、幅2から6km、総面積143km2、推定27.75km3の体積を有する[1]。 ガンゴートリー山系に囲まれており、最高峰チャウカンバ山の圏谷を北西方向に流れる。終端部はガンゴートリーから19km離れたガウムク(英語版)(ヒンディー語: गौमुखまたはगौमुखी、アッサム語及びベンガル語: গোমুখまたはগোমুখী、Gaumukh、Gomukh、牛の口)であり、ガンジス川の源流の一つであるバーギーラティー川(英語版)に至る。 ヒンドゥー教の巡礼地でもあり、敬虔な信者はガンゴートリー付近で冷水により沐浴する儀式を行い、多くはガウムクまで赴き、少数の者はさらにタポバンを訪れるが、この巡礼路は2013年インド北部洪水により、2kmにわたって岩が散乱する地帯が生じるなどの損傷が発生している。 北緯30度43分22秒から55分49秒、東経79度4分41秒から16分34秒の、海抜4120mから7000m地点に位置する谷氷河である[2]。主中央衝上断層(英語版)の北に位置し、基岩は花崗岩、柘榴石の雲母を含む結晶片岩、水晶の黒雲母を含む結晶片岩、藍晶石を含む結晶片岩、眼球片麻岩、縞状眼球片麻岩からなる[3]。 崩壊する末端部では一部が溶融して氷河上湖(英語版)となり、末端部中央は氷河上湖で満たされることになる。これは、ヒマラヤ山脈の高地における流水の特徴の一部である[2]。 ガンゴートリー氷河の源となるのは、主にRaktvarn氷河(15.9km)、チャトランギ氷河(22.45km)、Kirti氷河(11.05km)の3つの氷河で、この他18以上の氷河が源となっている。2000年のHNBガルワール大学(英語版)の論文では、これらを加えたガンゴートリー氷河系の総面積は、258.56km2。内訳はガンゴートリー氷河が109.03km2、チャトランギ氷河(72.91km2)、Raktvarn氷河(45.34km2)、Kirti氷河(31.28km2)、他の4氷河計29.412(内Bhirgupanth氷河が14.95km2)であった[2]。 ガンゴートリー氷河の後退 NASAとアメリカ地質調査所及び国立雪氷データセンター(英語版)の共同調査により、長さ30.2km、幅0.5から2.5kmのヒマラヤ山脈最大の氷河とされた。計測が開始された1780年より後退を続けており、1936年から1996年の期間では1147m(年平均19m)後退していた[2]。20世紀最後の25年間に限れば後退は850m(年平均34m)に至り[4]、1996年から1999年には76mであった[5]。 ^ a b Gyan Marwah (2004年8月). “Ganges

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ハルトムート・ブリーゼニク – Wikipedia

ハルトムート・ブリーゼニク ハルトムート・ブリーゼニク(1968年) 選手情報 フルネーム ハルトムート・ブリーゼニク 国籍 東ドイツ 生年月日 (1949-03-07) 1949年3月7日 生誕地 ブランデンブルク州テルトー=フレミング郡 没年月日 (2013-03-08) 2013年3月8日(64歳没) 身長 191cm 体重 116kg 自己ベスト

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ATTESA – Wikipedia

この項目では、日産の4WDシステム「アテーサ」について説明しています。シチズンの腕時計ブランド「アテッサ」については「ATTESA (時計)」をご覧ください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ATTESA” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) ATTESA(アテーサ)は、日産自動車が開発した、前後輪に駆動力を配分する機械式センターデフに並列配置/並列駆動のビスカスカップリングを組み合わせたフルタイム四輪駆動 (4WD) システムである[1]。1987年9月発売の日産・ブルーバード(U12型)に初採用された[2]。 センターデフはベベルギアで、基本的に50:50の前後トルク配分をする。この点が、FWDを基本とし、前後輪の回転差が生じて初めてビスカストルクの力で駆動力をリアに伝える、従前のビスカス4WDと決定的に異なる。 ATTESAは、さらに前後のホイール間に回転差が生じると、センターデフと並行したビスカスLSD(リミテッド・スリップ・デフ)がトルクを発揮しはじめ、本来、50:50の駆動力配分を、適切な範囲で“再配分”が可能となっている。 ATTESAとは、”Advanced Total Traction Engineering

