Month: December 2019

チリワイン – Wikipedia

チリワインとは、南アメリカに位置するチリの国内で製造されるワインを指す。 近年、その品質や価格の手軽さから、ヨーロッパなど世界中の愛好家から注目され、人気の出ているワインの一つである。 チリワインの歴史は、比較的新しく、19世紀、フランスのブドウ栽培が害虫によって大きな被害を受けた際、遠く離れたチリにおいて、純粋なフランスの苗木が守られたことに始まる。以降、フランスなどからブドウ栽培を求めて移住し、チリにはフランス風の豪華なシャトーが今でも残る。また、チリが、ワイン主要生産国の一つであるスペインの植民地であったことも、チリにワイン文化を根付かせるようになった。 アウグスト・ピノチェト時代には低く抑えられた賃金による農業セクターの拡大によりブドウ産業が拡大し、ワインの輸出が本格化した。 最初は、アメリカ合衆国でボルドーワインの風味が味わえるコストパフォーマンスの高いワインとして人気となり[1]、やがて日本も輸出先の一つとなった。 ブドウ栽培と地理[編集] チリは地中海性気候であり、かつフンボルト海流の影響で涼しい海風が吹き、同じ地中海性気候であるヨーロッパの地中海地方に比べ涼しい。また、国土の東側に連なるアンデス山脈の雪解け水も、栽培に豊かな恵みをもたらしている。 また、チリはヨーロッパに比べて一年を通して日照時間が長く、太陽の光を十分浴びて育っていることも大きな魅力である。(イギリスの研究機関が、ワイン及びブドウに含まれるポリフェノールが一番多く含まれるのがチリワインだという研究結果を出しており、これは、日照時間の長さに関係があるとされている。) 主な産地はチリ海岸山脈とアンデス山脈に挟まれた、南北に細長い「チリ中央峡谷」で、サンティアゴ地区のマイポヴァレー(Valle del Maipo)、中部のラベルヴァレー(Valle del Rapel)、南部のクリコヴァレー、マウレヴァレーなどがある。 日本での輸入増加[編集] チリワインは日本国内でも、輸入時に関税がかからない、チリの人件費が欧州に比べて安い、恵まれた気候条件によるブドウの質の高さなどから、コストパフォーマンスの良いワインとして親しまれている。[2] 2007年9月に締結された日本・チリ経済連携協定により、12年間で段階的に関税が削減され、2019年4月には完全撤廃となった。このことは日本がチリワインの輸入量を大きく増加させるきっかけとなった。2016年には、国内輸入量がフランスワインを上回り第1位となった。[3][4] ただし、2019年2月に発効した日本・EU経済連携協定により、欧州産ワインの関税が撤廃されたことから、2019年のチリワインの輸入量は前年比で減少に転じた。また2020年1月に発効した日米貿易協定により、今後は米国産ワインの関税も撤廃される方針となっている。[5] 主な栽培品種[編集] 赤ワインでは、カベルネ・ソーヴィニョン、メルローやカルメネール、白ワインでは、シャルドネーやセミヨンなど、19世紀にフランスの苗木が残ったこともあり、フランス系の品種が中心である。特にカルメネールに関しては前述の通りにフランスの苗木が残っている為、土着品種とも呼べる。 関連項目[編集]

