Month: September 2017

小さな王様と約束の国 ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル – Wikipedia

『小さな王様と約束の国 ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』(ちいさなおうさまとやくそくのくに ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル、英語:Final Fantasy Crystal Chronicles: My Life as a King)は、Wii用のサービスであるWiiウェア専用ダウンロードゲームコンテンツ(ソフト)。 2008年3月25日のサービス開始と同時に提供されたゲームコンテンツであり、日本市場で初のニンテンドーWi-Fiコネクション有料サービスに対応したソフトである。 ニンテンドーゲームキューブ版(以下GC版)ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル(以下『FFCC』)の後の話で、FFCCシリーズの第3弾にあたる。2007年10月10日に開催された「ニンテンドーカンファレンス2007秋」にて初めて発表された。FFCCの時代に瘴気によって国を失った国の王様の子供がクリスタルによって授かった建築術によって国を建国していくというゲーム。メーカー側の提示するジャンルは、「国造りRPG」であるが、シミュレーション要素を含んでいる。 作品映像などから前作のGC版『FFCC』と非常に近い世界観であることがわかる。その表れとして、『FFCC』でのゲームの根幹を成していた思い出による世界の循環のシステムを受け継ぎ、人々の思い出が国の建物を生み出す力の元である精霊石を生み出す源泉となっている。また時系列的には『FFCC』の数年後を描く、『FFCC』の続編である[2]。 発表からの経過[編集] 2007年10月10日に開催された「ニンテンドーカンファレンス2007秋」にてWiiウェアの初披露と共に初めて発表された。発表の中で任天堂の岩田聡社長から、本ソフトがWiiウェアで出るゲームの中でお手軽ではない本格的なソフトであることと、既に発表されている『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル クリスタルベアラー』とは別のソフトであることが強調された。 2007年12月22・23日に開催される、ジャンプフェスタ2008に出展した。尚、スクウェア・エニックスのブースのオープンメガシアターで本ソフトのトレーラーが流れる予定。また、そのオープンメガシアターと、クローズドメガシアターのどちらでもムービーを見るとポストカードが14枚もらえ、そのポストカードの中に、『小さな王様と約束の国 FFCC』のポストカードが、1枚付いてくる。 2007年12月14日、『小さな王様と約束の国

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さとうけいいち – Wikipedia

この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 さとう けいいち(1965年12月18日[1] – )は、日本のアニメ監督、アニメーター、メカニックデザイナー。 なお、佐藤敬一と漢字で表記されることがあるほか、室井聖人という別名義も用いている[2][3]。 香川県出身[4]。学生の頃は音楽系のビデオクリップのディレクターを目指していたが、当時の漫才ブームによってエンターテインメントとしてのお笑いに興味を惹かれ、お笑いの世界に入る[4]。しかし、学生時代からの友人だった相方が、置き手紙を残していなくなる[4]。 「自分は何をやっているのだろうか」と将来への不安を抱えつつも明確な方向性を見出せぬまま、人伝に紹介されたテレビ局の仕事をこなしていた。バラエティ番組の技術スタッフや刑事アクションもののテレビドラマなどに関わった後、アニメーションスタジオに勤めていた同居人を訪ねてきたアニメーターの湖川友謙との出会いをきっかけとして、アニメの仕事に関わるようになる[4]。初監督作品はOVA『鴉 -KARAS-』[1]。 2000年代に入ってからは特撮にも関わり、『百獣戦隊ガオレンジャー』『忍風戦隊ハリケンジャー』『爆竜戦隊アバレンジャー』『ウルトラマンマックス』『非公認戦隊アキバレンジャー』などのキャラクターデザインを担当する[4]。『ガオレンジャー』への参加は、『THE ビッグオー』に参加していた脚本家の赤星政尚からの紹介によるもので、初期にはヒーロー側のラフデザインも手掛けている[5]。 2016年にはShort Shorts Film Festival & Asiaの審査員も務めている[6]。 2021年には、Yostar Picturesの制作顧問およびオリジナルIP部門の責任者に就任した[7]。 テレビアニメ[編集]

