Month: August 2019

篠栗四国八十八箇所 – Wikipedia

篠栗四国八十八箇所(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょ)とは、福岡県糟屋郡篠栗町にある、空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称である。篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれる。小豆島八十八箇所、知多四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもある。札所は、福岡市から東に12㎞に位置し、国道201号を挟む両側の山麓や谷の奥に点在する。1970年頃には年間50万人の遍路で賑わい、遍路宿が53あったが、その多くは農家が兼業で経営しており、農繁期は泊まることはできなかった[1]。 篠栗霊場の歴史は、慈忍という人物がこの地を訪れた1835年(天保6年)に始まる。慈忍は四国八十八箇所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧であった。四国八十八箇所の開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの村の者達の困窮を垣間見た慈忍は、その救済を目論みこの地にとどまり弘法大師の名において祈願を続け、やがて村に安寧をもたらしたものと伝わる。このことを弘法大師の利益(りやく)であるとした慈忍は、村の者達に四国のそれを模した88か所の霊場の造成を提案。呼応した村人達の手によって徐々に石仏が造られ始めたが、慈忍が没したので中断した。1854年(嘉永7年)に至って当時字田浦の住人藤井藤助翁多くの信者と相図り、篤志者等又私財を喜捨して遂に88か所に堂宇を建立し、石仏の本尊を安置して完成させた[2]。石仏は高さ50センチ程度、その下に台座があり、ここに寄進者の名が彫られている。これが各札所の最初の本尊である。 江戸時代には侍が来て本尊の石仏を川にたたき込んで破壊したという伝承があり、初期においては藩による弾圧もあったようである。参拝者が増加するに連れ、加持祈祷をこととする多数の僧侶が入り乱れ、無秩序となった。このため、村民は、僧侶の事は僧侶の監督に待たざる可からずとして遂に高野山より南蔵院を移転した。その堂宇を竣工したのは1899年(明治32年)5月である。その後同院住職として山縣玄浄僧正の法弟なる林覚運師が赴任して、専ら同院の発展、霊場の整理を行い、88か所の霊場の総坪数3,550坪を南蔵院飛地境内として内務省の認可を得て、霊場取締りの本山と定め、更に報徳会を組織して霊場を受持つ僧侶の統一を図った[3]。 篠栗町域の東方(旧篠栗町[4])の山麓地を主として随所に霊場がたたずんでいる。含まれる霊場は、割烹や土産物屋などが併設された大規模な寺院から、僧の姿もない小規模な観音堂、時に小規模でありながら複数の旅館に囲まれるもの、また市街の傍に位置するものから、山道の果てに埋もれているものまで、その在様については様々である。各箇場には納経所とされる場とともに固有の印が置かれており、持参の紙などへの押印によって来訪の物的記録を得ることが可能となっている。50を超える旅館が界隈に存在していた往時に比べれば衰退したともいえるが、2006年現在にあっても界隈を中心に30を超える旅館が存在している。本元の四国八十八箇所と比較すれば県内においてすら知名度は薄いといえるが、知る人々からは豊富な自然とともにある静かな巡礼道として親しまれている。1970年頃までは、菅笠をかぶり白衣を着てわらじを履き、木の金剛杖をついたお遍路さんの集団が「南無大師遍照金剛」と合唱しながらお参りし、札所の本堂に入ると一斉に般若心経を唱えるのは日常の風景であった。特に3月半ばから4月半ばまでが多かった。しかし、その後はミニバス等に乗って札所巡りすることが大半となってしまった。 巡礼者が札所の賽銭箱に奉納するものは、おふだ、一掴みのコメ[5]、1円玉(本堂だけは10円玉程度)。仏像の横などに、手足の悪い人は治癒を願って木の平板を手や足の形に切ったものを置き、子供が欲しい人は人形を上げて行った。しかし、1970年代以降はお金が中心となっている。 霊場一覧[編集] なお、札所の番号と巡拝の順序は一致しない。 第四十三番札所明石寺の梵鐘 第七十四番札所城戸薬師堂 第七十八番札所山手阿弥陀堂 第四十一番札所平原観音堂の波切不動明王坐像 番 名称 本尊 宗派 所在 1 南蔵院 釈迦如来 高野山真言宗

