Month: May 2018

弓と禅 – Wikipedia

『弓と禅』(ゆみとぜん、ドイツ語: Zen in der Kunst des Bogenschießens、英語: Zen in the Art of Archery)は、ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルによる1948年の書籍である。1920年代に日本に滞在していた当時に弓道を学んだ経験について書かれている。この本は、1940年代後半から1950年代にかけて、西洋の人々に禅を紹介した。 ヘリゲル(1884-1955)はドイツの哲学教授で、特に神秘主義に関心を持っていた。1924年から1929年まで日本で哲学を教え、その間、阿波研造を師として弓道の修行をした。阿波は、弓道を宗教のように考え、「大日本射道教(大射道教)」それを呼んだ。大射道教とは、当時の弓道の主流とは異なる精神面を重視した弓道である[1]。ヘリゲルは1936年に自分の体験を20ページほどのエッセイにまとめ、1948年にそれを拡大して短い本にした。この本は1953年に英語に、1956年に日本語に翻訳された。 この本では、運動の学習についての理論が述べられている。ヘリゲルは、外界の活動に対する無意識のコントロールを受け入れる精神を説いた。これは、それまで西洋人が完全に意識的にコントロールされていると考えていたものである。この本の中心的なアイデアは、長年の練習によって、身体的活動が、あたかも身体的な記憶(現在では「筋肉の記憶(英語版)」と呼ばれている)が、複雑で難しい動きを意識的にコントロールすることなく実行するかのように、精神的にも肉体的にも楽になるというものである。 ヘリゲルは、弓道における禅について、次のように述べている。 射手は、自分の目の前にある的を射ることに没頭している自分自身を意識することはない。無意識のこの状態は、完全に空と自己の処分、自身の技術的なスキルの完成と一つになるときにのみ実現されるが、しかし、その中には、技術の漸進的な研究では到達できない、全く異なる秩序の何かがある。 ヘリゲルのこの著書は、1974年に発表されたティモシー・ガルウェイ(英語版)の著書”The Inner Game

Continue reading

学校法人北海道星槎学園 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “学校法人北海道星槎学園” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年5月) 学校法人北海道星槎学園(がっこうほうじんほっかいどうせいさがくえん)は、北海道北広島市中の沢149番地に本部を置く学校法人。 1964年 12月学校法人北海道産業学園創立 1965年 北海道産業専門学校創立 1966年 北海道産業短期大学設立(北広島市) 1976年 北海道産業短期大学を道都短期大学と改称。法人名を学校法人北海道櫻井産業学園と改称 1978年 道都大学を紋別市(紋別キャンパス)に開学(社会福祉学部、美術学部設置) 1983年 道都大学開学5周年記念式典挙行 1984年 海洋生物研究所・北方福祉研究所設置、海洋生物研究所附属水族館開館。北海道産業専門学校を札幌市に移転。学校法人北海道櫻井産業学園に総長制を敷く(櫻井淳が初代総長に就任) 1985年 道都大学に保母養成課程開設する 1987年 北海道産業専門学校を道都総合専門学校と改称 1988年 道都大学開学10周年記念式典挙行

