国鉄22000系客車(こくてつ22000けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院・鉄道省が1919年(大正8年)から1927年(昭和2年)にかけて製造した17m級木造二軸ボギー式客車の形式群である。 なお、この名称は鉄道省が定めた制式の系列呼称ではなく、1920年(大正9年)より製造された24400形(後のナハ22000形)と同様の寸法・構造の客車を総称する、趣味的・便宜的な呼称である。 また、本記事では一般的な長形台枠であるUF12を標準として使用するグループ以外に、明治45年式台枠と呼称される旧型台枠を流用したグループと、魚腹式台枠であるUF15を使用する改良型のナハ23800形を基幹形式とするグループを含めた、いわゆる大形2AB車[1]全般についてあわせて取り扱うこととする。 なお、明治44年(1911年)鉄道院車両称号規程による形式も、昭和3年(1928年)鉄道省車両称号規程による形式も、正確には5桁の数字のみであるが、便宜的に明治44年車両称号規程によるものは形式数字のみで、昭和3年車両称号規程によるものは形式数字に記号を付して表記することとする。 1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終結後、鉄道院は将来的な貨物需要減少と旅客需要増大の見通しの下、旅客輸送力増強のために制式客車の大型化を企画した。 そこでまず、1919年12月1日に鉄道院直営の大井工場で二等座席車であるホロ22000と三等座席車であるホハ25000の2両の試作車を製造、これらを試運転後に実際の運用に投入して評価試験を行うこととした。また、これに合わせて翌1920年に「大形客車車両限界」[2]を制定、実際の車両運用に必要となる法規上の条件整備が実施された。 当然ながら従来よりも拡幅された車体を備え快適性に勝るこれらの客車は、翌1920年9月より汽車製造本店・東京支店、日本車輌製造本店・東京支店、藤永田造船所、梅鉢鐵工場、川崎造船所兵庫工場といった省指定民間車両メーカー各社を総動員しての量産が開始された。さらに、関東大震災後には被災焼失車の補充もあって新たに新潟鐵工所および田中車輛の2社が製造に参加し、当初より優等車の一部については大井・大宮・鷹取・小倉の鉄道省直営4工場が製造を担当していたこともあって、結果として日本国内でこのクラスの大形客車製造が可能な工場を文字通り総動員する態勢が採られ、空前の大量生産[3]が実施された。 優等車については上位車種が20m級三軸ボギー式の「大形3AB車(28400系)」として製造されたため、展望車や一等寝台車などといった華やかな車種がグループ内に含まれなかった。これに対し、基幹車種である三等座席車は合計1,790両[4]が7年の間に量産されており、第二次世界大戦後の鋼体化改造実施まで国鉄の旅客輸送を支える基幹車種として重用された。 最大幅2,900mm、車体幅2,800mmの大断面を採用し、天井も最大高が拡大されて明かり取り窓のある二重屋根[5]を採用しつつ余裕のある天井高さが確保され、前世代の標準客車であった鉄道院基本形などと比較して格段に快適性が向上[6]している。当初は、ヤード・ポンド法により設計されていたが、1925年(大正14年)度製よりメートル法により設計されている。また、当初の窓構造は下降式であったが、1924年(大正13年)度製より上昇式に変更された。 また、通風器は、従来の水雷型通風器に代えてガーランド式通風器が採用されており、屋根の印象は従来とは大幅に異なったものとなった。 これに対し、座席配置や窓配置そのものは三等車の場合鉄道院基本形から変更されておらず、3枚の側窓に2組の固定クロスシートによるボックス席を組み合わせる、オハ31系まで継承されることになるレイアウトが採用されていた。 なお、本系列の車体断面は、第二次世界大戦後に10系客車において車体裾を絞ることで車体幅を2,900mmへ拡張する手法が導入されるまで長く国鉄客車の標準として踏襲され続けたが、当初は入線可能区間に制約があり、1921年3月19日にはこれらの大形客車の運行可能区間が改めて定められたほか、同年までに製造のグループでは取り付け位置に工夫をして雨樋が車体から更に飛び出して車両限界に抵触するのを回避する設計[7]となってもいた。 主要機器[編集] 台車は、大正6年度基本形と称する球山形鋼を側枠に使用する釣り合い梁式の二軸ボギー台車を装備する。軸距は2,438mm(6ft)で、1924年度までの製作車はこれを装備する。1925年度以降製の台車(TR11、TR12)は、メートル法により設計されており、軸距は2,450mmとなっているが、基本的な設計は同一である。なお、車軸は大正6年度基本形およびTR11が基本10t長軸、TR12が基本12t長軸である。 標準軌への改軌が前提条件とされたために採用された長軸であるが、これは後に華中鉄道への客車供出時に思わぬ形で役立つこととなった。 ブレーキは当初真空ブレーキとウェスティングハウス・エア・ブレーキ社製P三動弁による自動空気ブレーキを併設して竣工したが、1930年代初頭までに真空ブレーキは撤去され、Pブレーキについても後年、オハ31系量産中に開発されたA動作弁によるAVブレーキ装置に交換されている。 基本形式[編集] 二等寝台車[編集] 20600形(前期形) →
Continue reading
Recent Comments