篠栗四国八十八箇所 – Wikipedia
篠栗四国八十八箇所(ささぐりしこくはちじゅうはちかしょ)とは、福岡県糟屋郡篠栗町にある、空海(弘法大師)を拝する88か所の霊場の総称である。篠栗八十八箇所または単に篠栗霊場とも呼ばれる。小豆島八十八箇所、知多四国霊場と共に、「日本三大新四国霊場」に数えられることもある。札所は、福岡市から東に12㎞に位置し、国道201号を挟む両側の山麓や谷の奥に点在する。1970年頃には年間50万人の遍路で賑わい、遍路宿が53あったが、その多くは農家が兼業で経営しており、農繁期は泊まることはできなかった[1]。 篠栗霊場の歴史は、慈忍という人物がこの地を訪れた1835年(天保6年)に始まる。慈忍は四国八十八箇所を巡拝したその帰りに篠栗村に立ち寄った尼僧であった。四国八十八箇所の開祖たる弘法大師も訪れたと伝わるこの村の者達の困窮を垣間見た慈忍は、その救済を目論みこの地にとどまり弘法大師の名において祈願を続け、やがて村に安寧をもたらしたものと伝わる。このことを弘法大師の利益(りやく)であるとした慈忍は、村の者達に四国のそれを模した88か所の霊場の造成を提案。呼応した村人達の手によって徐々に石仏が造られ始めたが、慈忍が没したので中断した。1854年(嘉永7年)に至って当時字田浦の住人藤井藤助翁多くの信者と相図り、篤志者等又私財を喜捨して遂に88か所に堂宇を建立し、石仏の本尊を安置して完成させた[2]。石仏は高さ50センチ程度、その下に台座があり、ここに寄進者の名が彫られている。これが各札所の最初の本尊である。 江戸時代には侍が来て本尊の石仏を川にたたき込んで破壊したという伝承があり、初期においては藩による弾圧もあったようである。参拝者が増加するに連れ、加持祈祷をこととする多数の僧侶が入り乱れ、無秩序となった。このため、村民は、僧侶の事は僧侶の監督に待たざる可からずとして遂に高野山より南蔵院を移転した。その堂宇を竣工したのは1899年(明治32年)5月である。その後同院住職として山縣玄浄僧正の法弟なる林覚運師が赴任して、専ら同院の発展、霊場の整理を行い、88か所の霊場の総坪数3,550坪を南蔵院飛地境内として内務省の認可を得て、霊場取締りの本山と定め、更に報徳会を組織して霊場を受持つ僧侶の統一を図った[3]。 篠栗町域の東方(旧篠栗町[4])の山麓地を主として随所に霊場がたたずんでいる。含まれる霊場は、割烹や土産物屋などが併設された大規模な寺院から、僧の姿もない小規模な観音堂、時に小規模でありながら複数の旅館に囲まれるもの、また市街の傍に位置するものから、山道の果てに埋もれているものまで、その在様については様々である。各箇場には納経所とされる場とともに固有の印が置かれており、持参の紙などへの押印によって来訪の物的記録を得ることが可能となっている。50を超える旅館が界隈に存在していた往時に比べれば衰退したともいえるが、2006年現在にあっても界隈を中心に30を超える旅館が存在している。本元の四国八十八箇所と比較すれば県内においてすら知名度は薄いといえるが、知る人々からは豊富な自然とともにある静かな巡礼道として親しまれている。1970年頃までは、菅笠をかぶり白衣を着てわらじを履き、木の金剛杖をついたお遍路さんの集団が「南無大師遍照金剛」と合唱しながらお参りし、札所の本堂に入ると一斉に般若心経を唱えるのは日常の風景であった。特に3月半ばから4月半ばまでが多かった。しかし、その後はミニバス等に乗って札所巡りすることが大半となってしまった。 巡礼者が札所の賽銭箱に奉納するものは、おふだ、一掴みのコメ[5]、1円玉(本堂だけは10円玉程度)。仏像の横などに、手足の悪い人は治癒を願って木の平板を手や足の形に切ったものを置き、子供が欲しい人は人形を上げて行った。しかし、1970年代以降はお金が中心となっている。 霊場一覧[編集] なお、札所の番号と巡拝の順序は一致しない。 第四十三番札所明石寺の梵鐘 第七十四番札所城戸薬師堂 第七十八番札所山手阿弥陀堂 第四十一番札所平原観音堂の波切不動明王坐像 番 名称 本尊 宗派 所在 1 南蔵院 釈迦如来 高野山真言宗
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