Month: July 2021

國民新聞 – Wikipedia

この項目では、徳富蘇峰創刊の『國民新聞』について説明しています。1972年以降発行の『國民新聞』については「國民新聞 (1972年-)」をご覧ください。 『國民新聞』(こくみんしんぶん)は、徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊した日刊新聞である。現在の『東京新聞』の前身の一つである。 國民新聞社員(1890年) 1890年(明治23年)2月1日に第1号を発行した。発行会社は國民新聞社。 徳富が雑誌『國民之友』の発行に成功したのちに創刊した日刊新聞で、最初は「平民主義」を唱え、平民主義の立場から政治問題を論じていた。やがて、三国干渉問題を契機に帝国主義的国家主義の立場を取るようになる。明治後期から大正初期にかけては山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、大浦兼武ら藩閥勢力や軍部と密接な関係を持ち、「御用新聞」とも呼ばれることもあり、政府系新聞の代表的存在となる。 日露戦争終結時には世論に対して講和賛成を唱えたため、1905年(明治38年)9月5日には講和反対を叫ぶ暴徒の焼き討ちに遭ったが(日比谷焼打事件)、憲政擁護運動でも第3次桂内閣を代弁する論陣を張ったため、1913年(大正2年)2月11日に護憲派民衆の襲撃にあっている(第1次護憲運動東京事件、大正政変)。この間1907年(明治40年)9月、日本新聞史上初めて地方版を創設した(千葉版)。また1924年(大正13年)8月21日には、同じく初めて天気図を掲載したことでも知られている。大正中期に大衆化が図られ、東京五大新聞(東京日日・報知・時事・東京朝日・國民)の一角を占めるようになるが、関東大震災の被害を受け社業は急激に傾いた。 1926年(大正15年)5月、甲州財閥の根津嘉一郎の出資を仰いで共同経営に移り、副社長には根津の推薦した河西豊太郎が就任する。やがて根津と徳富は対立し、1929年(昭和4年)1月5日に徳富が退社して『東京日日新聞』に移籍した。一時は「昭和の天一坊」とまで言われた伊東ハンニの手に移るが業績は好転せず、伊東の後継社長に就いた伊達源一郎は1931年(昭和6年)10月に「大夕刊」と称して夕刊紙に転換したものの失敗に終わる。1933年(昭和8年)5月1日、窮した根津は経営を名古屋の新愛知新聞社(現・中日新聞社)に譲渡した。新愛知傘下を期に、編集方針を国防・軍事に重点を置くこととなる。1941年(昭和16年)度には黒字決算に漕ぎ着け、再建に成功した。 1942年(昭和17年)、戦時体制下により『都新聞』と合併することとなり、10月1日『東京新聞』が誕生した。同時に新愛知は東京から撤退を余儀なくされ、『東京新聞』の主導権は都新聞側が握った。しかし戦後の激しい販売競争の中、『東京新聞』は経営不振に陥り、1961年(昭和36年)に東京新聞社は社団法人から株式会社に改組したがその甲斐なく、1963年(昭和38年)、再び新愛知新聞社の後身の中部日本新聞社(現・中日新聞社)が支援することになる。4年後に、発行や営業などのほとんどの事業を中部日本新聞社が引き継いだ。 国民文学欄[編集] 1908年(明治41年)10月1日より「国民文学」欄が開設された。これは、高浜虚子、東春像(俊造(本名)、草水)、嶋田青峰らが担当してできたもので、公平さを旨とし、片上天弦や霹靂火(千葉亀雄、江東)が評論を担当したほか、小宮豊隆、安倍能成など、漱石門下生などもよった。連載小説では、徳田秋声が『新世帯』(1909年(明治42年)10月16日-12月6日)、上田敏が『渦巻』(1911年(明治44年)1月1日-3月2日)を発表したほか、高浜自身2作を発表した。また、森鷗外がイプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の訳を発表をしたのも国民文学欄においてであった。 しかし、1911年(明治44年)秋ごろに高浜が編集を退くと途端に活性を失い、衰退した。 プロ野球大東京軍[編集] 1936年(昭和11年)2月には新愛知新聞がプロ野球に進出し、名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)を結成したのに歩調を合わせ、国民新聞も大東京軍を結成。しかし、不採算のため春のシーズン終了後にプロ野球からは撤退した(松竹ロビンスの項参照)。その後は共同印刷専務の大橋松雄が資本を引き受け、夏のシーズンから「ライオン歯磨本舗」の名で営業していた小林商店(現在のライオン株式会社)をスポンサーに付けたライオン軍と改称。同年暮に大橋の依頼で共同出資者となっていた田村駒治郎がチームを買い取ることとなった。なお、大東京軍創設時に常務となった元國民新聞記者の鈴木龍二はその後もプロ野球界で長く要職を務めることになる。 その他の「國民新聞」[編集] 以上のとおり、徳富蘇峰創刊による『國民新聞』は現在の『東京新聞』であり、旧『國民新聞』に関する事業が他に譲渡されたことを示す資料はない。しかし、『東京新聞』に合併された後に『國民新聞』を名乗って発行された新聞が他にも存在する。 確認されているのは、1958年(昭和33年)「創刊」[1]のもの(発行:國民新聞社、発行形態:旬刊、出版地:八幡)、1966年(昭和41年)民友社版を「復刊」と称する[2]もの(発行:國民新聞社、発行形態:旬刊、出版地:東京)、1972年(昭和47年)創刊のもの(発行:國民新聞社、発行形態:月刊、出版地:東京)がある。なお、1972年創刊のものは、公式ホームページでは「明治23年 徳富蘇峰創刊」としているものの、上記のとおり歴史的に受け継いでいるのは『東京新聞』であり、徳富とは全く無関係である。また、葛飾区議会議員の鈴木信行が率いる日本国民党の機関紙が『しんぶん国民』である[3]。 参考文献[編集] 國民新聞復刻刊行会編纂『國民新聞9-自617号(明治25年1月)至674号(明治25年3月)』日本図書センター、1988。ISBN