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ピンポン外交 – Wikipedia

ピンポン外交(ぴんぽんがいこう、乒乓外交)とは、1971年(昭和46年)に日本の愛知県名古屋市で行われた第31回世界卓球選手権に、中華人民共和国(中国)が6年ぶりに出場し、大会終了後に中国がアメリカ合衆国など欧米の卓球選手を自国に招待したことを嚆矢とする米中間を中心とした一連の外交をいう。これにより朝鮮戦争での交戦以来敵対してきた米中関係の緊張緩和が実現、同年7月にヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が極秘に訪中、1972年2月には、リチャード・ニクソン大統領の訪中につながった。また日中国交正常化にもつながった[1]。 ピンポン外交の舞台となった名古屋市には、2005年9月末、中国領事館が開設された[2]。 1970年代まで、中華人民共和国は中華民国と「中国を代表する国家」の正統性を争っていた。また1960年はじめからの中ソ対立によってソ連との友好関係も崩れつつあった。1971年の「ピンポン外交」を経て、72年にニクソン大統領の中国訪問が実現し、中華人民共和国は100を越える国々と国交を結んだ[3]。 2008年に胡錦濤国家主席が福原愛と早稲田大学で卓球をするなど[4]、卓球を通じた外交は現代でも行われている[5]。 1970年9月末、日中文化交流協会代表団の一員として周恩来に招待された荻村伊智朗は、ピンポン外交を提案した[6]。また1971年にはロイ・エバンズ国際卓球連盟会長も欧米の選手を中国に招くことを周恩来に提案した[7]。 1971年、中華人民共和国は同年3月28日から4月7日まで日本で開催される第31回世界卓球選手権への参加を表明。毛沢東が参加を承認し、1961年から1965年まで3大会連続で団体優勝し、1965年の第28回世界卓球選手権では個人団体7種目中、5種目で優勝した後、文化大革命以来2大会連続で不参加だった中華人民共和国の卓球チームが6年ぶりに世界の舞台に立った[8]。 これは当時の日本卓球協会会長、アジア卓球連盟会長、愛知工業大学学長だった後藤鉀二が地元名古屋での大会を世界一のものとするべく、親中国共産党で知られた西園寺公一日本中国文化交流協会常務理事らと協議し、中華人民共和国側が望む形での「二つの中国」の問題解決に必要な処置(中華民国をアジア卓球連盟から除名)を取ることを決断[9][10]、1971年1月下旬から2月にかけて[11]、後藤と森武日本卓球協会理事、村岡久平日中文化交流協会事務局長が[8]、直接中華人民共和国に渡り周恩来と交渉を行なった結果であった[10][12][13]。 こうした動きに対して親中華民国派の代議士・石井光次郎が会長を務める日本体育協会[14]や文部省からのクレーム[15]、右翼からの脅迫などの反応が見られた[10][16]。訪中した後藤は、アジア卓球連盟から台湾を排除するか、後藤がアジア卓球連盟会長を辞任すること、日本社会党が1958年に示した「日中の政治三原則」(「中華人民共和国を敵視する政策をとらない」、「『二つの中国』をつくる『陰謀』に加わらない」、「中日両国の国交正常化を妨害しない」)という草案を提示、中華人民共和国側の草案には「台湾(中華民国)は中国の一つの省に過ぎない」という内容や、中華民国総統の蔣介石の名前が入っていたことから交渉は難航、最終的に周恩来の指示により、中華人民共和国側が折れて2月1日に中華人民共和国が参加する「会談紀要(覚書)」の調印がなされた。後藤は2月7日にシンガポールで行なわれたアジア卓球連盟総会で「中国加入・台湾排除」(中華民国は、14年前にランガ・ラマヌジャン会長時代に加盟した)を提案したが、韓国やマレーシアなどの反対にあい、会長を辞任した[10][17]。 日本はアジア卓球連盟を脱退し、その後中華人民共和国などとともに、1972年5月にアジア卓球連合を創設した[18]。なお後藤はその4ヶ月前に心臓病で亡くなった[19]。 1971年4月[編集] 3月に中国チームは来日、愛知県体育館周辺には厳戒態勢がしかれ、中華人民共和国チームだけ他国とは別のホテルが割り当てられた。4月4日、会場の愛知県体育館へ向う際にアメリカ合衆国のグレン・コーワンがバスを乗り間違えて中華人民共和国選手団のバスに乗りこんだ[20][21]という逸話がある。