陝西汽車控股集団 – Wikipedia

陝西汽車控股集団(せんせいきしゃここしゅうだん 中国語:陕西汽车控股集团有限公司 英語:Shaanxi Automobile Group Co., Ltd. 略称:陕汽控股、陕汽集団)は、中国、西安市に本拠を置く自動車メーカー。軽自動車、バス、トラック、軍用車両、特殊車両、車軸などの開発や製造を行うほか、カミンズ製エンジンのライセンス生産も行う[5]。また、中国人民解放軍向けの大型車両に関する主要サプライヤーであり、50年に渡り軍用車両の研究開発と製造も手掛けている[5]。 グループは1968年に設立された陝西自動車工場(陕西汽车制造厂)が前身となっており、2020年時点で従業員数は2万8千名を数え、資産総額は590億元(約6兆2300億円)であり、自動車製造、運輸、研究開発の3つのコアブランドを抱え[6]、6社の主要子会社の他に100を超える関連子会社で構成される。 1964年、戦争と飢餓に備えることを主な目的とした中華人民共和国国家計画委員会によって計画された大規模な国家インフラストラクチャ建設計画である「三線建設」に基づき、中国第二自動車製造工場(東風汽車集団)、四川汽車製造工場(上海依維柯紅岩)と共に、陝西自動車の設立が国家計画委員会に承認されたことで開始され、陝西自動車は陝西省、宝鶏市の岐山県に工場の建設が行われている[7][8][9][10][11]。 1968年2月28日、陝西自動車の準備事務所が開所しており[12]、この年の6月に第一機械省自動車局主導により北京自動車製造工場(北京汽車)、南京自動車工場エンジン支店(南京汽車)、杭州自動車エンジン工場(広州汽車集団)3社による陝西自動車の主要製造ラインでの製造に関する契約が取り交わされている[13]。また、工員に関しては北京自動車と南京自動車から陝西自動車に対して1,100名の人事異動が行われている[9][14]。これにより5トン積みの軍用不整地向けトラックの開発を開始しており、12月に「SX250」5トン積み不整地トラックの試作車が完成している。なお試作車はその後、中国の核実験施設での廃棄が行われている[15]。 1969年に製造を開始し[7]、試作車である「SX250」は1970年12月26日に軍に対し納入が行われており[16]、その後4回に渡る試験や改良が加えられ、最終的に1974年に完成している[7]。1975年には工場の全てが完成したことで民間向け一般車両の開発も開始しており[14]、1978年に工場の検査に合格したことで本格的な稼働が開始されている[8]。その後、13.5トン積みのトラックや12トン積みのダンプトラックなど次々と車両開発を行っている[7]。 1985年12月にオーストリアのシュタイア・ダイムラー・プフから「シュタイアー91」の製造に関する技術供与を受けたことで、現在の西安に組み立てと車体製造に関する新工場の建設を開始しており[8][17]、1987年に製造が開始されている。1988年6月3日、陝西自動車工場から陝西自動車本工場へと改称を行っている。 海外市場ではトラックはMANと協力したことで双方の名称からシャクマン(Shacman)ブランドとして販売され、バスシャシーシはユーロスターバス(EurostarBus)ブランドとして販売が行わており[18]、車両製造に関しMANのほかにマグナ・シュタイアの技術なども導入されている[19]。 シュタイヤー91ベース車両であるバングラデシュ軍のSX2190(国連平和維持軍仕様車) 外部リンク[編集]

