Month: December 2019

林邦雄 – Wikipedia

林 邦雄(はやし くにお、1932年8月21日 – )は、日本の教育心理学者。障害児教育に当たった。 長野県長野市生まれ。東京教育大学教育学部卒、同大学院教育心理学博士課程満期退学。青鳥養護学校、桐丘養護学校勤務ののち、静岡大学教育学部助教授、教授、96年定年退官、目白大学人文学部教授、[1]2003年退職。1976年「「こども」の精神療法における言語表現の問題」で神戸大学医学博士。 『育つ心と育てる心』コレール社 1993 共編著[編集] 『しつけの相談と指導』編 全国肢体不自由児父母の会連合会 療育ハンドブック 1974 『青年期を迎えてQ&A』全国肢体不自由児 (者) 父母の会連合会 療育ハンドブック 1976 『脳性まひ児養護・訓練の諸問題』村田茂共編 慶応通信 1977 『身体障害事典』小池文英共編集 岩崎学術出版社 1978 『多動児の治療教育』坂本龍生共編著 学苑社 治療教育シリーズ 1980 『肢体不自由教育講座 第2巻

Continue reading

ダブリンシティ大学 – Wikipedia

ダブリンシティ大学(ダブリンシティだいがく、英語: Dublin City University、公用語表記: Ollscoil Chathair Bhaile Átha Cliath)は、ダブリン9区グラスネビンに本部を置くアイルランドの国立大学である。1989年に設置された。大学の略称はDCU。 大学全体[編集] 1975年にダブリン国立高等教育研究所(National Institute for Higher Education, Dublin)として設立され、1980年に発足した大学である。1989年9月にリムリック大学とともに、大学としての認可を得た。リムリック大学に続き、1922年のアイルランド独立後に設立された2番目の大学である。AACSB、MBA協会、ESBビジネススクール、ヨーロッパ大学協会、アイルランド大学協会、アイルランド大学の加盟大学である。 2020年現在、17,400名の学生と80,000名以上の卒業生、DCU Connectedを通じる通信教育の学生が約1,200名いる。また、日本語・日本文化専攻を設けている[1]。 大学名[編集] 英語の「Dublin

Continue reading

北神伝綺 – Wikipedia

『北神伝綺』(ほくしんでんき)は、大塚英志原作、森美夏画による日本の漫画。 『月刊コミックコンプ』1994年1月増刊号にテスト版(単行本上巻に外伝として収録されているもの)が掲載された後に『月刊ニュータイプ』にて連載された。単行本は角川書店から全2巻(上下巻)で刊行されている。 日本民俗学の創始者柳田國男が提唱し、後にその説を放棄した日本の幻の先住民「山人」が実在したという設定のオカルト伝奇サスペンスで、柳田國男と、柳田の元弟子であり「山人」の血をひく男・兵頭北神との複雑な関係を描く。昭和7年(1932年)から昭和11年(1936年)の戦前の昭和初頭の日本が舞台。 折口信夫が狂言回しの『木島日記』、小泉八雲が狂言回しの『八雲百怪』へと続く3部作の1作目である。 あらすじ[編集] 柳田國男が創始した日本民俗学が大日本帝国の形成に関わっていく上で、柳田が提唱した日本の幻の先住民「山人」は、現人神たる天皇の天孫降臨や万世一系と矛盾する「あってはならないもの」であった。柳田は山人論を封印。同時に日本帝国軍の山人狩りに加担する。数年後、東京で山人の血をひくとされる少女が目撃される。柳田は破門した弟子、兵頭北神に調査を命じるが……。 登場人物[編集] メインキャラクター[編集] 兵頭北神(ひょうどう ほくしん) 主人公。元は柳田國男の弟子だったが破門される。その後、柳田の封印した山人関係の資料を押しつけられて、満洲に渡り、インチキな拝み屋を始める。日本の幻の先住民「山人」の血を半分だけひいており、それゆえ日本人でも山人でもない特殊な人間である。普段はトリックを使ったインチキな降霊術で生計を立てている。武器として仕込み杖を使い、いつも支那服と黒いコートを着ている。師である柳田に対して愛憎入り混じった複雑な感情を抱いている。 柳田國男(やなぎた くにお) 日本民俗学の創始者。元高級官僚で軍部や政界と繋がりがあり、かつては貴族院書記官長を務めていた。 自らが追い求めた山人を、自らの手で葬ったことに苦悩している。弟子である兵頭北神に対して愛憎ない混じった複雑な感情を抱いている。 滝子(たきこ) 北神の腹違いの妹。芸者をしている。おてんばな性格。北神を強く愛している。 魔子(まこ) 山人の血をひく少女。甘粕正彦の愛人。 はるか昔に平地人の男と交わった山人の女達の血を引いているが、先祖返りのために山人の血が薄く、山人狩りで見過ごされていた。

