Month: December 2018

諸星俊男 – Wikipedia

このページは他の記事から全くリンクされておらず、孤立しています。関係あるページをこのページにリンクしてください。(2017年12月) この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “諸星俊男” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年4月) 諸星 俊男(もろほし としお、1953年8月24日 – )は、日本の実業家。兵庫県出身。1976年に東京大学工学部物理工 学科卒業を卒業し、富士通(株)に入社。外資企業の社長を歴任した後、2015年に安川情報システム(株)の代表取締役社長に就任。現在は日本ペイントホールディングス(株)、ウィングアーク1st(株)、(株)ティーガイアの独立社外取締役 1976年4月 – 富士通(株) 入社

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花咲く乙女と恋の魔導書 – Wikipedia

『花咲く乙女と恋の魔導書』(はなさくおとめとこいのグリモア)は、2011年にでぼの巣製作所より発売されたパソコン用恋愛アドベンチャーゲーム。後編『花散る都と竜の巫女』は2012年4月27日発売。 本項では、『花散る都と竜の巫女』についても解説する。 『空を仰ぎて雲たかく』『時を奏でる円舞曲』に続く竜少女シリーズの第三作目である本作は、二人の竜少女がギルドを設営し、様々な依頼をこなしていくシミュレーションRPGである[1]。 「女の子の本当の気持ち」をテーマにした本作のシナリオライターはミシマという女性が務め、女性の視点から少女の恋心や性行為に臨むときの心境が描かれている[1]。 なお、ライム役の榊原ゆいが所属する芸能事務所「ラブトラックス」のマスコットキャラクター・ラブトラちゃんがゲスト出演している。 ストーリー[編集] 花咲く乙女と恋の魔導書[編集] 竜の少女ライムとシーナは、ギルドを創設してほしいという依頼を受け、故郷から離れたところにある村・エリールへと向かっていた。 道中、二人は、アインという少年をモンスターから助け出す。 アインはモンスターの魔法によって少年の姿にされたことを話し、ライムとシーナの頼みを聞いてくれることになった。 花散る都と竜の巫女[編集] ある日、シーナたちは合成が失敗して魔力の暴走に巻き込まれ、はるか東方の国へと飛ばされる。 見慣れぬ風景の戸惑う三人を見つけた住民は、姉妹が竜の力を持つことを知ると、城主のもとへと案内した。 城主と謁見した三人は、城主から「さらわれた娘・くくり姫を救い出してほしい」という依頼を受けた。 無事くくり姫を救出した三人は、元の世界へ帰る道を模索しつつ、町のためにもギルドを設立することにした。 登場人物[編集] 花咲く乙女と恋の魔導書[編集] ライム 声:榊原ゆい 本作の主人公の一人。

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ジェイスモ – Wikipedia

ジェイスモでない地域(赤)ジェイスモの傾向が見られる地域(紫)ジェイスモである地域(青) スペインにおけるジェイスモの状況:ジェイスモでない地域(赤)ジェイスモの傾向が見られる地域(紫)ジェイスモの地域(青) イタリア国内における“gli-”の発音分布図 ジェイスモ(西: yeísmo [ɟ͡ʝeˈiz.mo][1]、Y-ismの意)とは、スペイン語の音素 ll /ʎ/(リャ行に近い)を、y と同じように有声硬口蓋摩擦音 [ʝ](ヤ行に近い)や有声硬口蓋破擦音 [ɟ͜ʝ](ジャ行に近い)などで発音する、スペイン語圏で広く見られる現象のこと。そのような発音をする人を、ジェイスタ (yeísta) という。文献によっては、イェイスモと表記されることもある。 また、アルゼンチンやウルグアイで話されるリオプラテンセ・スペイン語では、これを有声後部歯茎摩擦音[ʒ]で発音するため、(カタカナ上は表記が一緒だが)ジェイスモ(西: zheísmo)と呼ばれる。特に、ブエノスアイレス周辺では、これが無声音化して無声後部歯茎摩擦音[ʃ]になるため、シェイスモ(西: sheísmo)とも呼ばれる。 スペイン、中南米の多くの方言で見られ、硬口蓋側面接近音 [ʎ](リャ行に近い)で発音するのが標準語とされていたスペインでも今ではジェイスモの発音が多くの地域で用いられている。 一方、スペインのカスティーリャ・イ・レオン、カスティーリャ・ラ・マンチャ、ムルシア、エストレマドゥーラの一部や、スペイン語以外の言語が存在するカタルーニャ、バレンシア、アストゥリアス、ガリシア、ナバラ、バスク、南米のボリビアとパラグアイの全域、ペルーのアンデス山脈、エクアドルとアルゼンチンの一部、コロンビアの高地では現在も [ʎ]