Continue reading

辰和丸 – Wikipedia

辰和丸(たつわまる)は、1937年に進水して辰馬汽船・新日本汽船が運航した貨物船である。太平洋戦争末期の1945年に瀬戸内海で機雷に接触して沈没。戦後に復旧されたが、1954年に南シナ海を航行中、台風に遭遇して行方不明となった。 「辰和丸」は、辰馬本家酒造を起源とする辰馬財閥系の辰馬汽船株式会社により、台湾航路向け高速貨物船として計画された。台湾航路は、1920年代まで日本郵船と大阪商船の寡占状態であったが、両社と糖業連合会の間の砂糖運賃引下げ交渉の不調を機に、1929年(昭和4年)から辰馬汽船が参入していた[3]。辰馬汽船は、1932年(昭和7年)に日本郵船及び大阪商船と台湾航路に関する協定を結ぶことに成功し、安定した台湾航路に新たな定期船を投入することにした[4]。まず、1936年(昭和11年)10月に、後に「辰和丸」「辰鳳丸」となる大型高速貨物船2隻が三菱重工業神戸造船所に発注され、ついで、翌1937年(昭和12年)2月に後に「辰宮丸」「辰春丸」となる同型船2隻が追加発注された[4]。 三菱重工神戸造船所で同型1番船として起工された本船は、1937年(昭和12年)9月22日に進水して「辰和丸」と命名。翌1938年(昭和13年)2月1日に竣工した[1]。「辰和丸」の船名は、辰馬の社名の頭文字「辰」を冠したもので、江戸時代以来の伝統を受け継いでいる[5]。 「辰和丸」型の設計は、7,800載荷重量トン級の大型貨物船で、石炭焚きの蒸気タービン機関1基・スクリュー1軸により、航海速力15ノットを発揮する高速船であった[6]。「辰和丸」は登録上、航海速力16ノット・最高速力17.75ノットに達している。台湾航路の重要貨物である台湾バナナの運搬のため、船橋楼後部に機械通風冷温装置式の冷蔵庫を備えた[7][8]。 竣工した「辰和丸」は、辰馬汽船に直接保有されるのではなく新設の辰馬合資会社を船主として、1938年(昭和13年)2月に辰馬汽船の運航船として台湾定期航路に配船された。続けて建造された同型船3隻も、「辰鳳丸」が1938年5月から、「辰宮丸」と「辰春丸」が1939年(昭和14年)後半から、すべて台湾定期航路に投入されて好成績を上げた[6][8]。 日中戦争中の1940年(昭和15年)11月18日に「辰和丸」は日本海軍に徴用され、特設運送船(雑用)として輸送任務に従事した[9][注 1]。太平洋戦争開戦後、1943年(昭和18年)2月4日、南シナ海上北緯21度30分 東経113度42分 / 北緯21.500度 東経113.700度 / 21.500; 113.700の地点でアメリカ海軍潜水艦「タニー」による攻撃を受けて損傷[10]。1944年(昭和19年)2月10日にも、台湾南西北緯21度53分 東経119度13分 / 北緯21.883度 東経119.217度 / 21.883;

Continue reading

シャイニングレイ – Wikipedia

この項目では、競走馬について説明しています。Janne Da Arcのシングルについては「Shining ray」をご覧ください。 シャイニングレイは、日本の競走馬である。主な勝ち鞍は2014年のホープフルステークス、2017年のCBC賞。馬名の由来は英語で「輝く」に母シェルズレイの名前の一部で、「競走馬として輝かしい歴史を創ることを願って」という意味が込められている[1]。 2歳(2014年)[編集] 11月9日の京都競馬場の2歳新馬戦でデビューし、2着馬に3馬身半差をつけて勝利した[3]。次走に2014年からGIIとなった[4]ホープフルステークスを選択した。レースでは直線で抜け出し、2着馬に1馬身1/4差をつけて優勝。重賞初制覇となった[5]。 3歳・4歳(2015年・2016年)[編集] 弥生賞から始動。単勝1.9倍の1番人気に支持されたが、本馬場入場で鞍上の川田将雅を振り落とすなど落ち着きを欠き、レースでも直線で伸びず7着に敗れた[6]。その後、左トモ球節の脚部不安を発症して皐月賞、日本ダービーの春のクラシック戦線を全休、秋は10月4日阪神競馬場のポートアイランドから戦列復帰する予定であったが、9月16日に左前の屈腱炎が判明してノーザンファームしがらきへ放牧に出され、長期休養に入った[7]。 5歳・6歳(2017年・2018年)[編集] 3月11日阪神での仁川ステークスで2年ぶりに戦列に復帰し、新たにパートナーとなった北村友一は「長期休養明けなので、ストレスのないような競馬がしたい」と心がけていたものの、道中で折り合いを欠いてグレイトパールの6着[8]。続く4月16日福島競馬場の福島民報杯もマイネルミラノの14着と大敗した。復帰3走目は短距離路線に矛先を変え5月28日京都の安土城ステークスに出走し、中距離でかかるほどのスピードを生かして3番手から抜け出して、2着トウショウピストに1馬身4分の1の差をつけ2年5か月ぶりの勝利を挙げた[9][10]。夏はサマースプリントシリーズ第2戦、7月2日中京競馬場のCBC賞に出走[10]。安土城ステークスよりも1ハロン短く、初めての左回りコースと課題があり[11]、レースでもスタートが合わず後方からの競馬となったが、前半控えたことが功を奏し[12]、出走メンバー中最速の上がり3ハロン33秒2の差し脚で逃げ込みを図るセカンドテーブルをハナ差かわし、2年6か月ぶり2つ目の重賞制覇を遂げた[13]。その後、スプリンターズステークスに向けて調整されていたが脚部不安で回避し、暮れの阪神カップに目標を切り替えたが18着としんがり負けに終わる。翌2018年3月の高松宮記念12着を最後に現役を引退した。引退後は乗馬となる[14]。 2017年CBC賞 表彰式 競走成績[編集] 競走日 競馬場 競走名 格 距離(馬場) 頭数