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ショッピングひまわり – Wikipedia

株式会社ショッピングひまわりは埼玉県で「ショッピングひまわり」の屋号でスーパーマーケットを展開していた企業。 1972年に会社が設立された。CGCグループの加盟企業でもあった。全盛期には埼玉北部に10店舗、他の中小スーパーと提携を組み仕入れ先を1つにするアインツグループを設立。ひまわりはアインツグループのコアメンバーだった。 2003年に埼玉県内でディスカウントストアやパチンコ店を運営する武蔵産業に買収され、武蔵産業の子会社となり、創業から会社を支えてきた創業者一族はスーパー業から撤退。営業スタイルをディスカウントスーパーに変更。 2009年に不正競争防止法違反(食品偽装問題)で社員が逮捕される事件が起きた(後述の#食品偽装問題)。 2014年8月15日 親会社の武蔵産業と共に東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請し、同日保全命令を受けた[1][2]。 2016年6月30日に法人格が消滅した[3]。 このうち、経営破綻直前まで営業していたのは伊奈中央店だけであった。 本店(閉鎖後一時酒量販店として営業) 青葉団地店 羽生東店 宮代店(現在、ドラッグストア セキ宮代店) 鷲宮団地店 鷲宮旭町店 久喜本町店 幸手香日向店(武蔵産業が2009年9月、激安市場 幸手香日向店を開店) 五霞原宿台店(2010年9月閉店。現在、ウエルシア茨城五霞店) 伊奈中央店(ギガ物産に譲渡され、2015年2月ギガパール伊奈店としてリニューアル) 食品偽装問題[編集] 2008年7月から9月にかけて、幸手香日向店など3店舗で、北海道小樽市の業者が製造した生キャラメルをパック詰めし、「花ばたけぼくじょうの生キャラメル」のラベルを貼り、タレントの田中義剛が経営する「花畑牧場」製の生キャラメルと混同させるような宣伝・販売をしていたことがわかった。同年10月から花畑牧場側が埼玉県警に偽物が売られていると告訴、県警は2009年3月12日に仕入担当の係長を不正競争防止法違反(混同惹起)容疑で逮捕した。また、捜査の過程で、花畑牧場製の生キャラメルと同じ物か成分の分析を行っていたところ、久喜本町店で販売した生キャラメル1袋(10粒入り)からメラミン0.5ppmを検出したと2008年10月24日に発表した。健康被害の報告はない。県警は混入の経緯も調べている。これを受け同社は生キャラメルを購入した客に返金の措置を執った。返金額や生キャラメルの売れ残りなど損失は60万円以上となり、2009年2月に幸手香日向店など4店を閉鎖している[4][5][6]。

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ファーティマ朝のエジプト侵攻 (919年-921年) – Wikipedia

