Month: November 2019

ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜 – Wikipedia

この項目には性的な表現や記述が含まれます。免責事項もお読みください。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ダンジョンクルセイダーズ2 〜永劫の楽土〜” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年1月) ダンジョンクルセイダーズ2〜永劫の楽土〜 ジャンル 3DダンジョンRPG 対応機種 Windows2000/XP/Vista 発売元 アトリエかぐや (TEAM HEARTBEAT)

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ゴシップ (2022年のテレビドラマ) – Wikipedia

本来の表記は「ゴシップ #彼女が知りたい本当の〇〇」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 『ゴシップ #彼女が知りたい本当の〇〇』(ゴシップ かのじょがしりたいほんとうのまるまる)は、2022年1月6日から3月17日までフジテレビ系「木曜劇場」枠で毎週木曜 22時00分 – 22時54分に放送されていた日本のテレビドラマ[1][2]。主演はフジテレビ系連続ドラマ初主演となる黒木華[1][2]。 日本人の2人に1人が毎日ネットニュースをチェックする時代。本作は大手出版社の編集部員である瀬古凛々子がネットニュースサイト「カンフルNEWS」の閉鎖危機を救うべく奮闘する姿を描くとともに、そこで働く者たちの生き方や仕事、恋愛を通して新しい時代の人と人との繋がりの大切さを描く[1][2]。 キャスト[編集] 主要人物[編集] 瀬古凛々子(せこ りりこ)〈31〉 演 – 黒木華[1][2](中学時代:山田美紅羽) 本作の主人公。大手出版社「クスノキ出版」が運営するネットニュースサイト「カンフルNEWS」の編集部員。仁和からPV数アップの命を受け経理部から異動してきた[2]。山田礼二の退社に伴い編集長に抜擢される。愛読書は、辞書『大辞語』。 洞察力が鋭く、些細な物事から矛盾や誤りを見抜き、経理部時代では「ケルベロス」のあだ名で呼ばれていた。一方、感情表現や空気を読むのは苦手で、取材には遠慮なくぶしつけな事も平然と行う。 「カンフルNEWS」で当然の如く行っていたコタツ記事を否定し、丹念な取材で事件の真相を突き止め、掲載記事にも個人の署名を付けることを信条とする。 物事に違和感を抱くと「ざわざわする」と言い取材活動に入る。決定的な証拠を掴むと「見つけた。」と決め台詞を呟く。

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トロイの部屋のコーヒーポット – Wikipedia

XCoffeeで表示したコーヒーメーカーの映像 トロイの部屋のコーヒーポット(トロイのへやのコーヒーポットTrojan Room coffee pot)は、かつてケンブリッジ大学計算機研究所内の「トロイの部屋」と呼ばれた部屋に設置されていたコーヒーメーカーである。1991年にクエンティン・スタッフォード=フレイザー(英語版)(Quentin Stafford-Fraser)とポール・ジャデツキー(Paul Jardetzky)によって、その映像をカメラで写したものがネットワーク上に公開された。1993年にWorld Wide Webに移行し、世界初のWebカメラとなった。 これは、この研究所に所属する人たちが、コーヒーを飲みに来たのに空になっていてがっかりすることがないように、カメラを設置してコーヒーメーカーの映像を配信し、ネットワーク上のコンピュータからコーヒーの残量がわかるようにしたものである。その数年後の1993年、このカメラがインターネットに接続されると、普及し始めたばかりのWorld Wide Webにおいて世界的に有名になった。このWebカメラは2001年に撤去された[1][2]。 Webカメラに最後に写った映像。サーバを止めるためにスイッチに伸ばした手が写っている。 128×128ピクセルのグレースケールのカメラが、Acorn Archimedesに搭載されたビデオキャプチャカードを介して、研究室のローカルネットワークに接続されていた。研究者のスタッフォード=フレイザーがX Window Systemプロトコルによるクライアントソフト”XCoffee”を作成し、同僚のジャデツキーがサーバプログラムを書いた[3]。 1993年にWebブラウザが画像を表示する機能を持つようになり[4]、WWWで簡単に画像をユーザーに提供できるようになった。そこで、同年11月、コンピュータ科学者のダニエル・ゴードンとマーティン・ジョンソンによって、カメラをインターネットに接続し、HTTP経由でライブ映像が公開された。これにより、このライブ映像が世界中で見られるようになり、普及し始めたばかりのWWWにおけるランドマークとして親しまれるようになった。 研究所が移転するのに伴い、このカメラは2001年8月22日09:54(UTC)に停止された。このカメラの停止については、『タイムズ』紙や『ワシントン・ポスト』紙の一面で取り上げられたほか、『ガーディアン』紙や『WIRED』誌にも記事が掲載された[5]。 ライブ映像に写っていた複数のコーヒーメーカーのうち、クラップス(英語版)社製のコーヒーメーカーは、eBayで競売に掛けられ、3,350ポンドでドイツのニュースサイト「デア・シュピーゲル・オンライン」が落札した。その後、クラップスの社員によって無償で改修され、同誌の編集部で再びスイッチが入れられた[6]。

