Month: September 2017

セルダーニャ (セヴラック) – Wikipedia

デオダ・ド・セヴラック 『セルダーニャ』(スペイン語: Cerdaña)は、デオダ・ド・セヴラックが1908年から1911年にかけて作曲したピアノ独奏のための組曲で、《5つの絵画的練習曲》と言う副題を持っている[1]。 セルダーニャとはピレネー山脈東部にあるフランスとスペインの国境に跨る地域で、セヴラックはこの地方の郷土色を生かしている。本作はカタロニア地方セルダーニャの農民の生活のスケッチであると言う点でイサーク・アルベニスの作品と類似点がある[2]。 セヴラックは本作でアルベニスやムソルグスキーの情景の具体的な描写の場合は描写的なロマン主義的手法を用い、雰囲気を醸し出すような場合にはドビュッシーとの結びつきを示すような手法を使っており、二つの作曲スタイルを上手く使い分けている[3]。 流動的で密度の高い書法で書かれたこの極めて美しい曲は、民族性偏重にも民謡的な主題の衒学的な扱いにも陥りことなく、見事に〈郷土の音楽〉になっている。不当にもなおざりにされてきたこの音楽を生き返らせようとしたピアニスト、ジャン=ジョエル・バルビエが述べているようにこれは〈根の無い印象主義〉に依存した〈地方色の音楽〉ではなく、〈大地の歌〉であり、野外の光とリズムの芸術なのだ。そこでは騾馬弾きの律動、村の鐘、聖歌、サルダナ舞踏などといったこの地方の特徴的な音が〈混ぜ合わされた透明さ〉の中に拡散し、移し置かれ、混ざり合うのである[4]。 第一曲のみピアニストのイヴ・ナットに献呈されたが、他は友人たちに献呈されている[5]。楽譜は1911年にミュチュエル社(Edition Mutuelle)から出版された。 1911年4月11日に自由美学劇場にて、第1、2、3、5曲がブランシュ・セルヴァ(英語版)によって初演された。同年6月8日に国民音楽協会にて第4曲がアルフレッド・コルトーによって初演された[6]。 なお、珠玉の作である『日向で水浴する女たち』は当初、本作に組み込まれる予定であったが、最終的には単独の楽曲として発表された[7]。 演奏時間[編集] 約35分 5つの曲で構成されている。 第1曲 二輪馬車にて〜(セルダーニュへの到着) モルト・カンタービレ、拍子記号なし En Tartane(L’arrivée en Cerdagne) タルタンとはカタロニア語で驢馬弾きの二輪馬車のこと。〈山の呼び声〉を表す導入部に始まり、モルト・アレグロの8分の6拍子の主部となる。ギターの音形を模した伴奏を持つ旋律が現れる。やがて速度はレントに変わり、情熱的なメロディが歌われ、〈山の呼び声〉に戻り、終結する。

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黄長燁 – Wikipedia

黄 長燁(朝鮮語: 황장엽、1923年〈大正12年〉2月7日 – 2010年10月9日[1])は、朝鮮民主主義人民共和国の思想家で主体思想の理論家[2]、政治家。元朝鮮労働党国際担当書記。1997年に韓国に亡命し、死去するまで韓国に在住していた。 咸鏡道出身とも平壌の江東郡出身とも言われる。地主の家庭に生まれ、平壌と東京の中央大学法学部で学んだ。そのため教養のある日本語を話すことができ、北朝鮮在住時から度々日本のメディアによるインタビューへ日本語で応じていた。大学は2年次で中退し、平壌に帰ってからは母校である平壌商業学校の数学と珠算の教師をしていた。 1949年、ソ連のモスクワ大学へ留学し哲学博士号を取得する。帰国後は金日成総合大学で教鞭を執り、1965年同大学総長に就任。1970年には朝鮮労働党中央委員会委員に就任し、その後は党の国際担当書記や最高人民会議外交委員会委員長などの要職を歴任する。この時期には金日成の側近であり、そのゴーストライターとも言われた。 黄長燁の回顧録によれば、1974年、金正日が後継者に決まると、金日成は朝鮮民族の聖なる山として知られていた白頭山を訪ね、景色のよい箇所を適当に指さして「そこが息子の生まれた白頭密営の跡地だ」と述べ、後方の山を「正日峰」と命名したという[2]。これによって金正日の出生地は白頭山ということになって神格化が始まったという[2]。このとき、黄長燁は「金日成も俗物だ」と感じたという[2]。 学者としても活発に活動し、諸外国に研究サークルを設立してチュチェ思想の普及に努めた。 金日成総合大学総長時代[編集] 封建主義から共産主義に至る北朝鮮の発展段階で、黄長燁の考えは金日成と違っていた。黄長燁はマルクス・レーニン主義の社会発展論から「資本・社会両主義の過渡期を経過する必要がある」と主張したが、その過渡期を不要とする金日成から「資本・日和見両主義者」と睨まれた。これに対し金正日は「黄長燁は主体思想の体系化に必要な人材」と父に取り成して事なきを得た。しかし、後に黄長燁は様々なインタビューで金正日より金日成を評価しており、金日成は中国式の改革開放に肯定的だったとし、鄧小平と確執を起こして中国に批判的だった金正日は自己保身を優先して経済を低迷させたと証言しており[3]、これは他の記録資料でも裏付けられている[4][5]。 脱北[編集] 1997年1月、チュチェ思想に関する講演のため訪日した直後の2月12日に帰路の北京で秘書の金徳弘(朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長)と共に韓国大使館に赴き亡命を申請する[6][7]。 4月20日に韓国に入国[8][9]。 亡命理由について、黄長燁は手記で祖国の体制に義憤を覚え、その変革を図るためと述べている。但し、黄長燁は共産党体制よりも一歩進めた独裁化の為のイデオロギー的な整備を行った当事者でもある。この事から国内での権力闘争に敗れたため保身を図って亡命したのだとも言われている。また、在中国朝鮮人の女性との不倫関係により立場が悪化した為とも言われる。いずれにしても亡命の動機の真偽は定かではない。 黄長燁の亡命の前後には、北朝鮮当局が公式プロパガンダにおいて「チュチェ思想」の語を出す頻度を減らし「赤旗思想」の語を登場させたことが観察されている。この事から、北朝鮮当局が「チュチェ思想」(自主自立路線)を撤回する必要に迫られていることが疑われた。しかし、「赤旗思想」の語は程無くして消えた。 黄長燁ほどの高官が亡命するということは金正日体制が極めて不安定であるとの印象を海外の観察者に与えた。日本では現代コリア研究所の関係者を中心に一部では政権崩壊寸前との憶測を飛ばす者がいた。 なお、この亡命を受けて金正日は黄長燁の親族3000人を一斉検挙し、強制収容所に収監した[10]。 亡命後[編集] 亡命後の黄長燁はソウルを拠点に文筆業、評論家業を営みつつ、アメリカ合衆国を中心に金正日政権打倒を掲げて活動した。