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松原右樹 – Wikipedia

松原右樹(まつばら まれき、1943年〈昭和18年〉[1] – 2011年〈平成23年〉4月27日[2])は日本の民俗学者。産経新聞記者から大阪府立泉陽高等学校の教諭となり、和歌山県を代表する在野の学者となった[3]。 目次 1 略歴・人物 2 著書 2.1 共著 3 脚注 4 関連項目 略歴・人物[編集] 1943年(昭和18年)、和歌山県和歌山市に生まれる。國學院大學文学部卒業。産経新聞記者を経て、大阪府立泉陽高等学校[2]や大阪府立伯太高等学校などの教諭に[4]。 公私の時間を惜しまず「国語教育に、民俗学研究に、人権意識の高揚に、粉骨砕身される」生き方で[3]、日本民俗学会会員として和歌山県の熊野古道での現地講演を含め年200回の講演を行っていた。 熊野愛にあふれる松原は、熊野について「熊野は平安時代中期に『延喜式』で規定された死穢・産穢・血穢の三不浄(触穢)を全く意に介さなかった」という視点から語っており、死後に遺稿の「熊野のケガレ」「本宮に降臨する三枚の月」「ゴトビキ岩の秘儀―新宮」「那智ノ滝の妖しい魅力」「熊野三山・神々の原像」の5原稿が、関係者の手で『松原右樹遺稿 熊野の神々の風景』として発刊された[5]。 そのほか松原は生前、大阪府高等学校国語研究会の副理事長[6]や和歌山大学、NHK文化センターなどの非常勤講師も務めた。

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国立教育政策研究所 – Wikipedia

国立教育政策研究所(こくりつきょういくせいさくけんきゅうじょ、英語:National Institute for Educational Policy Research)は、教育政策に係わる調査研究を行うために日本の文部科学省に置かれている研究所である。 国立教育政策研究所は、文部科学大臣の所轄の下に、文部科学省の本省に置かれている施設等機関である(文部科学省組織令第89条)。国立教育政策研究所は、教育に関する政策に係る基礎的な事項の調査および研究に関する事務をつかさどっている(文部科学省組織令第90条第1項)。国立教育政策研究所は、文部科学省に必要な調査研究を行うとともに、学校教員をはじめとする教育施設職員向けの研修なども行っている。 国立教育政策研究所は、2001年(平成13年)1月に改組再編される前の国立教育研究所(こくりつ きょういく けんきゅうじょ)の後身の組織である。国立教育政策研究所の大半の組織は、東京都目黒区下目黒に置かれ、そのほかに一部の組織が、東京都千代田区丸の内と東京都台東区上野公園地区に置かれていた。 2008年(平成20年)1月に、文部科学省の新庁舎完成に伴い、目黒区下目黒、千代田区丸の内にあった組織が文部科学省本省と同一庁舎の千代田区霞ヶ関に移転し、東京都台東区上野公園地区はそのまま存在している。 国立教育政策研究所には、評議員会が置かれ(文部科学省組織令第90条第2項)、16人が選任されている[2]。評議員会は、国立教育政策研究所の事業計画、経費の見積り、人事その他の運営および管理に関する重要事項について、国立教育政策研究所の長に助言する(文部科学省組織令第90条第3項)。 会議体 部 総務部 総務課 会計課 総務係 経理係 管理係