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広島県立自彊高等学校 – Wikipedia

広島県立自彊高等学校(ひろしまけんりつ じきょう こうとうがっこう)は、広島県福山市加茂町に存在した公立の高等学校である。2011年(平成23年)3月31日を以って閉校した。 跡地は2013年(平成25年)4月1日から広島県立福山北特別支援学校の校地となっている。 歴史 1948年(昭和23年)創立の「広島県神辺高等学校 広瀬分校」を前身とする。本校の改称は2回(広島県神辺高等学校→広島県神辺工業高等学校→広島県立神辺工業高等学校)、分校自体の改称は2回(広瀬→深安→自彊)。1972年(昭和42年)に神辺高等学校から分離の上、「広島県立自彊高等学校」として独立。分校創立から63年目(独立から39年目)の2011年(平成23年)3月末に閉校し、広島県立神辺高等学校に統合された。 設置課程・学科(閉校当時) 全日制課程 普通科 校名 「自彊」(じきょう)という言葉は中国の古い書物である易経の中に出て来る。「天行健、君子以自彊不息」という語句から採用されたもので、「自ら努力し励む」という意味をもっている。 校名決定までの経緯 広島県立神辺工業高等学校より独立する前から自彊分校内で色々と協議がなされた。特に、広島県立福山北高等学校という案が最有力だったという。しかし、特に加茂町と駅家町の有志から由緒ある自彊の名を永く残してもらいたいとの意見が多く寄せられた。その結果、最終的には広島県立自彊高等学校という校名に落ち着くこととなった。[3] 校章 1974年(昭和49年)卒業生の松井千恵美による作品。校章に描かれた月桂樹は、自ら彊めて息まざる者に対して与えられる栄冠を示し、その果実は特に豊作や繁栄と豊かさを表す。さらに、両側の翼は調和を意味すると共に、前途への無限なる発展と飛躍の象徴である。即ち、精神的な豊かさを求めて昼夜を舎からず自ら彊める者にして、創めて栄冠を獲得することが可能であり、更に前途への発展をもより期待することができる意味を表す。 校歌 作詞は守岡誠(制定当時の在職教職員)、作曲者は早川正昭(作曲家、指揮者、広島大学名誉教授)[4]による。原調はニ長調である。しかし、近年ではハ長調に移調した校歌となって歌われたり、記念誌などに掲載されたりしている。伴奏譜は当初から存在しないため、ピアノ伴奏などをする場合は伴奏者が適宜アレンジをする必要がある。 年表[編集] 分校時代

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水野次郎 – Wikipedia

水野 次郎(みずの じろう、1957年 – )は、日本の編集者、教育者[1]。元千葉県立松戸国際高等学校校長。開星中学校・高等学校校長。 愛知県に生まれ、慶應義塾大学文学部に学び、卒業後、福武書店(後のベネッセコーポレーション)に入社して、10年間にわたり幼児雑誌『こどもちゃれんじ』の初代編集長を務め[1]、「「しまじろう」の生みの親」として知られるようになる[2][3]。ベネッセでは、幼児通信教育部長[4]、大阪支社長[5][6]などを歴任した。 2003年にベネッセを退社して[1]、伊東市でプチホテル経営に転じた[5][7]。 2007年、第11回伊豆文学賞に応募した「海師(うみし)の子」が優秀賞に入賞した[1][8]。 2008年、千葉県教育委員会が行なった県立高校の民間人校長採用選考に応募し、全国から27人の応募があった中からただひとり採用された[5][4]。水野は教頭職などを経て[7]、2009年4月1日付で千葉県立柏井高等学校となったが、これは千葉県としては2例目の民間人校長であり、また、当時最年少での校長就任であった[6]。 2012年、小説『ツバサの自由研究〜磯笛の絆〜』を出版した[1][9]。 2013年4月、松戸市立旭町中学校校長へ異動した[10]。 2015年4月、千葉県立松戸国際高等学校校長へ異動した。 ^ a b c d e “ツバサの自由研究”. 出窓社.