Continue reading

三六式無線機 – Wikipedia

三六式無線機(さんろくしきむせんき、公式名称は三六式無線電信機)とは日本海軍が日露戦争当時以降使用した無線機である。三四式に次いで制式採用された日本海軍で二代目の実用無線機である。1903年(明治36年)に採用された。非同調式の普通火花送信機である。 採用後直ちに戦艦(「三笠」など)や巡洋艦等大型艦艇より順次搭載され、日本海海戦までに仮装巡洋艦も含む駆逐艦以上全艦艇に装備された[注 1]。実物を忠実に復元したものが横須賀の記念館「三笠」無線電信室に、またそのレプリカが、無線通信歴史展示室で展示されている。 2017年9月5日に国立科学博物館の定めた重要科学技術史資料(通称:未来技術遺産)の第00228号として登録された[1][2]。 開発の経緯[編集] 1900年(明治33年)頃、日本海軍は、無線機開発に着手し、電気試験所の松代松之助主任と旧制第二高等学校の木村駿吉教授らにより、千葉県の津田沼と横須賀の大津間の通信距離54kmで実験が行われた。1901年(明治34年)、三四式無線機が誕生した。通信距離は、70海里(約100km)。 1902年(明治35年)、日本海軍は、横須賀、田浦の横須賀海軍工廠に通信技術者を集めて無線機開発に取り組ませた。当時の艦隊行動範囲から80海里の通信を可能にする必要があった事と、使用されていたインダクションコイル(下図:誘導コイル)が当時の日本では量産が出来なかった為、価格や保守の観点から可能な限り国産部品のみで構成する事が望ましいと考えられ、改良が検討された。 結果として、性能面で独シーメンス社のリレーを採用するといった改良が加えられた事や、調達面で安中電機製作所(現アンリツ)がインダクションコイルの国産化に成功し、200海里の通信と部品の安定供給が可能となった。 1903年(明治36年)、三六式無線機が誕生し、通信距離が1,000kmに達した。日本海軍は、全艦船に搭載するべく無線機工場を設置し昼夜兼行で製造した。 日本海海戦[編集] 1905年(明治38年)5月27日午前2時45分、仮装巡洋艦「信濃丸」(艦長成川揆海軍大佐)が北航する病院船「オリョール」の灯火を発見、更に接近し敵大艦隊の存在を確認、4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」、続けて4時50分「敵ノ第二艦隊見ユ地点二〇三」との暗号電報を送信し、この電報は戦艦「厳島」による中継を受けて連合艦隊司令部が座乗する旗艦「三笠」へ到達した[3]。これを受けて司令長官東郷平八郎大将が艦隊の出動を下命、同艦より大本営あてに「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃沈 滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、報告の電報を送信し[注 2]、戦闘が開始された。戦闘中も連合艦隊が無線電信を有効利用した事は、戦闘の有利な展開に大いに寄与した(なおロシア艦隊側では日本側の無線通信の存在は確認しており、やはり装備していた大出力の無線機で、いわゆるジャミングと言われるような妨害を行ったらどうか、という具申があったが、やるな、という命令があり行われなかった、という)。 非同調式の普通火花間隙による火花送信機とコヒーラ検波器の受信機からなる。まだ同調回路を有さなかったため送信周波数や受信周波数はアンテナの長さで調整した。送信電波はアンテナ回路により生まれるピーク周波数を持つが、それは先鋭ではなく、また受信機も同様に先鋭な選択受信ができず、複数の通信を同一海域で同時に行う事は不可能であった。また受信出力は当時の有線式電信にならい印字式とした。 後継機種[編集] 1907年(明治40年)、日本海軍は、三六式送信機のインダクションコイル(誘導コイル)を直流電源と断続器により、あたかも交流のように駆動するのではなく、電源に交流そのものを用いた四〇式無線電信機を完成させた[4]。 さらに3年後の1910年(明治43年)には四三式無線電信機を実用化した[5]。これは同調式の普通火花送信機と音響受信可能な同調式の鉱石式受信機の組み合わせであり、三六式に比べて多大の性能向上を達成したものである。1908年(明治41年)に創業した逓信省の公衆通信(電報)サービスでは既に同調式が導入されていたが[注 3]、海軍省としては四三式が最初の同調式だった。 関連項目[編集] 注釈[編集]

Continue reading

琴路美津子 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “琴路美津子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年12月) この記事の主題はウィキペディアにおける人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。基準に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “琴路美津子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年12月) ことじ みつこ琴路