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集美大学 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “集美大学” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年12月) 集美大学(しゅうびだいがく、英語: Jimei University (JMU))は、中国福建省厦門市集美区に本部を置く中国の国立大学である。1918年に設置された。大学の略称は集大(しゅうだい、ジーダー)。 中国福建省厦門市集美区の集美学村に位置している。 この節の加筆が望まれています。 (2017年2月) 1920年、集美大学の全身は民国9年(1920年)に創立された集美学校水産科だ。移り変わりによって、水産科から水産部・水産航海部・高級航海学校・水産航海職業学校・高級水産航海職業学校まで名付けられた。 1958年、水産学校と航海学校に分かられた。文化大革命の期間、航校は嘗て厦門大学の海洋系に合併されたこともあった。 1972年、集美航海学校が再開された。 1978年、集美航海専科学校(大専)に昇格した。

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アレハンドロ・セゴビア – Wikipedia

アレハンドロ・セゴビアAlejandro Segovia 楽天時代(2015年、さいたま市営浦和球場にて) 基本情報 国籍 ベネズエラ 出身地 ヤラクイ州サン・フェリペ 生年月日 (1990-04-27) 1990年4月27日(31歳) 身長体重 181 cm85 kg 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 捕手、内野手

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ももいろ夜ばなし – Wikipedia

『ももいろ夜ばなし』(ももいろよばなし)は、ももいろクローバーZが行うライブシリーズの1つ。その模様を収録したDVD、およびBlu-ray Disc作品も発売されている。 ダンスはほとんど行わず、歌の世界観を伝えることに特化した完全着席制のライブ。既存の持ち歌を歌う場合でも、ほとんど動かない範囲での振り付けになっている。演奏はアコースティック編成のバンドが生演奏を行う。また、メンバーの持ち歌以外に、過去の名曲のカバーや、ゲストとのセッションが披露される。 目次 1 ももいろ夜ばなし第一夜「白秋」 1.1 開催の経緯 〜佐々木彩夏と「秋桜」〜 1.2 セットリスト 2 ももいろ夜ばなし第二夜「玄冬」 2.1 セットリスト 3 出典 4 外部リンク ももいろ夜ばなし第一夜「白秋」[編集]

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村上春樹にご用心 – Wikipedia

この記事の主題はウィキペディアにおける書籍の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “村上春樹にご用心” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年11月) 『村上春樹にご用心』(むらかみはるきにごようじん)は、内田樹が著した文芸評論、エッセイ。「村上春樹関係のテクストのほぼすべてを網羅したアンソロジー」[2]本である。 本書は、(1) 最初の単行本、(2) 増補版、(3) 増補版の文庫版、と3種類あり、それぞれ内容が異なる。 (1) 『村上春樹にご用心』 / アルテスパブリッシング / 2007年9月29日