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小川清 – Wikipedia

小川 清(おがわ きよし、1922年(大正11年)10月23日 – 1945年(昭和20年)5月11日)は、大日本帝国海軍軍人。 1922年に群馬県高崎市で生まれる。(現・群馬県立高崎高等学校)を経て1942年秋に早稲田大学政経学部へ進学するが、大日本帝国海軍に憧れて1943年12月10日に横須賀第二海兵団に海軍二等水兵として入団する。1944年2月1日に海軍予備学生(14期飛行専修)となり、土浦海軍航空隊に入団すると、学問や飛行訓練などで頭角を現し、同年5月25日に基礎教程を修了、同日付で谷田部海軍航空隊に配属された。谷田部航空隊でも練習機を用いて飛行訓練を行い、同年9月28日に修了、同日付で神ノ池海軍航空隊に入隊した。1944年12月25日に大日本帝国海軍から海軍少尉を拝命し、1945年4月1日から谷田部海軍航空隊附となる。 1945年5月5日に第721航空隊の第306飛行隊に配属されると、5月11日に菊水作戦(菊水6号作戦)が発令された。小川は神風特別攻撃隊第7昭和隊として、鹿屋基地を午前6時40分に離陸。同日午前10時9分、南西諸島沖東方122kmにおいて「ワレ突入ス」との無線の後、友軍機(安則盛三中尉が搭乗)に続いてアメリカ空母バンカー・ヒルの飛行甲板に500kg爆弾を投下後、艦橋と甲板との境あたりに突入し、戦死。享年22。バンカー・ヒルは大破・炎上、死者396名、負傷者264名を出した[1]。小川は二階級特進によって海軍大尉となり、正七位勲五等功三級の金鵄勲章を受けた。 遺品・遺書[編集] 特攻を受けて炎上するバンカー・ヒル 1945年当時、バンカー・ヒルの乗組員だったロバート・ショック(2000年11月7日没)は、被害後のバンカー・ヒルの処理を行なっているとき、炎上せずに残っていた小川機を発見。機内に残っていた遺品を持ち帰って大切に保管していた。これを形見として受け取ったロバートの孫が、小川の遺品を遺族に返還したいと会社の通訳業である上司の妻(日本人)を介して、2001年3月27日にサンフランシスコで返還した。小川の実兄は2000年4月に死去していたため、小川の義理の娘母子に返還された。 遺品は「名前が書かれた布片」「戦友からの短歌が書かれた手紙」「戦友達と写った写真2枚」「懐中時計」「落下傘の留め金・製造票」「日本の紙幣」「軍票」である。 小川が両親へ宛てて書いた遺書が残っている。 参考文献[編集] 外部リンク[編集]

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和栗由紀夫 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “和栗由紀夫” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年10月) 和栗 由紀夫(わぐり ゆきお、1952年(昭和27年)2月26日 ‐ 2017年(平成29年)10月22日)は、日本の舞踏家。 戦後の日本が生んだ独特の舞踊ジャンルとして国際的に評価されている「舞踏」の創始者、土方巽直系の舞踏家。1972年(昭和47年)に土方巽に師事してから今日まで、江戸小紋の染職人として働いた8年間を挟み、25年以上の舞踏歴を持つ。 2017年、亡くなる3日前まで舞台に立ち続けた。 1952年(昭和27年)2月26日、東京都東大和市に生まれる。 1970年(昭和45年)3月、東京都立北多摩高等学校卒業。 1972年(昭和47年)、アスベスト館に入門、土方巽に師事。 同年6月、『燔犠大踏鑑(付)私の娘展示即売』の舞踏公演「すさめ玉」で初舞台(西武百貨店池袋店ファウンテンホール)。