当時中国選手にはアメリカの選手とだけは接触していけないという鉄の規律があり、外国人と接した場合にはスパイ扱いされる時代であったが、中国のエースである荘則棟はチームメートから反対された[22]にもかかわらず参加前に周恩来総理から「友好第一、試合第二」という言葉を受けたことを思い出し「アメリカの選手と中国の人民は友だちです」と言って握手をして[23]杭州製錦織[20](西湖の風景が描かれていた)[21]をお土産として贈ったという。この行為は2人のアスリートによる純粋で自発的なものだったが、中華人民共和国はこれを外交的なカードとして利用することになった。 会場に到着したバスは報道陣に囲まれ、この出来事は大きく取り上げられた[22]。アメリカ代表のハリソン副団長からアメリカチームを中国に招待してほしいという申し出があり、荘はそれを外交部に伝えた。中華人民共和国外交部は時期尚早と判断し、周恩来もそれに同調したが、毛沢東主席の鶴の一声により[22]、アメリカ卓球チームの中国への招待が実現した[20][24]。 1971年4月7日、世界卓球選手権は閉会。同年4月10日、1949年に中国共産党による中国大陸制圧後初めて米国人が中国を公式訪問[22]、その後パキスタンを通じた外交交渉の結果、ヘンリー・キッシンジャーが内密に中国を訪問するなどし[22][19]、1972年2月にはリチャード・ニクソンが中国を訪問した[21]際に人民大会堂で開かれたパーティーでは荘則棟が周恩来から大統領に紹介された[25]。ピンポン外交により中華人民共和国とアメリカが国交を結ぶまでに中華人民共和国と国交を持っていたのはわずか32カ国であったが、その後1年の間に100カ国以上が中華人民共和国と国交を結んだ[3]。 なおこの日、当時報道副委員長を務めていた長坂亘通は、元卓球アメリカ代表選手だった新聞記者から「今日は面白いことが起きるぞ」とささやかれていた[26]。 アメリカ人選手の反応[編集] ある選手は記者のインタビューに答えて、中国人はそれほどアメリカ人と変わらないと述べている。 彼らは本当に僕らと同じさ。現にそこにいるんだし、純粋で、情緒的でもある。向こうで友達もできた。ほんとうの友達なんだよ。アメリカという国ともそっくりだけど、まだ結構違うかな。でも美しい国さ。万里の長城に囲まれた平野。古くからの宮殿もあれば、庭園や大きな川もある。あらゆる動物がいるんだよ。北と南では違いがあるけど、彼らは一体感を持ってる。毛沢東主義だって本当に信じているんだ[27] その他のピンポン外交[編集] 荻村伊智朗が国際卓球連盟会長を務めていた1991年の第41回世界卓球選手権千葉大会(幕張メッセ)[28]では、ソビエト連邦からの独立運動と並行して、バルト三国の卓球協会は、1989年より国際卓球連盟に加盟申請を提出、同様の申請はIOCや世界水泳連盟では却下されたが、特にラトビア、リトアニアはソ連への併合前、世界卓球選手権大会出場していたこともあり、他の競技に先駆けて加盟を承認する動きもあったが、ソ連の強い反対により、総会での決議は断念、検討事項とされた[29]。 30回以上朝鮮半島を訪れた荻村の尽力により、1991年の世界選手権では、南北朝鮮が分断後初めて統一チームを結成して出場することが[6]、同年2月の南北スポーツ会談で合意された。統一コリアチーム(白地に空色で朝鮮半島をあしらった統一旗で出場)として出場[30]、女子団体では9連覇を狙った中国女子を破り優勝を果たした[31][32][33][34]。韓国と北朝鮮は、2011年11月に国際平和を目的として行われた親善大会「ピース・アンド・スポーツカップ」でも統一チームとして出場した[35]。この大会では南北朝鮮以外にも緊張状態にあるインドとパキスタンの選手もダブルスでペアを組んで出場した。男子ダブルスで韓国の柳承敏、北朝鮮のキム・ヒョクボンが優勝、女子ダブルスで韓国の金暻娥、北朝鮮のキム・ヘソン[要曖昧さ回避]が準優勝した大会について、アダム・シャララ国際卓球連盟会長は、「ピンポン外交」が次の時代に入ったとコメントしている[36]。またチャイナ・デイリーは、20年ぶりに南北朝鮮の単一チームが実現したことについて、「このような『ピンポン外交』が北南朝鮮をより近づける」と報道した[37]。