919年から921年にかけて起こったファーティマ朝のエジプト侵攻(ファーティマちょうのエジプトしんこう)は、失敗に終わった914年から915年にかけての一度目の侵攻(英語版)に続くエジプト征服を目標としたファーティマ朝による二度目の軍事侵攻である。この遠征は前回の遠征時と同様にファーティマ朝のカリフの後継者に指名されていたアル=カーイム・ビ=アムル・アッラーフ(英語版)が指揮を執った。 一度目の侵攻時と同様にファーティマ朝の軍隊は容易にアレクサンドリアの占領に成功した。その一方でエジプトの首府であるフスタートを守るアッバース朝の守備隊は俸給の不足による戦意の低下によって弱体化していたが、カーイムはこの状況を利用して914年の侵攻時のようにフスタートへの即時攻撃に出ることはなかった。920年3月にはタルスースから派遣されたアッバース朝の艦隊がファーティマ朝の艦隊を壊滅させ、さらにバグダードからムウニス・アル=ハーディム(英語版)に率いられたアッバース朝の援軍がフスタートに到着した。これに対してファーティマ朝軍は920年の夏にファイユーム・オアシス(英語版)を占領し、921年の春には上エジプトの大部分を支配下に収めたが、ムウニスはファーティマ朝の軍隊との表立った対立を避けてフスタートに留まった。その間、両者は外交戦と宣伝戦を繰り広げ、特にファーティマ朝側はイスラーム教徒の民衆の支持を取り付けようとしたものの、この試みは成功しなかった。そして921年の5月か6月にアッバース朝の艦隊がアレクサンドリアを奪回したことでファーティマ朝の遠征は事実上失敗に終わった。その後アッバース朝軍がファイユームに進軍すると、カーイムはファイユームを放棄して砂漠から西方へ逃れることを余儀なくされた。 ファーティマ朝は二度目の遠征の失敗後も数度にわたってエジプトを攻撃したものの、本格的な侵攻は何年ものあいだ実行に移されることはなかった。それでもなお、その後の数十年の間にアッバース朝が衰退した一方でファーティマ朝は国力を蓄えることに成功し、969年に実行された大規模な遠征によってほとんど抵抗を受けることなくエジプトの征服に成功した。 920年頃の地中海世界の勢力図 ファーティマ朝は北アフリカのイフリーキヤにおいてベルベル人のクターマ族から協力を得てアグラブ朝の支配を打倒し、909年に政権を樹立した。アッバース朝の西端における地方政権として留まることに甘んじていたアグラブ朝とは対照的に、ファーティマ朝はイスラーム世界の統一を主張した。イスラーム教シーア派の一派であるイスマーイール派の指導者であり、イスラームの開祖ムハンマドの娘でアリー・ブン・アビー・ターリブの妻であるファーティマの子孫を主張していたファーティマ朝の支配者たちは、スンニ派のアッバース朝を簒奪者とみなし、アッバース朝の支配を打倒してその地位を奪うことを目標としていた。初代のファーティマ朝の支配者となったウバイドゥッラーは、910年初頭にアブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ(英語版)と名乗り、自らをイマームでありカリフであると宣言した。 このような王朝の理念に従い、ファーティマ朝はイフリーキヤにおける支配の確立に続く次の目標を、シリアと敵対勢力のアッバース朝の本拠地であるイラクへ続く途上に位置するエジプトに定めた。914年から915年にかけて、カリフのマフディーの後継者に指名されていたアル=カーイム・ビ=アムル・アッラーフ(英語版)が最初の侵攻(英語版)を率い、キレナイカ、アレクサンドリア、そしてファイユーム・オアシス(英語版)を占領したものの、エジプトの首府であるフスタートの占領には失敗した。シリアとイラクからムウニス・アル=ハーディム(英語版)の率いる援軍が到着するとカーイムはイフリーキヤに撤退し、その結果キレナイカの支配も失った。 キレナイカの奪回[編集] この失敗にもかかわらず、ファーティマ朝はすぐさまキレナイカの奪還を最初の目標とするエジプトへの再侵攻の計画を立て始めた。そして917年4月には18か月に及ぶ包囲戦の末にキレナイカの首府であるバルカ(英語版)を降伏させ、最初の目標を達成した。バルカの住民に対する処罰は厳しく、多くの住民が大挙してアレクサンドリアへ逃れた。アッバース朝のエジプト総督であったズーカ・アッ=ルーミー(英語版)はアレクサンドリアの守備隊を増強した。 エジプトでは9世紀初頭以降バグダードからの支配に反発するようになっていたため、ファーティマ朝は確実に同調者の確保に成功していた。ズーカはファーティマ朝のカリフであるマフディーやその息子のカーイムと連絡を取り合っていた何人かの人々を処刑しなければならなかった。 エジプトへの侵攻[編集] 919年4月5日に再びカーイムが軍隊を率いてラッカーダ(英語版)を出発し、エジプトの征服に向けた二度目の遠征が始まった[注 1]。 アレクサンドリアの占領とギーザの要塞化[編集] 934年から946年にかけてファーティマ朝のカリフであったアル=カーイム・ビ=アムル・アッラーフのディナール金貨。カーイムは父親の後継者として、初期のファーティマ朝による二度のエジプトへの侵攻を指揮した。 ファーティマ朝軍の前衛部隊が919年7月9日にアレクサンドリアの前に到着し、カーイムの率いる本隊は9月から10月の間に到着した。アレクサンドリアの知事であったズーカの息子のムザッファルは、919年7月のファーティマ朝の遠征軍の到来に驚き、側近や多くの住民とともに戦わずして逃亡した。アレクサンドリアはかつて一度ファーティマ朝の統治権を受け入れていたために、即座にこの逃亡は反乱を起こしたものとみなされ、都市はファーティマ朝の軍隊による略奪を受けた。 ズーカ・アッ=ルーミーの状況は危機的であった。前回のファーティマ朝の侵攻時にはフスタートの住民の大部分は都市を守る努力を支援するべく都市に留まり、戦闘のために武装していたが、今回はパニックが広がり、資産を持つ人々はエジプトを離れてシリアに逃れた。さらに守備隊は俸給の不足によって戦意を欠いており、実際に多くの将校が自身の部隊とともにパレスチナへ逃亡した。 914年の時と同様に、ズーカは少数となった部隊をフスタートからナイル川を挟んで対岸に位置し、ローダ島とフスタートを結ぶ舟橋が架かっていたギーザに集中させた。そして橋頭堡の防備を強化し、自軍のために砦と要塞化された陣地を築いた。そしてその直後には新しいエジプトの財務長官であるアル=フサイン・アル=マーザラーイー(英語版)が未払いとなっていた俸給を常備軍へ支払うのに十分な資金を携えて到着した。しかしながらズーカは8月11日に死去し、後任としてズーカの前任者であったタキーン・アル=ハザリー(英語版)が再びエジプト総督に任命された。タキーンがフスタートに到着したのは920年1月になってからであったが、着任後すぐにギーザの陣地の周囲へ二つ目の掘を築くように命じた。 アッバース朝の反撃と海戦での勝利[編集] 一方でファーティマ朝軍を率いるカーイムは、かつてのトゥールーン朝のワズィール(宰相)であるアブー・バクル・ムハンマド・ブン・アリー・アル=マーザラーイー(英語版)をはじめとする何人かの要人と連絡を取り合っていたにもかかわらず、914年の時とは異なり、フスタートの駐屯地の弱点を突いてギーザを襲撃するような動きは見せなかった[注 2]。また、その年の残りの期間は増援部隊の到着が続いていたためにアレクサンドリアに留まり続けた。これらの援軍の中には宦官のスライマーンが率いる80隻のファーティマ朝の艦隊(英語版)も含まれていた。