Continue reading

ジョニー・ロングデン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ジョニー・ロングデン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年7月) ジョニー・ロングデン(John Eric Longden 1907年2月14日 – 2003年2月14日)は、イギリス(イングランド)ヨークシャー州ウェイクフィールド出身の、アメリカの元騎手で、元調教師。騎手・調教師としては「Johnny Longden」と表記される。1958年アメリカ競馬殿堂入り。96歳の誕生日に死去。 イギリス生まれだが、幼くしてカナダのアルバータ州に移住。1927年にアメリカのカリフォルニア州で騎手になり、イギリスのサー・ゴードン・リチャーズ騎手の持っていた通算勝利数の世界記録4,870勝を1956年に破り、通算勝利数の世界記録を6,032勝まで伸ばした。この記録は1970年にウイリー・シューメーカー騎手に破られるまで、14年間世界最多勝利騎手の座にあった。 主な勝ち鞍[編集] Hollywood Gold

Continue reading

勢道政治 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “勢道政治” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年12月) 勢道政治(せいどうせいじ、朝鮮語: 세도 정치)とは李氏朝鮮の後期の政治形態。「世道政治」とも。王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占的に担う状態を指す。もともとは「有能な人物が王を輔佐し世の中を教化する」という士林派の思想を基礎にしたものであるが、正祖の子純祖以降は幼君が相次いだため外戚や寵臣が政権を壟断する状態に変質し、国政の私物化が進み李氏朝鮮の衰退を招いた。 洪国栄と貞純王后[編集] 外戚や寵臣が政権を壟断する「勢道政治」の草分けは正祖時代の洪国栄である。洪国栄は、廃太子の子である正祖を王にした功績から都承旨の地位に就いたが政治、軍事に渡りあらゆる権限が彼に集中するようになった。また妹を正祖の側室にしたことで外戚の地位を手に入れた。妹が早世すると完豊君を妹の養子とし、外戚の地位を維持しようとした。彼は領議政をしのぐほどの権勢を誇ったが王妃暗殺未遂事件に関与した嫌疑で失脚した。 正祖没後は幼い純祖が王位に就いた。幼君の登場は外戚の権力の伸張を招いた。当初を英祖の王妃で純祖の嫡曾祖母の貞純大王大王妃金氏が垂簾聴政を行った。金氏は正祖在位時代から保守派の中心人物であり、多くの取り巻きがいた。彼女の垂簾聴政の時期には保守派が権力の分け前にあずかることに成功した。また貞純大王大王妃の垂簾聴政は短期間であったが、これをきっかけに彼女の出身の安東金氏が外戚として台頭していくことになる。 安東金氏と豊壌趙氏[編集] 純祖の王妃には金祖淳の娘が純元王后として立てられたがこれ以降、金祖淳の安東金氏は憲宗、哲宗の王妃を送り外戚としての地位を強固ものとして政権をほしいままにした。 このような安東金氏に対して対抗したのが豊壌趙氏であり純祖のころには、趙万永の娘の神貞王妃が孝明世子との間に憲宗を産んだことで外戚の地位を獲得したが、憲宗が男子を残さず没すると安東金氏が哲宗を王位に即かせた。もともと純祖が幼君だったために、それを支える外戚が台頭したのだが、憲宗、哲宗のときには外戚が権力保持のために幼君を立てるという「手段と目的の逆転」が起きていた。 興宣大院君[編集] 哲宗の5人の男子がいたがいずれも夭折しており、仁祖以降の王家の嫡流は断絶が確定的だったので、仁祖の7代下るという遠く隔たった傍系ですでに王族の地位を失っていた李球を南延君として王族に復帰させた。このように傍系の子孫から王を出すことになったが、誰を王にするかは安東金氏など外戚の意向にかかっていた。南延君の四男の李昰応が国王候補から外されたのは安東金氏の思惑であった。しかし哲宗が没すると李昰応は神貞王后趙氏と豊壌趙氏と連携して次男の命福が高宗として王位に即位させることに成功した。まだ新国王は幼かったので李昰応は興宣大院君として摂政を務めたが、このときに安東金氏など勢道勢力は一掃された。しかし興宣大院君自身による独裁が行われたため「王の信任を得た人物、集団が政治を独占的に担う」という政治形態は李氏朝鮮滅亡まで続くことになる。