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河越館 – Wikipedia

河越館(かわごえかん/かわごえやかた)は、埼玉県川越市上戸(うわど)に所在した日本の城。川越市の北西部、入間川右岸に位置し、約二町(218m)四方の占地規模を持つ館跡遺跡。国の史跡。 坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。河越館を興したのは初代能隆、あるいは父親の重隆とされる(川越市史など)。 河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。 しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。 戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた(上戸陣)。 また、『新編武蔵風土記稿』には「上戸に大道寺政繁の砦があった」と記されており、その砦は河越城築城後も出城として機能していたと推測され、豊臣秀吉の小田原征伐の際の天正18年(1590年)に川越城落城とともに廃城となったと考えられる。 なお、館跡の一部は現在は時宗(じしゅう)の寺常楽寺になっているが、これは河越館の持仏堂に始まるといわれ、時宗の道場として栄えた。 河越館跡(2008年撮影) 遺跡は、現在の川越市市街地の北西、入間川西岸に接する平地にあり、その南東部を占める常楽寺境内をはさんで、東西約150メートル、南北約200メートルの方形の区画(曲輪)を思わせる高さ1メートルないし3メートルの土塁およびその外側の堀が一部遺存しており、全体では東西約240メートル、南北約300メートルの規模を有する。土塁は一条、空堀は二重になっており、館跡北東の幅約11メートル、深さ3メートルの外堀はかつて入間川と繋がっていたと思われる。 発掘調査と史跡指定[編集] 川越市教育委員会による1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)にかけての発掘調査によって、平安時代末期から戦国時代にかけての堀や井戸、住居などの遺構が検出され、『新編武蔵風土記稿』が上戸村常楽寺の挿絵として描いた河越館跡のほぼ全容が解明されるに至った。 その結果、遺跡はとくに鎌倉時代から室町時代にかけての関東武士の中世城館の様相を考察する考古資料としてきわめて重要であるとして、1984年(昭和59年)12月6日、「川越館跡」(かわごえやかたあと)の名称で国の史跡に指定された。また、1989年(平成元年)、川越市が史跡管理団体に確定し、2009年(平成21年)には第1期整備地が「河越館跡史跡公園」としてオープンした。また隣接する上戸小学校の空き教室を利用した資料展示室が設置されており、日曜日の10:00~15:00のみ見学可能である。 交通アクセス[編集] 参考文献[編集] 川越市立博物館 『よみがえる河越館跡:国指定史跡河越館跡の発掘-その成果と課題』 川越市立博物館〈第34回企画展〉、2011年。  「上ハ戸村」『新編武蔵風土記稿』巻ノ181高麗郡ノ6、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764004/85。 “河越館跡”. 国指定文化財等データベース.

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ベンジャミン・スティリングフリート – Wikipedia

Benjamin Stillingfleet (画)Johan Joseph Zoffany ベンジャミン・スティリングフリート(Benjamin Stillingfleet、1702年 – 1771年)は、イギリスの植物学者、翻訳家、作家である。知的な女性のシンボルになったブルー・ストッキング(日本でも、平塚らいてうらが雑誌「青鞜」を刊行した。)の由来に関連する人物である。 ノーフォークのウッドノートンの医師の息子に生まれた。祖父は主教であったが、反対された結婚をした父親に遺産は残されなかった。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学位を得るが、フェローにはなれず、上流階級の家庭教師として収入を得た。親戚の地主、ウィリアム・ウィンダム(William Windham)の家庭教師としてウィンダムが7歳から20歳になるまで教えた。ウィンダムの7年間のグランドツアーに伴い1742年に帰国した。この旅行中、冬のスイスで何度か他のツーリストとのパントマイム劇の脚本を書き音楽を担当し、この仲間は夏の間は、アルプス山脈の未知の氷河を調査した。イギリスに戻った後、家庭教師をやめるが、ウィンダム家から7年間、年100ポンドの年金が送られた。ウィリアム・ウィンダムは1744年にスイスの氷河の研究の功績とスティリングフリートが教えた数学の能力を認められて王立協会のフェローに選ばれた。 スティリングフリートはウィリアム・ハドソンが『イギリスの植物』(”Flora Anglica“)の出版を発表した時に、リンネの分類法の先駆者として称えられたことでも有名になった。 1750年代にエリザベス・モンタギュ(Elizabeth Montagu)やエリザベス・ヴィーシー(Elizabeth Vesey)らの文学サロンに招かれた、多くの人々のなかにスティリングフリートがいて、豊かでなかったスティリングフリートは正式な絹の黒い靴下を持っていなかったので毛織の青い靴下で出席していた。スティリングフリートの不在で、会話が盛り上がらなかった時に「青い靴下がいない」と記録されたことがブルー・ストッキングが知的な女性の象徴になった由来とされる。 参考文献[編集] Bluestocking, derivation and