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七人ミサキ – Wikipedia

七人ミサキ(しちにんミサキ)または七人みさき(しちにんみさき)は、高知県を初めとする四国地方や中国地方に伝わる集団亡霊[1]。 災害や事故、特に海で溺死した人間の死霊[1][2]。その名の通り常に7人組で、主に海や川などの水辺に現れるとされる[1]。 七人ミサキに遭った人間は高熱に見舞われ、死んでしまう[1]。1人を取り殺すと七人ミサキの内の霊の1人が成仏し、替わって取り殺された者が七人ミサキの内の1人となる。そのために七人ミサキの人数は常に7人組で、増減することはないという[1][2][3]。 この霊の主は様々な伝承を伴っているが、中でもよく知られるものが、『老圃奇談』『神威怪異奇談』などの古書にある土佐国(現・高知県)の戦国武将・吉良親実の怨霊譚である。安土桃山時代、吉良親実は伯父の長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の死後、その後嗣として長宗我部盛親を推す元親に反対したため、切腹を命ぜられた。そのときに家臣たち7人も殉死したが、それ以来彼らの墓地に様々な怪異があり、親実らの怨霊が七人ミサキとなったと恐れられた。それを耳にした元親は供養をしたが効果はなく、怨霊を鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分字増井)の墓に木塚明神を祀った。これが現存する吉良神社である。また『土陽陰見奇談』『神威怪異奇談』によれば、親実と共に元親に反対した比江山親興も切腹させられ、妻子たち6人も死罪となり、この計7人の霊も比江村七人ミサキ[4]となったという[5]。 また広島県三原市には経塚または狂塚と呼ばれる塚があったが、かつて凶暴な7人の山伏がおり、彼らに苦しめられていた人々が協力して山伏たちを殺したところ、その怨霊が七人ミサキとなったことから、その祟りを鎮めるためにこの塚が作られたのだという[6]。 ほかにも土地によってはこの霊は、猪の落とし穴に落ちて死んだ平家の落人、海に捨てられた7人の女遍路、天正16年(1588年)に長宗我部元親の家督相続問題から命を落とした武士たち、永禄時代に斬殺された伊予宇都宮氏の隠密たちなど、様々にいわれる[1]。 山口県徳山市(現・周南市)では、僧侶の姿の七人ミサキが鐘を鳴らしながら早足で道を歩き、女子供をさらうという。そのために日が暮れた後は女子供は外出しないよう戒められていたが、どうしても外出しなければならないときには、手の親指を拳の中に隠して行くと七人ミサキの難から逃れられたという[6]。 渋谷七人ミサキ[編集] 渋谷七人ミサキ(しぶやしちにんミサキ)は、1990年代後半に語られていた都市伝説。 渋谷のあちこちの坂で女子高生7人が、立て続けに死に至ったとされるもの。これは援助交際を行なっていた彼女らが妊娠した子供を中絶した後、その子供たちの怨念が七人ミサキとなり(または子供たちの怨念が伝承上の七人ミサキを甦らせ)、母親である女子高生たちに復讐したといわれている[7][8]。 関連項目[編集] この記事は以下のカテゴリでも参照できます

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谷永 – Wikipedia

谷 永(こく えい、? – 紀元前8年)は、前漢後期の人物。字は子雲。長安の人。元の名は並であったが、永始3年(紀元前14年)に樊並という人物が反乱した時に谷永と改名した。 父の谷吉は匈奴の郅支単于への使者となった際に殺された。谷永は長安の小吏となり、経書を広く学んだ。建昭年間、御史大夫繁延寿が彼の評判を聞いて属官とし、その後太常丞に推挙され、しばしば上書して政治上の問題を説いた。 建始3年(紀元前30年)、日食と地震が同日にあったため、成帝が直言極諫の士を推挙させた際に挙げられ、その時の上奏が成帝に目をかけられた。 その年、方正に諮問した際、谷永は日食や地震は皇后が寵愛をもっぱらにしていることを指摘した。当時、大将軍王鳳が権力を握っており、災異の原因として王鳳を指弾する者が多かったが、谷永は王鳳に取り入ろうとし、微賎な者や経産婦などを避けずに後宮に入れて子孫繁栄に努力すべきであると説いた。この時の回答は谷永と杜欽が優秀とされ、それらの書を後宮に示し、成帝は谷永の言葉を選んで許皇后への叱責の文にちりばめた。 谷永は光禄大夫に抜擢され、王鳳に対し謝辞を返した。数カ年後、安定太守に遷った。王鳳の弟のうち、王譚が王鳳の後継者と目され、谷永と懇意であった。しかし陽朔3年(紀元前22年)、王鳳は死亡する際に従弟の王音を後継者に指名し、王音が大司馬車騎将軍となり、王譚は城門の兵を指揮することとなった。谷永は王譚に城門の兵を受けないことを勧め、王譚はそれに従った。そのため、王音と王譚の仲が険悪になった。 谷永は王音に脅かされる事を怖れて病気を理由に職を退いたが、王音は彼を営軍司馬、次いで長史とし、その後護苑使者とした。 王音が死亡して成都侯王商が衛将軍となった後、谷永は成帝に対しお忍びや後宮の綱紀粛正、側近の排除を進言して成帝の怒りを買った。成帝は侍御史に逮捕させようとしたが捕まらず、のちに成帝の怒りが解けて太中大夫に任命し、光禄大夫・給事中に遷した。 谷永は元延元年(紀元前12年)に北地太守となった。一年余りして王商が死亡して王根が驃騎将軍になると、谷永を推薦したので、元延4年(紀元前9年)に谷永は大司農になった。しかし翌綏和元年(紀元前8年)、谷永は病気になり、役人が上奏して彼を罷免した。その後、数カ月して家で死亡した。 谷永は経書に広く浅く通じており、天文や『易経』の京房の学説が最も得意であり、災異を述べることが多かった。上奏は40回以上に及び、もっぱら皇帝本人と後宮を指弾した。成帝は、彼が王氏に与していることを知っていたので、それほど信頼されなかった。 参考文献[編集] 班固著『漢書』巻19下百官公卿表下、巻85谷永伝