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山路一遊 – Wikipedia

山路 一遊(やまじ いちゆう、1858年11月22日(安政5年10月17日) – 1932年(昭和7年)8月19日)は、日本の教育者である。号は天放。弟に、佃一予・山路一善がいる。1902年(明治35年)から1913年(大正2年)まで滋賀県師範学校長を、1913年(大正2年)から1923年(大正12年)まで愛媛県師範学校長を務め、両県の師範教育に大きな足跡を残した。教育功労により、1919年(大正8年)に勲四等瑞宝章を受章、1923年(大正12年)に従四位に叙された。著書に『読書法』『常識の研究』などがある。 生い立ち[編集] 安政5年(1858年)10月17日、家禄210石の伊予松山藩士山路一審と綾の間の長男として伊予国松山城下南堀端(現在の愛媛県松山市南堀端町)に生まれる。幼名は「真喜多」。弟に、南満州鉄道理事や日本興業銀行副総裁を務めた佃一予、大日本帝国海軍における航空の創始者と呼ばれた海軍中将山路一善がいる。父・一審は藩主の信任が厚く、のちに藩の勘定奉行を務めた他、松山藩が鳥羽・伏見の戦い後に土佐藩の追討を受けた際には無血開城を伝える使者となっている。 真喜多は5歳になった頃から近所の武知幾右衛門の下で書を学び、元治元年(1864年)に6歳で藩校である明教館に入学して漢学を修めた。維新後の明治3年(1870年)、権少参事となった内藤素行によって明教館の学則が改められて普通科・算数科・洋典科に分けられ、藩の選抜した生徒が学ぶこととなった時には、当時13歳であった真喜多は、洋典科の生徒に最年少で選ばれた。この頃から「一遊」と呼ばれるようになる。一遊は、慶應義塾から招かれた稲垣銀治・秋山恒太郎から英語や数学、西洋史などを学んだが、明治5年(1872年)の学制公布によって洋典科は廃止となった。 学制公布により松山には小学校として勝山学校が設けられ、一遊は14歳にして教師の一人として採用され、その後大阪に出て小学校の教師を務めた。しかし、自らの学問を続けたいと考えた一遊は、明治8年(1875年)に大阪英語学校に入学して1年2ヶ月学び、試験では優秀な成績を収めて飛び級での進級を認められたが、維新後家計の苦しくなった山路家では学費を支えられず、志半ばで帰郷した。帰郷後の明治10年(1877年)に、受け持ちの授業のない時には英語の授業に出席しても良いという条件で愛媛県立北予変則中学校(のちの松山中学校)の数学の教師として採用されたものの、やはり学問への思いは断ち切れず、教師としての給与と親戚からの借金で学費を工面して明治12年(1879年)に東京師範学校中学師範学科に入学、明治17年(1884年)に首席で卒業した。 教育官僚・教育者として[編集] 明治17年(1884年)、東京師範学校を卒業した一遊は文部省御用掛となり、各地に整備されつつあった小学校の教則を審査するとともに師範学校で学んだ教授法を指導する仕事にあたった。明治19年(1886年)には29歳で高知県師範学校の校長を兼ねたが、文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験などを担当することとなり7か月で呼び戻された。 明治22年(1889年)、愛媛県から分離されたばかりの香川県学務課長に転出。初代香川県尋常師範学校長も兼ねて同校建設にあたった。香川への赴任前に、同郷の文部省の先輩である内藤素行の長女順と結婚している。明治23年(1890年)には、参事官の江木千之の下で小学校令の改正にあたった。明治25年(1992年)からは兵庫県尋常師範学校長に転じたが、1年余りで健康を害して休職している。復職後は、明治31年(1898年)愛知県師範学校長、明治32年(1899年)埼玉県視学官、明治33年(1900年)福島県視学官を歴任、明治35年(1902年)に滋賀県師範学校長となった。滋賀県師範学校長としての在任は12年に及び、その後大正2年(1913年)に請われて郷里の愛媛県師範学校長に転じ、大正12年(1923年)に退官するまで10年間務めた。 退職後[編集] 大正12年(1923年)、66歳になっていた一遊は、「老齢劇務に堪へず」として愛媛県師範学校長を退いた。退職後の一遊は、「断じて学校の姑たらず」と宣言し、教育に関して一切口出しをしなかった。松山市持田町の自宅で、菊や四川蘭などの草花や野菜を育成したり、天放と号して詩歌をたしなむなど悠々自適の日々を送り、昭和7年(1932年)8月19日に死去した。享年75。松山市祝谷町の常信寺に葬られた。 教育理念[編集] 一遊は、知識注入主義の教育では模倣するだけの二級品はできても創造力のある一級品の人物は育たないと考え、知識を生み出す人間の養成を目指して徳育第一主義を掲げた。特に将来教育者となる師範学校の生徒の人格形成を重視し、自らは校長として全校生徒に日記を書かせて全て目を通し個別指導にあたり、教員に対しても常に全力投球を求め、生徒に対しては「小学校教育は人の為にし国の為にするもの」であり「誠実真面目以て万事を一貫すべし、公明正大にして明暗表裏あるべからず、周到にして粗略なるべからず、敏捷にして無精なるべからず」と訓示した。香川県学務課長兼尋常師範学校長として同校の設立にあたった際には、生徒に対して「教育者は紳士でなければならぬから、諸君を紳士として待遇する」と述べて、同校の自治的な校風を樹立したとされる。愛媛県師範学校長として赴任した際の新任式でも、「学校はすべて生徒のものなり。教師も其の他すべて生徒あってのものなり。諸君は堂々と闊歩せよ」と述べ、感動した生徒が食堂前の黒板に「吾人は頼むべき校長を得たり」大書したというエピソードが残されている。 一遊は、師範学校は県内における教育の本山と考え、教育研究会の開催に熱心で、一遊自ら発表することもあった。附属小学校にも足繁く通い、生徒の教育実習の様子を見て回った。一遊は、農山漁村の多い愛媛県の学校教育のモデルとしては松山市内の附属小学校だけでは不十分と考え、大正9年(1920年)に温泉郡余土村の余土尋常高等小学校(現松山市立余土小学校)を代用附属小学校に指定して農村教育の研究実習を行った。 大正デモクラシーの思潮に対しては「浮説に迷ふ勿れ」と批判的であったとされる。ただし、大正デモクラシーの影響を受けて教育界に広がっていた自由教育運動に対しては「自由教育は或る点に於いては欠点もあらうが、此の際教師が大いに働いて、方法の如何によっては偉大なる効果を修め得らるるものであるといふことを世に知らせ度いものである」と述べ、一定の理解を示した。 人物と評価[編集] 一遊は校長時代、背筋を伸ばしステッキを手に校内を颯爽と闊歩した。人と談笑すれば呵呵大笑するなど豪放快活な性格で生徒から「師父」と呼ばれるなど敬慕を集めた。