Continue reading

アルガン油 – Wikipedia

アルガン油(アルガンゆ、Argane oil)とは、アルガンノキの種子から得られる植物油である。 アルガンオイルとも呼ばれ、古くからモロッコで利用されてきた。 アルガンの木。モロッコの南西部が自生地の中心になっている。 伝統的な搾油風景。 アルガン油は、広葉常緑樹のアカテツ科のアルガンノキ属に属する唯一の種であるアルガンノキ(Argania spinosa)から採取される。伝統的には、アルガンノキの付ける硬い種子を石で割り、ペースト状にすり潰してから搾油するという、非常に手間が掛かる工程を経て製造される。かつては家内制手工業で限定的に生産されてきたが、消費量が拡大するにつれ、アルガンの自生地であるモロッコ南西部のアガディールを拠点とした生産組合が増加している[1]。 アルガン油は、モロッコのベルベル人の間では、クスクスなどに用いる食用油、またスキンケアなどに用いる薬用、化粧用の油として利用されてきた。20世紀後半、ビタミンEの含有量や不飽和脂肪酸量が評価され、化粧品用の基油または油を直接利用されるようになった。 皮膚のバリア機能を回復し水分保持を行う[2]。 閉経した女性の皮膚の弾力性を改善するというランダム化比較試験がある[3]。アルガンやほかの成分を含むクリームの使用により、4週間後に脂性を低減し皮脂の分泌を減らしていた[4]。 ^ “「モロッコの黄金」アルガンオイルが地域を救う”. CNN (CNN). (2012年11月3日). http://www.cnn.co.jp/travel/35023187.html 2012年11月13日閲覧。  ^ Lin TK,

Continue reading

録尚書事 – Wikipedia

録尚書事(ろくしょうしょじ)は、中国の後漢から魏晋南北朝時代に存在した官職。尚書を束ねる役職として政権を握り、宰相職としてあったが、隋代に廃止された。 尚書省・尚書令なども合わせて参照のこと。 漢の官制では丞相を始めとした三公が政治を執ることになっていたが、武帝より実質的に尚書の権限が丞相のそれを上回るようになる。尚書は臣下から皇帝に対しての上奏を取り扱う役職である。上奏をしようとする場合、正副二つの上奏文を尚書に渡し、尚書は副の方を見てそれが良くないと思えばこれを却下することが出来た。つまり実質的に、尚書は上奏の可否を決定することが出来た。 武帝が崩御して昭帝が即位すると、霍光が専権を奮うようになるが、この時の「大将軍光秉政、領尚書事」(『漢書』「昭帝紀」)という記述が領尚書事の初見である。領尚書事とは「尚書の事を総領する」の意である(録尚書事も同義)。武帝により中書(中書台)も作られている。尚書と中書は元は同じ上奏を取り扱う役職であるが、こちらは宦官の役職であった。尚書と中書が分けられた理由は、武帝が後宮で過ごす時間が長く、後宮には宦官でなければ出入りが出来なかったことによる。中書の長が中書令・尚書の長が尚書令であり、領尚書事はこの二つを統括する存在であった。 ただし、領尚書事は加官であってこれのみに就くということはなく、必ず他の本官を持つ。また前漢代には正式に定められた役職ではなく非常設の役職であり、『漢書』「百官公卿表」にも領尚書事は記載されていない。 宣帝は領尚書事の力を削ぐために中書を重用し(宣帝によって前記の尚書が上奏を取り次ぐ可否を決定していた慣例は廃止されている)、その流れを受けて元帝代には宦官の弘恭・石顕が中書令となって領尚書事の蕭望之らを排除するということも起こったが、成帝が即位し王鳳が領尚書事となると石顕を排除した。更に中書台を廃止したことで、領尚書事の権力は確固たる物となった。 後漢・三国時代[編集] 後漢に入ると、領尚書事は録尚書事となり、正式な官となった。後漢では皇帝が即位するとともに皇太子時代の傅(もり役)が太傅となり、同時に太傅は録尚書事を兼任して政権を執る。また太傅の下の三公(司徒・司空・太尉)のいずれかも録尚書事を兼任し、後漢を通じて2-3人が録尚書事となるのが通例であった。太傅以外が録尚書事となる場合は参録尚書事と呼ばれる。位の上では太傅および三公が最高であるが、実際には録尚書事を帯びない限りは権限がなかったのである。 しかし後漢中葉から、宦官たちが中常侍などの役職で皇帝の傍に侍るようになり、録尚書事以下尚書は次第に実務機関へと変わっていき、権力の中枢からは離れざるを得なくなっていった。魏になってから再び置かれるようになり、魏から西晋までの間に尚書の主導権が確立した。録尚書事は、蜀漢では平尚書事、呉では領尚書事・平尚書事・省尚書事とも言われた[1]。蜀漢で諸葛亮の死後宰相の任にあった蔣琬・費禕はいずれも大将軍・録尚書事に任じられている。 晋・南北朝時代[編集] 東晋になると、録尚書事が常設されるようになったようである。またこの時代に録尚書六条事というものが現れる。この職がどういうものかについては、現在のところ良くわかっていない。『宋書』には東晋初期に政権を執った王導について「咸康中、分置三録、王導録其一、荀崧・陸曄各録六条事」(咸康年間、分けて三録を置いた。王導がその内の一つを録し、荀崧・陸曄がそれぞれ六条事を録した)とある。六条事について、『宋書』の著者の沈約は「尚書の分掌が全部で12条あり、荀崧・陸曄はそれを半分ずつ担当したのだろう」としている。録尚書事が常設でなくなるのは南朝宋の孝武帝の時期であるが、それから30年ほどしか経っていない『宋書』執筆の時点ですでに、録尚書六条事についてはよくわからなくなってしまっていたらしい。その他にもいくつか説があり、確たることはわからないが、録尚書事には「総録」と「録尚書六条事」があり、総録の方が上位であるがどちらも宰相職として政権を執っていたらしい。 録尚書事の常設は南朝宋の文帝の時期まで続いたが、孝武帝の時期に録尚書六条事であった劉義宣の反乱をきっかけに録尚書事が廃止された。前廃帝の時期に復活するが常設ではなくなり、南朝斉以降にそれは引き継がれた。南朝斉以降では録尚書事に任命されること自体が少なくなり、録尚書事の存在は小さくなっていき、隋代に三省六部体制が整えられると共に録尚書事は正式に廃止された。 参考文献[編集] ^ 『正史三国志』8巻(陳寿著、裴松之注、小南一郎訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉)三国官職表(洪貽孫『三国職官表』より) 関連項目[編集]

