Month: January 2020

ジョヴァンニ・モローネ – Wikipedia

ジョヴァンニ・モローネ 枢機卿 聖職 枢機卿任命 1542年 個人情報 出生 1509年1月25日ミラノ 死去 1580年12月1日ローマ テンプレートを表示 ジョヴァンニ・モローネ(伊:Giovanni Morone, 1509年1月25日 – 1580年12月1日)は、16世紀イタリアの聖職者、外交官。ローマ教皇庁で外交官として活動、折衝を重ねてトリエント公会議を決議へと導き、カトリックの対抗宗教改革を推進した。 ミラノ出身。パドヴァで法学を学び博士号を取得、1529年にローマ教皇クレメンス7世によりモデナ司教に任命された。1534年から教皇パウルス3世の任命で教皇特使を務め、1536年より教皇大使としてドイツ(神聖ローマ帝国)を中心にカトリックとプロテスタントの対立解消を模索して外交活動を展開、1542年には枢機卿に任命された。武力行使に否定的でプロテスタントとの対話を望む神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の宗教政策を支持していたが少数派に止まり、プロテスタントとの対話が失敗するとカトリックの自己改革(対抗宗教改革)に問題を切り替え、改革に取り組むための公会議討議に目を向けていった[1][2][3]。 ところが宗教に寛容な姿勢が教皇パウルス4世に疎まれ、1557年になると異端に与したと嫌疑をかけられ、サンタンジェロ城に幽閉されて異端審問にかけられた。2年後の1559年にパウルス4世が死去すると状況が好転、次の教皇ピウス4世により釈放、再び外交官として重用された[1][2][4]。 1562年から始まったトリエント公会議第3会期では教皇特使と公会議議長を務め、ピウス4世の甥のカルロ・ボッロメーオ枢機卿と共に議事進行を取り仕切った。教皇権に対する司教の権利が同格だと言う主張が現れ、スペイン・フランス・ドイツ代表団が支持して公会議決裂の危機が迫ると、代表団の後ろ盾になっていた神聖ローマ皇帝フェルディナント1世と直接交渉、司教の権利に関する主張を実質的に撤回させ、1563年にトリエント公会議を決議・閉会へと導いた[1][2][5]。 以後公会議決議の監督・推進を行う委員会にボッロメーオと共に入り、異端審問の件が災いして教皇になれなかったが、1570年に枢機卿団の首席に就任、オスマン帝国に対抗するカトリック君主同盟を結成させるべく奔走した。1580年12月1日、ローマで71歳で死去[1][2][6]。

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細菌性髄膜炎 – Wikipedia

細菌性髄膜炎(さいきんせいずいまくえん、英: Bacterial meningitis)は、細菌感染によって起こる中枢神経系の感染症。別名として、化膿性髄膜炎(かのうせいずいまくえん、英: Septic meningitis)とも呼ばれる。通常結核性髄膜炎はこの細菌性髄膜炎に含めない。 神経感染症の総論[編集] 発熱の原因が中枢神経と疑われるとき、髄液検査を行い細胞数の増加があれば神経感染症と考える。神経感染症では感染部位によって名称、症状が異なる。 名称 英語名 症状 脳炎 encephalitis 頭痛、発熱、痙攣、意識障害、神経局所症状 髄膜炎 meningitis 頭痛、発熱、嘔吐 髄膜脳炎 meningoencephalitis 脳炎症状と髄膜炎症状 硬膜炎

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アンドレ=ジョルジュ・オドリクール – Wikipedia