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道の駅KOKOくろべ – Wikipedia

道の駅KOKOくろべ(みちのえき ここくろべ)は、富山県黒部市に建設中の国道8号の道の駅である。 道の駅KOKOくろべは、黒部市内で最も交通量の多い国道8号入善黒部バイパスに位置する。富山県内で16駅目、黒部市内では『道の駅うなづき』(1997年4月5日開駅。ただし開駅時は宇奈月町)に続く2駅目の道の駅となる。また、隣接する「黒部市総合公園」の防災機能と連携し、一時避難場所や避難支援活動の拠点としての役割も目指し整備している。なお名称については2020年(令和2年)6月1日から6月30日まで公募し、全国から2,391件の応募があり、選考の結果、道の駅「KOKOくろべ」に決定。この名称には、道の駅のここ(KOKO)から、黒部市が発展してほしいという、願いが込められている[3]。 富山県内16か所の道の駅で唯一『重点道の駅』に選定されている[5]。 同駅に隣接する『誘致ゾーン』には、当初は光陽産業(高岡市)が市から土地を借り受け、北側に温浴施設、南側にカフェや宿泊施設を誘致する計画であったが、新型コロナウイルスの流行の影響で南側で予定していた別の業者が撤退して白紙状態となり、北側の温浴施設もウッドショックのあおりを受けて開業が遅れることになった[5]。 個別に出典が提示されていない箇所の出典→[5] 2015年(平成27年)8月 – 黒部市が「道の駅」検討委員会設置。 2016年(平成28年) 1月27日 – 平成27年度重点「道の駅」に選定[6]。 4月 – 「道の駅(仮称)くろべ基本計画」策定。 2018年(平成30年)2月 – 黒部市と国土交通省が「道の駅に関する基本協定」締結。 2019年(平成31年→令和元年)

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位置情報ゲーム – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “位置情報ゲーム” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) 位置情報ゲーム(いちじょうほうゲーム)は、携帯電話などの携帯情報端末の位置登録情報を利用したゲームである。 位置登録ゲーム、位置ゲームとも呼ばれるが、株式会社コロプラの商標「位置ゲー」が略称として広まっている。 携帯電話端末には、自らの位置を知らせる位置登録システムが付随している。これは携帯電話システムの基地局からの位置情報を利用するものとGPSを利用するものとがあるが、ほとんどのゲームは双方に対応するように作られている。 このシステムを利用し、ゲーム運営側に自らの携帯電話端末の位置を知らせることで、移動距離やターゲット地点との距離差を算出させ、そのデータを元にしてゲームを進めていくことを目的とする。 ゲームの内容はさまざまで、単なる「位置の情報」を利用したスタンプラリー的なものから、その情報に付随した「地域の情報」を利用するアイテム・キャラクター・データ収集、総移動距離を競い距離によってペットや都市・コロニーなどが成長するシミュレーション、またそれら全てを統合したような内容など幅広い。既存のコンピュータRPGを原作にしたものや、リアル謎解きゲームの一環として街を歩きながら謎を解くというスタイルの位置情報ゲームアプリを配信するケースもある[1]。 2000年12月にJ-フォン(当時)の位置情報サービス「ステーション」が開始された際、同時に公開された「誰でもスパイ気分」、「クリックトリップ」が初期のサービスである。 2008年にマピオンがケータイ国盗り合戦を発表して以来、ホンダ(本田技研工業)、ソネットエンタテインメントなどが参入し、ユーザー数100万人を超える一大市場となった[2]。 2002年に個人によって発表された「auのあんてな奪うのれす」(2度の管理人交代を経て、『日本縦断アンテナDASH』に繋がる)、2003年に個人によって発表された「コロニーな生活」(後に法人化され、『コロニーな生活☆PLUS』(現『コロニーな生活』)に繋がる)は位置情報ゲームのパイオニアとして知られている。 2009年11月にはドコモ・au・SoftBankの公式サイトとして、「犬わんグランプリ」がNTTレゾナント株式会社から提供が開始された。犬わんグランプリは、最新のFOMAに搭載されているオートGPS機能にも対応しており、移動距離の積算を自動的に行なうこともできる。 2010年2月にmobageのソーシャルゲームとして「しろつく」がケイブから配信された。同年6月にGREEでも配信され、2011年5月末でユーザー数300万人を突破したと同社から発表される。 2016年7月よりナイアンティックと株式会社ポケモンの共同開発によるスマートフォン向けアプリ「Pokémon