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ラリー&リー – Wikipedia

『ラリー&リー[注釈 1]』(Larry & Lee)は、アメリカ合衆国のフュージョン・ギタリスト、リー・リトナーとラリー・カールトンが1995年に連名で発表したスタジオ・アルバム。日本で先行発売された[3]。 リトナーとカールトンは、過去にスタジオ・ミュージシャンとして同じアルバムに参加したこともあり、スティーリー・ダンのアルバム『彩(エイジャ)』(1977年)収録曲「ディーコン・ブルース」では両名の演奏がフィーチャーされているが[4]、正式なコラボレーションは本作が初めてである[5]。 本作にはリトナーとカールトンのオリジナル曲が5曲ずつ持ち寄られ、唯一両名が共作した「ロウ・ステッピン」では、カールトンの曲「ハイ・ステッピン」(1986年のアルバム『アローン・バット・ネヴァー・アローン』収録)のイントロのサンプリングが使用された[6]。また、「L.A.アンダーグラウンド」では、リトナーのアルバム『ウェス・バウンド』(1993年)からのオルガンおよびドラム・サウンドのサンプリングが使用された[6]。 反響・評価[編集] アメリカでは『ビルボード』のコンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートで2位に達した[7]。第38回グラミー賞では最優秀コンテンポラリー・ジャズ・パフォーマンス賞にノミネートされた[8]。 スコット・ヤナウはオールミュージックにおいて5点満点中3.5点を付け「2人のギタリストが申し分なく互いを補完し合っており、ウェス・モンゴメリーからの影響がほのめかされているのに加えて、ジョー・パスに捧げられた曲もある」「全体的に軽めの音楽で、そこそこ心地好いが、特に刺激的な瞬間はない」と評している[9]。また、『CDジャーナル』のミニ・レビューでは「ラリーとリーは力任せに弾かず、湧きでる心のブルースで会話しているかのよう。フレッシュな大人の味」と評されている[1]。 1. 3. 5. 7. 9.はリー・リトナー作曲、4. 6. 8. 10. 11.はラリー・カールトン作曲、2.はリトナーとカールトンの共作。 クロスタウン・キッズ –

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古川音座衛門 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “古川音座衛門” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2022年1月) 『古川音座衛門』(ふるかわ おとざえもん)は、朝日放送ラジオ(ABCラジオ)で2021年10月3日から2022年3月26日まで土曜日の夕方(基本として17:00 – 17:55)に放送されている音楽番組。朝日放送テレビアナウンサー・古川昌希の冠番組でもある。 1987年生まれで2011年に朝日放送(当時)へ入社した古川が、入社10年目で初めてパーソナリティを務める音楽番組[1]。『武田和歌子 タソガレレストラン』(先輩アナウンサーの武田和歌子がパーソナリティを担当した音楽番組)から放送枠を引き継いだが、同番組と違って生放送である。 当番組では、古川が育った平成時代の日本で流行した楽曲を紹介。自身の半生、流行した背景、歌唱や演奏に携わったアーティストの現況などを織り込みながら、音楽の楽しさを後世に伝える。 2022年には、1月1日が土曜日であったことから、放送枠を16:00 – 17:55に拡大。『謹賀新年!古川音座衛門』[2]と題した生放送で、鈴木淳史との音楽談義を繰り広げた。 古川は平日の夕方に『キャスト』(朝日放送テレビの関西ローカル向け報道・情報番組)でサブキャスターを務めながら、土曜日の夕方に当番組へ出演してきた。しかし、朝日放送グループでは2022年の4月改編で、当番組を3月26日、『キャスト』を4月1日で終了させることを決定。古川は4月1日から、ABCラジオで毎週金曜日の早朝に『おはようパーソナリティ古川昌希です』を担当する。その一方で、翌2日以降は、『上田剛彦のなにわ音楽ハツラツ団』(『キャスト』の最終メインキャスターで古川の先輩アナウンサーでもある上田剛彦の冠番組)が当番組の放送枠を継承する[3]。 ^