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酸化ニッケル(III) – Wikipedia

酸化ニッケル(III)(さんかニッケル さん、Nickel(III) oxide)はニッケルの酸化物のひとつであるが、文献に記されてはいるものの、はっきりとは確認されていない化合物である[1]。ブラックニッケルオキシドはしばしば Ni2O3 と書かれる。しかし、供給元によると組成はニッケル含有量77%付近であるのに対し、Ni2O3のニッケル含有量は70.98%であるため、実際は不定比の酸化ニッケル(II)であると考えられる[1]。 ニッケルの表面にNi2O3が微量に存在する、または、Ni2O3はニッケルの酸化の中間体であるという文献が存在する[2][3]。 オキシ水酸化ニッケル[編集] 関連化合物のオキシ水酸化ニッケル NiO(OH) は水中で塩化ニッケル(II)と次亜塩素酸ナトリウムを反応させることによって合成でき、酸化剤として使われる。ベンジルアルコールの安息香酸への酸化または3-ブテン酸からフマル酸への二重酸化において、理論量の漂白剤とともに触媒量で使われる[4]。 ^ a b グリーンウッド, ノーマン; アーンショウ, アラン (1997). Chemistry of

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アメリカンダービー – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “アメリカンダービー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年2月) アメリカンダービー(American Derby)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州のチャーチルダウンズ競馬場で開催されているサラブレッド競馬の競走である。中部アメリカ三冠の第2戦にあたる。 1884年にシカゴの初代ワシントンパーク競馬場において創設された競走で、1958年以後にアーリントンパーク競馬場に移された。現在の施行条件は芝9.5ハロン(約1911メートル)。かつてはダートで施行されていた時期もあった。 1893年当時にはアメリカで2番目に高額な賞金の競走であったとされているが、現在においては価値の下落によりリステッド競走として設定されている。また、中部アメリカ三冠の第2戦に当たる競走でもあり、その後に控えたセクレタリアトステークスへのプレップレースとしても使われる。 2021年にアーリントンパーク競馬場が廃止されたため、翌2022年からはチャーチルダウンズ競馬場に移して開催されることになった。 全体の歴史[編集] 施行条件の変遷[編集] ダート12ハロン(約2414メートル) – 1884年-1904年、1926年-1927年 ダート10ハロン(約2012メートル)

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藤川幸之助 – Wikipedia

ふじかわ こうのすけ 藤川 幸之助 国籍 日本 職業 詩人、児童文学作家、写真家、講演家 代表作 『マザー』2000年、『満月の夜、母を施設に置いて』2008年、『支える側が支えられ 生かされていく』2020年 公式サイト 藤川幸之助 Web 藤川 幸之助(ふじかわ こうのすけ、1962年4月8日 – )は、日本の詩人、児童文学作家、写真家、講演家である。 熊本県湯前町に生まれる。熊本県立熊本高等学校、長崎大学大学院教育学研究科修了。学生の頃、谷川俊太郎の詩集『日々の地図』(集英社、1982年)に感銘を受け、詩作を始める[1]。長崎県の小学校教員として生計を立てながら、ひたすら詩を書く日々を送る[2]。