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ツール・ド・フランス2017 – Wikipedia

本記事に加筆をする際は出典を忘れないでください。出典の提示時には記事名のほか配信元・配信日もお願いします。 ツール・ド・フランス 2017 (仏: Tour de France 2017) は、ツール・ド・フランスの104回目のレース。ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州のデュッセルドルフからスタートし、パリにゴールするコースで2017年7月1日から7月23日まで行なわれた。 当初はイギリス・ロンドンでスタート予定であった。しかし大会の運営には3500万ポンド必要であったことから開催を辞退。15年12月、ASOはデュッセルドルフをスタート地点にすると発表し、第1ステージは同市内のデュッセルドルフメッセを発着点とする13kmの個人タイムトライアルを実施する。ドイツでグランデパールを迎えるのは30年ぶり4回目[1]であり、東西ドイツ統一後は初めて。 選手の出場動向[編集] 総合優勝争い[編集] 優勝候補の筆頭である昨年大会王者のクリス・フルーム(チームスカイ)は3連覇を狙い出場[2]。しかし、ここまで未勝利だということと、コースレイアウトがフルーム向きでないということで、3連覇は難しいのでは、との見方も示されていた。 対抗馬は今年のジロ・デ・イタリアを総合2位で終えた昨年大会総合3位のナイロ・キンタナ(モビスター)や、昨年大会総合2位と大躍進を遂げたフランス期待のクライマー、ロマン・バルデ(AG2R・ラ・モンディアル)、2007,2009年覇者のアルベルト・コンタドール(トレック・セガフレード)など。しかしキンタナは激戦となったジロでの疲労から抜け出せているかが不安要素となる。 昨年大会で総合4位と新人賞を獲得したアダム・イェーツ(オリカ・スコット)は欠場[3]。代わって兄のサイモン・イェーツ(オリカ・スコット)が新人賞と総合成績を狙う。 ポイント賞争い[編集] 山岳賞争い[編集] 新人賞争い[編集] その他[編集] 2004年と2011年にそれぞれマイヨ・ジョーヌ10日間着用、2011年はさらに総合4位と表彰台まであと一歩の健闘を見せていた大ベテラン、フランスの英雄トマ・ヴォクレール(ディレクトエネルジー)が今ツールでの引退を発表。