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ラミレス・レンソ – Wikipedia

ラミレス・レンソ(Renzo Ramirez、1997年6月24日 – )は、栃木県宇都宮市出身のペルーの社会人野球選手(内野手)。右投右打。 元プロサッカー選手のペルー人の父親と日本とペルーの血を引く母親との間に生まれ、宇都宮市で生まれ育つ。幼い頃はサッカーをしていたが、瑞穂台小学校3年生の時に軟式野球を始め[1]、瑞穂野中学校では軟式野球部に所属[2]。文星芸術大学附属高等学校では強打の二塁手として中心選手であった[3]。 高校卒業後は関甲新学生野球連盟・白鷗大学に進学。大学では三塁手にコンバートされ[4]、3年秋のリーグ戦で打率.324、2本塁打、10打点の成績を残し、打点王とベストナインのタイトルを獲得[5][6]。3年冬からは主将に任命された[7]。4年生春は打率.267ながら[8]バックスクリーンへの本塁打を放つなど11試合で9打点[6]。秋は4本塁打を放って最多本塁打のタイトルを獲得するも打率は.184と低迷し、NPBのドラフト指名からは漏れた[8]。大学では3学年上に大山悠輔や中塚駿太、同学年にラミレスの前に主将を務めていた大下誠一郎がいる[9]。 大学卒業後は白鷗大OBも多く在籍する小山市の社会人野球チーム・エイジェックに入団[8]。1年目、2020年8月の第91回都市対抗野球大会・第1次予選県大会の準優勝に貢献し、敢闘賞を受賞した[10][11]。 2021年シーズンオフに勇退が発表された[12]。 選手としての特徴[編集] 地肩が強く、遠投125mの身体能力の持ち主で[8][13]、強肩を生かした正確な送球と[1]グラブ捌きの柔らかい三塁守備を見せる[6]。白鷗大監督の黒宮寿幸は大山悠輔よりも能力が高いと評する一方で[1][8][13]、ポテンシャルが高いがゆえにまだ雑なところがあり、メンタル面の弱さもあると指摘する[8]。 打撃に関しては波が激しいが[2]、長打力を秘めており[8]、フルスイングを持ち味とする[6]。 ペルー国籍。日本で生まれ育ったため、日本語話者であるが、ペルー出身の両親がいる実家ではスペイン語で話すバイリンガルである[2]。将来の夢として、ペルーで子供たちに野球を教えることを挙げる[2]。 日本の打者では柳田悠岐や森友哉[6]、メジャーリーガーではハビエル・バエスを憧れに挙げる[1]。 外部リンク[編集]