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霧峰農協酒蔵 – Wikipedia

霧峰農協酒蔵 全景 霧峰農協酒蔵(むほうのうきょうしゅぞう、中国語: 霧峰農會酒莊)は、台湾の台中市にある酒造会社。清酒(日本酒)などを製造している。 台中市霧峰区の農協(農會)が運営する小規模な酒蔵で、2006年から清酒の醸造を開始。2010年からは国際コンクールでの受賞を重ね、2015年に5つ星レストランの限定メニューに採用されるなどの実績をもつ。2020年現在では、清酒のほか焼酎や蜂蜜酒も生産している。また酒蔵は資料館やレストランを併設しており、観光資源にもなっている。 台湾での清酒製造は日本統治時代まで遡るが、戦後に生産は途絶えていた。1990年代になり所得が増えると、日本酒の輸入量が増加。酒の専売をしていた台湾省専売局(現:台湾菸酒股份有限公司(中国語版))がこれに目をつけて清酒の酒造を再開する[注釈 1]。2002年には台湾がWTOに加入したことで酒の公売制度が廃止され、民間企業による酒類販売が解禁された。一方では、農業製品の市場が変化し、農家は高付加価値の農作物への転換を図るようになる。霧峰農協は行政院農業委員会農業実験所と共同で稲の品種改良を行い「台農71号(中国語版)」(商品名:益全香米)を開発。この栽培に成功すると、台湾十大米ブランドに数えられるまでになった。霧峰農協は他地域の産地との競争力を強化する為に更なるブランド化を図り、益全香米を原料とした清酒製造に着手する。 霧峰農協は清酒製造の技術指導を、新潟県醸造試験場の元場長廣井忠夫に依頼[注釈 2]。2005年には廣井がアドバイザーを務める武蔵野酒造に職員を派遣し、酒造の指導を受ける。食用米である益全香米や気温・湿度などに合わせて酒造法を試行錯誤し、2006年から醸造を開始し、2007年には酒蔵をオープンさせた。さらに2014年には金鵄盃酒造に職員を派遣し、吟醸酒の醸造を習得して翌年から製造を始めている。主力製品である「初霧」は純米大吟醸酒・純米吟醸酒・吟醸酒・濁り酒の4種を販売。その他に焼酎や蜂蜜酒を製造している。 2010年にドイツのInternational Spirits Award銀賞の受賞を皮切りに国際コンクールで入賞を重ね、国内でも行政院農業委員会から特優の評価を受けるなど実績を重ねている。 2016年時点で、醸造用・熟成用の5tタンクをそれぞれ4本所有し、清酒は年2回、計10,500Lを醸造している。また、製造ラインは日本製を用いている。清酒を生産していないときは同じラインで焼酎を醸造し、こちらは20,000Lを生産する。霧峰農協は精米機を保有しておらず、台湾菸酒股份有限公司に依頼している。また、醸造用アルコールも台湾菸酒股份有限公司から購入しており、両者は協業関係にある。 注釈[編集] ^ 台湾省専売局は紹興酒などを生産していたが、膨大な在庫を抱えていて、工場を遊休化しない為に清酒製造を始めた。 ^ 廣井は過去に蜂蜜酒の研究で霧峰の蜂蜜業者を訪問しており、その時の伝手を頼った。 出典[編集] 参考文献[編集]