Continue reading

ピエール=ジョルジュ・ジャンニオ – Wikipedia

ピエール=ジョルジュ・ジャンニオ(Pierre-Georges Jeanniot、1848年7月2日 – 1934年1月9日)は、フランスの画家、イラストレーター、版画家である。多くの雑誌や書籍の挿絵を描いた。 スイス、ジュネーヴ州のプランパレ(Plainpalais)で生まれた。父親のピエール=アレクサンドル・ジャンニオ(Pierre-Alexandre Jeanniot: 1826–1892)は風景画家で、フランス、ディジョンの国立高等美術学校の校長を長く務めた人物である。父親から美術を学ぶが、軍人の道に進み、1866年にサン・シール陸軍士官学校に入学し、歩兵部隊の将校に任官し、普仏戦争にも参加した。軍務についている間も、絵を描き、1872年のパリのサロンに水彩画を出展した。軍人として昇進し、1881年に大佐に昇任することになった時に退役し、画家に専念することにした。 軍人を退役した頃は戦争画を主に描いたが、1882年からはパリに住んで、数年後から、パリに住む人々の生活を描くようになった。パリではエドゥアール・マネやピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ジャン=ルイ・フォラン、ポール・セザール・エリュー、エドガー・ドガといった画家と知り合い、特にジャンニオはドガを尊敬し、親しく交流した。これらのメンバーが1890年に国民美術協会の再建の中心メンバーとなると、国民美術協会の展覧会に多くの作品を出展した。 1879年に創刊された文芸雑誌「ラ・ヴィ・モデルヌ」に、評論家のテオドール・ド・バンヴィルや作家のアルフォンス・ドーデ、画家のジュゼッペ・デ・ニッティスらとともに初期に仕事を依頼された一人であり、後に、風刺雑誌「ル・リール」や新聞「エコー・ド・パリ」などにも挿絵を描き、新聞「Journal amusant」の美術監督も務めた。 1908年にレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受勲した。 マドレーヌ・ルメール夫人の居間で歌うジベール 雑誌の広告ポスター 参考文献[編集] Jeanniot, Pierre-Georges. In: Marcus Osterwalder: Dictionnaire

Continue reading