Continue reading

道家達将 – Wikipedia

道家 達将(どうけ たつまさ、1928年 – )は、日本の科学史家、東京工業大学名誉教授。 愛知県生まれ。海軍兵学校(77期)を経て、1951年名古屋大学理学部化学科卒。52年同物理学科研究生修了。紀伊國屋書店、和光学園勤務ののち、63年東工大助手、67年助教授、73年教授、76年北海道大学理学博士。89年退官、名誉教授。茨城大学人文学部教授。放送大学教授。 『空気』 誠文堂新光社(理科の教室) 1959年 『日本の科学の夜明け』 岩波書店(岩波科学の本) 1979年4月 『新・ろうそくの科学』 岩波書店(算数と理科の本) 1981年10月 『人間の歴史を考える 3 からだの認識と医療』 岩波市民大学 1994年6月

Continue reading

カズングラ・フェリー – Wikipedia

カズングラ・フェリーの艀 カズングラ・フェリー(Kazungula Ferry)は、ザンビアとボツワナの間を流れるザンベジ川を運航する水運業者。70tの積載能力を持つ2隻の艀で、ザンビア領カズングラとボツワナ領カズングラの間を運航している[1]。 南部州の州都リビングストンから西部州のセシュケを結ぶ道路(トランス=カプリビ・ハイウェイにカティマ・ムリロで接続し、ウォルビスベイに至る)と、フランシスタウンとハボローネを経由しボツワナを縦断して南アフリカ共和国へ至る高速道路に接続している。同様にカサネからジンバブエのヴィクトリアフォールズへの道路にも接続する。すなわち、ザンビア、ボツワナにジンバブエを加えた3国の道路交通に寄与し、さらにコンゴ民主共和国、ナミビア、南アフリカ共和国の3国に間接的に影響をもたらしている[2]。南アフリカ共和国からザンビアの銅鉱山地帯やルサカへ向かう経路となっており、ジンバブエ経由よりも数百キロ短縮される。 2003年には、ザンビアのトラックが行きすぎた過積載により艀の一つを転覆させ、18人が犠牲となった。この事故により、ザンビア側でトラックの車両重量を計測するウェイブリッジを欠いていたことが批判された[3]。 この地域ではザンビア、ジンバブエ、ナミビア、ボツワナの4国が接しているが、運用上は2つの三国国境をザンビアとボツワナ間の約150mの国境線でつなぐ形式とする合意がされている。このため、乗客は他の2国にも入国することができる。河道が絶えず変化するため、この合意がなされる2000年より前は、4国の国境に対する法的地位は不明瞭なものであった[4][5]。この150m国境は、アフリカ開発基金[6]等で記載が確認されている。 2007年8月、ザンビアとボツワナの両国政府間でカズングラ橋の建設が合意に達し、カズングラ・フェリーはこれによって代替される見通しとなった[7]。この計画では、ジンバブエとナミビアの両国への入国は対象外となっている。 ^ Camerapix: “Spectrum Guide to Zambia.” Camerapix International Publishing, Nairobi, 1996. ^ Terracarta/International

