長島乙吉(1960年・70歳)福島県石川町立歴史民俗資料館提供 長島 乙吉(ながしま おときち、1890年(明治23年)9月2日 – 1969年(昭和44年)12月4日)は、日本のアマチュア鉱物研究者。専門的な教育は受けなかったが、神保小虎、和田維四郎、巨智部忠承ら先覚者の愛顧を受け、また、全国各地を踏査して鉱物を採集して知識を身に付けた。採集した鉱物を研究者に提供したり、産出地に案内することにより、学界に貢献した。アマチュア鉱物研究家の草分けで「鉱物趣味の父」「アマチュア鉱物学の父」と称されている[1][2]。 経歴と業績[編集] 岐阜県苗木町津戸(現・中津川市苗木)に生まれる。幼い時から鉱物に興味を持ち、1899年(明治32年)小学校を卒業するとすぐ上京し、同郷の高木勘兵衛が経営する神田小川町の金石舎(鉱物・宝石商)に住み込みの店員として雇われ、鉱物標本製作に従事した。のち、独立して鉱物標本店を開いた[注 1]。一時は中国に標本を輸出していた[3]。1919年(大正8年)秩父鉄道から依頼を受けて秩父鉱物陳列所(現・埼玉県立自然の博物館の前身)を創設し、展示のために800点あまりの埼玉県秩父地方の鉱物を採集した[1][2]。1930年鉱物同好会を創設し、同人誌『趣味の礦物』を発刊した[1][3]。 理研の嘱託としての業績[編集] 秩父の鉱物採集の縁で東京帝国大学理学部化学教室の木村健二郎の知遇を受けるようになった。1929年(昭和4年)頃木村の紹介で理化学研究所の飯盛里安と知り合った[4]。1936年、希元素鉱物の知識を見込まれて理化学研究所飯盛研究室に嘱託として迎えられた[5]。この時のいきさつについて長島は自著の中で次のように述べている[6]。 飯盛先生との間には種々話が進み理研の嘱託とされた。飯盛研究室の私の仕事は「本邦産希元素鉱物の探査と研究を委嘱する」とのことであった。私にとってはこんな適材適所はなくできるだけ御奉公したいと考えた。 それ以後終戦まで長島は飯盛の良きアシスタントとして本領を発揮した。その年の11月、飯盛研究室員たちは長島の協力を得て福島県伊達郡川俣町飯坂水晶山で希元素鉱物のやや大きい鉱床を発見した。この鉱床からわが国では新産となるイットリア石、トロゴム石、テンゲル石、リン銅ウラン鉱を発見した。さらに、後に阿武隈石と命名された新鉱物も発見した。この鉱床の特徴は、直径20メートルくらいの大きな石英の団塊があって、周囲の地層との接触部に長石に密着した大きな黒雲母が発達していることである。当時、石英は業者が採掘していたが、不要な黒雲母は廃棄されていた。前述の諸鉱物はこの黒雲母の堆積の中から見出された[7]。この鉱床ではフェルグソン石、イットリア石、トロゴム石の量が多かった[8]。その後、福島県石川町周辺の露頭で、地元の人たちの協力を得て大規模な開掘を行なってコルンブ石、緑柱石、サマルスキー石、モナズ石、ゼノタイムなどを採集した。地元の人たちとの交渉、契約、苦情の対応など、めんどうなことはすべて長島が1人でこなした[6][8]。 飯盛と研究室員は1922年(大正11年)から日本全国のみならず、日本統治下の朝鮮にも度々足を運び希元素鉱物の探索と採集をしていた。当初の目的は学問的興味だったが、1937年日中戦争の勃発とともに軍需物資[注 2] としての希元素鉱物の必要性が高まってきたため目的は資源調達に変わってきた。日本国内には資源がほとんど無いことが分かっていたので、主として朝鮮で調査を行った[4]。 1937年秋、飯盛研究室員の谷川浩、同研究室員で飯盛里安の長男・飯盛武夫とともに朝鮮の咸鏡南道永興郡仁興面を訪れ、砂金残砂から黒モナズ石を採取した。黒色のモナズ石はそれまで知られていなかった[9]。1938年5月、飯盛武夫とともに朝鮮の忠清北道丹陽郡丹陽面九尾理および全羅北道茂朱郡赤裳面斜山里を訪れ、それぞれの場所からコルンブ石を採取した[10]。同年秋、再び飯盛武夫とともに忠清南道洪城郡を訪れ、砂金殘砂から3種のニオブタンタル鉱物を採取した。分析の結果、それらはタンタルユークセン石、イットロタンタル石、フェルグソン石であることが判った。前2者は日本で初産であった[11]。 1942年、長島は景山義夫とともに飯盛研究室から朝鮮に派遣され、東南海岸線で鉄道の無い襄陽邑から浦項邑に至る約280キロメートルの砂床(現韓国・江原道襄陽郡襄陽邑から慶尚北道浦項市)を徒歩で調査した。このときは何も成果は得られなかった[7]。1943年には洛東江上流の砂床(現韓国・慶尚北道醴泉郡醴泉邑ほか)を調査して有望な地帯を見つけたので、慶北の栄州に近い豊基に選鉱場を設け、そこからモナズ石を供給するようにした[7][12]。1944年には技術院総裁で科学動員協会会長の多田礼吉中将が希元素鉱物調査を目的として組織した満蒙調査団に一員として加わり、海城県三台溝地帯(旧満州国奉天省海城県第十区白石寨村三台溝)でフェルグソン石、ユークセン石などの新産を発見した[5][13]。同年、軍の後援のもと海月菊根鉱山(黄海道延白郡海月金山里、現北朝鮮・黄海南道延安郡)の調査開発を行った(原子爆弾の原料のウランを得る目的で)[12][14]。この時は陸軍航空本部総務部長の川島虎之輔少将、陸軍整備局 原富夫少佐、航本 矢作十郎少佐、朝鮮軍参謀部付
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