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阿武咲奎也 – Wikipedia

阿武咲 奎也(おうのしょう ふみや、1996年7月4日 – )は、青森県北津軽郡中泊町出身で、阿武松部屋所属の現役大相撲力士。本名は打越 奎也(うてつ ふみや)。身長176cm、体重163kg、血液型はO型。最高位は西小結(2017年11月場所、2018年1月場所)。四股名「阿武咲」には地元の恩師の「土俵上で花が咲くように」との願いが込められている[2]。 祖父の勧めで5歳から相撲を始め、地元の中里道場に通って力をつけた[3]。宝富士は中里道場の10学年先輩で、打越の憧れ[4]。NHK大相撲中継の新十両インタビューでは「力士がカッコいいと思いました」と当時から大相撲に憧れていたことを話している[5]。中里小学校6年次に全日本小学生相撲優勝大会で優勝。中泊町立中里中学校進学後は2年次と3年次に全国都道府県中学生相撲選手権大会の無差別級で、大会史上初の2連覇を達成[6][7]。雪国の生まれとあってウインタースポーツが得意。スキー、スノーボードもかなりの腕前で「昔から体重の割に動きが速く、バネがあるのはそのおかげ」だという[2]。舞の海の話によると、子供の頃はやんちゃであったという[8]。アマチュア時代は厳格な父から1週間で5kg増量することを命じられたり、腕立て伏せと縄跳びを1日に1000回やらされたりしたが、父が若かったので父と競いながら稽古をしていた[9]。 中学卒業後は三本木農業高校に進学。1年生ながら全国高校相撲宇佐大会と国体相撲少年の部で優勝し、団体戦でも選抜高校相撲十和田大会優勝に貢献するなど、実力を遺憾なく発揮して自信を深めたため、卒業を待たずに角界入りすることを決意。高校を11月に退学して、小学生の頃から道場時代の監督と部屋所属だった元十両・古市が大学の同期という縁で稽古の交流があった[10]阿武松部屋(関脇・益荒雄)に入門し、2013年1月場所で初土俵を踏んだ[11][12]。打越は入門に関して「あえて厳しい部屋を選びました。力士でいられるのは長くても20年。その時間を濃いものにしたいんです」と後に週刊誌で語っている[13]。 2014年11月場所では東幕下3枚目で5勝2敗の成績を収め、場所後の番付編成会議にて2015年1月場所での新十両に昇進することが決定された[14]。18歳5ヶ月20日(番付発表時)は昭和以降で10番目に若いスピード出世。昇進会見では「これからも感謝の気持ちと謙虚さを忘れずに」と「感謝」と「謙虚」の言葉を8度も用いる様子を見せ、師匠の阿武松は「身長は低く体は小さいが、全身にバネがある。スピードと瞬発力で、相手を根こそぎ持って行くような相撲を取ってほしい」と願い「相撲界で一番稽古する力士になってもらいたい」と期待していた[15]。 関取昇進後は2場所目の2015年3月場所で入門以来初の負け越しを経験した。同年11月場所では11日目から自身初の休場となったが、13日目から再出場した[16]。この年は3場所勝ち越して1年間十両の地位に定着した。しかし怪我の影響もあり2016年5月場所では幕下への陥落を経験。陥落直前には春巡業館林場所で朝稽古の最後に稀勢の里(当時は大関)とぶつかり稽古を行っている様子が伝えられた[17]。巡業で稽古を積んだ甲斐があってか、5月場所は優勝決定戦で小柳に敗れはしたが7戦全勝で1場所での十両返り咲きを決めた。9月場所では千秋楽まで十両の優勝争いにからみ、11勝4敗の好成績で場所を終えた。続く11月場所は負け越したが、2017年1月場所は9勝6敗で勝ち越し、翌3月場所では千秋楽まで優勝争いに絡んで西十両2枚目で9勝6敗の成績を残し、5月場所で無事新入幕を果たした。 その稽古の甲斐もあり、新入幕で迎えた2017年5月場所は初日こそ黒星だったものの、2日目からの5連勝もあり12日目に勝ち越しが決定。千秋楽は入門前からのライバルで、中学・高校と全国大会で競い合ってきた貴景勝に敗れた。それでも最終的には10勝5敗の二桁勝利で、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した[18]。(因みに、この場所の三賞受賞者は阿武咲を含めて4人いるが、他の3人も全員千秋楽は敗れるという珍事になった[19]。)初三賞の感想を「全然考えてなかったです。ありがたいですし、うれしいですね」と述べ、記者から「今場所を振り返って」「新入幕で、初めてのことも多かったと思います」と聞かれると、「いいところも悪いところも全部出たんじゃないですかね。課題も見つかりましたが、自信になった部分もありますよ」「皆様の応援のおかげですし、何より1番1番楽しめたと思います」とそれぞれコメントした[20]。6月17日は出稽古にやってきた稀勢の里と27番取って5勝した[21][22]。その中には、電車道で持っていく相撲もあった[23]。 