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白井浩司 – Wikipedia

白井 浩司(しらい こうじ、1917年10月19日 – 2004年11月1日)は、フランス文学者。慶應義塾大学名誉教授。 目次 1 人物 2 著書 2.1 共著編 2.2 翻訳 3 脚注 東京府生まれ。早川千吉郎の三男だが次男とともに白井秀の養子となり、白井姓を名乗る[1]。暁星中学校を経て慶應義塾大学文学部仏文科卒。1942年NHK国際局海外放送フランス語班に勤務、45年9月NHK退職、47年慶應義塾大学予科講師、サルトルの『嘔吐』を翻訳し、実存主義ブームのきっかけを作り、その後もカミュ、ロブ=グリエなどを翻訳紹介、58年慶應義塾大学文学部教授、66年第2回辰野隆賞受賞、76年フランス政府より教育功労章授与。1978年『アルベール・カミュ その光と影』で読売文学賞受賞。82年定年退任し名誉教授。 『小説の変貌 現代フランス作家をめぐって』白水社

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ユナイテッドネイションズステークス – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ユナイテッドネイションズステークス” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年4月) ユナイテッドネイションズステークス(United Nations Stakes)は、アメリカ合衆国ニュージャージー州のモンマスパーク競馬場にて開催されるサラブレッド競馬の競走である。 1953年にアトランティックシティ競馬場で創設された競走である。1998年に開催が休止された後、1999年に現在のモンマスパーク競馬場に移設された。当初はハンデキャップ競走のユナイティッドネイションズハンデキャップ(United Nations Handicap)として創設され、1990年からはシーザーズインターナショナルハンデキャップ(Caesars International Handicap)に改称された。その後1999年より以前の名称に戻り、2004年になって負担重量が別定に変更、そのため競走名から「ハンデキャップ」が消えた。 芝11ハロンで施行される競走で、アメリカ東海岸地区の芝中長距離路線における主要G1競走のひとつである。ただ、2013年まで同時期には同じく芝路線の主要競走で、負担重量が定量のマンノウォーステークスもあったため、斤量で不利を蒙ることが見込まれる有力馬はそちらに流れることも多かったが、2014年からマンノウォーステークスの開催時期が5月に変更されている。このため、この競走にはニュージャージーを拠点とする競走馬がおもに参戦している。1973年にグレード制が開始されるとG1競走として設定され、その後1990年に一度G2へと降格するが、1994年に再度のG1復帰を果たしている。 2008年から2015年まではブリーダーズカップ・チャレンジの対象競走に指定され、優勝馬はブリーダーズカップ・ターフへの出走権が与えられる。 近年の勝ち馬[編集]