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ライセックバーン – Wikipedia

「Schütter」停車場でのライセック・フニクラー(第1区間) ライセックバーン(独: Reißeckbahn)、またはライセック鉄道(ライセックてつどう、英: Reißeck Railway または Reisseck Railway)は、オーストリア共和国南部の小山脈であるライセック・グループ(英語版)にある、ケルンテン州のメル川(英語版)渓谷から登る登山鉄道である。 登山鉄道は、ライセック・フニクラー(後述)およびライセック登山鉄道(ナローゲージ鉄道)から成っている。 パイプと並んだ、1968年の旧鉄道 ライセック鉄道は、標高719メートル (AA)(英語版) のメル川渓谷にあるコルブニッツ(ドイツ語版) (Kolbnitz) を起点とし、標高2,250メートル (AA) のベルクホテル・ライセック (Berghotel Reißeck) を終点とする、旅客サービスである。

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Le Couple – Wikipedia

Le Couple(ル・クプル、フランス語でカップルや夫婦を意味する)は、日本の音楽ユニット。1990年結成。 目次 1 概要 2 メンバー 3 来歴 4 ディスコグラフィ 4.1 シングル 4.2 アルバム 4.3 ビデオ 5 タイアップ 6

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葛山落合神社 – Wikipedia

葛山落合神社(かつらやまおちあいじんじゃ)は、長野県長野市大字入山にある神社。旧郷社。本殿は重要文化財に指定されている。 祭神は伊邪那岐命。建武年間、付近を領有した落合氏の創建と伝えるが定かではない[注釈 1]もと熊野権現と号したが、1800年(寛政12年)に吉田家へ願い出て現在の社号となった。松代藩主の祈願所とされ、拝殿の大幕が六文銭であるのはこのためだという。1873年(明治6年)、それまで葛山七ヶ村と称した入山村・広瀬村・上ヶ屋村・桜村・泉平村・桜村・茂菅村の総社であったのを廃し村社とされたが、これを不服とした氏子・入山村側は大正頃より昇格に向けて活動を始め、1944年 (昭和19年)に郷社へ昇格した。この間、文部省の調査により本殿の建立が室町時代末期へ遡ることが明らかとなり旧国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された[1]。 建武年間落合氏により創建と伝える。 1466年 (寛正6年) – 本殿竣工。 1547年 (天文16年) – 本殿斗供部、解体修理。 1557年 (弘治3年) – 葛山城落城とともに焼亡と伝える。 1800年 (寛政12年) 4月

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ナメラダイモンジソウ – Wikipedia

ナメラダイモンジソウ(滑大文字草、学名: Saxifraga fortunei Hook.f. var. suwoensis Nakai[2])は、ユキノシタ科ユキノシタ属に分類される多年草の1種である[3][4]。広義のダイモンジソウの変種のひとつ[1]。和名は花弁の形が『大』の文字であり[4]、採集された山口県山口市の滑(なめら)山に由来する[3][5]。 草丈は高さ5-40 cm[6]。根茎は短く、走出枝をつくらない[7]。葉は根生し[8]、腎円形で長さ3-10 cm、基部は心形、なかほどまで拳状に[8]5-7裂し、裂片はふつう倒卵形で[4]あらい鋸歯があり、両面に毛が生え[3]、葉柄は長さ3-20 cm[8]。托葉は膜質で縁は毛状に裂ける[9]。花茎をだし、円錐花序に白色の花をつけ[3]、花柄にまばらに短腺毛がある[9]。花弁は5個、上の3個は小さく長さ3-4 mm、下の2個は長さ6-15 mmで[6]、垂れ下がる[3]。雄蕊は10個、葯は橙色[9]。花期は7-10月[3][4]。果実は蒴果[9]。種子は紡錘形で平滑[9]。 葉は腎円形で、なかほどまで拳状に5-7裂し、葉柄は長い 葉は根生し、花茎をだし、円錐花序 白い花弁は『大』の文字の形状、上の3個は小さく、下の2個は細長く垂れ下がる。雄蕊は10個、葯は橙色。 分布と生育環境[編集] 増水時に流水に浸かるような川岸の岩壁に群生するナメラダイモンジソウ 日本の固有変種[6]。本州(中部地方以西)と九州に分布する[3][4]。愛知県が分布の東限[6]。 山地の湿気の富む岩上などに生育する[3]。増水時に流水に浸かるような岩上に群生することがある[10]。花崗岩地帯のもは矮小で、古生層地帯のものは大形になる傾向がある[10]。

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