Month: September 2018

ドックランズ・スタジアム – Wikipedia

ドックランズ・スタジアム (Docklands Stadium) は、オーストラリア・メルボルンの都心西隣のドックランズ地区にある開閉式ドームスタジアムである。 マーベル・エンターテインメントが命名権を取得しており、2018年9月1日からマーベル・スタジアムの呼称が用いられている。 歴史 & 概要[編集] 2000年3月9日に「コロニアル・スタジアム」(Colonial Stadium) として開場した。2002年10月1日に電気通信企業のテルストラが命名権を en:Colonial State Bank から買収して「テルストラ・ドーム」となり、その後、2009年3月1日からはエティハド航空が命名権を取得し「エティハド・スタジアム」の呼称が用いられていた。命名権による呼称を回避する場合は「ドックランズ・スタジアム」(Docklands Stadium) と呼ばれる。 本ドームはウェーバリー・パークの後継として建設された[3]。テレビ放送網のセブン・ネットワークが本ドームを所有していたが、2006年に権益をジェームス・フィールディング・マネジメントに3億3千万豪ドルで売却[4]。 ウェーバリー・パークと同様、オージーフットボールの利用を念頭に建設されている。オーストラリアではこの規模の球技場は大部分クリケットのために設計された。 本ドームとメルボルン・クリケット・グラウンドはオージーフットボールトップリーグAFLのメルボルンのチームの本拠地として使用される。

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スタディオン (パラティヌス) – Wikipedia

スタディオンStadion(Hippodromus) 所在地 古代ローマ, 首都ローマ 建設時期 81年 〜 92年 建設者 帝政ローマ 建築様式 庭園 or 競技場 関連項目 ローマの古代遺跡一覧 テンプレートを表示 スタディオン(ラテン語: Stadion)は、イタリア ローマのパラティヌスの丘(パラティーノの丘)にある帝政ローマ期の宮殿内の庭園または競技施設跡。ドミティアヌスのヒッポドロームと表記されることもある。

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外山幹夫 – Wikipedia

外山幹夫(とやま みきお、1932年10月16日[1]-2013年4月26日[2])は、日本の日本史学者。 長崎市生まれ。長崎県立大村高等学校卒。広島大学大学院文学研究科国史学修了、78年「大名領国形成過程の研究 大友氏の場合」で文学博士。佐世保工業高等専門学校助教授、長崎大学助教授、教授。1998年定年退官、名誉教授、長崎県立女子短期大学教授、99年県立長崎シーボルト大学教授、2002年退職。県文化財保護審議会長、長崎市史編纂委員会委員長などを務めた[3]。 目次 1 著書 1.1 共編 2 論文 3 脚注 『大友宗麟』吉川弘文館 人物叢書 1975 『中世の九州』教育社歴史新書 1979 『大村純忠』静山社 1982