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トルコ学 – Wikipedia

チュルク語族の分布 トルコ学(英: Turkology)は、トルコ人(英: Turks)を扱う科学の一分野である。最も広い意味では、トルコ人と関係するあらゆる事柄を扱うが、通常はより狭い意味で、トルコ人の言語や歴史や文学その他の文化的活動を扱う[1]。 トルコ学の対象[編集] 通常、トルコ人(英: Turk)という言葉には二つの意味がある。狭い意味ではトルコ共和国のトルコ語話者のことである(便宜上、英: Turkishなどと表記される)。広い意味ではチュルク語族に属する言語を話すすべての人を指す(テュルク系民族、英: Turkicなどと表記される)。ただしこれは過去数十年といった単位での比較的新しい考え方であり、かつてはTurkishに相当する語でチュルク諸語もしくはテュルク諸民族をも指していた[1]。トルコ学が実際には広くテュルク系民族を対象としているにもかかわらず、テュルク学(TurkicologyもしくはTurkic studies)と呼ばれていないのはこの名残である。 テュルク系民族の地理的範囲は、移住によってここ数十年で大幅に拡大したが、それ以前でも東は中華人民共和国から西は東南ヨーロッパ、北はロシア(シベリア)から南は中東の国々にまで及んでいた。 トルコ語圏のすべての国、民族グループ、少数民族の人口は現在、少なくとも3億人に達する。 1980年代、ユネスコは、第2言語または第3言語としてチュルク語族を話す人々の数を加味すればチュルク語話者は約2億人と推定した。今日、人口の増加により、より多くの数を推定できる。が、トルコ語話者とトルコ民族とは必ずしも一致しない(テュルク系民族を参照)。最古の文献は西暦600年から800年ごろの物である。 さまざまなテュルク系の人々がさまざまな宗教に属している。最も重要な宗教には、イスラム教、キリスト教、仏教、ユダヤ教、先住民の宗教などがある。マニ教も歴史的に大きな役割を果たした。 現在のテュルク系の人々の大多数はイスラム教徒、特にスンニ派である。仏教徒の集団としてはユグル族とトゥバ人がある。チュヴァシ人とガガウズ人はキリスト教を主たる信仰としている。クリミア・カライム人はカライ派ユダヤ教徒である。 トルコ学の主な研究対象は、トルコ共和国、オスマン帝国、テュルク諸国(ドイツ語版)、中央アジアである。 古代から、旅行家や地理学者、外交使節などは、西アジアや中央アジアなどを訪問した際、トルコ諸族の独特な風俗や習慣について、ヨーロッパの世界に報告し紹介しようとした[2]。その著名な例としては、マルコ・ポーロによる旅行記「東方見聞録」がある[2]。このような慣例によって、欧米において「トルコ学」が生まれたとされる[2]。 オスマン帝国とヨーロッパ諸国との外交・貿易による関係は、15世紀~16世紀以降により密接なものとなったが、旅行家や外交使節などによる前述の報告も、学問的、体系的なものとなっていった。風俗や習慣についてはもちろんのこと、オスマン帝国における宮廷制度や国家機構、法制度や社会・経済機構などについても報告されるようになった[2]。 フランスにおけるトルコ学[編集] トルコ学者で歴史家のジル・ヴェンステイ(フランス語版)

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日光社参 – Wikipedia

この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2017年6月) 日光社参 (にっこうしゃさん)は、一般には日光東照宮に参拝する意味だが、ここでは、日本史の用語として、特に江戸時代に将軍家が参拝する行事を解説する。将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は合計19回実施された。そのうち、16回が4代家綱までに集中しており、特に3代家光は10回と歴代将軍の中で最多である。 主に徳川家康の命日である4月17日に参拝するように実施された。主に用いられた行程は次の通りである。 江戸城を発つと、まず日光御成街道(日光御成道)を進み、初日は岩槻城に宿泊した。さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道(日光道中)に入り、2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊したのち、4日目に日光に到着した。日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程であった。 家綱の頃までの復路では、今市宿から壬生通り(日光壬生道、日光西街道)に入り、宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもあった。 日光社参のコース[編集] 日光社参には主に以下の3つのコースがあったといわれている[1]。 日光御成道を通り、幸手で日光街道に入り、日光に至る。帰路も同コース。このコースが一番多く使われた[2]。 往路は先のコースと同じ。復路は今市より壬生道に入り、鹿沼・壬生を経て小山で日光街道に入り、以下先のコースと同じ[2]。 慶安2年(1649年)、世子家綱社参の場合だけで、日光街道を千住を経て越ヶ谷に至る。日光街道はこれより春日部・杉戸を経て幸手に向かうが、別路をとって岩槻に行き宿泊、以下日光への経路および帰路は1と同じという[2]。 日光社参には、膨大な経費を要した。供をする大名や旗本、動員される人馬も膨大である。例えば、安永5年(1776年)の将軍・家治の社参の際には、行列の先頭が日光にあるときに、最後尾はまだ江戸にあったとも言われている。近在の農村からの人馬徴発も、日光社参の時期は農繁期に重なることが多く、大きな負担になっていた。 これほどの大事業を成し遂げることは、徳川家の権威を、大名から庶民に至るまで広く知らしめる効果が絶大であった。しかし、第四代家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下していった。 なお家光は、家康を強く尊崇していたと言われる。江戸城内に東照宮を設置したこと、朝廷に願い出て、毎年の日光例幣使派遣を許されたことなどに表れているが、日光社参回数が最も多いこともそのひとつであろう。 注釈 出典 ^ 中島(1979年)、55頁。 ^ a

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