次の7月場所は運良く前場所より7枚半上昇で西前頭6枚目の地位を与えられた。その7月場所は13日目に4敗目を喫して脱落するまで優勝争いに加わり、最終的に10勝5敗の好成績[24]。受賞は逃したが、敢闘賞と技能賞の候補に入っていた[25]。新入幕から2場所連続2桁勝利は年6場所制下では4人目となる記録[26]。8月16日の夏巡業津軽りんご市場場所では、いつも胸を出してもらっている高安に三番稽古で7戦全勝するなど絶好調であった[27]。「よかったと思う。足がよく動いた。地元の声援がうれしかった」と阿武咲は感想を述べている[28]。 続く9月場所は上位総当りの東前頭3枚目の番付となった。横綱・大関に休場者が多かったため実際に対戦したのは1横綱2大関だけであったが、横綱・日馬富士からの初金星獲得と大関・照ノ富士からの白星があり、5日目終了時点では幕内の優勝争いの単独首位となっていた[29]。特に日馬富士戦で金星を獲得した際には、空中を前方一回転させる叩き込みを決めている[30][31]。後半戦では3連敗もあって優勝争いから脱落したが、最終的に10勝5敗とし、15日制が定着した1949年夏場所以降では達成者がいなかった[32]、新入幕から3場所連続の二桁白星という快挙を達成し、2度目の敢闘賞も獲得した。千秋楽の支度部屋では「二桁勝つことができて本当にうれしい。師匠から教わった押し相撲が取れた」と話す一方、「まだ一発で持っていく馬力がないという課題が分かった。自分の相撲を磨いて、次の九州場所に備える」と先を見ていた[33]。この好成績により、11月場所では新小結(西小結)に昇進した。21歳3ヶ月での新三役昇進は、平成以降初土俵の力士としては6番目の年少記録である[34]。11月場所は初日の日馬富士戦に勝利して幸先の良いスタート切ったが、その後の上位戦は立ち合いから攻め込みながらも足が流れて負ける取組が多く、2日目から6連敗となった。11日目の栃煌山戦にも敗れて勝ち越しに後が無くなったが、そこから連勝。14日目には2敗で白鵬を追っていた北勝富士に土を付け、千秋楽では同郷の先輩にあたる宝富士を電車道で押し出し、新三役の場所を勝ち越して終えた。2018年1月場所は9日目まで4勝5敗と振るわなかったばかりか、9日目の逸ノ城戦で右膝を痛め、都内で診察を受け「右膝後十字靱帯損傷で1月場所の休場を要する」との22日付の診断書を提出して10日目から休場[35]。幕内での休場は自身初。新入幕から5場所目で初めて負け越したのは年6場所制定着以降阿武咲が9人目であり、休場によるケースは1985年5月場所の北尾以来2例目[36]。場所後の2月3日、芝公園の増上寺で行われた節分追儺式は直前の場所を休場した関係上一度は不参加を伝えたが、場所後に参加を決め、実際に勢と仲良く豆を撒いた[37]。 3月場所は怪我が回復しないため全休。場所後の春巡業は初日からの休場が発表された[38]。5月場所は十両へ陥落して、西十両筆頭の番付で土俵へ復帰した。この場所は12勝3敗と格の違いを見せて、自身初めての各段優勝となる、十両優勝を果たした。7月場所は西前頭11枚目と2度目の入幕を果たし、ここでも10勝5敗と自身4度目の幕内2桁白星。9月2日の阿武松部屋へ出稽古へやって来た稀勢の里と13番取って3勝。最初の一番からエンジン全開だった。稀勢の里は阿武咲の激しい突き押し、強烈なのど輪を何発も受けながらも、まわしにこだわらず突き押しで対抗。その後も、まるで血気盛んな若手同士が行うほどの激しい相撲が続き、稀勢の里は鼻血を出しながら途中「あークソ」と叫ぶなど感情もむき出しにした[39]。 2020年3月場所は西前頭5枚目の地位で9勝6敗の勝ち越し。10日目に横綱の白鵬を破って優勝争いを混戦に持ち込んだことが評価され、殊勲賞を獲得[40]。 2020年5月30日付で、年寄名跡の音羽山を取得した[要出典]。 12月18日から23日かけて6日間、相撲教習所で行われた合同稽古を皆勤した。皆勤は関取では他に霧馬山のみ[41]。 2021年1月場所は、11日目に1敗の単独首位であった大栄翔に土を付ける活躍を見せた[42]。この場所を10勝5敗で終え、千秋楽に白星を挙げたら受賞という条件付きで敢闘賞候補に挙がった[43]敢闘賞候補に挙がっていたことに関しては「特に意識していない」と話し、千秋楽に敗れた際は「先に手を伸ばされた。しっかり前に出ようという意識だった。負けたので自分が弱いだけです」とコメント[44]。11月場所は東前頭2枚目まで番付を上げ、2018年初場所以来の三役返り咲きを目前にした。この場所に向け「感覚自体は今、ものすごくいいので、しっかり気持ちを高めて。あとは思い切ってやるだけかなと思います」と好調をアピールした[45]。 稽古場での阿武咲関(2015年1月4日撮影)

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