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天正4年興福寺別当相論 – Wikipedia

天正4年興福寺別当相論(てんしょう4ねんこうふくじべっとうそうろん)とは、天正4年(1576年)に発生した興福寺の別当職を巡る相論。 興福寺では天正元年(1573年)9月以来、松林院光実(日野内光の子・広橋守光の養子)が207代別当を務め、同族の東北院兼深(広橋兼秀の子)が権別当を務めていた(広橋守光の嫡男が兼秀であるため、兼深から見れば光実は義理の大叔父にあたる)。ところが、天正3年(1575年)頃より、兼深は光実の後任に就任できるように朝廷に働きかけており、同年7月には正親町天皇より密かに勅許を得ていたと考えられている。これを知った光実は辞任に抵抗を続けているが、天正4年5月には別当から退くことになった。光実が退くことを知った兼深は予定通りに次期別当に立候補したが、そこへ203代の別当であった尋円(九条尚経の子)も立候補の意思を示した。尋円は天文18年(1549年)から永禄6年(1563年)にかけて14年もの長きにわたって別当を務め、既に大乗院門主を附弟の尋憲(二条尹房の子)に譲って、「大御所」と俗称される立場であった。 5月22日、兼深の申状が頭弁日野輝資から南曹弁中御門宣教に届けられ、翌日に藤氏長者二条晴良に届けられた。興福寺の別当職は朝廷からの宣下で任命されるが、実質的な決定権は氏長者である藤氏長者が持ち、また藤原氏系の弁官1名は南曹弁と呼ばれて藤氏長者を補佐して興福寺と勧学院に関する事務を扱っていた。しかし、輝資が宣教に首尾を確かめようとしても、宣教は曖昧な返事を繰り返して、回答をはぐらかしていた。なお、日野輝資は兼深の甥で、光実の実家・日野家を相続した人物で、二条晴良は尋憲の兄にあたる。 その間に大乗院を中心とする学侶たちは兼深の別当の資格を否定する意見を記した申状を5月27日に提出し、それは翌日には京都に到着した。趣旨としては、門跡(大乗院と一乗院、基本摂関家出身者が門主を務める)以外の院家の院主が別当を務めるには維摩会において最も重視された竪義論義の出題を行う「探題」を務める必要があるが、兼深はまだ探題を務めておらず不適切であるというものであった。ただし、兼深もこの反論は予想していたらしく、過去の先例を上げて、探題経験は必要条件ではないと主張していた。また、興福寺においても竪義論義の論義に参加する「講師」の方が重要視されており、前回永禄7年(1564年)の維摩会において講師を務めた兼深は学侶側の主張に反発していた。6月4日には学侶たちの意向を受けた尋憲が上洛した。 ところが、6月6日になって石山本願寺を攻撃中(天王寺の戦いを参照)であった織田信長が京都に帰洛した。それを知った尋憲は信長に自分達の主張を伝えるために、信長が前年の絹衣相論の混乱をきっかけに朝廷の訴訟を管掌するために任じた四人衆と呼ばれる奉行役の公卿4名(勧修寺晴右・甘露寺経元・庭田重保・中山孝親)に書状を提出した。しかし、7日に正親町天皇の異母妹で兼深の姪にあたる聖秀女王が信長に直接会って兼深への支持を願ったことから事態が急転する。信長はその日のうちに四人衆に会って事情を確認し、更に翌8日には学侶側の人物(恐らくは尋尊)とも面会した。そして、8日のうちに信長は二条晴良に書状を送った。その中で信長は双方の主張に食い違いがあることを理解した上で、「近代の慣例になっている寺法に従って、氏長者であるあなた(晴良)が決定すべき」と述べた上で、「もし(正親町)天皇の叡慮を掠め取り、間違った方向に向かいそうになったならば、あなたが諫言すべきである」と述べた。これは、寺法に基づいて晴良が尋円を任じることを支持する意見表明であった(ただし、直接尋円の名前を挙げたわけではないことに注意を要する)。晴良はこれに従って尋円を別当に任じる奉書を発給し、それは信長の書状の写しと共に10日に興福寺へ届けられた[6]。信長は8日のうちに安土城に帰城した。 ところが、12日になって四人衆が安土城を訪れた。その後の経緯を考えると、正親町天皇の意向は兼深であることを伝えたと考えられている。