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五十嵐千尋 – Wikipedia

五十嵐 千尋(いがらし ちひろ、1995年5月24日 – )は、神奈川県横浜市出身の競泳自由形及び個人メドレーの選手。身長170cm[1]。リオデジャネイロ・東京オリンピック日本代表。 経歴 横浜市立嶮山小学校、横浜市立すすき野中学校、日大藤沢高校、日本体育大学卒[2]。 水泳は3歳の時に始めた。週に10回ほど練習に取り組み、1回の練習で9km泳ぐこともあるという[3]。横浜サクラSSに所属していたすすき野中学2年の時に出場したアジアエージグループ選手権の200m及び400m個人メドレーで優勝を飾った[1]。 日大藤沢高校に進学すると、1年の時にはインターハイの400m個人メドレーで優勝すると、アジアエージグループ選手権では100m自由形で優勝した[1]。2年の時には日本選手権の200m自由形で5位にとどまり、0秒27差でロンドンオリンピックのリレーメンバーから外れた[1]。インターハイでは200m自由形で優勝した。アジア選手権の200m個人メドレーでは3位となった。日本短水路選手権では400m自由形を高校新記録で優勝した[1]。3年の時には日本選手権の200m及び400m自由形で2冠を達成して世界選手権代表に選出された[1]。続くジャパンオープンでも200m及び400m自由形で2冠を成し遂げた[1]。しかし、世界選手権では200m自由形で1分59秒00の17位で予選落ちした。800mフリーリレーでは1泳で1分58秒41の高校新記録を更新するなどして8位となった[1]。インターハイでは200m自由形で連覇すると、400m自由形でも優勝した[1]。日本短水路選手権では200m自由形を高校新記録で制すると、400m自由形では日本新記録で優勝した[1]。 2014年に日本体育大学に進学すると、1年の時には日本選手権の400m自由形で2連覇を飾った[1]。ジャパンオープンでは昨年に続いて200m及び400m自由形で2冠を果たした[1]。800mフリーリレーで2位となった[1]。世界短水路選手権では400m自由形で4位、800mフリーリレーでは6位だった[1]。2年の時には200m自由形で2年ぶりに優勝すると、400m自由形では3連覇を達成して世界選手権代表に選ばれた[1]。世界選手権では200m自由形で1分57秒75の自己ベストを出して11位となった[4]。400m個人メドレーでも自己ベストを出して16位になった。400m自由形では20位で予選落ちした。800メートルフリーリレーでは7位となり、2016年リオデジャネイロオリンピックの出場権を獲得した[5]。インカレでは200m及び400m自由形で2冠を達成した[1]。3年の時には日本選手権の400m自由形で4連覇を果たしたが、派遣標準記録を切れなかったためにこの種目でのオリンピック出場はならなかった[6]。200m自由形では淑徳巣鴨高校1年の池江璃花子に続いて2位に入り、800メートルフリーリレーのオリンピック代表に選出された。この際に、「4年前は5位で五輪を逃した。今回は初めて出場できるので結果を出したい」と語った[7]。8月のリオデジャネイロオリンピックでは200m及び400m自由形に出場するも予選落ちしたが、400mでは自己新記録となる4分7秒52を記録して12位となった。800mリレーでは8位だったが、第一泳者だった予選では1分57秒18を出して200m自由形の日本記録を樹立した[8][9]。この年の世界短水路選手権では、400自由形で日本新記録を樹立し、銅メダルを獲得した。 2017年の日本選手権では400m自由形で5連覇を果たしたが、200m自由形では2位だった[10][11]。世界選手権の混合400mリレーでは3分24秒78の日本記録で4位となった[12]。800mフリーリレーでも7分50秒43の日本記録で5位に入った[13]。 2020年東京オリンピックでは、競泳女子400mリレー予選に池江璃花子、酒井夏海、大本里佳と出場し、五十嵐は第1泳者でタイム54秒10で泳ぎ自己記録を更新したが、チームは決勝進出に0秒27届かなかった[14]。また、競泳女子800mリレー予選には白井璃緒、池本凪沙、増田葵と出場したが全体の9位で予選通過はならなかった[15]。競泳女子400mメドレーリレーには池江璃花子、渡部香生子、小西杏奈と出場して決勝に進出し記録3分58秒12で8位だった[16]。 主な戦績 2009年 – アジアエージグループ選手権 200m自由形 3位 200m及び400m個人メドレー 優勝