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スルメ (お笑い芸人) – Wikipedia

スルメSURUME 生年月日 (1978-11-04) 1978年11月4日(43歳) 出身地 日本 兵庫県 血液型 O型 芸風 歌ネタものまねフリップ芸チャレンジ 事務所 げんしじん事務所 活動時期 2006年 – 同期 チョコレートプラネットシソンヌすゑひろがりずハライチバービー(フォーリンラブ)など 現在の代表番組 有田ジェネレーション(不定期出演)

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アヴィニョンの橋の上で – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 アヴィニョンの橋の上で アヴィニヨンの橋の上で[1][2] アビニョンの橋の上で[1][2][3][4][5][6] アビニョンのはしの上で[1][6] アビニヨンの橋の上で[2][7][8] アビニョンの橋[1][9] アビニョンの橋の上[1][2] アビニョンの橋で[10] アヴィニヨンの橋で[11] アヴィニョンの橋の上で(アヴィニョンのはしのうえで、フランス語: Sur le Pont d’Avignon)は、15世紀頃に作られたフランス語の歌。アヴィニョンのローヌ川に架かっていたサン・ベネゼ橋を題材にしている。作者は未詳。 邦題はアヴィニョンの橋で(アヴィニョンのはしで)とも表記される。 橋の正式名称は「サン・ベネゼ橋」 (Pont St. Bénézet)