これを裏付けるものとして、差出人不明ながらも、信長から瓜を贈られた謝礼と共に兼深から先例を提示されて兼深の任命に同意して四人衆を安土城に送ったことを謝罪して、処分を受けた四人衆(後述)に対する早期の赦免を取り成す内容が記された書状[9]が残されている。信長はこの年の6月29日に儲君の誠仁親王宛てに瓜を贈っていることから、差出人は誠仁親王で、父である天皇の代わりに謝罪する意味合いがあったと考えられている。なお、金子拓は現存する史料から兼深は南北朝時代末期に複数の先例を見出したことが判明しており、兼深は信長が晴良に充てた書状の内容を確認した後も信長の言う「近代の慣例」にはその頃の例を含んでいると解釈して晴良が天皇の叡慮を掠め取っていると主張し、正親町天皇や四人衆も書状の内容が暗に尋円を支持しているとは受け止めなかったのではないかとしている。そもそも、兼深が相論の1年前から天皇に対して直接別当への任命を働きかけ、天皇が藤氏長者(晴良)に相談のないまま、将来の別当就任を兼深に約束する叡慮が示されていた事情を信長がどこまで把握していたかは不明である。 驚いた信長は万見仙千代と堀秀政を興福寺に派遣して寺務を取り扱う五師と呼ばれる5名の僧侶に事情聴取を行った。21日付で五師から提出された3か条からなる書状には「門跡である大乗院と一乗院の門主は、一度維摩会の講師を務めれば法会中でも別当に任じられる」「門跡以外の良家と呼ばれる院家は一度講師を務めた上に、もう一度維摩会を務めれば別当就任の資格を得られる」「近年の別当はいずれかの条件を満たしているが、東北院(兼深)は前回の維摩会で講師を務めているが、その後今日まで維摩会そのものが開かれていないので資格を得ることが出来ていない」と記されており、兼深は別当就任の資格を満たしていないとしていた。これを受け取った信長は23日に滝川一益と丹羽長秀を上洛させ、翌24日にこの書状を示して尋円を別当に任命するように上奏し、相論自体は結論が出されることになった。 しかし、信長は天皇の意向で本来あるべき決定がひっくり返され、自分が危惧していた「天皇の決定が掠め取られる」事態が発生したことに激怒して、それを止めなかった四人衆に蟄居と所領没収を命じ、それぞれの嫡男(勧修寺晴豊・庭田重通・中山親綱、甘露寺家は当時後継者不在)も連座した。また、兼深の居所である東北院は筒井順慶に封鎖されて兼深は興福寺からの退去を余儀なくされた。その後、8月に四人衆の所領没収は取り消され、11月には蟄居を免ぜられている。ただし、処分者に関して甘露寺経元は処分を免じられている説(『公卿補任』異本)や広橋兼勝(広橋家当主・日野輝資の兄)が処分されたとする説(『東大寺大仏殿尺寸并私日記』)もある。信長は6月29に誠仁親王に瓜を進上するにあたって、烏丸光康・飛鳥井雅教両大納言に充てた書状には自分の意向が天皇に伝わらずに禁裏(天皇)の御外聞を失わせたことで信長も面目を失ったと、無念の思いを記している。前述の親王の瓜の御礼と共に出された謝罪の書状の背景はこうした信長の心情を前提にしたものと考えられる。 兼深は翌天正5年(1577年)9月に興福寺に戻ることが許されている。その年の12月に13年ぶりに開かれた維摩会で兼深が探題を務め、一方講師を務めた尋憲は師匠である尋円の譲りを受けて209代別当に任じられた。しかし、天正13年(1585年)11月20日に尋憲が急逝すると、兼深は再び別当に立候補する。当時の藤氏長者である近衛信輔やその弟である一乗院尊勢への働きかけが功を奏したことや兼深が探題を務めたことで異論を挟む余地がなくなったこともあり、同年12月2日に兼深が210代別当に任じられた。 この事件における信長の姿勢について、信長が朝廷の訴訟に介入して、公家の処罰を行っていることから、信長が朝廷全般に介入してその権限を犯していく過程と捉える見方が強い[17][18][19][20]。しかし、朝廷側の不手際によって信長が介入せざるを得なかったとする見方もある。また、本件で重要なことは信長はあくまでも伝統に則った正しい手続で人選と任命が行われることを一貫して求めており、最終的にそれに則した形で解決をみていることである。 ^ いずれも(興福寺)『五師職方日記』天正四年条に所引。 ^ 『興福寺文書』 ^ 奥野高広「織田政権の基本路線」『国史学』100号、1976年 ^ 藤木久志「織田信長の政治的地位について」永原慶二 他編『戦国時代』吉川弘文館、1978年、P135. ^