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大野町駅 – Wikipedia

「大野駅 (愛知県)」はこの項目へ転送されています。新城市にあるJR飯田線の駅については「三河大野駅」をご覧ください。 大野町駅(おおのまちえき)は、愛知県常滑市大野町にある名鉄常滑線の駅である。駅番号はTA17。地元の人からは「大野駅」とも呼ばれる。 1912年(明治45年)2月18日 – 愛知電気鉄道が大野駅として開業。傳馬町駅 – 当駅間開業時の終着駅となる。 1913年(大正2年)以前[2] – 大野町駅に改称[注釈 1]。 1913年3月29日 – 当駅 – 常滑駅間延伸開業によって途中駅となる。 1935年(昭和10年)8月1日 – 名岐鉄道への合併により名古屋鉄道が発足したため、同社の駅となる。

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夢の島公園 – Wikipedia

夢の島公園(ゆめのしまこうえん)は、東京都江東区夢の島にある、東京都立のスポーツ公園である。1957年(昭和32年)から1967年(昭和42年)までごみの最終処分場であった東京港埋立地夢の島[1]を整備して作られた。1978年(昭和53年)に開園。 樹木の多い園内(かもめ橋東詰下付近。貸切イベント中の2010年11月6日) 夢の島北西部の大部分を占める公園で、敷地面積433,212.23平方メートルに及ぶ大規模公園である。園内は南北に貫く明治通りを挟んで西側と東側に分かれる[2]。この間は「なぎさ橋」(北部)・「かもめ橋」(中央部)という2つの陸橋[3]によって接続している。ユーカリ、フサアカシア、アキニレ、マテバシイ、クスノキなど[4]の樹木が多数植えられている。高木は10,300本、低木は11,700平方メートル[4]もあり、敷地内の約11%(50,000平方メートル)は芝生[4]となっている。 当初は上野動物園でのコアラ飼育のため、ユーカリを生産する必要があったためユーカリ畑があったが、現在はその役目を終えている。園内のユーカリ樹はそのときの名残で、日本最大のユーカリ林が見られる。 園内には陸上競技場などのスポーツ施設がある。他にバーベキュー広場があり、宿泊機能を備えた総合スポーツ・文化施設「BumB 東京スポーツ文化館」、熱帯植物園等様々な人気施設がある。また、夢の島近くの最終処分場に放棄されていた第五福竜丸の展示館があり、原水爆による惨事が再び起こらないよう願う趣旨[5]で展示されており、多くの人が訪れる。さらには島の北岸を利用したマリーナ「東京夢の島マリーナ」[4]があり、当公園はスポーツや憩いに加え文化・教育的要素のある東京港内の一大行楽エリアとなっている。 指定管理者制度により、日比谷花壇など6の民間企業からなる「アメニス夢の島グループ」[4]が管理運用を行っている。赤旗まつりは公園(西側含む)とその園内施設(一部を除く)を借り切って行われる[6]。 江東区夢の島総合運動場(明治通り西側のスポーツ施設群)は江東区が管理するエリアとなり、江東区により別の管理運営者が指定されている。また東京夢の島マリーナも「ゆめのしま海の駅」として別の指定管理者により運営されている。 東京スポーツ文化館 江東区夢の島競技場 入園[編集] 開園時間:入園自由 開園日:年中無休。ただし、バーベキュー広場は年末年始、熱帯植物館と第五福竜丸展示館は年末年始と月曜日が休業日。 入園料:無料。ただし、熱帯植物館の入館やスポーツ施設の使用は有料。 本園貸切で行われる赤旗まつりは有料であるが、同まつり開催中でも単に公園や園内施設を利用する目的の場合は同まつり受付に申し出れば通常通り無料で入園できる[7]。 赤旗まつり参加者向けには同開催中熱帯植物館が割引になることがある。 施設[編集] 特記ない施設所在地は東京都江東区夢の島二丁目1番2号である。 西側部分[編集] 江東区夢の島総合運動場