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小野郁 – Wikipedia

小野 郁(おの ふみや、1996年10月23日 – )は、福岡県久留米市出身[2]のプロ野球選手(投手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。 プロ入り前[編集] 南薫小学校2年生の時に「南薫エンゼルス」で軟式野球を始め、ポジションはキャッチャー。6年生時にはホークスJr.にキャッチーで選出された。櫛原中学校では硬式野球の「久留米中央ボーイズ」でプレーした。2年時後半から投手に転向した。3年の夏に全国大会で立田将太と投げ合い敗れている。西日本短大附属高校では1年生時の夏にベンチ入りし、秋にはエースになった[2]。3年生時の夏の甲子園・福岡大会では初戦から7回完封、9回完封、9回2失点完投、9回4失点完投で勝ち進んだが、準々決勝で清水優心、古澤勝吾、山本武白志ら擁する九州国際大付属高校に8失点を喫し7回コールド負けで敗退した[3]。高校通算25本塁打の「二刀流」だったが、3年生時の6月に学校の階段で転倒し左手首を骨折してからは投手に専念した[2]。 2014年10月23日に行われたプロ野球ドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスに2巡目で指名され[4]、契約金6000万円、年俸600万円(金額は推定)で合意し[5]、入団。背番号は15[6]。プロ入り時には「最初は投手一本で勝負したい」と話した[5]。 楽天時代[編集] 2015年6月29日に行われた「侍ジャパン大学日本代表 対 NPB選抜」のNPB選抜チームのメンバーに選出されていたが、6月25日に出場が安樂智大に変更された[7]。8月18日に初めて一軍に昇格すると[8]翌19日の埼玉西武ライオンズ戦でプロ初登板を果たし、1イニングを投げて無安打3四死球2失点という内容であった[9]。9月13日に登録を抹消されると[10]そのまま二軍でシーズンを終え、ルーキーイヤーは一軍で4試合に登板した。 2016年は7月5日に一軍登録をされ[11]、その後は抹消と再登録を2度経験しながらも[12][13]この年は前年を上回る11試合に登板した。 2017年は9月16日に一軍へ昇格したが[14]、同22日に登録抹消となり[15]、この年の一軍登板は2試合にとどまった。オフに背番号が28に変更されることが発表された[16]。 楽天時代(2018年) 2018年は5月16日に一軍登録されるも[17]6月3日に登録を抹消され[18]、その後は再登録と抹消を2度経験し[19][20]、この年は9試合の登板で0勝1敗・防御率3.48という成績であった。イースタン・リーグでは39試合の登板で3勝3敗20セーブ・防御率1.86を記録し、同リーグの最多セーブに輝いた[21]。 2019年は4月12日に一軍へ昇格するも[22]同25日に登録抹消[23]。6月23日に再登録されたが[24]、8月22日に登録を抹消されると[25]そのまま二軍でシーズンを終え、この年は13試合の登板で防御率6.27という成績であった。イースタン・リーグでは35試合の登板で2勝3敗14セーブ・防御率3.32を記録し、同リーグの最多セーブを2年連続で獲得した[26]。 ロッテ時代[編集] 2019年12月19日、千葉ロッテマリーンズからFA権を行使して楽天に入団した鈴木大地の人的補償としてロッテへ移籍することが発表された[27]。背番号は37[28]。チームに同姓でコーチの小野晋吾が在籍しているため、ユニフォームの背ネームは「F.ONO」となった。 2020年は新型コロナウイルスの影響で120試合制の短縮シーズンとなり、開幕も延期されたが、6月19日の開幕を初めて一軍で迎えた[29]。同24日のオリックス・バファローズ戦でプロ初ホールドを記録すると[30]、26日の同カードではプロ初勝利を挙げた[31]。チーム内の新型コロナウイルス集団感染で10月に戦列を離れた時期もあったが[32][33]、ビハインドゲームでの登板を中心に一軍のブルペンを支え、この年は40試合の登板で2勝2敗4ホールド・防御率3.23を記録し、特に8月以降は26試合の登板で防御率2.22と安定したピッチングを披露した[34]。オフに1100万円増となる推定年俸1700万円で契約を更改した[35]。

