コンラート・グラーフ(Conrad Graf, 1782年11月17日 – 1851年3月18日)は、オーストリア系ドイツ人のピアノ製造技師。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フレデリック・ショパン、クララ・シューマンらが彼のピアノを使用した。 グラーフはヴュルテンベルクのリートリンゲンに生まれた。家具職人としてキャリアを開始し、生まれ故郷で技術を学んだ。1796年に職人の地位に就き、1798年もしくは1799年にウィーンへと移る。1800年に一時イェーガー義勇軍に所属していたが、その後ヤーコプ・シェルケというピアノ製作者の下で見習い工となる。シェルケは当時ウィーンの郊外であったヴェーリング(英語版)で働いていた。1804年にシェルケがこの世を去り、グラーフは未亡人カテリーナと結婚して店を引き継ぐことになる[1]。 人口調査の記録によるとグラーフの一家には2人の子どもがいたことになっている。妻と前夫との間に生まれたカラリーナ・シェルキン(1802年生)とユリアーナ・グラーフ(1806年生)である。カテリーナが没した1814年以降もグラーフは再婚しなかった[1]。 グラーフがいかに独自のピアノ製造様式、技法を発展させたのかは明らかになっていない。師のシェルケのピアノは1台も残されておらず、現存するグラーフの初期作品は円熟期のものと大きく異なるわけではない。デボラ・ワイスは「グラーフの様式は田舎の無名製作者の下での見習いから、完全に成熟した形で出現したかのようである」と述べている[2]。 19世紀初頭はピアノ製作に沸き返った時代であった。ワイスは同時代の製作者について次のように述べている。「伝統的な職人芸と新たな技術が、激しい競争的環境の中で不安定に融合されたのである[3]。」グラーフはその状況下で成功を収めた。彼は1809年までに10人の職人を雇っていった[4]。1811年になると郊外を離れて町の中心部の新しい、そして賃料の高い場所へと移った[5]。1824年にはウィーンの王室のピアノ及び鍵盤楽器製造者に任用されている[6]。 1826年までにピアノ需要の高まりを受け、グラーフはそれまで小さな工房で行われていたピアノ製造の分野において先駆的に大量生産の手法を導入する。ヴィーデンの102に位置する流行のダンスホールであった「Mondscheinhaus」(月明かりの家)を購入、シャンデリア他の装飾を取り外してピアノ工場へと作り変えたのである[7]。1835年に書かれた記録によると工場には40人の従業員がおり、彼らは「8つの部門に分けられ、それぞれが特定の仕事を専門的に行っていた[8]。」多くの工員は10世帯が入居可能なひとつの建物で暮らしていた[8]。グラーフは1827年から1831年にかけてさらに2つの工場を建設し、これによって1,000平米を超える床面積が追加されることになった[8]。 グラーフの会社では彼の生前に3,000台を超える楽器が生産された[9]。ニューグローヴ世界音楽大事典の記すところではその楽器は「品質面で高い一貫性を有しており、同型の一連の製品としても差し支えないほどであった」が、これはおそらくグラーフが用いた大量生産の手法の結果であると考えられる[10]。工場生産によって製造コストが低下したことにより、ピアノは19世紀には中産階級の家庭へと広がっていく。1835年に開催された第1回ウィーン工業製品博覧会において、グラーフはゴールド・メダルを受賞している。 1840年、グラーフは引退してカール・シュタインへ会社を売却した。シュタインは著名なピアノ製造者であるヨハン・アンドレアス・シュタインの孫にあたる人物である[10]。 事業に成功したグラーフは美術品蒐集を行うようになり、膨大なコレクションを築き上げた[11]。1840年に彼がヨーゼフ・ダンハウザーに委嘱した有名な『ピアノに向かうリスト[注 1]』には、友人たちに囲まれて演奏するフランツ・リストの空想上の姿が描かれている[12]。この作品に用いられている楽器はグラーフ製である[8]。 引退後のグラーフは経営者協会にボランティアとして参画した。それは「Niederosterreichische Gewerb-Verein」(下オーストリア工業組合)という団体で、1839年の設立にあたっては彼も援助を行っていた[8]。グラーフは1851年3月18日に69年の生涯を閉じた。遺言により多くの財産が慈善活動に遺された[8]。 グラーフのピアノ[編集] 当時のピアノには典型的であったが、グラーフの楽器に使用された金属製の補強はかなり少なかった。唯一金属を用いた構造部はギャップ・スペーサーであった。これは弦がアクションと上部で交差する位置に生じる隙間の構造を補強するもので、それ以外の構造は全て木製であった[10]。弦は真っ直ぐ、すなわち現代のピアノのように低音部の弦が高音部と交差するのではなく全ての弦が平行に張られていた。音域はC1からf4またはg4までをカバーした。3本から4本のペダルが備えられており、標準的なサステイン・ペダルの他にソフト・ペダル、バスーン・ストップ、ピアノとピアニッシモの調節器、トルコ音楽の演奏に用いるジャニサリー・ストップなどがあったものと思われる。 金属製フレームを使用していなかったにもかかわらず、グラーフのピアノは高い強度を誇った。ワイスは次のように説明している。「フレームの素材には5層構造の薄く加工したオークやトウヒを貼り合わせて使用し、各接続部とベリーレールを煉瓦のようにかみ合わせることで並外れて頑丈なフレームを生み出したのである[13]。」ケースにも薄板が貼り合わせてあり[13]、現代のグランドピアノに一般的な多層構造で出来上がっていた[14]。この丈夫な構造により、グラーフの時代には弦の本数や張力が増加すると常に問題になっていた歪みを防止することができた。 グラーフを含むウィーン式のピアノは鍵盤が解放された後の効果的な消音によって知られていた。グラーフは様々な方法を用いてこれを実現した。ダンパーは低音側で大きくなるようサイズ分けされており、高音側では羊毛、低音側では皮革というように素材も分けられていた。ダンパーの重量も調節されており、低音側がブナなどの重い木材で作られる一方、高音側はライムでできていた。最低音の13から17のダンパーには鉛で重しがされていた[13]。
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