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プログレスMS-10 – Wikipedia

プログレスMS-10(ロシア語: Прогресс МC-10、ロシア製造番号440、NASAではプログレス71Pと呼称)は、国際宇宙ステーション(ISS)への補給のためにロスコスモスが打ち上げたプログレス補給船。この飛行はプログレス補給船の162回目の飛行である。 プログレスMSはプログレスMをもとに航法装置を強化した無人輸送機。この強化されたバリエーションは2015年12月21日に初めて打ち上げられた。このバージョンでは以下の強化が施されている:[1][2][3] 人工衛星を展開可能な新しい外部コンパートメント。それぞれのコンパートメントは4個までの発射コンテナーを搭載することができる。プログレスMS-03で初めて搭載された。 ドッキングおよび密閉機構の電気モーターの予備システムの追加による強化された冗長性 貨物コンパートメントへのパネル追加による微小隕石防護力の増強 ロシアのルーチ中継衛星とのリンク機能によって、地上局の視野外でもテレメトリーと制御が可能に 地上局による軌道決定の必要なしに状況ベクトルおよび軌道パラメーターの決定を可能にするGNSS自律航法 宇宙ステーションとの直接無線データ交換機能によるリアルタイムの相対ナヴィゲーション ドッキング操作のための強化されたTV視野を可能する新しいディジタル無線システム 統合コマンド・テレメトリー・システム(UCTS)によるウクライナ製のChezara Kvant-V無線システムおよびアンテナ・フィーダー・システムの置き換え クルスAからクルスNAディジタル・システムへの置き換え 打ち上げ前[編集] 当初、打ち上げは2018年2月22日の予定だった。このミッションは2017年に2018年8月に変更となった。2018年6月に打ち上げは2018年10月31日に割り当てられたが、ソユーズMS-10の事故が起きたため、2018年11月16日に延期となった[4][5]。 打ち上げ[編集] プログレスMS-10はソユーズFGロケットに搭載されて、2018年11月16日 18:14:08 UTCにカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられた[6]。