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スーパーマリオ (映画) – Wikipedia

このページ名「スーパーマリオ (映画)」は暫定的なものです。(2021年10月) この記事には公開前の映画に関する記述があります。記述内容は映画の公開によって変更されることがあります。(2021年10月) スーパーマリオ(英: Super Mario)は、イルミネーションが任天堂と共同で製作し、ユニバーサル・ピクチャーズが配給する予定のコンピュータ・アニメーション映画である[1][2]。任天堂のゲームソフト『マリオシリーズ』の長編映画化は、1986年に日本で公開されたアニメ映画『スーパーマリオブラザーズ ピーチ姫救出大作戦!』、1993年に公開された実写映画『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』に次いで3作目となる。 米国で2022年12月21日に公開予定。 キャスト[編集] 原語版[編集] 監督を務めるアーロン・ホーバスとマイケル・イェレニック 1993年に映画化された『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』が批評的にも商業的にも失敗した後、任天堂は、自社の作品を映画化する際のライセンス供与に慎重になった[3]。マリオの生みの親である宮本茂によると、本作のアイデアは旧作をバーチャルコンソールなどで配信することから生まれ、このような移行には時間がかかり、「長年愛されてきたソフトと映像資産を組み合わせ、それらを長期的に活用することができれば、コンテンツビジネスはさらに発展する」と認識していた[4]。また、映画を作る過程がビデオゲームを作る過程とは大きく異なることを知っていたため、映画の専門家に指導してもらいたいと考えていた[5]。 2014年11月に発生したソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントへのハッキング事件では、プロデューサーのアヴィ・アラッド、スタジオのチーフであるエイミー・パスカル、トライスター ピクチャーズの代表であるトーマス・ロスマン(英語版)、ソニー・ピクチャーズ・アニメーションのプロダクション・プレジデントであるミシェル・ライモ・コウヤテの間で交わされたメールが公開され、ソニーが数年前から『マリオシリーズ』の映画化権を獲得しようとしていたことが明らかになった。アラッドは2014年2月と7月に東京の任天堂を訪問し、契約を成立させようとした。10月、アラッドはパスカルにメールを送り、任天堂との契約が成立したと伝えた。パスカルはゲンディ・タルタコフスキーの起用を提案し、コウヤテは「最初から3-4本の映画が考えられる」と述べ、「マリオ帝国を築きたい」と希望を語っていた[3]。しかし、このメールが流出した後、アラッドは取引が行われたことを否定し、交渉はまだ始まったばかりだと述べた。バズフィードは、このメールが、ソニー・ピクチャーズの兄弟会社であるソニー・コンピュータエンタテインメント(任天堂の主要な競争相手のひとつ)との対立の可能性を考慮していないと指摘した[3]。 任天堂がユニバーサル・パークス&リゾーツと共同でマリオをテーマにしたアトラクション「スーパー・ニンテンドー・ワールド」を作ったことがきっかけで、宮本はユニバーサル・ピクチャーズのイルミネーション・アニメーション部門の創設者であるクリス・メレダンドリと出会った。宮本は、メレダンドリの創作過程が自分と似ていると感じ、マリオの映画の製作総指揮にふさわしいと思ったのだ。彼らは2016年までに本格的な話し合いを始めていたが、もし行き詰まりを感じたら、簡単に白紙にすることも可能であることを知っていた[5]。2017年11月には、任天堂がユニバーサルとイルミネーションと共同でマリオのアニメーション映画を作ると報道された[6]。任天堂の当時の社長である君島達己は、「まだ最終決定ではないが、近いうちに発表する」と明言していた。君島は、この取引が成功すれば、2020年の公開が可能になると期待していた[7]。2018年1月、任天堂は宮本とメレダンドリの共同プロデュースで本作を進行することを発表した[8]。メレダンドリ及び宮本は、本作はイルミネーションにとって「優先事項」であり、2022年に公開される可能性が高いと述べている[9]。2020年1月、任天堂の社長である古川俊太郎は、本作が2022年の公開を目指して「順調に進んでいる」と述べた。また、古川は、任天堂が映画の権利を持ち、任天堂とユニバーサルの両方が製作資金を提供すると述べた[10]。 2021年8月、イルミネーションのアニメーターのLinkedInのプロフィールに本作が含まれていることが判明し、アーロン・ホーバスとマイケル・イェレニックが監督を務めていることが明らかになった[11]。全キャストの発表に続き、ホーバスとイェレニックが監督を務めることが決定し、マシュー・フォーゲルが脚本を担当することが発表された[12]。 キャスティング[編集] クリス・プラットとチャーリー・デイが、それぞれマリオとルイージの声を担当する。