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サルバン (モンケ家) – Wikipedia

サルバン(モンゴル語: Сарбан, Sarban、中国語: 撒里蛮、? – 1282年以降)は、モンゴル帝国第4代皇帝モンケ・カアンの孫。叔父のシリギとともに「シリギの乱」の首謀者の一人であった。『元史』などの漢文史料では撒里蛮、『集史』などのペルシア語史料ではساربان (Sārbān)と記される。チャガタイの息子のサルバンとは同名の別人である。 サルバンはモンケの息子のウルン・タシュの息子として生まれた。『集史』によると名前の伝わっていない兄弟がいたが、子を残さず早くに亡くなったという。モンケの4人の子供のうち、バルトゥとウルン・タシュが嫡出の子供であり、シリギとアスタイが庶出の子供であった。バルトゥが父より早くに亡くなったため、モンケの死後はウルン・タシュがモンケ・ウルスの当主となったが、ウルン・タシュの死後はその庶弟のシリギが当主となった[1]。 モンケの死後にクビライとアリクブケの間で行われた帝位継承戦争では、モンケの諸子はアリクブケ側に立って参戦し、クビライ側に敗れると許されてモンゴリアに残った。しかし帝位継承戦争によって割を食ったモンケ家、アリクブケ家ではクビライ政権に対する不満が残り、中央アジアでカイドゥを主体とする反クビライ勢力が誕生するとこれに味方するようになった。 クビライの嫡子で北平王に封ぜられていたノムガンはモンゴリアを統轄しており、至元13年(1276年)にモンゴリアの軍隊を率いて一挙にカイドゥの本拠地のアルマリクに奇襲をかけた。この時のノムガン軍右翼は、ほぼ全てが旧アリクブケ派勢力で構成されており、サルバンやシリギも参加していた。ノムガン軍がアルマリクに駐屯すると、トルイの庶子のソゲドゥの息子のトク・テムルが密かにシリギと結託し、総司令官ノムガンら首脳部を捕らえ、クビライ政権に叛旗を翻した。この叛乱に加わったメンバーの多くは前述の旧アリクブケ派であった右翼軍であり、モンケ家、アリクブケ家、ソゲドゥ家、コルゲン家などがあったが、唯一ボチュク家のヤクドゥのみは従わず捕らえられた[2]。 叛乱軍の盟主はモンケの庶子のシリギとされたものの、モンケの嫡孫に当たるサルバンもこれに継ぐ高い地位にあった。カイドゥに協力を要請したが断られたサルバンらは、虚言によってチャガタイ・オゴデイ系諸王を取り込み、至元14年(1277年)にモンゴリアへ侵攻した。これに対し、クビライはトトガク、バイダル、ベクレミシュらを派遣し、各地で敗れた叛乱軍はオルホン川に集結し決戦を挑んだが、捕らえられていたヤクドゥの攪乱によって元朝軍が勝利を収めた。 敗北したサルバン、トク・テムルらはモンゴリアから西北のイルティシ川流域へ逃亡し、再起を図ったが、オッチギン家のベルケ・テムル、劉国傑らの攻撃によって至元17年(1280年)までに大打撃を受けた。相継ぐ敗戦によってシリギはトク・テムルへの協力を断るようになったため、トク・テムルは新たにサルバンを擁立しようとした。シリギはメリク・テムルと合流したが、内紛で消耗するのを嫌いサルバン、トク・テムルに降伏したものの、次にヨブクルを討伐しようとしてサルバンらは敗れてしまい、トク・テムルは処刑された。 サルバンはシリギと敵対したことを弁解したが、シリギは赦さず軍隊を取り上げ、サルバンはシリギの下から逃れようとした。サルバンは一時捕まったものの部下に救出され、至元18年(1281年)再びシリギに決戦を挑んだところ、シリギ・ヨブクルの軍隊が寝返ってサルバン側についたことによって勝利を収めた。サルバンはシリギとヨブクルを連れてクビライに投降しようとしたが、ヨブクルのみはオッチギン家の人間と協力することでカイドゥの下へ逃れ、サルバンとシリギは至元19年(1282年)クビライの下に到着した[3]。 叛乱の盟主であったシリギは許されず、海島に流されたが、サルバンは許されて領地と軍隊を与えられ、その後しばらくして亡くなったという[4]。サルバンの子孫については記述がなく、サルバンをもってウルン・タシュ家は断絶したものと見られる。 モンケ家の系図[編集] モンケ・カアン…トルイの長男で、モンケ・ウルスの創始者。 バルトゥ(Baltu,班禿/بالتوBāltū)…モンケの嫡長子。 トレ・テムル(Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr)…バルトゥの息子。 ウルン・タシュ(Ürüng-daš,玉龍答失/اورنگتاشŪrung