アンドレ=ジョルジュ・オドリクール(André-Georges Haudricourt、1911年1月17日 – 1996年8月20日)はフランスの植物学者、人類学者、言語学者。 アンドレ=ジョルジュ・オドリクールは、ピカルディーの辺境にある農家で育った。幼少期から技術・植物・言語に興味を持った。1928年にバカロレアを得たのち、父の勧めで国立農学院(Institut national agronomique)に入学した。父はオドリクールが政府の高官になることを期待したが、1931年に卒業した時のオドリクールの成績は最低だった。同級生と異なりオドリクールは現代的な機械や技術を推進することには興味がなく、伝統的技術・社会・言語を理解することに興味を持っていた。オドリクールはパリで地理学・音声学・民族学および遺伝学の講義に出席した。マルセル・モースによって用意された資金により、国立農学院時代にその講義を聞いて大きな興味をもったレニングラードのニコライ・ヴァヴィロフのもとで1年間学んだ。 1940年、オドリクールは新設のフランス国立科学研究センター(CNRS)の植物学部門に職を得たが、そこでの研究が静的な分類学に終始し、新しい遺伝学の発達と結びついた進化論的アプローチを使っていないことに幻滅した[1]。第二次世界大戦中、オドリクールはフランス国立東洋言語文化研究所で言語学の広範な書物を読み、アジアの諸言語を研究した。 オドリクールは1945年にCNRSの植物学部門から言語学部門に移った。1947年にロマンス諸語に関する博士論文(アンドレ・マルティネの指導)を提出したが、審査したアルベール・ドーザとマリオ・ロックの2人はこの論文を受理せず、高等研究実習院での職を得ることはかなわなかった[2]。そのかわり、オドリクールはハノイのフランス極東学院で1948年から1949年まで無償で働いた。極東学院でオドリクールはアジア諸言語の歴史音韻論の問題を解決し、言語変化に関する一般的なモデルを構築した。 1976年にオドリクールはCNRS内部にLACITO(フランス語版)研究センターを共同で設立した。LACITOは民族学と言語学の研究を統合し、文献のほとんどない言語を文化的環境の中において調査することを目的としている[3]。 主な業績[編集] 方法論的業績[編集] オドリクールは歴史的音韻論における汎時的音韻論(英語版)の創始者と考えられている[4]。 声調発生論[編集] 中国語・ベトナム語およびその他の東アジアの言語の歴史研究により、オドリクールは声調のない言語がどのようにして声調を獲得するかを明らかにした。「ベトナム語の声調の起源」[5]において、オドリクールはベトナム語およびさまざまな東アジア・東南アジアの諸言語の声調の発生について説明し、シナ・チベット祖語やタイ祖語などにおいて非声調言語を祖語として再構するための道を拓いた。声調体系の進化発展に関するより包括的記述は1961年に公刊された[6]。 ベトナム語の系統に関して従来モン・クメール語と同系とする説と、それに反対する説(アンリ・マスペロなど)があり、反対説では声調が後天的に獲得できるものではないと主張していたが、非声調言語が声調を獲得する過程をオドリクールが明らかにしたため、反対説はその根拠を失った[7]。 中国語の上古音の再構に関する他の功績[編集] 中国語歴史音韻論の分野に関するオドリクールの功績には、体系的な声調発生論以外に韻尾 *-s と両唇軟口蓋音の再構がある。

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フィル・ヒッカーソン – Wikipedia

フィル・ヒッカーソン プロフィール リングネーム フィル・ヒッカーソンP・Y・チューハイミスター・ナッシュビルバイセンテニアル・キング ニックネーム 爆弾戦車 身長 185cm[1] 体重 140kg(全盛時)[1] 誕生日 (1947-07-06) 1947年7月6日(74歳)[2] 出身地 アメリカ合衆国 テネシー州マディソン郡ジャクソン[3] デビュー 1970年[1] テンプレートを表示 フィル・ヒッカーソン(Phil

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アルツァフ大学 – Wikipedia

アルツァフ大学 大学に続くステパナケルトの道 大学設置/創立 1992年 学校種別 国立 本部所在地 ステパナケルト 学生数 4,000 ウェブサイト http://www.asu.am/ テンプレートを表示 アルツァフ大学(英語: Artsakh State University、公用語表記: Արցախի պետական համալսարանի

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