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トーラスジェミニ – Wikipedia

この記事は現役競走馬を扱っています。今後の動向で情報や評価が大きく変動する可能性があります。 トーラスジェミニ(英: Taurus Gemini、2016年4月30日 – )は、日本の競走馬[1]。2021年の七夕賞(GIII)の勝ち馬である。 馬名の意味は「牡牛座+双子座」より。 2歳(2018年)[編集] 7月1日の2歳新馬戦(福島芝1800m)でデビュー。最低人気で出走し9着に敗れる。続く未勝利戦は10着、7着と惨敗したが。4戦目の未勝利戦を2番手から抜け出して1着、初勝利を挙げる。続くアスター賞は5着、抜けた最低人気で挑んだサウジアラビアロイヤルカップは8頭立て6着と下位に沈んだ。アイビーステークスは逃げをうち4着に入ると、続く百日草特別を6頭立て6番人気ながら2着ボスジラに1馬身1/4差をつけて逃げ切り勝ちを収める。なお、この勝利が鞍上の木幡育也にとっては特別戦初勝利となった。次走、東京スポーツ杯2歳ステークスは12着に終わった。その後は長期休養に入る。 3歳(2019年)- 4歳(2020年)[編集] 休養が長引き、1年経った11月の再度山特別で復帰、最下位の8着に終わる。続くクリスマスキャロル賞はブービーの15着と再び惨敗した。 4歳初戦、4歳以上2勝クラスを13番人気ながら早め先頭に立つとアビームとの競り合いを半馬身制して3勝目を挙げる。昇級初戦、節分ステークスは9着に終わったが、続く但馬ステークスで4着と好走する。昇級3戦目、幕張ステークスをスタートから先手を取るとそのまま逃げ切り1着、オープン昇級を果たした。次走、ダービー卿チャレンジトロフィーは11着に敗れたが、エプソムカップを最低人気ながら逃げ粘り0.2秒差の3着に入った。続く巴賞を前有利の馬場を生かし、スタートを決めて逃げると2番手につけていたミラアイトーン以下の追撃を1馬身半抑えて逃げ切り勝ちを飾った[2]。次走、函館記念でも逃げを打ったが4着に敗れる。その後、札幌記念8着、毎日王冠6着、福島記念8着と上位に食い込めない競馬が続いた。GI初挑戦となったジャパンカップはブービーの14着に沈む。次走、ディセンバーステークスはマイペースで逃げ、2着サトノダムゼルに1馬身1/4差をつけ1着、オープン2勝目を飾った[3]。 5歳(2021年)[編集] 5歳初戦、小倉大賞典は14着と惨敗。一転、東風ステークスは別定58kgを背負いながらも、ハナを奪うと外から追い込んできたボンセルヴィーソをクビ差しのいで勝利を飾った[4]。田辺裕信の落馬負傷により代打騎乗を務めた原優介は、特別レース初勝利かつ芝レースでの初勝利となった。次走、ダービー卿チャレンジトロフィーは6着、安田記念では好位からいったん先頭に立ち5着と掲示板を確保した。次走、七夕賞は2番手でレースを進め逃げたロザムールと直線で競り合い、ゴール前クビ差下して優勝、29戦目にして重賞初制覇を飾った[5]。