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スクイーズ (バンド) – Wikipedia

「スクイーズ (バンド)」のその他の用法については「スクイズ」をご覧ください。 スクイーズ (Squeeze) は、1970年代にデビューしたイギリスのポストパンク、ポップ・バンド。アメリカでのデビュー時、同名のバンドが存在したため、一時期「UK Squeeze」と名乗っていた。 1974年、クリス・ディフォード(ギター、ボーカル)、グレン・ティルブルック(ボーカル、ギター)、ジュールズ・ホランド(キーボード)、ポール・ガン(ドラムス)で結成。 1976年、ハリー・カクーリ(ベース)が加入し、ドラムスがガンからギルソン・レイヴィスに交代。 1978年、アルバム『スクイーズ』でデビュー。 1979年、アルバム『クール・フォー・キャッツ』発表。アルバム発表後ベースはカクーリからジョン・ベントレーに交代。シングルカットされた「Cool for Cats」、「Up The Junction」が全英チャート2位を獲得する。 1980年、アルバム『アージーバージー』発表。ホランドがソロ活動のためバンドを抜け、代わりにポール・キャラックが加入。 1981年、アルバム『イースト・サイド・ストーリー』発表。初のUSチャート入り。キャラックがボーカルを取った「Tempted」もUSチャート8位まで上昇するが、キャラック自身はソロ活動のためアルバム発表後脱退。キーボードはドン・スノーに交代する。 1982年、アルバム『甘い誘惑』を発表。セールスはそこそこではあったが好意的な評価を得られなかったことやツアーのストレス、バンド・メンバー間の対立等が表面化、シングル1枚をリリース後ディフォードとティルブルックがバンドを抜け解散。2人は「ディフォード&ティルブルック」名義で活動を続ける。 1985年、オリジナル・メンバーを中心にベースにキース・ウィルキンソン、シンセサイザーにアンディ・メトカルフェを加えて6人体制で再結成。 1989年、メトカルフェが抜ける。 1990年、ライブ・アルバム発表後、ホランドが音楽番組『ジュールズ倶楽部