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ラブ&ピース (映画) – Wikipedia

『ラブ&ピース』(ラブアンドピース)は、2015年6月27日公開の映画。 監督の園子温が無名時代に書いた脚本を、25年の時を経てほぼそのまま映画化した作品である[2]。 あらすじ[編集] 楽器の部品会社で働くサラリーマン・鈴木良一は、以前はロックミュージシャンを目指していたが挫折し、それ以来うだつのあがらない日々を過ごしていた。同僚の寺島裕子に想いを寄せているが、小心者すぎてまともに話すこともできない。 ある日、良一はデパートの屋上で1匹のミドリガメと目が合い、運命を感じる。そのカメとの出会いが転機となり、良一は再びロックスターへの道を駆け上がっていく。 やがて、謎の老人と言葉を得たおもちゃたちの住む、不思議な地下の世界まで巻き込み、登場人物たちそれぞれの想いは、怒濤の展開を見せていく[3]。 クライマックスで巨大化したカメが新宿を破壊する特撮シーンを、見どころの1つとしている[2]。 園曰く「CGはほとんど使わず、海外に日本の特撮文化を見せたかった」ということもあり、特技監督の田口清隆を中心に、一流の特撮スタッフが集められて製作された[3][2]。田口は「しょぼい特撮にしたくない」という園の意向を受け、ミニチュアセットと実景を組み合わせて一見しただけでは本物かミニチュアか区別のつかないリアルな映像とすることを心がけており[5]、当初は新宿ゴールデン街を壊すことを提案していたが、園に「あそこは復興されない」という考えから反対されたため、代わりに東京都庁舎を破壊することとなった[2]。 キャスト[編集] 声の出演[編集] スタッフ[編集] 監督・脚本:園子温 特技監督:田口清隆 製作:重村博文、長澤修一、山本英俊、宮本直人 プロデューサー :森山敦、豊島雅郎、鎌形英一、柳村努 制作プロデューサー:鈴木剛司 撮影:木村信也 美術デザイナー :清水剛

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航空 – Wikipedia

航空(こうくう)とは、何らかの装置を用いて飛行することである[1]。 航空という言葉はフランス語を語源とする “aviation” に対応した日本語であり、aviation は鳥を意味する “avis” と接尾辞の “-ation” を組み合わせた言葉である[1][2][3]。 航空機[編集] 飛行に用いる装置を航空機と言い、空気より軽い「軽航空機」と空気より重い「重航空機」に分類され[4]、航空という言葉は一般に重航空機の飛行に関して用いられる[2]。軽航空機には気球や飛行船が含まれ、重航空機には固定翼や回転翼を備えた飛行機、グライダー、ヘリコプターなどが含まれる[5]。 民間・軍事[編集] 航空はその目的により、「民間航空」と「軍事航空」に分けることができる[1]。民間航空は軍事航空以外の全ての航空活動を指し、航空輸送や航空機を用いた調査・測量、航空スポーツなどが含まれる[6]。警察や消防、海上保安庁などの公的な航空活動は民間航空に含むが、政府が直轄する救難・監視目的の活動は含まれない場合がある[6][1]。 航空産業[編集] 航空に関する産業「航空産業」には、航空機の設計・生産・販売・メンテナンスに携わる「航空機産業」、人や貨物等を輸送する「航空運送」、そして航空機を用いて運送以外の薬剤散布、写真撮影、広告宣伝などを行う「産業航空」が含まれる[7][8][9]。航空をシステムとして見ると、航空機の製造者、航空機の運用者(航空会社など)だけでなく、政府や国際機関、大学・研究機関、金融機関などが密接かつ複雑に関係している[10]。 学問[編集] 航空に関する学問分野には、航空のための技術および科学のあらゆる研究分野を含めた広い学問として「航空学」があり、飛行する航空機の各部に働く空気力やその運動を扱う「航空力学」や、航空機の設計、試験、製造および運用を扱う「航空工学」などがある[11][12][13][14]。 その他[編集] 航空の歴史を航空史と言い、航空が関連する事故を航空事故と言う。 航空の歴史を「航空史」と言う。

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奥田亀造 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月) 奥田 亀造 おくだ かめぞう 角輪紋羽織大正7年頃撮影 生年月日 1872年4月15日 出生地 鳥取県岩井郡大谷村現・岩美郡岩美町大字大谷 没年月日 1944年3月24日 所属政党 政友会 称号 勲四等瑞宝章 岩美町名誉町民 選挙区 鳥取県 当選回数 衆議院1回貴族院1回

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