Continue reading

ハダカムギ – Wikipedia

ハダカムギ(裸麦、英語: Naked barley, hulless barley、学名:Hordeum vulgare var. nudum)は、オオムギの粒の皮裸性(実と皮の剥がれやすさ)に着目した系統名の一つで、オオムギの品種のうち実(穎果)が皮(内外穎)と癒着せず容易に離れるため、揉むだけで皮が剥けてつるつるした実が取り出せる品種群のことをいう。これに対して、実が皮と癒着しているため、揉んでも皮が剥がれない品種群はカワムギ(皮麦)という。分類上は、ハダカムギはオオムギの原種に近いカワムギの突然変異が固定されてできたオオムギの変種である。ハダカムギの栽培品種のほとんどは穂に小花が6条ずつ並んでつく六条オオムギで、穂に小花が2条ずつ並んでつく二条オオムギ(主にビールの原料になるのでビールムギとも呼ばれる)の栽培品種は大半がカワムギである。ハダカムギにはコメと同様にうるち性の品種以外にもち性の品種のもち麦がある。ハダカムギは食用や家畜の飼料用に栽培されている。 世界の栽培地域[編集] オオムギは最古の栽培植物の一つであり、起源を遡るとまず原種に近いカワムギの栽培が西南アジアで紀元前7000年頃には始まり、次いでカワムギの変種であるハダカムギの栽培も紀元前6000年頃までには始まったことが考古学の研究で明らかになっている。歴史的には、ハダカムギは東アジア(日本、朝鮮半島)、ヒマラヤ地方(チベット、ネパール)、アフリカ東北部(エチオピア)などで主要な食用穀物の一つとして栽培されてきた。ヨーロッパでは、アルプス地方やベルギー、ノルウェーが主なハダカムギの産地であった。それ以外のオオムギ栽培地域では、カワムギの方が主に栽培されてきた。 近年は、世界のハダカムギの主な産地は、アメリカ、オーストラリア、カナダ、チェコ、ドイツなどである[2]。 日本の栽培地域[編集] 日本では、ハダカムギは愛媛県、香川県を中心とする四国と九州で主に栽培されている。農林水産省の統計によると、平成19年度の日本におけるハダカムギの収穫量は14,300tで、都道府県別では愛媛が最も多く41.1%を占め、次いで香川の17.0%であった。 日本の作付面積[編集] 日本におけるハダカムギの作付面積は、明治10年代は40万ha台であった。最高だったのは大正初期の70万ha台で、その後は漸減したものの昭和30年代初期の作付面積は50万ha台を維持していた。その後、ハダカムギの作付面積は急速に減少し、昭和45年に10万haを割り、昭和61年には1万haを割り、平成6年に最低の3,230haをつけたが、その後やや回復し、平成19年産ハダカムギの作付面積は4,020haとなっている。 日本の用途[編集] ハダカムギは容易に皮を剥いで実が取り出せ食用に好適であることから、日本では第二次世界大戦前から精麦が食用に流通し、押麦(大麦の外皮を剥いで蒸気で加熱してローラーで平らに加工したもの)を白米に混ぜて麦飯にしたり、炒って粉に挽いてはったい粉(麦焦がし)にしたり、炒ったものを煎じて麦茶にしたりするなどして日常食として消費されてきた。また押麦が普及する大正時代以前は、粒のままでは米に比べて煮えにくいハダカムギは、予め茹でて水に浸けておいた「えまし麦」や、臼で荒く挽き割った挽割麦の形にして煮えやすくしたものを麦飯や粥、雑炊などに調理して食される、米の不足を補完する主食の一つであった。 しかし、近年は米飯に比べて食味が劣る麦飯用のハダカムギの需要は少量に限られ、代わって麦味噌(大豆とオオムギを発酵させた味噌)の適性が高く評価され、生産量の大半が麦味噌の原料に用いられている。また、流通する精麦の主流は、従来の押麦から、黒条線(麦種子が形成される際の水分や養分の通り道である腹溝由来の麦粒の黒い線)に沿って切断した切断麦や黒条線で切断して米粒状に剥いで米と混ざりやすくした米粒麦に変わりつつある。 大分県などでは、ハダカムギを麦焼酎の原料としても利用しており、一定の評価を得ている。 海外の用途[編集]

Continue reading

佐々連鉱山 – Wikipedia

佐々連鉱山(さざれこうざん)は、愛媛県伊予三島市(現在の四国中央市)の嶺南地方にあった鉱山。 名称[編集] 住友金属鉱山株式会社佐々連鉱山 所在地[編集] 愛媛県四国中央市金砂町小川山乙2112 鉱床[編集] 三波川結晶片岩帯に属し、富郷・三縄・小歩危の各層が分布しており、緑色片岩・珪質片岩・泥質片岩・砂質片岩を主な構成岩石としている。 鉱種[編集] 黄鉄鉱・黄銅鉱・斑銅鉱・閃亜鉛鉱 1689年(元禄2年) 開山 1918年(大正7年) 岩城商会の経営となり、大正7年岩城鉱業株式会社を設立。金砂・金立坑の発見、索道の架設など当山経営の基礎を築く 1942年(昭和17年) 佐々連鉱業株式会社となる 1950年(昭和25年) 別子鉱業株式会社佐々連鉱業所となる。第一次復興起業に着手(25~27年) 1952年(昭和27年) 第二次復興起業に着手(27~29年)。12月、新坑発見 1953年(昭和28年)

Continue reading

渡辺一民 – Wikipedia

ポータル 文学 渡邊 一民(わたなべ かずたみ、1932年1月5日 – 2013年12月21日)は、フランス文学者、文芸評論家、立教大学名誉教授。 東京生まれ。父は日東製粉勤務・渡辺昇。1955年東京大学文学部仏文科卒。60年同大学院博士課程満期退学、立教大学一般教育部専任講師、63年助教授。65年立教大学文学部フランス文学科助教授、70年教授。81-83年文学部長。1982年『岸田国士論』で亀井勝一郎賞を受賞した。97年立教大学を定年退職。同年立教大学名誉教授の称号を受ける。 妻は酒匂秀一の長女。 『神話への反抗』(思潮社、1968年) 『ドレーフュス事件 政治体験から文学創造への道程』(筑摩書房、1972年) 『文化革命と知識人』(第三文明社、1972年) 『近代日本の知識人』(筑摩書房、1976年) 『フランス文壇史』(朝日選書、1976年) 『西欧逍遥』(講談社、1978年) 『岸田国士論』(岩波書店、1982年) 『ナショナリズムの両義性 若い友人への手紙』(人文書院、1984年) 『林達夫とその時代』(岩波書店、1988年) 『故郷論』(筑摩書房、1992年)

Continue reading