平成研究会(へいせいけんきゅうかい)は、自由民主党の派閥。旧称は経世会(けいせいかい)。略称は平成研(へいせいけん)。 通称、茂木派(竹下登派→小渕派→橋本派→津島派→額賀派→竹下亘派→茂木派)。自由党吉田茂派を起源に持ち、周山会(佐藤派)・木曜クラブ(田中派)の流れを汲む。吉田茂が率いた自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))と共に保守本流とされる派閥の1つである。 自由党の流れを汲むため、宏池会系派閥(宏池会(岸田派)、志公会(麻生派)、有隣会(谷垣グループ))と共に保守本流とされる。派閥の源流は旧自由党の吉田派から佐藤派(周山会)と池田派(宏池会)と分ける形で派閥を形成したことが始まりである。その後、田中角栄が1972年に木曜クラブ(田中派)として佐藤派の大部分を引き連れ独立、さらに竹下登が1987年7月4日に経世会として田中派の大部分を引き連れ独立、1994年に平成政治研究会に改称し、その後現在の平成研究会に再度改称されて現在に至る。 田中派時代の昭和50年代から平成中期にかけて主流派として自民党の政治に大きな影響を与えた。田中が最大派閥を維持し闇将軍と呼ばれるほど大きな影響力を発揮、その後昭和の末期に竹下登が経世会として独立してから総理大臣に就任した。その後竹下が総理大臣を辞任した後も影響力は大きく、小沢一郎や羽田孜らが改革フォーラム21として経世会から独立し所属議員数が党内4位に転落しながらも橋本龍太郎や小渕恵三などの総理大臣を誕生させるなど主流派として長年活動していた。しかしその後は、小渕以来総理・総裁を誕生させられていないどころか2003年の自由民主党総裁選挙候補であった藤井孝男以来派閥として独自候補を擁立できない状況が続いており、総裁以上に様々な人物が就任している党幹事長にも2000年に野中広務が退いて2021年に茂木敏充が14人のべ16代ぶりに就任するまで厳しい状況が続いた。そのようなこともあり、派内から派閥領袖に就任した者の指導力に対する疑問が出たり、派閥として結束した行動ができないケースもしばしばある。 田中角栄の影響もあり、親中派とされる議員が多い(平成研究会の事務総長代理を務める小渕優子は日中友好議員連盟の会長も務めている)。 竹下登派時代[編集] 1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らを中心に、木曜クラブ(田中派→二階堂グループ)内に勉強会として創政会が結成される[1]。田中の激しい巻き返しに遭うが、同月27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。 1986年4月25日、創政会は解散され、反対派や中間派の取り込みが図られた。 1987年2月28日の第75版『国会便覧』(日本政経新聞社)時点における木曜クラブ(田中派)所属議員は139人[3][注 1]。 同年5月21日、政治資金パーティー「竹下登自民党幹事長激励の夕べ」が東京プリンスホテルで開かれ、史上空前の1万3千人が参集した。売り上げはおよそ20億円と言われ[4]、田中派からの参加者は128人と9割以上に達した。欠席した二階堂グループの議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた。同年7月1日、田中派の常任幹事会が開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂、竹下両グループの話し合いは決裂。ついに田中派の分裂が確定した[6]。 同月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人[7]。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった[9]。 同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり[10]。 同年10月20日、中曽根康弘の裁定により、竹下、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちの3人から、竹下が次期自民党総裁に内定した[12]。 同年11月6日の竹下内閣発足時には、竹下派は121人に増えた。竹下の総理就任後、金丸信が経世会会長に就任した。 竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、「経世会支配」と呼ばれた。また、このころには竹下派七奉行などの有力政治家を擁していた。リーダーによる鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。 竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が内閣総理大臣官邸よりも、TBRビルを優先して訪問していた様は、首相による権威の低下と経世会支配の象徴とされた。 元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者の竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼いの小沢一郎が自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任し、金丸の庇護のもとに辣腕をふるったことは竹下に近い議員の反発を買った。この頃には、海部内閣の衆議院解散に際して小沢が反対して海部内閣が総辞職に追い込まれた海部おろしなどの動きがあり、海部内閣から宮澤内閣に至る時期は、金丸、竹下、小沢のいわゆる「金竹小(こんちくしょう)」が政府および自民党の実権を掌握していた。 1992年10月14日、金丸は東京佐川急便事件の責任をとり、議員辞職願を提出し、会長も辞任した。10月16日、経世会の総会が開かれる。出席者は所属議員109人中93人。竹下派を支えてきた七奉行がここで真っ二つに割れた。小沢支持グループは奥田敬和、渡部恒三に小沢を加えて3人。これに対し、反小沢グループは橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六の3人。派内状況の行方を決定付ける立場に立っていたのが、これまで独自の道を歩んでいた羽田孜であった。羽田は総会が終わると真っ直ぐに赤坂プリンスホテルに向かった。ホテルの一室に入ると、小沢を筆頭に奥田、佐藤守良、石井一、左藤恵らがいた。奥田は一枚の文書を羽田に示した。経世会新会長に誰を推薦するとは書いてなかったが、羽田を想定していることは明白であった。この会合から小沢支持グループの「羽田会長構想」がスタートした。 この抗争においては、反小沢グループは小渕を担ぎ出す方針を決めた。衆議院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示。加えて宮澤喜一首相が現職の蔵相である羽田の派閥活動を行きすぎがあるとして警告を発した。
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