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漢鏡 – Wikipedia

漢鏡(かんきょう、拼音: Hàn jìng)は、中国の漢代(紀元前202年から紀元後220年)に作られた銅鏡の総称。多くが白銅鏡[注釈 1]で、主として化粧道具として用いられた。形状は円形が多く、前漢鏡は鏡面が平坦なものが多いが、後漢鏡以降には凸面鏡が増加する。鏡背(姿を映す鏡面の裏)には、当時の宇宙観や神仙思想[注釈 2]による文様や銘文が描かれた。それらにより分類された「鏡式」は考古学の分野で遺物・遺構の年代を推定する手がかりとされる。特に銘文に年号を記す「紀年銘鏡」は、年代研究に極めて重要な役割を果たしている。また漢鏡の図像や銘文の研究は中国の思想史・文学史でも注目されている。 また、漢王朝が朝貢国への返礼として周辺国へ贈与したと考えられる漢鏡が、日本・朝鮮半島・ベトナム・中央アジアなど東アジアの広い範囲から出土する。これは漢王朝の交流範囲を示すとされる[注釈 3]。日本には主に朝鮮半島の楽浪郡を窓口として漢鏡がもたらされたと考えられ、弥生時代を中心に古墳時代初頭ごろまでの遺跡から出土する。その多くは有力者の副葬品だが、集落遺跡や祭祀遺跡からも出土し、威信財あるいは呪具として用いられたと考えられている。 漢鏡は、漢王朝滅亡後も模倣鏡が製作されるなど、後世の銅鏡に影響を与えた。こうした製作された時代や場所を限定せずに漢鏡の特徴を持つ銅鏡を総称して漢式鏡と言うが、本稿ではこれにも一部触れる。 宋代に儒学の行き詰まりを打開するため、古代銅器への回帰が試みられるようになる。これを受けて12世紀に編纂された『重修宣和博古図録』には漢代から唐代までの銅鏡が収録された。これには、鏡の名称を「時代+文様と銘を組み合わせ」で記し、線描図、銘文の釈文、面径や重さなどが記され、これ以降に作成される資料の模範となった。明代になると、古詩に対する関心が高まり、古鏡の銘文研究が行われる。また、明代末には西洋文化の影響で実学が重んじられるようになり、1637年の『天工開物』では古鏡の鋳造技術についての考察も記されている。清代に至ると、考証学が盛んになり金石学が見直され、1755年には『西清古鑑』が編纂された。1787年には銭坫が『浣花拝石軒鏡銘集緑』を著し紀年銘を含む銘文の研究が深化した。日本では江戸時代に遺跡から出土する鏡への関心が高まった。1822年には三雲南小路遺跡から中国鏡が出土し、青柳種信は古代中国の墓制を念頭にこれを漢鏡と鑑定した。明治時代になり三宅米吉は『古鏡』(1897年)において、銅鏡の部分名称を定めて鏡式の命名規則を作ろうと試みた。しかし、その一方で清での金石学への関心は薄かった。 1910年代に至ると、日本国内で漢鏡研究が飛躍的に向上する。朝鮮総督府を中心とした楽浪墳墓の発掘で多数の漢鏡が出土し、紀年銘鏡の存在が知られた事で年代論に関心が集まった。また、辛亥革命で亡命した羅振玉と王国維により金石学への注目も集まった。1915年に山田孝雄は『古鏡の銘について』を著し、銘文研究から前漢鏡・王莽鏡の実態を明らかにし、漢代から六朝代までの変遷を明らかにした。また、1920年に富岡謙蔵は『古鏡の研究』を著し、様式論から鏡の変遷を試みた。これらにより、現代まで継承される型式学的な分類・編年研究の基礎がつくられた。これを引き継いだ梅原末治や後藤守一、関野貞らによって編年・地域性などの研究が深化され、また近重真澄らによって理化学的研究が始められた。同時期に、欧米でも中国考古学への関心が高まった。スウェーデンのカールベックは戦国鏡から漢鏡への変遷の手がかりとなる論考を記し、ドイツのヒルトは東アジアにおける中国鏡の用途について考察した。スウェーデンのカールグレンは『詩経』を元に上古音を復元し、漢鏡銘の押韻・仮借・字句を解説した。以上のように、20世紀前半は中国において銘文考証、日本において編年、欧米において文化史の研究が平行して行われた。 第二次世界大戦後に中国国内で大規模開発が行われるようになり発掘が続く。1953年に洛陽焼溝漢墓で225基の漢墓が発掘され、前漢中期から後漢後期までの漢墓と漢鏡を含む副葬品の編年が行われた。これ以降も調査数は増加して多くの発掘調査報告書が刊行され、漢鏡の資料が蓄積されていく。これを受けて、樋口隆康の『古鏡』(1979年)や孔祥星・劉一曼の『中国古代銅鏡』(1984年)により鏡式ごとの編年が体系化され、同時に墓制や他の文物との並行関係が明らかにされた。さらに、岡村秀典による研究により鏡式間の平行関係が明らかになり、それらを包括する漢鏡を7期に大別する編年が提唱された。日本では1971年に岡崎敬が、北部九州の甕棺墓から出土する漢鏡について研究し、甕棺を含む土器編年との並行関係を検証し、弥生時代中期以降に実年代を落とし込んだ。田中説は長く定説にならなかったが、他の分野の研究が進み、現在では大枠として追認されている。 また、1970年頃から文学史から小川環樹・玉田継雄らにより漢鏡の銘文研究が行われるようになり、思想史からは内野熊一郎・笠野毅らが考察を行った。しかし、考古学・文学・哲学の共同研究はなおも不十分である。2000年代からは、銅鏡の鋳型の発見により鏡生産の実態の研究が進み、また銘文などの研究から鏡工の流派や系統、生産動向にまで研究が及んでいる。 中国での歴史[編集] 漢鏡の変遷と特徴[編集] 中国での銅鏡の歴史は古いが、戦国時代ごろまでは銅礼器と同じ工房で作られ、文様も共通であった。戦国時代を境に銅礼器が衰退する一方で日用品としての銅鏡の需要が高まり、銅鏡の生産が他の青銅器生産から独立して文様も独自の発展を遂げる。特に後漢代に至ると民間工房が形成され、互いに競いながら新たな鏡式を生み出していった。後漢王朝末期からは混乱期となり、三国西晋時代までは新たな鏡式が創出されれなくなる。そのため後漢鏡の複製あるいは後漢鏡を改変した創作模倣鏡と呼ばれる鏡群が生産され、漢王朝滅亡後も漢鏡の影響がしばらく続いた。 漢鏡の編年に関しては、前漢鏡・王莽鏡・後漢鏡に分類するのが一般的であったが、近年では岡村秀典 (1999, p. 1-5)による漢鏡1期から漢鏡7期に様式区分する編年案が広く受け入れられている[注釈 4]。 漢鏡の編年(岡村編年)

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