なお、管理する小桧山にとりこの勝利が中央通算200勝目であった[6]。その後、札幌記念は逃げるも3コーナーで交わされ10着、毎日王冠は11着とそれぞれ惨敗した。 6歳(2022年)[編集] 6歳初戦、京都金杯は13着に敗れた。 競走成績[編集] 以下の内容は、JBISサーチ[7]およびnetkeiba.com[8]に基づく。 競走日

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水野政義 – Wikipedia

日本の官僚 水野 政義 みずの まさよし 生年月日 (1965-08-09) 1965年8月9日(56歳)[1] 出生地 日本・長野県[1] 出身校 早稲田大学[1] 農林水産省大臣官房総括審議官(新事業・食品産業) 在任期間 2021年7月1日[2] – テンプレートを表示 水野 政義(みずの まさよし、1965年〈昭和40年〉8月9日[1]

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アシドチオバシラス属 – Wikipedia

アシドチオバシラス属(アシドチオバシラスぞく)又はアシディチオバシラス属又はアシドチオバチルス属又は硫黄酸化菌属(Acidithiobacillus)とはアシドチオバシラス科の基準属で、グラム陰性の非芽胞形成桿菌。基準種はアシドチオバシラス・チオオキシダンス。硫黄細菌の一種で、かつてはチオバシラス属に分類されていたが、酸性条件で生育するほか遺伝的な系統も異なるため分けられた。名称は酸の硫黄桿菌を意味する。GC含量は52から64。 pH2.0から3.5の酸性条件化で最も生育する。本属のアシドチオバシラス・フェロオキシダンスは二価の鉄イオンを三価にする鉄酸化細菌でもある。 ^ a b c d e f g D P Kelly, A P Wood (01 March 2000). “Reclassification

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バートリ・アンナ – Wikipedia

ショムヨーイ=バートリ・アンナSomlyói Báthory Anna バートリ家の紋章 配偶者 ベルテキ=ドラフィ・ガスパル(1539年 – 1545年)ホモンナイ=ドルゲト・アンタル(1545年以降 – 1548年)バートリ・ジェルジュ(1550年 – 1570年) 子女 ベルテキ=ドラフィ・ガスパルの子ジェルジヤーノシュホモンナイ=ドルゲト・アンタルの子ミクローシュボルバーラバートリ・ジェルジの子イシュトヴァーンエルジェーベトゾフィアクララ 家名 バートリ家 父親 ショムヨーイ=バートリ・イシュトヴァーン8世 母親 テレグディ・カタリン

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