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なんどでも笑おう – Wikipedia

「なんどでも笑おう」(なんどでもわらおう)は、アイドルマスターシリーズ15周年記念楽曲[1]。 アイドルマスターシリーズ15周年を記念して制作。2019年12月26日に配信されたアイドルマスター年末特別ニコ生番組「ゆくM@SくるM@S2019」にて発表された[2]。作詞はモモキエイジ、作曲はBNSIの佐藤貴文、編曲は同じくBNSIのトリ音による[3]。 歌唱者はシリーズの各ブランド(765プロ、シンデレラガールズ、ミリオンライブ!、SideM、シャイニーカラーズ)を代表するキャラクター3名ずつ、合計15名によるものとなっている。ユニット名義は「THE IDOLM@STER FIVE STARS!!!!!」。シリーズ初の男女混成楽曲である[4]。 2020年9月30日には同作を収録したシングルCDが発売。販売形態は各ブランドごと合計5種類が同時発売され、CDには15名全員によるバージョン・各ブランドに所属する3名ずつによるバージョン・ソロリミックス各3種が収録される[4]。765PRO ALLSTARS盤・シンデレラガールズ盤は日本コロムビアから、ミリオンライブ!盤・SideM盤・シャイニーカラーズ盤はランティスから発売される。 チャート成績[編集] 765PRO ALLSTARS盤[編集] なんどでも笑おう 歌:THE IDOLM@STER FIVE STARS!!!!![メンバー 1] 作詞:モモキエイジ、作曲:BNSI(佐藤貴文)、編曲:BNSI(トリ音) なんどでも笑おう オリジナル・カラオケ

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一乗谷朝倉氏遺跡 – Wikipedia

一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。 遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡[1]で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定[2]を受けている。 現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにある。戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成される。 一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、数キロメートル先の目前に北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道[3][4]などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置であった。 一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。 歴史・沿革[編集] 軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。 1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。 1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった[5]。 一乗谷城[編集] 朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。15世紀前半には築かれていたと考えられる。一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。全長1.5キロメートル、幅200メートルの曲輪を配し、主郭部分はおよそ600メートル×200メートルである。本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)となる。各曲輪は堀切によって区切られている(連郭式城郭)。 元亀年間には織田信長の侵攻に備えて約140条の畝状竪堀を築くなどの改修が行われたようである。 千畳敷(本丸) 千畳敷は本丸跡と伝えられる場所で、山城のうち最も広い部分である。主郭群の中では最も新しく、義景の代に山腹を削平して造営されたようである。北側には竪堀群が存在している。枡形虎口を設けた観音屋敷跡や福井平野を一望できる宿直(物見台)跡、赤淵明神跡や月見櫓跡などがあり、堀切、土塁で区切られている。西側には飲料水として利用された不動清水という湧水地がある。ここは文化的施設として使用されていたとも考えられている。 本来の一乗谷城は以下の一の丸・二の丸・三の丸で存在していた。 一の丸 山頂(標高443メートル)を削って造られており、西側には空堀を配している。 二の丸

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