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御殿・御茶屋 – Wikipedia

葛飾北斎「冨嶽三十六景 東海道品川御殿山の不二」東海道に面した御殿山には、17世紀に将軍家の品川御殿が置かれた 御殿(ごてん)および御茶屋(おちゃや)は、江戸時代に将軍や大御所および世子が江戸近郊へ旅行や外出する際に利用するため、江戸幕府が江戸城外の各地に設置した施設である。宿泊用としたものが「御殿」、小規模なものが「御茶屋」とよばれた。 御殿と御茶屋の区別は、南関東では概ね明瞭であったが、美濃・近江等では御茶屋御殿と称され、曖昧だった[1]。 南関東以外では駿豆以西京都に至る街道沿いと北関東(日光方面)に分布した。また、幕府にならって大名が設置した御殿・御茶屋もあった[1]。 目的 御殿・御茶屋を設置・利用する目的は、旅行用とレクリエーション用に大別された。上洛・駿府往復・日光社参などの旅行での利用があり、江戸 – 京都・日光間の各経路沿いに設置された[1]。一方で鷹狩などのレクリエーションでも、御殿・御茶屋に休泊することがあった。 徳川家康の時期には、東は東金御殿(千葉県)、北は忍(埼玉県)と50km圏にまで達し、何日も滞在して実施したことがあった。また、家康は鷹狩を名目に民情視察・土豪の懐柔・必要な入物の非公式引見等政治上の意図があったという[1]。徳川家光の時期では、ほとんどが日帰りの休憩所として利用され、江戸城より15km圏に配置されていた[1]。 記録 御殿・御茶屋の記録は、国絵図で確認できる[注釈 1]。御殿・御茶屋の記録は「正保国絵図」で多数確認できるが、「元禄国絵図」では御殿の数が少なくなり、記載がないか「御殿跡」と記されているという[1]。 廃止 御殿・御茶屋が廃止される主要な理由としては、家康死去により駿府往復の幕政の基礎が固まって上洛の必要がなくなったことや、信仰上の理由で綱吉の時期から鷹狩がおこなわれなくなったこと、また幕府の財政が窮乏化し、御殿・御茶屋の維持が困難になったこと等が挙げられる[1]。特に、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失した江戸城の再建時には、中原御殿・越ヶ谷御殿等が廃され、江戸城に移築された[1][注釈 2]。 関東の御殿・御茶屋[編集] 東海道筋[編集] 東海道・中原街道筋の御殿・御茶屋 徳川家宣の時期に設置され、明治維新時に廃止。吉宗・家斉などが御遊に利用したという。

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