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くじびき勇者さま – Wikipedia

『くじびき勇者さま』(くじびきゆうしゃさま、The Lottery travelers[1])は、清水文化による日本のライトノベル。イラストは牛木義隆が担当。ホビージャパン・HJ文庫刊。全11巻。 ストーリー[編集] フォルティアース大陸東部の宗教都市・サクラスはソルティス教の聖地であり、同じソルティス教を信仰する王国連合帝国の首都でもある。 ソルティス教の教義では、くじびきはソルティス神が行くべき道を示す神聖な儀式とされているが、見習い修道女のメイベル・ヴァイスは10年前に通学する小学校を決めるくじびきで修道院に入れられてから「くじびきなんて大っキライ」と公言してはばからなかった。 そんな折、メイベルはかつて大流行し総人口の3分の2を死に至らしめた原因不明の感染症・デスペラン(ドラゴン病)に似た症状の病気が大陸の西側にある竜の山脈付近から東に向かって拡大していることに気付き、帝国議会は大規模な調査隊を編成するがその調査隊はドラゴンの攻撃を受けて壊滅してしまう。しかも、調査隊壊滅の報で動揺する首都・サクラスでソルティス教を邪教呼ばわりするドラゴン教アサッシニオ派のテロ攻撃が勃発。テロに巻き込まれた買い物帰りのメイベルと大陸の北方・ユーベラス地方出身で警備隊の仕官者を決めるくじに外れ続けている剣士・ナバルは絶妙の連携でテロリストの一味を撃退する。 そして、第二次調査隊編成と同時に議会は「救世の勇者選抜」と題するくじびきの実施を決定。くじの結果、救世の勇者にはナバルが、その従者にはメイベルが選ばれてしまう。 登場人物[編集] 作中で明記されていない人物設定は、原作者のサイトに掲載されている公式設定に拠る。 メイベル・ヴァイス 主人公。サクラス中央教会付きの修道女で、宮廷料理人の資格を持つ16歳[2]。当初は見習い修道女(シスター)で、救世の勇者選抜により正修道女(レディ)に、3番札(第3巻)でデスペラン騒動を解決した功績により聖修道女(セイント)に昇格している。聖暦787年2月23日[3]生まれ。 大陸中西部・シルヴ侯国南部のレヴァイン地方出身。6歳の時に小学校進学を決めるくじびきで修道院へ入れられ、厳しい戒律のもとで窮屈な生活を強いられ続けたことから自分の運命は自分の意思と努力で切り開くべきであると確信すると共に「くじびきなんて大っキライ」と日頃から公言。調理係を志願した理由も「朝の礼拝に参加しなくても済むから」と、おおよそ修道女らしからぬ信仰心の薄さであるが料理の腕前は一流である。博物学に対する興味から様々な知識を習得し、建築学・電気工学・栄養学など研究者顔負けの博識ぶりを誇っており帝国技術研究所で進行している研究の大半に大なり小なり関わっている。 「救世の勇者選抜」で救世の勇者・ナバルの従者に選ばれたことから教会での窮屈な生活からは解放されたものの、デスペラン騒動解決後にある貴族議員の陰謀で処刑されそうになったことからナバルと共に南方へ逃亡の旅に出る。その途中、南方教会の中心地であるラクスで様々な先進的技術に触れると共に驚異的な技術革新をもたらし、南アルテース各都市の内戦を終結させた後、西アルテース軍の侵攻から南アルテースを防衛。デスペラン騒動解決の折からマウンテン・ドラゴンと親交があることから、ソルティス教南方教会に属する諸都市の代表や南アルテース地方西部のドラゴン教徒たちからも推挙され南アルテース連邦共和国の初代大統領に就任。その後もアルテース西南戦争で双方の犠牲者を最小限に留めつつ優位に進め、ビーズマス卿を失脚に追い込む。ところが、ビーズマス卿の失脚に伴う西アルテース新公王の選出で当たりくじを引き、南アルテース大統領と西アルテース女王を兼務することになってしまう。救世の旅から8年後、ナバル・フェオールと結婚。 ナバル・フェオール 大陸北部・ユーベラス地方出身の剣士。ユーベラスの領主・アキロキャバス公からその腕前を高く買われており、帝国剣術大会では準優勝の経験を持つが、警備隊の仕官者を決めるくじに外れ続けているため浪人の身であった。アキロキャバス公に随行してサクラスを訪れた際にメイベルと知り合い、ドラゴン教アサッシニオ派のテロ攻撃に巻き込まれた際には絶妙の連携でテロリスト達を撃退。その後で「救世の勇者選抜」のくじを引き当てたことからメイベルと共に竜の山脈を目指して旅に出ることになる。 警備隊員仕官のくじに外れ続けていたことについて、本人はくじ運が悪いとは思っておらず救世の勇者こそが自分の天職だと考えている。旅の行き先をくじで決めるというルールにメイベルが否定的なのに対しナバルは肯定的であり、ある意味では敬虔なソルティス教徒である。 南方への逃避行に際し、メイベルの博識・多才ぶりに対して剣術しか取り柄が無いことを悩むが行商人に随行して旅をしたことが契機となって会計を習得したり、南アルテース地方で開発されたグライダーの操縦を覚えるなど、徐々に新しい技能を身に付けている。 パセラ・アヴィシス サクラス中央教会でメイベルのルームメイトであった修道女。聖暦786年12月17日生まれ。本来は見習い修道女であるが、貴族議員が偽のくじを作ってメイベル達を陥れようとした事件を未遂に終わらせた際の顛末により一旦、正修道女へ昇格の後に再び見習い修道女へ降格されている。担当は給仕係。東アルテース地方の首都・サンルミネの西側にあった開拓地に築かれた町の出身であるが、その町を襲った大洪水で両親を失いサンルミネの教会に引き取られた。

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