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ソルベイ (企業) – Wikipedia

ソルベイ(仏: Solvay S.A.)は、ベルギー・ブリュッセルに本拠を置き、世界50カ国以上に事業を展開する大手化学メーカー。ユーロネクスト・ブリュッセルおよびユーロネクスト・パリに株式を上場している(Euronext: SOLB )。 1863年にエルネスト・ソルベイとその親族が、ソルベイ法を用いた炭酸ナトリウムの生産を目的として創業した[1]。1881年にはアメリカ合衆国に工場を開設し、19世紀末までに西はミシガン州から東はウラル山脈地域まで工場を保有する多国籍企業に成長した[1]。ソルベイはSucreries Raffineries Bulgares(1867年~1916年)の大株主となっていたことがあり、ブルガリア公国(1908年からはブルガリア王国)最大の企業になっていた[2]。第一次世界大戦とソビエト連邦成立の影響による経営悪化を受けて1920年にアメリカ事業を一時売却、第二次世界大戦中はナチス・ドイツ支配下で資産接収に抵抗し、会社を存続させた[1]。第二次大戦中、後にローマ教皇になるヨハネ・パウロ2世がナチス・ドイツからの迫害を避けるために働いていた[3]。 戦後は過酸化物・ポリ塩化ビニル・プラスチック加工など消費財の原料分野へと事業範囲を拡大、1967年には株式公開企業となり、創業者の子孫が経営幹部を独占する体制が終了した[1]。1974年にアメリカ再進出を果たし、オイルショック後は医薬品分野への投資を進めた[1]。冷戦終了後はアジア地域への進出が本格化し、重合体・フッ素樹脂分野への投資が行われた[1]。2000年代に入るとソルベイの事業の再構築が行われ、2009年9月、アボット・ラボラトリーズに製薬部門を売却し[4]、その資金を活用する形で2011年4月、フランスの特殊化学品メーカーであるローディアの買収を発表し、特殊化学分野およびアジア地域におけるビジネスが強化された[5]。 創業者の子孫が1983年に設立した持株会社Solvac(フランス語版)が、ソルベイの株式の約3割を保有している[6]。 日本におけるソルベイ[編集] ソルベイ日本法人のルーツはフランスの化学・製薬企業ローヌ・プーランの1967年に設立された日本法人であるが、1997年に化学部門がローディアとして分離したのに伴いローディアジャパンとなり、その後ソルベイのローディア買収を受け、2014年1月に「ソルベイジャパン株式会社」(Solvay Japan, Ltd.)に社名変更を行い[7]、現在に至っている。このほか特殊化学分野の「日本ソルベイ株式会社」(NIPPON SOLVAY K.K.)および高機能性プラスチック分野に特化した「ソルベイスペシャルティポリマーズジャパン株式会社」(Solvay Specialty Polymers Japan K.K.)がある。本社はいずれも東京(愛宕グリーンヒルズ)にある。 日本企業との合弁として以下の2社がある。

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広島西警察署 – Wikipedia

この項目では、現在の広島西警察署について説明しています。1981年3月までの広島西警察署(現在の広島中央警察署)については「広島中央警察署」をご覧ください。 広島西警察署(ひろしまにしけいさつしょ)は、広島県警察が管轄する警察署の一つ。 管轄区域[編集] ()の中は所在地。 己斐交番(広島市西区己斐本町一丁目) 広島市西区のうち己斐中一丁目、己斐西町、己斐本町一丁目 – 三丁目 己斐上交番(広島市西区己斐上一丁目) 広島市西区のうち己斐上一丁目 – 六丁目、己斐大迫一丁目 – 三丁目、己斐中二丁目・三丁目、己斐東一丁目・二丁目 高須交番(広島市西区高須二丁目) 広島市西区のうち高須一丁目 – 四丁目、高須台一丁目 – 六丁目、古江上一丁目・二丁目、古江西町、古江東町、古田台一丁目・二丁目

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ロンド・ファン・フラーンデレン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ロンド・ファン・フラーンデレン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年9月) ロンド・ファン・フラーンデレン (オランダ語: Ronde van Vlaanderen) は、自転車プロロードレースの一つで、ベルギーのフランデレン地域を走るワンデーレースである。1913年から行われており、日本では、フランス語のツール・デ・フランドル (Tour des Flandres) の名前でも知られている。 ロードレース人気の高いベルギーでも特に熱心なファンが多いとされるフランデレン地域における最も格式の高いレースであり、沿道はびっしりと観客によって埋め尽くされ、熱狂的な声援が送られる。

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たいぞう – Wikipedia

この項目では、お笑い芸人について説明しています。漫画家については「横山泰三」をご覧ください。 この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “たいぞう” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2012年5月) たいぞう(本名:横山 泰三(よこやま たいぞう)、1974年1月12日 – )は、日本のお笑いタレント、画家。吉本興業に所属している。香川県観音寺市出身。香川県観音寺市ふるさと応援大使、大阪府障害者芸術文化大使でもある。 来歴・人物[編集] 尽誠学園高等学校卒業。マッシュルームカットが特徴。 アホキャラクターで活動する一方で、画才も認められており個展を開催している。 大阪NSC11期生。同期には陣内智則、たむらけんじ、ケンドーコバヤシ、中川家、ハリガネロック、烏川耕一がいた。他事務所では児嶋一哉(アンジャッシュ)と同期にあたる。 田野島秀和と「ギャグガスバクハツ」というコンビを結成する。当時、ぜんじろうのテレビ番組によく出演していた。ギャグガスバクハツはぜんじろうが名付け親である。しかし大阪ガスからクレームがあって、お笑い番長に名前を変えるも、すぐに解散。その後、島田紳助の弟子の島田半平太とコンビを組んだ。のちに紳助から島田をもらうが断り、紳助に怒られる。人間マンダラのロケで半平太は怪我をして芸能界を引退し、コンビは解散した。

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